楽園と少女
―――――サヨナラ
窓越しに見える彼女の唇がそう動いたように、鏡祐樹には見えた
その愛しい人が悲痛な言葉に反して、口元が歪んだ笑みだった事さえも
そう、全ては仕組まれていた出来事だったのだ。自分はまんまと良心に漬け込まれ、嵌められたのだとこのときようやく理解した
人から裏切られた事は何度もある。そのたびに世の中に絶望し、命を絶とうとしてきた
人間関係のしがらみと言う物は簡単に絡み付いて邪魔ばかりするくせに、自分を助ける事は無い
今度こそは、また今度こそは…と信じ続けて、結局は他人の都合により裏切られて苦しい思いをする
確かに全体的に見た生活水準は昔より良くなったのかも知れない。曲りなりともこの国は経済大国のように見え、発展していると思う
だが、日本人と言う人種は此処半世紀で人間としての心を失ってしまったのかもしれない
または生活水準とテクノロジーの急激な発展に、近代にて欧米が共産主義との戦いで勝ち取った精神的な革命を成し遂げられなかった
彼等からすればモダン的デモクラシーは持て余すものだったのかもしれない。何しろ、精神性が幼稚に過ぎる
しかし彼はストレスの発散目的でネットで排他的ナショナリズムを掲げて、異なる意見を抑圧する厚顔無恥さも持ち合わせていなかったし
SNSで飲酒運転や万引きや恐喝、虐め等の犯罪行為を画像付きで公開自慢するほど無神経な馬鹿ではなかった
だた、二十一歳という年齢は成熟には程遠く、大学生活を送ってきた彼には精神的にまだ不安定で純粋だったのだ
「―――――――!」
意識が途切れる直前に何を言ったのか、彼も覚えていない
「彼女」の裏切りに対する怨嗟の言葉か、それとも世の中に対する絶望の言葉か、はたまた魂胆を見抜けなかった自嘲か―――――
だが、車が崖下から黒々と光る夜の海面へと落下し、最後だと思われる瞬間は彼女に微かな感謝の念を抱いていた
これで死ねると。そして自分にかけた保険金で幸せに暮らしてほしいと願ってしまう
少なくとも、大学の後輩であり彼の最大の理解者だった『彼女』を愛していた事だけは事実だったのだから
車の中に海水が入ってきた事を人事のように感じつつ、祐樹はゆっくりと目を閉じて死の瞬間を待った
しかし―――――――
「大丈夫ですか?」
「う…ん……」
口元から海水を吐き出し、彼は起き上がっていた
突き抜けるような青空、そして天上に延々と輝く太陽光が彼の全身を満遍なく照射している
意識が覚醒していくに従って、あまりの暑さにすっかり乾いた上着を脱ぎ捨ててしまった
(此処は…何処だろう?)
周囲を見渡してみる。宝石のように輝く海、そして小さな貝殻がところどころ散見される白く輝く砂浜
そして、大きく伸びた十メートルほどの椰子の木。少なくともこんな場所に来た事は無かった
自分は死んだのか? ここは天国なのだろうか? それにしてはどこか遠い島のように気がするが
「あの……」
さっきも聴いた様な気がする鈴のように良く澄んだ声、振り向いてみると
そこには白い帽子とノンスリーブのワンピース。それとは対照的に浅黒い肌をした少女が立っていた
「君は…」
「私の名前はミナ。この島に住んでるの」
「島…」
その天使のような出で立ちに思わずじろじろ眺めてしまう
彼女は自分より少し年下だろうか? それにしてはやけに背が低いような気がする
自分の身長は170センチで日本人男性の平均からすると少し大きい程度だ、彼女はそれよりも二十センチほど小さいように見えた
それに島とは何なのだろう? もしかして海を流れている間に漂着してしまったのだろうか?
