第二章 ぼけた姉妹
由比芹華が活動を開始した時刻は、朝というには遅かった。
高校二年ともなると学校生活にも慣れ、一年生の頃のように休みの日は昼まで寝て、寝だめする必要がなくなった。それでも起きたのは午前十時を過ぎてからだったりする。
ぼんやりと自室に佇んでいた芹華は、前後の記憶の不鮮明さに気づかぬまま、時計を見て時間を確かめた後、ふらふらと階段を下りていった。
目を覚まそうと水で顔を洗い、鏡を見る。そこにあるのは少し眠そうな、見慣れた自分の顔。何か違和感を感じたのだが――思い出せなかった。とりあえず芹華は生活指導員の眼を誤魔化せる程度の茶色に染めたショートの髪を手早く整えた。
居間に行くと、妹の美蕾がテレビを見ていた。美蕾は開かれた戸の音で、テレビから顔を上げた。
「あ、おはよー」
「……はよ」
テレビから少し離れたところに座布団を敷いて、リモコンで適当にチャンネルを変えている妹に返事をする。
芹華は妹を横目に台所へ向かった。
冷蔵庫から麦茶を取り出した芹華は、グラスにこぽこぽと薄茶色い液体をそそぐ。出涸らしみたいな香りの飛んだ麦茶は味も薄くて、色が付いただけの水に近かった。それでも水道水よりは飲みやすい。
芹華がお茶を飲み干そうと顔を上げると、口をぽかんと開けた美蕾の間抜け面が視界に入った。
「どうかした?」
芹華が不審そうな声で訊いた。美蕾は驚きのあまり言葉を紡げないのか、あっけにとられたような表情のまま、震える指でテレビを示した。
その指の先を追うと、神妙そうな顔つきのアナウンサー。その右上に、
『昨日の夕方五時頃、S市中央区H大学構内にあるK川沿いの土手に、中学生ぐらいの少女が自転車ごと転落したとの通報がありました。少女は土手に転落したのち、行方がわからなくなっているということです。残された荷物から、少女は西区の中学校に通う由比美蕾さん十四歳ということが……』
今ここにいる人物の、見慣れた顔写真。
『……当時の服装は白のパーカーにジーンズ、通報をうけた北警察署が付近の住民に協力を呼びかけて、現在も引き続き捜索中です』
その話題となっている人物は現在、姉のお下がりのズボンとパーカーとシャツを着て、髪をふたつに結わえていた。年齢は確かに十四歳なのだが、顔がぽっちゃりした童顔なので幼く見られることが多い。
ふたりは顎を落としそうになりながら、画面に見入っていた。
しかし動揺する視聴者を置いて、ニュースは刻々と移り変わっていく。
「「なにいっ!?」」
アナウンサーの声だけが空虚に響く空間で、やっと状況が意識に浸透した姉妹が、声をそろえて絶叫した。
「――あんた、いつの間に死んだの!?」
「勝手に殺すなっ!!」
動揺した姉が悲鳴のように叫ぶと、負けじと妹も大声で叫んだ。
……いや、勝ち負けの問題ではない。
そもそもニュースで報道されたのはあくまで"行方不明"であり"死亡"ではない。
「だって……幽霊でしょう?」
芹華は後ずさりながら、怖々と訊く。
彼女の目には、良く見知っているはずの妹が、得体の知れない、別のものに見え始めた。
ここにいるのが本当に自分の妹なのかが、わからないから……怖かった。
姉に不気味そうな視線を向けられて、美蕾は泣きそうに顔を歪めた。
「わからないよ、そんなの……」
消え入りそうなか細い声に、あ、泣くかな……やばいぞ、と芹華が心の中で舌打ちする。
最近はあまり泣かなくなったようだけれど、泣かれると鬱陶しい。
けれど意外にも美蕾は泣かなかった。ただ俯いて、肩を落とす。
意気消沈している妹に、ちょっと悪かったかと芹華も反省するが、仕方ない。感覚というものは正直だ。家族とはいえ――いや、家族で良く知る存在だからこそ、どうしても恐怖は拭えない。
