第一章 あらゆる意味で窮地に陥る。
穴が空きそうな程の熱い眼差しを、ただ一点にそそぎ込んでいた。
――集中。
それは時として、他者を拒絶する張りつめた空気を生み出し、まるで神域のような、第三者には侵しがたい空間となる。
今の彼が、丁度そんな感じだった。
本日の講義が終了した、雑駁さと虚脱が漂う教室内で、彼――佐々誠也の座っている場所だけが、異様な雰囲気を醸し出していた。
恋人に対してもこんな熱視線を向けることはなかろう。奇妙なほど漂う緊迫感に、甘いものは欠片も含まれていない。
晴れて自由の身となった他の学生たちは、帰宅準備やどこかへ繰り出す相談をするなどめいめいの行動に移っている。そんな彼らの共通点は誠也を遠巻きにしていることだった。
距離を置かれるのは日常茶飯事であり、従って今も怪訝そうなギャラリーに全く頓着していない青年の背後に、ひとつの影が忍び寄る。その人物は彼を驚かせようと悪戯っぽい笑みを浮かべながら、がばっと背中に抱きついた。
「はぁいv 何をそんなに真剣に見つめちゃってい……る……の……」
誠也を急襲した女性の笑みが掻き消えた。
張りつめた空気を打ち砕くような明るい声も、語尾が掠れて、どこか遠いところへ飛んでいった。
突拍子もない行動に驚きもしなかった誠也は、彼女の目を瞠らせ言葉を奪った手元の通帳を、諦めと共にぱたんと閉ざした。
言葉がそのまま飛び去ってくれればどんなにいいか――痛いほどの驚愕の視線を感じながら密かに嘆いた。
「佐々くん……」
愕然とした表情を、誠也は身体ごと振り向いて律儀に正面から受け止めた。
「……はい」
二の句を告げられないでいる彼女を手助けすべく返事までした。
「給料日までどうやって生きていく気……?」
「俺も、それが知りたいです」
それはもう切実なまでに。
誠也は苦渋を滲ませて嘆息した。
彼が熱い視線をそそいでいた通帳の残高は――解約寸前の絶望的な数字を刻んでいた。
家賃やら光熱費やらが引き落とされた通帳に残っていたのは、辛うじて三桁。
通帳も際どい数字だが、財布の中の残高も実はそんなに大差なかった。
「麻井さん、わざわざこっちまで来るなんてどうかしたんですか?」
懐の危機はこの際、脇に除けておく。
誠也は微苦笑を浮かべながら、彼より少し年上の女性を見つめた。
「え……ああ、そうね」
麻井真紀は未だに驚きが冷めやらぬまま、がくがく頷いた。
真紀は誠也の彼女、というわけではなく。バイト先の先輩の恋人という非常に遠い間柄である。数えられるほどしか会ったことがないのであまり親しいとも言い難い。そんな真紀が学部を問わず一年生が学ぶこの総合センターまで、獣医学部から近いとはいえわざわざ訪ねてきたのだ。これは重大な理由があるだろう。誠也の予測に違わず、周囲の注目を集めていることに気づいた真紀は渋面を作って言いにくそうに提案した。
「ここだとちょっと……、場所を移しましょう」
誠也に異存はない。彼が手早く六法全書やノート、筆記具などをリュックに放り込んで立ち上がると、遠巻きにしていた人々が更に退いた。
慣れた反応だが、溜息が出てしまう。
……そんなに坊主頭が珍しいのだろうか。
距離を置かれているのはそれだけが原因でないとわかっていながらも、涼しげな頭をつるりと撫でてそんなことを思った。
周囲の反応を気にも留めなかった真紀はさっさと出口に向かって歩き始めていた。誠也は慌てて彼女を追い、隣に並ぶ。
ところどころ白い塗装が剥げてきている廊下を歩いているふたりは、周囲の耳目を集めていた。
かたや、色が白く、端整な顔立ちの――だけど剃髪した青年。着ている服はトレーナーにジーンズというありふれたものだが、袈裟の方が似合いそうな、浮世離れした容姿である。