「よかった。生きてたのね!」
ぱあっと光が満ちるようにミナの顔が明るくなる。その様子がやけに嬉しく感じられる
クォーターのように鼻立ちのくっきりした、やや濃い目の顔立ちが浮かべる満面の笑みはまるで向日葵の様だ
だが、ミナの顔を見て彼は『彼女』の存在を思い出し、苦悩に顔を歪めつつうわごとの様に言葉を紡いだ
「僕は…誰にも必要とされていない……そんな自分が生きていて良かったのかな?」
それは半分自問自答に似た独り言だった。今の彼からすれば空の澄んだ空気も
海の透明さも胸の内に開いた穴を埋めるには足りないのだ
しかし、彼女は満面の笑みを彼に返した。まるで救われたのが自分のほうであるといわんばかりの表情
「大丈夫。此処にはあなたを受け入れてくれる物が一杯あるから」
「でも…また誰かに裏切られるかもしれないし、傷つけられるかもしれない。そうなったら僕は…」
「私を信じて。絶対に裏切る事はしないわ」
ミナは帽子を押さえつつ放心する祐樹を元気付けるように言った
彼女の影が暑い日差しを遮って丁度良い木陰になっている。帽子のシルエットから微かにこぼれる光がとても眩しい
無邪気な善意に触れて、祐樹は数年ぶりに涙を流した。今はとても不安で誰でもいいから優しくしてくれる存在が嬉しかったのだ
だからこそ彼女の善意の歓迎が嬉しかった。もし裏切られてしまうとしても、この瞬間はそれに縋り付いていたかった
「君は誰なんだ? それに、此処は…?」
「それより、おなか減ったでしょう。ご飯食べない?」
砂浜を出て、森の奥に向かった先に小屋があり今二人はそこに居た。このミナの家なのだろうか?
一人で住んでいるのか? それとも両親が居るのか気になるので何回か聞いたが彼女は曖昧な笑みを返すばかりで答えなかった
ぐう、とミナの問いかけに答えたように腹が鳴ってしまう。そういえば車ごと海に落とされた日から何も食べては居ない
携帯電話も海水に濡れて使い物にならなくなっていた。だから時間を知る事もできないのだ
「ああ…そうだな」
「ちょっと持ってくる!」
にっこりと健気な笑みを浮かべると、彼女はすぐに食べ物を持ってきたのだ
それは塩をまぶしただけのシンプルな焼き魚だった。少し焦げすぎている感があるが
更に傍らに囃子の実で造られた風変わりなカップに白いジュースらしき液体が注がれていた
正直に言うとそれらを口にするのは躊躇われた。食料品の衛生・品質管理抜群な日本に生まれたのだから仕方ないのだろう
流石にコンビニ弁当やカップ麺やマックの原料や製造過程を知ると、気持ち的にあまり口には出来なくなるのだが
今となってはそれらも大変な贅沢品に思えなくもない。それでも、某国の人口卵や髪の毛で作った醤油よりかはこれはマシであろう
「食べないの…?」
ミナが不思議そうに首を傾げる。ここは屋内なのにどうして彼女が帽子を被っているのかが気になる
まぁ、無理に取れとも言わないが少し気になるところではある
そして、彼女が悲しそうな顔をしたので祐樹は困ってしまう。人の善意を無碍にしていいものだろうか?
「ああ…なら、勿体無いから食べるよ。じゃあ…戴きます」
「うん! 味はどう?」
「意外と…というより。これかなり旨いよな」
焼き魚は綺麗に子骨が抜かれていて、白身にも塩味がしみ込んでいる
それにジュースも悪くない。あまり味わった事のない無駄に甘ったるい甘味は椰子の実から取った果汁なのか?
なんにせよ二つともそれなりにおいしいのは事実だった。しかし、こんな食事を続けてたらすぐに飽きるだろうが
「本当! 凄く嬉しい!」
ミナの顔がぱっと明るくなり、祐樹に抱きついてきた他に頬にキスまでしてくる
歳の割りに幼い印象を感じさせる彼女だったが、美人ではあるので悪い気はしない
だが、彼女に抱きつかれた彼は違和感を感じた。上手く説明できない変な感じ
(あれ……?)
結局彼はその違和感を気のせいだと思い込みながらも、今はそれほど気にせず
簡素ではあるが、味わい深い食事を楽しんだのだった