かける言葉を見つけられず思案する芹華が、腕を組もうとしてその手にグラスがあることに気付いた。自覚はないのだが握りつぶすような勢いで持っていて、力の込めすぎで指が白くなって、強張ってしまっている。
よくこぼさなかったなぁと我が事ながら感心してしまう。
彼女は一つのことに気づくと、他のことにも気づいた。
喉の奥が痛むほど乾いていた。
お茶を一気に飲み干して、空になったグラスを洗い場に置くとテーブルの向こう側の座布団に座った。
いつの間にか立っていた自分に気づいた美蕾も、すとんと腰を下ろした。
向かい合っているので、互いの表情がよく見える。芹華は妹が何を考えているのかを読もうとした。
姉の注視に耐えきれなかったのか、美蕾が苦し紛れに口を開く。
「そうだ、生き霊という可能性があるじゃないか! 死霊だとは限らないぞ!」
「…………」
反応の遅い妹に、姉は目眩を起こしてテーブルに突っ伏しそうになった。
この雑然としているテーブルに突っ伏したら痛いだろう。整頓好きの美蕾が時折片づけているのに、いつの間にかまたごちゃごちゃしていた。
「ま、まぁそうだけど……それ、どっちにしろ幽霊だし」
美蕾の発言は自分が幽霊であることの否定になっていなかった所為か、芹華もずれた受け答えをした。
「生きているか死んでいるかは大問題だよ!」
だから勝手に殺さないでと言いたいらしいが、美蕾はズレを自覚していない。芹華もまた動揺しているのか、それとも元々なのか。問題点はそこではないことにツッコミが入らぬまま時が過ぎる。
「じゃあさ、あんた今日食事した? 用足した?」
「え? え~っと……それはまだだけど、でも別にそれ珍しいコトじゃないし」
作るのが面倒で朝食を抜くのも、うっかり水分を摂取し忘れるのも、この妹ならありえることだ。摂るものを摂らなきゃ出るものも出ない。
極度の面倒くさがりで、その上忘れっぽい妹らしい行動だ。
例え幽霊(推測)になっても、美蕾はやはり美蕾なのだろう。
自分でもよくわからないことを考えてしまって、芹華は思わず唸ってしまう。
「それにさっきからチャンネル変えてるよ。リモコン触れるし」
怖い顔して考え込む姉に、美蕾が少し慌てた。
何を考えているのかわからないが、姉が何かとんでもないことを考えていそうだったからだ。
「そうだよね。何で触れるんだろう」
視線がリモコンとテレビを行き来する。
考える役は姉に任せて、美蕾は自分とはあまり共通点のない――と思われる姉の顔を見るともなしに見ていた。
「そもそも幽霊って見たことないからわからないんだけど……どういうものなのかな」
芹華が独り言のように呟く。
その声音から察するに、美蕾の考えは求められていない。それくらいはわかる。
この姉とは、生まれてから十五年ほどずっーと一緒に暮らしているが、いまいち性格が掴み切れない。どういった場面でどのような言動をするのかは想像付くのだが、どうしてそこに至るのか、その思考回路がわからない。
昔、姉が突然『死について考えたことあるか?』と訊いてきて、美蕾は正直に『お姉さんでもそういうこと考えたことがあるんだ』と感心して怒られた。……当然である。
血が繋がっていても所詮"自分"ではない。他の人間のことは、わからないのだ。
……わかったらわかったで怖いけど。
妹が何気に失礼なことを思っているとはつゆ知らず、姉は聞かせるためのぼやきをもらした。
「幽霊がものを動かす、ってことだから……」
芹華はしつこいくらいに幽霊幽霊と連呼する。でも当事者にしてみれば、どうしても自分が幽霊だとは思えない。テレビの報道に心臓が痛くなるほどドキドキしたし、頭は血液が循環しているように熱くなって混乱している。それが認めるのが怖い、という心の動きが身体に反応を与えたと考えるのが妥当だ。
お姉さんにそのこと言った方が良いかな……?