もう片方は、早くも秋用のコートを羽織った、スタイルの良い美人。彼女は顔の造作のひとつひとつが大きめでとびきり美人というわけではないのだが、生き生きとした表情と内面からの輝きが加わって、目立つ容貌をしていた。高いところで括られた栗色の髪は緩やかにウェーブを描きながら、背に流れている。
――これで人目を惹かなければかえっておかしい。
常とは違いやっかみも含まれた視線に、誠也は小さな笑みを咲かせた。
学生食堂は、食事時とは離れた時間帯だけに閑散としていた。
真紀が持ち合わせのない誠也を気遣ったのは明らかだった。ここでは少なくとも、お茶は無料だ。
お茶を手にしたふたりは観葉植物や柱の影になる場所を選んで腰掛けた。
真紀は両手で包み込むようにしてプラスチック製の湯飲みを持ち上げた。長居しないつもりなのか、コートを脱ぐそぶりはない。
彼女は吹き冷ましながら薄い色の茶を一口啜った。
「どうしようか悩んでいたんだけど、さっきのを見て吹っ切れたわ」
佐々誠也にまつわる噂話は多い。
入学したてであるのにも関わらず、しかもその数々は、他学部である真紀の元にまで届いた。
多くの噂は悪いものではない。笑い話のような他愛もないものばかりだ。例えば、この学食で彼が水とお茶で空腹を堪え忍んでいたとか、おかずやみそ汁を買う余裕もなくてごはん(しかもSサイズ)だけだったとか、学外で言えば、とあるスーパーの試食係のおばちゃんに多めに食べ物をめぐんでもらっていたとか、主に生活苦である。
真紀は誠也が何らかの事情で仕送りを受け取れないでおり、かといって奨学金をもらおうにも申請の時期は過ぎてしまい、仕方なしにバイトに励んでいることは彼氏経由で知っていたため、笑うに笑えなかった。……十中八九、事実だったから。
「それはそれでもの悲しいですね」
湯気の向こう側の安堵したような呟きに、誠也はひきつった苦笑いを浮かべた。だけど彼の瞳の奥では油断ない光が煌めく。
数少ない言葉だけで、話の内容を察することができた。
心の中で身構えた誠也に、真紀は湯飲みをテーブルの上に戻すと、声を潜めて告げた。
「――私の部屋にいる幽霊を、退治してほしいの」
コンタクトレンズ越しの眼が、表情を引き締めた青年を捉えた。容姿は端正なのに、よく見ないと気づけない、その絶妙なバランス。
他学部にまで彼の噂が届くのは、奇妙なことに、生活苦よりも現実から浮いて異彩を放っているものこそが、まことしやかに囁かれている所為だ。それは彼の髪型も一因であろうが――曰く、彼はそういうものが"見える"人だということ。そして、それを退治することを稼業としているということ。中には依頼人から金銭を受け取っているのを目撃した、というものもあった。
真紀の決意を後押ししたものは、経済的支援ではない。いや、それも多少含まれているが、決定打となったのは、肝心要のその噂が真実だと、先ほど通帳を見てよくわかったからだ。
「数日前から、私の部屋で不審なことが相次いでいるの。それが幽霊の仕業だって、確信があるわけじゃないんだけどね」
不自然さに気づいたのは約三日前。確信に近いものを持てたものは昨日になってから。
誠也とは特別親しいわけではない。だから迷っていた。
聞きの体勢に入っている青年に、真紀は迷いを振り払うように要点だけをとつとつと述べていく。
「鍵はきちんとかけているのに、物の位置が変わっていたりするの。後は金縛りにあったり、家鳴りみたいなものもあって他の部屋の人に訊いてみたけれど、私の部屋だけに起こっているようだった。だけど……こんなのは序の口でね。今朝なんて部屋が台風が起こったみたいになっていたの。――勿論、私がやったわけではないのよ? だって、私は怖くなって昨日は羽矢斗さんのところに泊めてもらったんだから」
