断章
夜、眠りに就く直前。
それは思考の時間である。
何を考えるかは、とりとめもないものばかり。だけど――死について考えると、それは必ず袋小路に迷い込んでしまい、いつも眠りが遠ざかる。
死後の世界について多くの宗教では、良い場所と悪い場所に分かれていて、良いところに行ければ幸福になり、悪いところに行ってしまうと不幸になるというものだ。
だけど、幸不幸は人によって違う。
そんなのは子供でもわかることだ。
それなのにどうしてそこに行けば"皆"幸福になれたり、"皆"不幸になったりするのだろう。
生きている段階で、物質的に恵まれているのに心が満たされなければ不幸と感じる人だっている。
地獄の責め苦が――罪に苦しむ人には、自分が裁かれている実感があって逆に救いとなることだってあるだろう。
ある人には天国が地獄で、またある人には地獄が天国でないなんて誰に言える?
もしかして神様は、どの人にはどれが幸か不幸か、個別に判断するのだろうか。
そう考えて、少し笑った。
死が怖いのは、わからないからだ。
死んだら何がどうなるかわからない。
どこかへ行くのか、或いは消滅するのか。
消滅と言われたところで、消滅したことがないから消滅がわからない。想像するにも限度がある。
天国――極楽でも何でも良い――に、行ったことがないから、そこがどういうところなのかわからない。
伝聞とか推定とか、とにかく、自分にとって信に値しない情報は氾濫している。
死については、きっと人が生まれてからずっと考えられてきたこと。人々の意見は分かれているから、これだ、と思える物がない。世代を重ね、長い年月を掛けてもわからないことを、自分がいくら考えても結論が出なくても無理はない。
生きている人は、死んだことがないからわからない。
それこそ死人に口なし、だ。
だから、自分にもわかることを想像する。
……自分が死んだ後の世界を。
もしも自分が居なくなったら。
きっと誰も困らない。
居ないと困る、と言われるほどの、能力も価値も存在感もない。
きっと誰も悲しまない。
予想に反して誰かが悲しんだとしても、それは一時のこと。何故なら人は慣れるから。何故なら人は忘れるから。
だからきっと何も変わらない。
変わってもすぐに慣れて、いつしか居ないことが当たり前となる。
それではこの自分が、生きている価値とは何だ。
何をしてもとろくさくて、何をやらせてもパッとしない。終いには邪魔だ、居ない方が良いと罵られる。
そんな自分に価値などあるのか?
そんな人間が、生きて他の可能性ある人間の邪魔をして良いのか?
考え出すと止まらない暗い思考。後ろ向きな考えは、体と心を蝕み続ける。無理矢理それを断ち切ろうにも、頭は棚のように整頓できない。
息苦しくて。
生き、苦しくて。
死んだら楽になれると言う人がいるけれど、本当に死んだら楽になれるかどうか、確証はないし。
それに自分を殺せるほど、誰かに期待できなかった。悲しんでもらうことも期待できない。
自殺するほど、誰かに訴えたいこともなかった。それほどの主張もない。
痛いのも苦しいのも嫌い。
痛い思いをしてまで、自分から死ねるほどの情熱もない。
痛い思いをしてまで、自分を殺して救ってあげられるほど、自分を愛してなどいない。
どうせ人間は脆いから、放っておいても死ぬ。
――自殺は甘えだと思う。何かを期待する行為だと思う。
自ら死を選ぶ人は、死に対して、某かの希望を抱いているのだろう。死が救いだと思っているのだろう。
でも自分は、"死"にそれほど価値があるとは思えなかった。
だからこの世界で生きていくために、少しでも楽になるためにはどうすればいいのだろうと考えて、色々な本を読んだ。
はじめはただ知識を得るために。
その目的が、いつの間にか現実から逃避するための手段へと変わった。
物語を読むと様々な人間に感情移入できた。それを題材に数多のことを考えられる。感動したり、共感したりしたことだってある。そして精神的に余裕が出来た頃に、やっと思えるようになった。
誰かに与えられるものじゃない、自分だけの"意義"がほしい。
誰に認められなくても良い、誰に悲しんでもらわなくても良い。自分が、自分を惜しめるように。何よりも誰よりも、自分こそが、自分自身の存在を肯定できるようになりたかった。
生きることを、楽しめるようになるために――出来ることは何だろう……?