美蕾が躊躇いがちに口を開こうとすると、芹華がぽんと手を打った。
「――わかった、超能力だ!」
顔を輝かせながら自分の思いつきにうんうんと納得している。
出鼻をくじかれて、さっきまで考えていたことをうち消されてしまった美蕾は、ついいつもの習性で、姉の言うことに頷いてしまう。
「うーん、じゃあ、ポルターガイストみたいなものかなぁ」
日本語に訳すと騒々しい霊。
確か映画でびゅんびゅん物が飛び交っていた。リモコンの操作などお茶の子さいさいだろう。
「……っていうか、どうしてあたしにあんたが見えるんだろうね」
「そうだねぇ」
何故か揃って、しみじみとしてしまう。
ふたりとも――本人ですら、美蕾が幽霊であることを前提に話していて、そうではない可能性があることに思い至らない。いや、美蕾は思ったのだが次の瞬間忘れたし、芹華は頑なに"幽霊"という単語から離れない。本来なら第三者的な視点を貫けるはずの芹華なのに、その点に固執してしまっていた。
ボケた会話が滞りなく進んでしまい、もはや修正が効かない域にまで達したからかもしれない。もし第三者がこの場にいたら、ツッコミを入れていることだろう。
ずれた歯車が修正されぬまま、とぼけた問答は繰り広げられていく。
「お姉さん特に霊感ないのにねぇ……見えるならお母さんの方が可能性あるのに、なんで見えるの?」
「なんでだろう?」
心底不思議そうに首を傾げた姉に、妹の目が据わる。
「それ、わざと?」
「素」
「……」
「でもホラ、見えるものは仕方ないし」
ぱたぱた手を振りながら、心の中で嘆息した。
……本当に、どうして幽霊が見えるのだろう。十七年生きていて、一度も見たことないのに……。
美蕾が口にしたことだが、母は霊感があると思う。但し、母のそれは夢に亡くなった人が出てくるだけで現実に幽霊を見たことはないようだが、夢の警告は、良くあたる。
しかし娘たちはその資質を何も受け継がなかったはず。
ただ、母がいれば何か助言を得られるかも知れない。
「そういえば、母さんは?」
思い至って訊ねた。父については聞かない。多分ゴルフだろうから。
「知らない。今日は見てないよ。……ボクが行方不明だっていうんなら、探しに警察にでも行っているんじゃない?」
「そっか。そうだよね」
行方不明者は霊体であろうともここにいるのに、変な話だ。
この違和感は、美蕾が完全に自分を"ボク"という別の人間のように扱っているからだろうか。
「でもお姉さんは何で知らないの?」
「……え?」
「お母さんがお姉さんに何も言わないで出ていくはずないじゃん」
父とは多少折り合い悪いが、生真面目な母はそういうことは連絡していくだろう。それに芹華は"しっかり者"だから、母も頼りにしている。――教えていかないはずがない。
「ボクが行方不明になったの、ニュースによると昨日の夕方でしょう? 近所だから知らせはすぐいくはずだし……お姉さんの方こそ……知らないのは変だよ」
別の疑いが発生して、今度は美蕾が姉に疑いのまなざしを向けた。
小動物のように警戒する妹に、芹華は落ち着くように手を動かす。
「待て」
「うん、待つ」
「一々返事しなくてよろしい。――その辺に書き置きない?」
言われて、ふたりしてテーブルの上を漁る。
「……ない、ねぇ」
「ないな」
芹華が腕を組んで思案しはじめたので、美蕾は口をつぐんだ。下手に口出しするとまたどやされる。
彼女はあまり表情の変わらない姉の顔を観察しても面白くないので、BGMと化しているテレビを見た。気が付けば、話をしている間は全然音が耳に入ってこなかった。集中すると音が聞こえなくなるのはいつものことだ。音が聞こえると言うことは、それだけ余裕があるのだろう。
考えることを放棄した美蕾は、何とはなしにテレビを眺めた。
その間に芹華は昨日の記憶から発掘しようとする。
普通に学校へ行って帰ってきた……はずなのに。順を追って辿ると、おかしな点に気づいてしまう。
「……ない」
木造建築の室内に、ひゅるりと風が吹き付けた気がした。すきま風だろう、きっと。
「え?」
美蕾の反応が遅れた。テレビに気を取られて聞いていなかったのは百も承知である芹華は、再度同じ事を言う。
「覚えて……ない」
「何を?」
「――学校から帰ってきた覚えがない!」
「えええええっ!?」
大げさに感情を表現されるのは、五月蠅い。
それが今はほんの少しだけ羨ましいのは、感情の発露が出来れば少しは混乱と苛立ちを紛れさせることができるからだろう。もっとも自分には到底無理だ。
無意味に狼狽える美蕾に、芹華は盛大な溜息をついた。
「まあ、学校の行き来は毎日のことだから、紛れて覚えてないだけかも知れないけど……」
日常のことは覚えにくい。通学などほとんど習慣化しており、無意識に近い。時々我に返って、自分は今ちゃんと信号を確認して歩道を渡ったのだろうか、とか不安になることも間々ある。覚えていなくても不思議はないのだが、今回ばかりは自分に覚えていてほしかったと切実に思った。