羽矢斗さんというのは、彼女の恋人にして誠也のバイト先の先輩である藤宮羽矢斗のことだ。わざわざ"バイト先の"などという言葉を付け加えるまでもなく、学部は違えど大学は同じであるのでどのみち先輩である。
彼女は外泊先について羞恥に紅潮するかと思いきや、その顔色は青ざめている。真紀は自宅の惨状から導き出された結論に戦いていた。
「他人から恨みを持たれているなんて思いたくもないし心当たりもないのだけれど――ひとり、問題のある人物がいてね……調べてみたの」
ぐっ、と器を握っている手に力がこもった。震えを抑えるかのように殊更強く握りしめ、指が白くなっていた。
思い詰めた瞳が、揺れる液体を見つめた。しかし視線は素通りして、机の木目すら眼に入っていなかった。俯き隠された唇が、幽かにわななく。
「人間の方が、生身の人間の仕業の方が、まだましだったわ」
瞳に浮かぶのは、見えない存在への恐怖。
見えないと言うことは、わからない。わからないということが、想像力をかき立ててしまう。
恐怖が、一人歩きしてしまう。
彼女にとって非現実的な状況であったが、そんな状況を前にした彼女の行動は、それでも素早かった方だろう。
精神に異常をきたし、状況判断ができなくなる前に、専門家に委ねる。それは身近にその手の専門家……らしき人物がいてこその決断ではあった。
怯えを隠そうと懸命になる真紀に痛ましい視線を向けてしまった誠也は、些細な音が響いてしまいそうなほど高い天井を見つめた。
「……事情は、わかりました」
沈黙を破った誠也はしかし、僅かな逡巡を見せた。
確かに自分は、除霊を専門とした――俗に言う"拝み屋"である。
だけど問題がひとつ。
……霊が存在しなかった場合の対応である。
依頼のかなりの割合が、相談者の"気のせい"だったり"思いこみ"だったりする。その時、依頼人を納得させるのは至難の業だ。何せ相手は頑なに"そうだ"と思いこんでいるのである。この場合必要なのは拝み屋ではなく、医者やカウンセラーの方だ。
だから"組合"に所属し、確実に"本物"だけを相手にできるように計らってもらっている。報酬の何割かは仲介料としてさっ引かれるが、間違いがない。勘違いの人たちの相手をしなくてすむ分、楽であるし、彼向きの仕事を回してくれる。
ちなみに勘違いの場合だと、組合は弁舌が立つ者……カウンセラーを兼ねた人物を派遣している。"思いこみ"の人は何度も依頼してくる傾向があるので、結構稼げるらしいと小耳に挟んだことがある。
躊躇う理由は、個人的に受ける依頼のため、まず事の真偽を判断しなければならないということなのだが――
誠也は真紀の人となりに思いを巡らす。
……大丈夫だろう。たぶん。
例えそれが彼女の勘違いだったとしても、誠也でも説得できそうだ。いざとなれば――本当に最終手段だが、藤宮先輩にご出馬願うことにする。
最後のくだりに申し訳なさと己の不甲斐なさに半分泣きそうになりながら、誠也は意を決した。
青年は、固唾をのんで自分を注視していた真紀に、安心させるように力強く首肯した。
「その依頼、受けましょう」
ぱあっと、彼女の表情が一転して明るくなった。
歓喜の笑顔が眩しい。眼を細めた青年は自然と頬が緩んでいくのを覚えた。
「じゃあ、藤宮先輩には日頃からお世話になっていることですし……」
早速値段交渉に入ろうとした誠也がその先を言う前に、
