ぷろろーぐ 脇見運転要注意
雲が金色で綺麗だった。
朱金に光る、沈みかけのまばゆい太陽。西側の世界は紅に染め上げられ、東から侵略してくる深い藍色が混ざり合い、中間は紫となる。東に行くに連れて深さを増していく青紫色。そのグラデーションが美しい。
様々な顔を見せる大気で、特に幻想的で美しいのは雲だろう。
影の部分は青や紫を帯びた灰色で、太陽の光が当たっている部分は――オレンジ? 黄色? それともやはり金色か。この色彩に相応しい名を冠するのは難しい。
少女は軽快に自転車のペダルをこぎながら、じっと山際の空を見つめた。
木々のアーチを抜けると広がる、この遮るもののない雄大な空は、わざわざ見上げなくても、目の前にある。
自然が多いとはいえ、人工物は皆無ではない。道は木っ端を固めたような素材で綺麗に舗装され、街灯がぼちぼち明かりを灯す頃だ。右手には川に落ちないよう柵が設けられているし、左手には大学の建物がぽつぽつと並びここがまだ大学の敷地内であることを示している。もう少し行けば高校だって建っている。
だがそれらは高さがあまりないので、目線を上向きにすれば眼に入ることがない。
彼女は見通しが素晴らしく良い、この道が気に入っていた。ここで風を切るように自転車を走らせ、全身で風を感じることが好きだった。
自然に溢れているこの通りは、空気も澄んで気持ちいい。息をするたびに肺から身体の中が浄化されるようで、猛スピードで自転車を飛ばせば、嫌なこと、悩んでいたこと、日常の全てを忘れることが出来た。
風に溶けて――風になる。
風になって心が自由になれば、この広く狭い世界の、どこまでも飛んでいける。
その錯覚こそが、救いで。
自然の情景が涙が出そうなくらい、胸に、迫った。
こんな時は決まって、歌を歌いたくなる。
胸のあたりでわだかまっている何かを吐き出すように大声を出せば、さらに錯覚は深くなる。
無我、あるは忘我の境地とでも言おうか。とにかく、現実から逃避できる。
――だけど、今はそれができない。
この通りについて難を言えば、自然がありすぎて虫も多いことだろう。
自転車に乗ったまま口を開けば、虫が入ってしまう。虫は不味い。味わいたくなかったけれど、不味い。しかも服に付いたのを払おうとしただけで潰れるほど弱いくせに、服を叩いただけではしぶとくて離れない。潰れたら潰れたで黒いしみとなる。
虫についてはさておき、大声で歌えない理由はもう一つあった。
人通りの多さだ。夕方の帰宅時間だからだろう。近所の高校の生徒やこの大学の学生たち、背広を着た会社帰りの人々、散歩中の親子など、年代問わず実に様々な人間が歩いている。ついでに鴉も異様に多かったりするがこれは別に数に入れない。彼らも夕方だからねぐらに帰るのだろう。
これで歌が上手かったら彼女は躊躇わないで歌っていた。だけど常日頃から音痴と言われ続けているために、他者の耳に入れるのはやはり躊躇われた。
空気は清浄なくらい綺麗で、その上空も夕焼けでとても美しい。なのに――歌えない。
こんな哀しいことが他にあろうか? ――いや、ない。
とにかく、空が綺麗なのだ。
とにかく、気分が良くて大声で歌いたいのだ。
たとえ下手くそと罵られようとも何か歌いたくて、彼女は往生際悪くも、自分にだけ聞こえるような小声で口ずさみながら、空に見とれていた。
結構なスピードで自転車を走らせながら、今日に限って妙に人通りと鴉の多い道で、心はここになかった。
……間が悪いときというのは、重なるのだろうか。
見惚れていた朱金の空が、群をなした鴉で黒く埋め尽くされる。滅多にない光景につい、鴉たちを目で追ってしまうと、彼らは鈴なりになって木にとまった。あまりに大量のそれに、我知らず怖気が走り、目を背けた。すると大学の運動場や、道の脇の芝生にも黒いものが点在していた。奇妙なことに、地面にいる鴉たちは一様に中空を見上げ、何かの姿を追っているように頭を動かしていた。
そこに何があるというのだろう。
少女が彼らを観察するようにまじまじとよそ見をしていた、その時。
彼女の鼻先を、白いものが掠めて行った。あと少しスピードが出ていたら衝突していたかも知れない程の至近距離を、だ。少女は遅まきながら仰け反って、バランスを崩した。端から見たら危なっかしいくらい自転車がぐらぐら揺れたがそれは束の間で、すぐに体勢を立て直した。
それなのに――
驚きが冷めやらぬうちに、前方から小さな子供が走ってきた。その子供は後ろにいる父親らしき人物に気を取られており、前を見ていない――――!
全ては一瞬。
とっさにハンドルを切った自転車は素直に操縦者の動きに従い、折悪しく工事中で柵のなかった土手へと落下する。
草ぼうぼうで見たことはないが、下には川が流れているはず――
顔面蒼白になった少女は、がくん、と襲ってきた落下感覚に総毛立ちながら、誰かが何かを叫んでいるのを耳にした気がした。
彼女は反射的に目を瞑り、来るはずの衝撃に身構えた。