「――お姉さんも!?」
「はい?」
思わず語尾がうわずった。
「ボクね、学校から帰った後、着替えて遊びに行ったんだけど……家に戻ってきた覚えがないんだよねぇ」
あっはっは。
空笑いして、照れ隠しのように頬をかく。
思わず沈黙した芹華は。
「あんたね、そーゆーことはもっと前に言え!」
次の瞬間叫んでいた。頭が沸騰しそうになる。
「だって思い出したのさっきだも~ん」
美蕾が幽霊だとしたら、さっぱり明るい幽霊だ。こんな幽霊嫌かもしれない。
俄に頭痛がしてきて、頭を抱えた。
「ボクって、ホントに行方不明なのかしらん♪」
「歌うな。で、全くないの?」
「うん、身に覚えが全然ないね!」
自信たっぷり、朗らかに。
笑顔で言い切る妹に、それもちょっとどうよと思う。
それとも愉快そうにしているのは単なる空元気か、性根が大ざっぱなのか――
……後者だな。
芹華は、確信した。ドッと疲労が押し寄せてくる。
「どこまでなら覚えている?」
「うーん……覚えているのは確かにその道を通ったことだけだね」
自然が守られるように残っているあの道は、大学の構内である。交通量は公道と大差ない。むしろ駅に行くのに便利なので、人通りは多い方だ。
「あんたのことだからどうせ自転車で本屋に行ったんでしょう」
「うん」
「覚えているのは、行き? それとも帰り?」
「帰り。夕焼けが凄く綺麗でね――」
「どうせぼんやりしていたんでしょ」
「……そうだけど」
冷たく遮られてしょんぼりする美蕾。感動を語りたかったらしい。
「でも、どうやったらあんな所で行方不明になれるんだ?」
「謎だよね~。そんでね、お姉さん、も一つ言うの忘れていたことがあるんだけど……」
「何? さっさと言え」
まどろっこしい会話に飽きが来て、イライラしていた。口調が荒くなる姉に、妹は慣れているのか神経がないのか、笑顔を保ったまま無邪気に言ってのけた。
「うん、ボクこれ、多分実体だと思うよ~」
「…………」
「…………」
「……って、それこそもっと早くに言えッ!」
とうとう芹華がブチ切れた。
――だから嫌なんだ、こいつと話するのはっ!
とんちんかんな受け答えをするし、肝心なことはなかなか言わない。普通に話しているだけなのに、疲れるし、腹が立つ。特に気に入らないのは、この甘えた態度だ。自分から行動しようとはせず、姉に頼り切っている。
芹華が烈火の如く怒っているのに、美蕾はどこ吹く風で笑っていた。
妹だから許されると思っているのだろうか。
火の噴きそうな瞳で睨め付けながら、昔から感じていた苛立ちがよみがえってきた。
我が侭を平気で言って人を困らせて、怒ればすぐ泣いて母に訴える。泣けばすむとでも思っているのだろう。その、甘ったれた性格が、我慢ならない。
どうして笑っている?
頭、沸いてるんじゃないのかこいつ。
家族じゃなかったらとっくの昔に放りだしていた。
「それで! どうしてそう思うのかちゃんと説明しろ」
語気が荒くなるのは仕方ないだろう。手を出さなかっただけ芹華も成長していた。
「心臓が動いている。物に触れるし……いつもと全然変わらないんだもん」
「幽霊じゃないならあのニュースは何!?」
「誤報」
「――殴るぞ」
「ボクが知るはずないってば! 大体行方不明者が行方不明者になるのって、行方がわからなくなってから二四時間経過しないとダメじゃないの!?」
美蕾が妙な知識を披露した。
「……そうなの?」
法律に詳しくないのでわからない。しかしその時間帯なら土手から落ちたのを誰かが見ていた可能性がある。
……きっと、その所為だ。
自分を納得させた芹華は、次にすべき事を考えて、肩を落とした。
今ここでできるのは、美蕾が実体か否かを確かめることだ。
「じゃあ……触れるか試してみるか」
リモコン触っているし、普通に触れるだろうけど――正直、気が乗らない。
「ふつー最初にそれしない?」
そう、実体であるかどうかをまず考えるのは基本だろう。
しかし芹華は自分の非を認めずに、
「あんたに普通なんて単語口にしてほしくない」
キッパリ切って捨てた。
幽霊に拘ってしまっていた芹華も人のことを言える立場ではない。
反論は水掛け論になることが目に見えていたので、美蕾は軽く肩を竦めると、ぱっぱと手を差し出した。
無言でこれを握れと示す。
芹華も面倒事は手早く済ませようとして……だけど躊躇った。
……触れたくない……。
"もしも"の場合を考えてしまう。
――もし漫画のようにこの手を通り抜けてしまったら、目の前にいるのが本当にお化けということになる。
妹が、わけのわからない存在になってしまう。
手を出しあぐねている姉の内心を察してか、美蕾が唇の端を持ち上げた。
そしてひらひら催促する。
侮りきっている妹に、バカにされたような気がした。
むかっ腹が、芹華に行動力を与えた。
あらためて触るのは変な気分だったが、差し出された手にそっと自分の手を重ねようとする。
そういえば、前に触れたのはいつだったろう……?