「割引しちゃ駄目よ? 羽矢斗さんから受けた恩は羽矢斗さんに返してね。相場は知らないけれど、大体のところは通帳を見てわかっているから、誤魔化しても無駄だから」
蠱惑的な橙色の唇の両端が上弦の月を描き、に~っこりと、威圧感ある笑顔で凄まれた。そこには先ほどの怯えなど微塵もない。
噂の確信を抱くに至った、通帳の"ホウシュウ"の文字を見つけていた真紀は、正規のバイト以外で振り込まれる金額も、きちんと読みとっていた。
「………………」
どうして女の人ってこうも目ざといんだろう。
実家の女性陣を思いだした誠也は笑顔を硬直させたまま思った。
「じゃあ、行きましょうか」
交渉も終わって意気揚々と席を立った真紀が誠也の湯飲みも回収して下げ口に持っていく。青年は切り替えの早すぎる相手に、ひたすら呆気にとられるばかりだ。
主導権は、完璧に握られてしまっていた。
紅葉途中の枝葉が覆う石畳の上には、気の早い落ち葉が踏み散らされていた。
足を踏み出すたびにかさかさと音のする道を歩きながら、おもむろに誠也が訊ねた。
「心当たりって、何ですか?」
先ほどの話の続きを、誠也は極力当たり障り無い言葉を選んで口にした。が、あまり変わらないかも知れない。
「単純に言えば、恨み、かな」
歩調を緩めて、枝葉の天井を見上げた。
その向こうにあるのは青空。九月も下旬の秋の空は、天高く、青く澄み渡っていた。ちらほら浮かぶ白い雲も高い位置にある。
遠くを見つめ、眉根を寄せながら快くない過去を発掘する。
「まだまだ精神的に余裕が無い時分だったから酷いこと言ったし……」
独り言めいた呟きをもらして、視線を落とした。
事情の説明に自分の価値観は必要ない。彼女は感情を削ぎ落とした、客観的な情報だけを選別する。
「名前は大津謙司。佐々くんと同じで法学部所属。向こうは四年生だけどね。知り合ったのは合コン」
「合コン? 参加されるんですか?」
合同コンパ。学生同士の懇親会であるが、男女の出会いの場という意味合いが強い。金のない誠也は参加したことがないので伝聞推定である。
青年が軽く目を見開き、意外の念を滲ませた。
人を引きつけるような明るさと嫌味にならない程度の茶目っ気が窺える表情。凹凸がはっきりしている一般的な男性好みの肢体は、なるほど、外見だけでとられれば意外でもないのかも知れない。しかし実際の彼女を知っている青年には、到底そのような場で"出会い"を求める人には思えない。
「あの時は仲の良い友人にどうしてもと頼まれて、断りきれなかったの。でもそんな事情は向こうは知らないし、彼は私の見てくれを気に入ったようでね。言い寄られたわ。しつっこくね」
何か不快なことを思い出したのか、しつこく、という部分を殊更強調した。細められた黒瞳と声の調子に圧倒された誠也は、こぶしひとつ分距離を広げてしまった。
「外見しか見てくれない人間とつきあえるわけがないわ。いえ、違うわ。私が、容姿を褒められても、信じられなかった。あの頃は人間不信が強い時期だったから、特に。当然断ったんだけど、何を言っても納得してくれないものだから結構きつく出ちゃった。その頃はまだ羽矢斗さんとつき合っていたわけじゃないしね。……とにかくしつこかった」
ぼそ、と繰り返された単語には、途方もない疲労感が漂っていた。
「はぁ……」
誠也は色恋沙汰とは無縁の生活を送っているので、気の抜けた相づちしかうてない。ただ、きつくでたという彼女がどんな言葉を投げつけたのかを想像して、ひたすら恐怖するのみだ。
眉じりを下げてコメントに困っている誠也に、真紀はそれまでの感情を払拭するように明るい声を出す。
