仔犬と仲間たち①
「…何やってんだ?」
呆れたような声が、頭上から降ってきた。
「腕立てです!」
と、元気に答えたつもりが、実際には『うっ、でたて…!』と、中途半端にしか伝えられなかった。悔しい!
「いや、見ればわかるけど…。突然、どうしたんだ?隊長との見回りで、何かあったんか?」
「きっ、いーて。くだっ」
「まず、腕立て止めようか」
冷静に突っ込まれて、取り敢えず止める。
額に浮かんだ汗を床に座った状態で拭いつつ、顔を上げれば、アルコル先輩がこちらを見下ろしてた。
アルコル先輩は、私よりも3つ年上の18歳。明るい茶色の短髪に、同色の瞳をした爽≪さわ≫やかで、地味系だけど格好いいお兄さんだ。どちらかというと、同性に『兄貴!』と、慕われるよりも、年下に『お兄ちゃん』と、懐≪なつ≫かれるタイプ。爽やかなだけじゃなく、上背もあって、しかもガタイもいい。…尤≪もっと≫も、所属している騎士団では、残念なことに標準といえる体型らしいけど。
アルコル先輩の後に入った新人は私だけで、教育係に任命されたのもあるけど、『妹を見てるみたいで、心配だ』と、気に掛けてもらってる。妹さん、聞くところによると、まだ10歳にならないらしい。…どれだけ、私は危なっかしいと思われているんだろう?
「あと、3回で100回になったのに…」
「あれ、それだけしかやってないのか?さっきから、かなりやってるように見えたんだけど」
私のどうでもいい恨み言に、いちいち反応してくれる、やっぱりいいお兄さんなアルコル先輩!確かに、アルコル先輩がおっしゃる通りさっきから長々とやってました。
「これが終われば、4セット目が終了したことになるんですが…」
「ん?腕立ての他にも、何かやってたのか?」
「いえ、腕立てだけです」
「……」
「先輩?」
「腕立てだけ、400回?」
「正確にいえば、400回ではないですが…。はい、腕立てだけです。目標は500回だったんですけどね」
そういうと、アルコル先輩は頭を抱えた。やっぱり、こんなに時間が掛かってまだ、500回出来てないのは、遅いみたいだ。少ししょんぼりしていると、頭の上を軽く叩かれた。しかも、深い溜め息付きで。
「…呆れてます?」
「呆れた」
はっきりいわれ、私はまた落ち込んだ。やっぱり、仕事終わってからも鍛練は欠かさずにやった方がいいかなぁ。
うつむきつつ、今日の就業後の鍛練内容を考えていると、小さく押し殺した様な笑い声が聞こえた。
「アルコル君、君はどうやら勘違いされているみたいだよ」
穏やかな声は、隊長の執務室の方向からだった。
私たちがいる、隊員の控えの部屋から直に繋≪つな≫がっている執務室から出て直ぐ、何かの冗談みたいに積み上がった書類を抱えているのは、多分ケイロンさんだろう。『たぶん』とか、『だろう』とか、断定出来ないのは、書類の山が高過ぎて運んでいる本人の姿が見えないからだ。私とアルコル先輩は、慌ててその書類を受け取った。
「あぁ、ありがとう」
書類の山を私たちが受け取ると、ケイロンさんは灰緑色の瞳を、声と同様の穏やかさで微笑む。
ケイロンさんは父より少し年上位だろう年齢で、私たちが属する分隊では最年長らしい。ほとんど白い、所々本来の色だろう灰色の短い髪はいつも綺麗に整えられて、乱れひとつない。騎士服も同様で、きちんと襟元の金具まで留めてある。他の…例えばアルコル先輩が、同じようにしていたら、見ているだけで息苦しく感じてしまいそうだけど、逆にケイロンさんはそれが似合っている。
背の高さはアルコル先輩より、若干低い位で、だけど体格は細い方…かな?騎士団では、という意味だけど。背筋は真っ直ぐ伸びていて、見習いたい程だ。目尻には皺が刻まれていて、ゆったり微笑む様は騎士というより、老紳士といった風情。
「アルコル君は、別に腕立てが遅いと思って呆れている訳ではないよ。むしろ、腕立てはゆっくりやった方が、腕に負荷が掛かって力が付くからね」
ケイロンさんの台詞は、私に向けられている。曰≪いわ≫く、早く腕立てをすれば、勢いでの上下運動だけでは負荷はあまり掛からないらしい。確かに、いわれてみればゆっくりやった方がキツい気がする。
「それだけではなくて、急にしかも連続して、同じ箇所に負荷を掛けたら、場合によっては故障の原因にもなりかねないよ」
ハッとして、私はアルコル先輩を見た。どうやら、彼は急に量の増えた腕立てで、私が身体を痛めないか心配してくれたみたいだ。目の合ったアルコル先輩は、ケイロンさんのいったことを肯定するために、頷いてみせた。
…アルコル先輩の気遣いに私は、じーんとした。騎士団での兄上と心の中で呼んで、ひっそり慕ってみよう。
兄認定のアルコル君と、紳士なケイロンさん登場。