どつきあいしていた幼い頃はさておき、学校に通うようになってからは滅多に一緒に遊ばなかった。自然、接触する回数は減った。
機敏な姉にしては緩やかな動き。
それがまるで初恋している男女みたいで嫌だった妹は、自分からむんずとその手を捕まえた。
にぎにぎにぎ……。
確かすぎる感触。
恐れていた事は起きなかった――のだが。
子供が遊ぶように繋いだ手を左右に振られて、楽しいはずもない。
「やめいッ!」
乱暴に振り払うと、悪戯っぽい笑顔が待っていた。
「ほらね」
なるほど実体だ。認めるのは何かしゃくだが、少なくとも自分にはそうとしか思えない。
「よし、これがわかったところで、落ち着いて考えるぞー」
何が何だか、話しているうちに問題点がわからなくなっていた。
混乱しているのは姉も一緒だが、それをわざわざ宣言する妹に、ついていけない。
疲労を隠せずに芹華は溜息と共に訊ねた。
「そういえばどうしてこのタイミングでテレビを付けた?」
あまりにタイミングが良すぎたことに不審を感じたのだ。
「別に~……付けっぱなしだったから何となく見ていただけだよ。お母さん、ボクが行方不明になったって聞いて、慌てていたんじゃない?」
つまりどこにも特別な理由はない。
決意をしたのはいいけれど、哀しいかな、結局どうにもならなかった。
これから戦場に赴く戦士のように、堂々たる様子で大地を踏みしめた。
引き締められた表情に、悲愴なまでの決意が滲む。
「行くぞ」
猛々しいそれに、後ろに従う少女が神妙に頷いた。
涼しげな秋風が彼女たちふたりの髪を乱して襟元をくすぐった。
背筋をピンと伸ばして歩む様も凛々しく、由比姉妹はテレビで報道されていた現場へと向かった。
軍の行進のような早足は、しかし、早くも鈍りだした。
遅れがちな美蕾に気づいた芹華は、叱咤しようと振り向いた。だが――
瞬間に、ぞくりと戦慄が走る。
俯き加減となっている、色素の薄い茶のはずの瞳が……黒一色に染まっていた。
走ったものは――怖れ……か。
全身に鳥肌が立ち、喉の奥がひきつった。
沈んだ色が、周囲の空気にまで影響を及ぼしているように見えた。
自分の妹に恐怖を抱いていると、認めることを拒絶した芹華は。注意をすることはやめて、置いていく勢いで、再び歩き始めた。
この時間、常ならば閑散としているはずの道に、人々が群れていた。
否。ほとんどの人は、足を止めて事情を聞き出した後は歩みを再開していた。実際に野次馬根性丸出しで見物しているのは暇そうな主婦だが、そろそろ昼食の時間だ。彼女たちも引き上げる気配を見せていた。
芹華が土手を覗き込むように、張り巡らされたロープから身を乗り出した。
警察の人々が竿で川の底を漁っているのが見える。丈の高い草がぼうぼうと生い茂っている為、川の様子はよく見えなかった。
「……。どうやってこんな小さな川で行方不明になれるんだ……?」
おそらく、見物に来た誰もが思ったであろう事を、芹華も呟いていた。
今まで気にも留めなかった川は、思いの外幅が狭く、余裕で飛び越えられそうだった。丈の高い草に紛れている可能性もあるが、それだってすぐに発見されるはず。捜索にあたっている人たちも、どことなくやる気なさげである。
ふらふら歩いてくる妹を見つけた芹華は、世間話に夢中になっている女性たちに話しかけようか躊躇った。
妹が見えていたら――彼女たちは騒ぎ立てるはず。
美蕾は人々から少し離れたところで足を止めている。紅葉を始めている大木を背に佇んでいた。
人々に近づいて、芹華以外の誰かにも見えるのかどうか確かめなければならないというのに、何をまごついているのか。
肩を怒らせている芹華に気づいて、美蕾は首を振った。表情はよく見えないが、近づきたくないようだ。
仕方なく芹華の方が近づいてやる。
「あんたね、なにやってんのっ」
「だ、だって……」
「だってじゃない! ほら、話しかけといで!」
泣きそうになっている妹の背を遠慮なく叩いて押しやる。転びそうになってたたらを踏んだ美蕾は、縋るように振り向いたが――怒気をみなぎらせる姉に逆らえもせずに、諦めておばさんたちの方へ歩を進めた。
近寄って、そのうちのひとりが顔見知りであることを思い出す。
「……」
口を開きかけた美蕾は、言葉を紡げずに唇を引き結んだ。話しかけられなかった美蕾は、おばさんの視界にはいるよう周囲をうろちょろする。
反応がないので、手も振ってみる。
全く変化がないので、困ったように姉を見た。
芹華は肩を竦め、何を思ったか元来た道を引き返し始めた。
「あ……」
置いて行かれる……!