「とにかく、振られた腹いせかなぁと思ったわけよ。羽矢斗さんと出会ってからは人間不信も改善してきて、大津さんのことも反省して、あの時のことを謝ろうと思ったんだけど、タイミングが悪いのか何度法学部へ行っても会えなかったのよね」
肩を竦めて足早に進む。
どんどん先に進んでしまう真紀に、右肩に引っかけたリュックを持ち直した誠也は歩調を早めた。
「でも、それって、積極的に私が会おうとしなかったせいよ。法学部の教室付近をうろついたところで、よほどの運がなければ会えないわ。合コンに参加した友達経由で予定をとりつけてもらうとか、大津さんが履修登録している授業を問い合わせもしなかった」
徐々に声の調子が低くなる。足を速めたところで何かを振り切るように歩く真紀の表情はうかがえない。
「『自分は悪くない』っていう意識ほど、始末に悪いものはないわね」
吐き捨てるような口調に、誠也は鬱屈とした空気が喉元にからみつくような錯覚を抱く。先ほどまでの彼女の明るさはカラ元気のようなものだ。
「その人のことを、藤宮先輩は知っているんですか?」
「それはわからないわ。でも……察しがいいから」
きっと、知っている。
真紀は皆まで告げなかったが、彼女の不審な行動の理由はある程度、把握していることだろう。
時として恐れを抱かせるほど勘が鋭い。藤宮羽矢斗はそんな人間だ。
「じゃあ大丈夫ですね……誤解されて仲がこじれた~なんて事になっても責任はとれませんから」
誠也の軽口に、真紀が吹き出した。
「それこそ平気よ。――佐々くんだもの」
どういう意味ですかそれは。
素直に笑えず、心の中で問いかけた誠也は、複雑な表情で風通しの良い頭を掻くにとどめた。
大学の構内を抜けると、下宿やアパートが軒を連ねた通りに出る。
身を寄せ合うようにこまこまと建物が並んでいる細い道を案内された。やがて辿り着いた彼女の下宿先は、外観は植物の蔦が這っており、古めかしい感じがする。戸を開けると奥まで真っ直ぐに続く廊下があった。板張りの床は丁寧に掃除され、綺麗なものである。
まだ中途半端な時間帯のため、他の住人は帰って来ていないらしく、しんと静まり返っている。これからを考えると好都合だったが……。
「良いんですかねぇ……」
彼女に笑い飛ばされたものの、間男のような居心地の悪さがつきまとう。誠也のぼやきを聞き咎めた真紀はまた笑いがぶり返してしまった。
何故だか、とても笑えるのだ。普段ならこのたぐいの話題で、腹筋が痛むほど笑わないだろう。それはおそらく――
発作的な笑いは、部屋に近づくに連れ強張っていく。
笑顔の裏にある不安が、露呈する。
幽かに震える手で、鍵を開けた。
「ここが、私の部屋よ。言っておくけれど、普段からこんなだと思わないでね」
茶化すような声も、掠れていた。
扉が開かれた先には。
縦横無尽に走る、物、物、物――
倒れた家具に、散乱した本や衣服、小物の数々。部屋だけ台風にあったみたい、という真紀の形容は的を射ている。
ご丁寧にベッドまでひっくり返っていて、女性の細腕ではできそうにないほど室内は荒らされていた。
ザッと視線を走らせた青年が、眼を糸のように細めた。
空気が――変わる。
触れれば切れてしまいそうな、攻撃的な空気が発散され、真紀の喉を圧迫した。
悲鳴すら上げられない彼女の肌に、ビリビリと静電気のような緊張感が走る。
突然、誠也が目にもとまらぬ素早さで何かを投げつけた。
バリ……ィッ!
部屋の中心。何もないはずの空間に、青白い雷が迸った。
「ひ……っ」
慌てて悲鳴を呑み込んだ彼女の隣で、宙を睨み据えた瞳が刃のように鋭くなる。
真紀が目を見開く中で床の物が重力に逆らって空中に浮かび、誠也めがけて勢いよく飛来する。彼は自ら前に進み出ると静かに息を吸い込み――
パンッ!
柏手を打ち鳴らす。途端に、飛来物は操り糸が切れたように床に落ちた。
誠也の厳たる眼差しが、鬼気を孕んだ視線と交差する。
もしもその時、真紀が誠也の顔を覗き込んでいたら、彼の瞳が青白い光輝をぼんやりと放っていたのが見えただろう。
誠也の目だけに映っているそれは、成年男性の姿をして、周囲に透けていた。幽かな存在でありながら、他者を害する力を持っている。対峙するふたりは眼差しだけで互いの出方を油断なく窺い、牽制しあっていた。
幽霊の人相は――頬がそげ、やつれた感がある。それなのに目ばかりが大きく、ぎらぎらときつい光を放っている。ざわざわとノイズのような怨嗟の声に、誠也は眉を顰めた。
そもそも、幽霊というものには"格"がある。
このように恨みに囚われたものとは会話は望めない。恨み言を繰り返すばかりで、言葉の通りお話にならないのだ。
説得無用の事態は誠也の望むところ。
目線を固定したままカバンから塩の塊を手にした誠也は、やりやすそうな相手だと、緊張を緩ませてしまった。それを見逃す幽霊ではない。
彼らの足元――視界に入りにくいところに転がっていたペンが、風を切るような勢いで真紀を狙った。
張りつめた空気と目の前に展開されている超常現象に硬直していた真紀は、顔面めがけて飛んできた先端を――手にあったバッグでとっさにたたき落とした。
「――っ!」
誠也が鋭く舌打ちした。守るべき依頼人が、並の女性じゃなかったことに助けられてしまった。
背後に気を散らした誠也に、幽霊はチャンスとばかりに、排除しにかかる。幽霊の周りにじわじわと闇の気配が立ち上り、今度の武器は小物ばかりであるが、ハサミやナイフなどという物を選んで力およばせる。
黒いもやの絡みついた物が、ふわりと浮かび、矢のように誠也を射る。
「――大人しくしろッ!」
かわす素振りも見せずに一喝した。
隅々まで響く、全てを従わせるような声は、それ自体が光を放っているようだった。黒いもやはたちどころに掻き消され、重力に従う。一瞬だけ縛された幽霊も己の不利を悟り、即座に上昇して天井を通り抜けた。
「逃がすかっ」
逃げ足の早い幽霊に叫んでしまった誠也は、白い紙を取り出して息を吹き付ける。飛ばされて床に落ちると思いきや、紙は消え失せた。
少なくとも、真紀の視界からは。
自分の目を疑って幾度もまばたく真紀に、誠也は今までの厳しさの一切を裡に秘めて、静かに告げた。
「今、追っています。……後はこの部屋に戻って来られないようにしておきますから、安心して下さい」
その瞳の奥に剣呑なものが未だに潜んでいたが、表面上はいつも通りだ。
真紀は雰囲気の落差についていけず、茫然としたまま彼の行動を見守る。
失礼、と断りを入れて部屋に上がった彼は、正方形の和紙をとりだして、それの上に塩を山盛りする。それを四つ作り、散乱している物をかき分けて、部屋の四隅に置いていく。
「それって、盛り塩?」
「はい、そうです。よくご存じで」
説明の手間が省けて、誠也は目の縁を和らげた。
塩は古来から防腐、浄化の作用があるとされている。人に害をなす霊のたぐいは、自分を浄化してしまう塩を嫌うので、近寄れない。
「……そんなので良いの?」
あまりに簡単で、少々不安になったらしい。
気持ちはわかるが、彼にとってはこれが最良の手段だ。どうにか安心させようと意識して微笑みを作る。
「ええ。掃除とかには邪魔でしょうけれど、2~3日は動かさないで下さい。元を何とかできたら連絡しますから、それまでは」
「わかったわ。……佐々くん、ありがとう」
両手をそろえ頭を下げると、栗色の豊かな髪が、滝のように流れ落ちた。
真紀は素直に、感謝した。これでもう大丈夫だという安堵が、心をほぐしていく。
気味悪げな視線を覚悟していた誠也は丁寧な礼に驚き、戸惑い、次いで照れた。
「いえ……。じゃあ俺は追跡の方に戻りますから。あ、お金の方は成功報酬で良いです」