見慣れてしまった姉の背に、幼子の頃抱いたような焦燥に駆られ、美蕾は走った。
芹華の足取りは緩やかだったから、足の遅い美蕾でも難なく隣に並ぶことができた。
いくらも歩かずに、芹華は突然足を止める。
「……幽霊って、何だろうね」
「え……なに?」
「本当に幽霊って触れられないものか?」
「どういう意味?」
首を傾げた美蕾に、芹華は周囲を見回し、夏と秋の花が混在している花壇の前で屈む。道が舗装されている為に、そこくらいしか土がない。彼女は適当な石を拾うと、絵を描きはじめた。
「これが魂で――人に魂が入っている、と考える。じゃあ、こうなるわけだ」
人の形を書いて、斜線を引く。それに添って更に人の形を書く。
それが魂が肉体に収まった状態である。
「これが普通の状態だとして、それなら片方だけに身体があっても、魂と魂は触れるんじゃないか……ってこと」
もうひとつ、人の形を描き斜線を引くと、最初の二重になっている人の内側――斜線の人と手をつながせた。
「へぇ……確かにそうだねぇ。でも、これがどしたの?」
「触れられるからって、必ずしも実体であるとは限らないって事。……これであたしがあんたに触れられる理由は説明が付く」
言うだけ言って、芹華は裾を払って立ち上がると、地面に描いた絵を爪先で消した。
「リモコンは? リモコンも触れたけど、神道みたいに万物に魂が宿っているってこと?」
土埃から逃げるように顔を逸らした美蕾が質問すると、芹華は遠い目をした。忘れていたらしい。
「えーっと……ああ、そうそう。それは別に超能力でいいんじゃないかな。だって幽霊だし」
苦しい言い訳をする芹華にジト目を向けた美蕾は、姉はもしや、ずっと納得いく説明を考えていたのだろうかと地面に"の"の字を書いた。
――だけど。
「でも……お姉さんも……」
しゃがみ込んだまま、呟いた。
「ん?」
「お姉さんも、おばさんたちに話しかけられなかったし、自分から話しかけることもしなかったよね」
指摘に、芹華は怯む。
「怖かったんでしょ、お姉さんも。自分が――自分だって幽霊じゃないとは言い切れないわけだ」
息を――のんだ。
かさ、と。冷たい風が気の早い落ち葉を動かす。
唇を噛んだ少女の口から、否定の言葉は、紡がれなかった。
「お姉さんは訊きもしなかった。おばさんにボクが見えているのかも、確かめなかった」
「それは……」
辛うじて、呻くような声を絞り出す。ほんの少しだけ楽になった喉で、反論する。
「それは……、あんたのことは見えてなかったでしょう。あんたが周りをうろついても気づかなかったし……見えてたら、騒ぎになっていたはずだから」
……違う。
彼女はそれを口にしながら、これは言い訳に過ぎないとわかった。
訊くって――どうやって訊けばいい?
あそこに妹がいるのですが、あなたには見えますか、と訊ねろと……?
……訊ねることができなかったのは、狂人扱いされたり、精神病院送りにされたりしたくないからだ。
妹がここにいること。自分がここに存在しているということに。自信が、なかったからだ。
息をすることが苦しくて、胸を掻きむしりたい衝動に駆られる。
爪でひっかいて――血を、流せば……。
「見えているのが自分だけか確かめないと、ドッキリかどうかわからないじゃないか」
「………………は?」
イマ、アンタ、ナンテイッタ……?
暗い衝動が、雲散霧消した。今、非常に珍妙な単語を聞いた気がした。
どうも伝達することを脳が拒否しているらしい。
ぱちくりとまばたきをする姉に、立ち上がってズボンの土を払いながら美蕾が言う。
「だーかーらー、よくテレビでドッキリカメラ? とかいうのがあったでしょう。そーゆーノリもありかなぁって」
「はい?」
思わず小指で耳をほじほじ。
耳の掃除はちゃんとしているはずなんだけど、おかしいな……。
芹華の思考が現実から逃避を始めた。
「ボクもボクなりに考えてみたんだよ~。で、思い出したの。死者の呪いをかけられるお話。要約すると単なる総員無視なんだけどね。それだといまいち現実的じゃないからドッキリみたいなやつかなぁ、って」
それでも充分、現実的でない。
芹華はツッコミどころ満載の妹の科白に、
「なんで総員無視が死者の呪いってことになるの……?」
とりあえずそれから訊いてみた。
「んーとね、その部族の掟を破った主人公が、まだ生きているのに罰として"死者"にされちゃうの。……死者は生者に触ったらいけないことになっていて――これは間違いじゃないんだけどね……とにかく、死者にされた主人公の持ち物も処分されちゃって、主人公が自分は生きている、ここにいるってお母さんに訴えるんだけど、お母さんは『あの子はもう死んじゃったんだ!』って嘆くんだ。耐えきれなくなった主人公は泣きながら走り去るんだけど…………これってさ、辛いよね」
生きているのに、いないものとして扱われる。それは、確かに罰として、とても効果的であった。
「もしかしたら……もしかしたら、だけど。ボクはお姉さんの夢の産物なんじゃないかと思ったんだ。でもニュースで写真出てたし、"我思うゆえに我在り"ってどっかの哲学者が言っているでしょう? だからボクは存在することにして~……そん次はお姉さんの方がボクの夢の存在なんじゃないかと思ったんだ。でも……でもね。お姉さんを否定したら、ボクが見えているのはお姉さんだけだから、今ここにいるボクを否定することにもなっちゃう」
そして進退窮まった美蕾の結論が。
「成る程……だから"ドッキリ"なのか」
「うん。それなら少なくとも自己否定にはならないから。……無視は嫌だけど、まだ良いんだ。だけど、自分がないものとして扱われるのは絶対嫌だ」
「……?」
存在しないとされるのが絶対嫌で、無視は嫌だけど良い?
妹の中でどういう定義がなされているのかわからなくて、姉が首をひねった。
「えーと……無視とどう違う?」
「無視はあるものをない振りすることで、存在しないもの扱いは、はじめからないものとされていることでしょう。ないからない。それは無視じゃない」
上手くない説明だが、二つの違いはわかった。
姉が微かに首肯したので、美蕾は続ける。
「無視なら良いのは、あるということがわかっていて見ない振りされているだけなんだから、しつっこく話しかければ大抵は根負けするからだよ」
「それは――性格悪いぞ、おまえ」
姉の正直な感想に、妹はムッと唇を尖らせた。
「筆頭がなにを言うよ」
「あ! ってことはなんだ、あんたがあたしにしつっこいのってその所為か!?」
「だよ~。だってお姉さん、しょっちゅうボクのこと無視するしょ。煩わしいから」
「まぁそうだけど……」
芹華は呆れてものも言えなくなった。
ってゆーかそれってあたしの所為か……?