きまり悪げに頭を撫でながらまくしたてると、ひらひらと手を振って逃げるように走り出した。
頭を上げたら後ろ姿で、それもあっという間に見えなくなってしまう。はたと我に返った真紀は。
「…………だからそれまでどうやって生きていく気なの!?」
廊下にまろびでて、いないと見ると窓まで駆け寄り、彼の姿を探した。そこを通るはずなのに、どこにも見当たらない。
けれど真紀は届かないとわかっていて、手を振りながら、近所迷惑も顧みずに大声で叫んだ。
「ありがと――!」
気の済むまで手を振った彼女は、やがてくるりと自室に向き直り、よしっ、と気合いを入れて気分を一新した。
コートを脱いで腕まくりをして、後片づけにとりかかった。
青かった空に朱が混じり、太陽は傾きはじめた。
気温の低下をはじめた冷たい空気が、疾走して火のついたような身体を肺から冷ます。
誠也は迫り来る夕刻に、焦りを感じていた。
――夕焼け。
それは逢魔が刻という、魔が力を増す夜の足音。幽霊が力を増す前に、見つけなければならない。
目を閉じなくても、真紀の部屋にいた幽霊の姿が脳裏に浮かぶ。それは幽霊を直接追跡している式神から送られてくる映像だ。
紙で出来た式神は彼の目となり手となって、助けてくれる。
目といっても、式神と距離が開きすぎると映像が見えにくくなる。それは音や光と同じで、伝達には時間がかかるからだ。遠くなればなるほど、送られてくる画像に時間差ができる。差がありすぎると、指示を出しても伝達の遅れで機会を逃してしまうことになりかねない。
彼は二重写しの視界で、転ぶことも道を逸れることもなく、最短距離を突き進む。
日頃から体を鍛え、自分の目と式神の目とを混同しないようにする訓練をつんでいるとはいえ、その状態で疾走するのは辛い。
まとまった金が手に入ったら自転車でも買おうかと、捕らぬ狸の皮算用をする。
誠也の力量では、式神に幽霊を捕縛させることはできても祓わせることまではできないからだ。結局その場に駆けつけなければならないことに変わりないから、自転車は欲しい。
修行して力をつけるのと自転車を買うのと、どちらを優先させるか。このふたつを天秤にかける以前に、現在のふところ事情からして自転車が手に入ることはまずない。夢のまた夢である。
自転車のことを考えると傷口が深くなりそうなので、とりあえず心の中で己の力不足を嘆いてみた。
…………虚しい。
誠也は無理矢理思考を切り替え、幽霊がどこへ向かっているのか推測する。
幽霊は真紀の下宿先から見て南西へと向かっている。その方角にあるものは――彼女の通う獣医学部だ。まさかそこを害する気かと危惧したが、幽霊は見向きもせずに通過してしまう。
どこへ逃げる気だろうと誠也が再び首を傾げたその時。
突如、大量の鴉の群が式神を襲った。
「……っ!」
思わず手で頭を庇う仕草をしてしまった誠也は、慌てて手を下ろしそれとなく周囲を窺った。幸い、人通りの少ない路地にいたので彼の行動を見咎めた人間は居なかった。
安心したところで式神を意識する。
式神は害されていない。鴉はめくらまし程度の効果を上げただけで、現在も送られてくる映像も鮮明だ。それなのに――忽然と対象の気配が消え失せた。
「見失った……?」
誠也の足が、完全に止まる。
腹筋で呼吸をしているので肩は揺れないが、呼吸はせわしない。空を飛び、斜めに突き進んだものたちと違い、道に沿って走っていたから余計距離を走っていた。
役目を果たせなかった式神は、周囲を旋回してあたりを探っている。しかし負の気を放っていた幽霊が通過した、その痕跡すら見いだせない。送られてくる情報にあるのはただ、大量の鴉の低空飛行で驚いている人々の喧騒だけだった。
「うそだろう……どうして……」
自らの茫然とした呟きに、打ちのめされる。
予想外の事態に、誠也の顔から徐々に色が失われていった。