もしや詰られているのだろうかと危惧するが、その割には口調があっけらかんとしている。
「なんか、あんたって悩みなさそう」
「なんで!?」
ぽろりとこぼれた言葉に、強い反撥が来た。
「ボク一応、受験生なんだよ。受験生に悩みがないってか!?」
自分でも"一応"と付けてしまうくらいには、模範的な受験生では無いという自覚はあるらしい。
秋になっても勉強しないで本屋に遊びに行っているくらいだしな。
姉は心の中でツッコミを入れた。
「受験料もったいないからって滑り止め受けるのやめるとか言いだして、担任から本気で止められてたの誰よ」
冷ややかな声で先日小耳に挟んだことをぼそっと呟く。
「何で知ってるの?」
姉の皮肉に美蕾は全然堪えていない口調で明るく訊ね返す。
痛痒を感じてくれない鈍感な相手に、芹華は聞こえよがしの溜息をついた。
「母さんに聞いた。先生、凄く慌てていたって、わざわざ家に電話が来たとか何とか……」
担任の先生も気の毒だ。
思い切り同情してしまう芹華である。
「だって、もったいないじゃん。あそこ定員割れしてるっぽいし、相応の学力のところだし、無理じゃないよ」
「それでも普通は受けるものなの!」
あくまで非常識を地で貫く妹に、がくがくと肩を揺さぶってしまう。
美蕾は力一杯揺すられて、かっくんかっくんしていた頭をどうにか安定させようと自分の顎をおさえた。
「うんまぁそうだけど。でもうち、そんなに裕福じゃないからどーのこーのってボクに注意したのお姉さんじゃん」
「それとこれは別! あんたが妙な物ねだって買ってもらったりするからでしょう!!」
「妙な物?」
それってなに。
自覚無い妹にうんざりした姉がようやく肩を解放した。
「使いもしない画材」
「それのどこが妙なの? ボク、ちゃんと使ってるよ。時々だけど」
「ああそーかい」
「うんそーだよ」
「……」
「……」
姉が上を見た。妹も上を見た。
姉は今度は下を見た。そしたら妹も一緒に下を見た。
「――真似するな!!」
耐えきれず、芹華が叫んだ。
「違うよ~、何かあるのかな~って思っただけだよ~」
「も、いい、疲れた。……とにかく、滑り止めは受けときなさい」
「うん、わかった」
「…………」
もう、嫌だ……。
姉妹喧嘩もどきは、姉が疲労困憊したために終息する。
心なしか蹌踉めきながら、芹華は歩みを再開した。
もし片方が幽霊だった場合、もう片方はひとりで騒いでいることになる。この近辺が、車の通りはあっても人通りが滅多になくてよかったと彼女は今更ながらに思う。
「お姉さん、さっきから疑問だったんだけど、どこに向かっているの?」
このまま行くと家である。
美蕾が、行方不明の身体を探してはくれないのかな、とちらりと思う。
「コンビニ。朝も昼も食べていないからなんか買う」
予想外に、まっとうなお答えが返ってきた。
「お金持ってるの?」
「当然」
きっぱりしたお言葉に美蕾は、やっぱりお姉さんは"しっかり者"だと認識を深める。
「食事したらあんたの身体探しに行くけど……そうだ、あんたも何か食べたいものある?」
「いいの?」
食べられるかはさておき、訊かれるとは思わなかったので驚いていた。
「別に、あんたの分のお金は後で母さんに請求するから」
やっぱりしっかりしている。
美蕾は心おきなくねだることにした。
「うん、じゃあねぇ……行ってから決めるよ」
うきうきと美蕾の足取りが弾む――が。
「お姉さんはどうして、ボクの身体を探してくれようとするの……?」
これまで一緒に暮らしてきた家族だからという義理? それともただの姉としての義務?
思い出したようにぽつりと呟いた、その声が。小さすぎたことを理由に。
芹華は聞こえなかった振りをした。
目的のコンビニは、すぐ目の前にあった。
しかし、何故か美蕾が動かない。
「……なにやっている?」
見ると彼女は――コンビニの入り口の前でうろうろしていた黒猫と睨めっこをしていた。
バチィ……ッ
金眼と茶眼の間に、火花が散っている。
毛を逆立てて威嚇する猫に、美蕾はまばたきもせずに睨み据える。
気迫の争いは束の間。
突然、ぐりん、と音がしそうな動作で頭を向けた美蕾は。
「――猫と一緒に入る」
いかめしい声音で宣言した。その時キラーンと目の端が光ったように錯覚する。
「あ、そ」
気圧された芹華は、謎な行動をとる妹の相手を放棄した。どうせこの猫はいつもコンビニに入ろうと虎視眈々と狙っているのだ。
いつものこといつものこと……。自らに言い聞かせながら顔を背ける。
仲良く歩く妹と猫を見ないようにして、答えに詰まった先ほどの問いかけを思い出す。
……どうして美蕾の身体を探すのか、だって?
そんなの……そんなものは――
がーっと自動ドアが開いた。
「いらっしゃいませ、こんにちは!」
良く通る店員の明るい声が、ひとりと一匹にかけられた。
――芹華の方こそ、知りたかった。




