狂笑の妖女
切り立つ断崖に背後を守られた村外れの集会所は、緊急時の避難所も兼ねた三階建ての膠泥煉瓦造である。
建物を取り囲むように、高い二重の防壁を左右と正面にめぐらせた堅牢な造りとなっており、広い前庭に臨時天幕を設置すれば、全村民をも収容することが可能である。
他国の軍隊や野党の集団などに、万一村内へ侵入された際に備えているのだ。
すでに村の大半を征圧した獣人軍団は、十重二十重に集会所を取り囲み、突入の時期を探っていた。
…と、防壁の大門横に設置された通用口が開き、中からゆっくりと人影が現れた。
「お前たちは何者だ?如何なる所以を持ってこのような無法を働く!?」
緊迫感漂う中、少し枯れ気味ではあるが、ただ年輪を積み重ねただけでは得られない重厚で深みのある男の声が響く。
群がる獣人軍団に微塵も臆することなく独り対峙する男は――黒塗りの杖を突いて、曲がり気味の腰を真直ぐ伸ばし、防壁の門扉の前で仁王立ちしていた。
豊かな白髭を蓄え、すっかり白髪に覆われたその姿は、六十代半ばには達しているだろう。
白髭の老人――セロンの族長ダナオスが護る扉の奥には、子どもを抱きかかえる母親や年寄達が不安そうな目を交わしあい、戦いで負傷した男たちは肩を貸しあって、獣人兵の突入に備えて折れた剣を構えていた。
「――なぜ答えぬ? その奇怪な獣の頭には、見た目どおりの獣の知恵しか宿ってはおらぬのか?」
わらわらと無言のまま蠢く獣頭の狂戦士たち―
そんな怪物どもを睥睨する老族長の視線のその先で、獣人兵がぴたりと動きを止めた。
「ホ~~ホッホッホッホッホッホッホッホッ……………………!!」
奇矯な哄笑が、再び辺りに響き渡る――
老族長の目の前で、一糸乱れず左右に割れる獣人兵たち。
ざっざっ……と重い足音を立てながら現れ出でたるは、四足の獣―
つややかな白銀の体毛に走る黒い縞模様、巨大な体躯に野太い四肢、むき出しの牙は鋭い小剣のようだ。
――剣歯虎――
神話に登場する神々の国に生息すると云われる幻の大型四足獣。
耳障りな笑い声は、その背中から響いてきていた……
というか、より正確に言うと、その背に乗った女の口から漏れていた。
炎のように真っ赤な髪を逆立て、唇に掃いた紅はどぎつい血の色。
紫のアイシャドウに縁取られた暗い緑の瞳には、凶気の色が浮かんでいる。
女は緋色の外套着を翻し、黒い皮衣装に包まれた右手を上げると、老族長を指差して、
「フンッ……、洟垂れ坊やが――っ 言うようになったわねぇ……」
鼓膜を突き破り、脳天に錐を差し込むような最高音域の声を張り上げた。
「だけど、そのような口を利けるのは今日この時までよ――
今後お前たちは、貴重な実験材料として、あたくしの愛玩動物になるの
醜い人としての姿も…浅ましい人の心も…すべてを捨て去り、麗しき合成獣としての薔薇色な獣生が待っているのよ~~~~!!」
言を重ねるうちに徐々に興奮が増してきたのか、女は恍惚とした表情で自らをかき擁き、よがるように身体を震わせながら、どこか遠くの世界へ逝ってしまった。
いささか薹が立っているとはいえ、自分の娘と同じくらいの年代の女から、いきなり『洟垂れ坊主』呼ばわりされた老族長は、
「――誰かまともに話の通じる人間はおらんのか…………」
あまりにも常軌を逸した女の狂態に、困惑しながら周囲を見回す。
そして居並ぶ獣頭の無愛想な表情に眼を留め…………深いため息をついた。
そんな老族長の様子に全く気付きもせず、永い永い精神世界の旅から帰還した女は、舌なめずりをする蛇のような眼に怪しい光を湛えながら、非道な言葉を事も無げに吐いた。
「これから半月ごとに、光栄に浴する十二人の幸せ者を選びなさい……
構成は、こども・若者・老人の男女二人ずつ――」
耳元まで裂けるかのような真っ赤な唇に婉然とした笑みを浮かべて、老族長を睨め回すその眼には、狂気――と言うよりはむしろ妖気が漂っている。
「初回分の実験材料は……ちょっと傷物だけど、もう十分すぎるくらい確保できたからね。今回はまけてあげるわ♡」
昏倒させ連れ去った農夫達や、戦いで傷ついた男達を、最初に実験材料として使うぞと宣言しているのだ。
そのぬちゃりとした視線に怖気が走った老族長であったが、そこは歴戦の勇士である。
臆することなく一歩も引かずに、屹然と女の眼を見据えて言った。
「年増! そのような無体な真似は許さん――」
――刹那、白銀の影が霞み、凄まじい衝撃がダナオスを襲った。
「――っ!?」
瞬間移動でもしたかのような圧倒的速度で動いた剣歯虎が、太く長い尻尾を鞭のようにしならせ、老族長の顔面を打ち据えたのである。
粉々に砕けた木片が宙を舞う――
老族長の命を救ったのは、老練な戦士の勘であった。
凄まじい殺気と風圧を感じた瞬間、本能的に危機を察知し、手に持った杖で咄嗟に頭部をかばったのである。
横ざまに吹き飛ばされ、地面を二回三回と跳ねた老族長の体がピタリと止まる。
倒れ伏す老族長に、巨大な影が重なった。
口の端から血を流しながら、かすむ眼で見上げると、巨大な剣歯虎の紅い双眸がすぐ間近で爛々と輝いている。
転がる方向に瞬時に先回りした巨大な獣の足が、老族長を踏みつけていたのだ。
「……何かつまらない言葉が聞こえたような気がするけど……あたくしの聞き違いなのかしらねぇ?」
こめかみに青筋を立てて、嗜虐的な微笑を浮かべる妖女。剣歯虎の踏みつける前肢の力が、徐々に増していく……
「――ぐううおぉぉ~~~~~~~っっ」
「……フンッ、多少潰れてバラけているくらいの方が、解体の手間が省けていいわねぇ」
妖女が特に指示を与えている様子もないのに、右肢に全体重を乗せた剣歯虎は、老族長の首を喰い千切らんと鋭い牙をのばした。
――鋭い風切り音が空気を切り裂く――
妖女の額を狙った小型の矢が当たる寸前に、人差し指と中指のわずか二本の指で受け止められる。
「……ちゃちね――」
妖女は、いとも簡単に矢をねじ切りながら目線を上げた。
再び走る風切り音――今度はふたつ。
妖女の右目、剣歯虎の眉間――間髪いれずに撃ち放たれた矢の一つは、翻した外套着の一振りに跳ね飛ばされ……今一つは白銀の毛皮を貫くこと叶わず、肢下の老族長の目前に力なく落ちる。
「…………サティ……」
息も絶え絶えな老族長が、残された力を振り絞って面を上げると―
そこには妖女と対峙する勇敢な孫娘の姿があった。
「おじい様から離れなさい――」
矢を番えたままの姿勢を保ち、射倒す気迫で睨み据えるサティ。
ねっとりと絡みつくような妖女の異常な視線にも怯まず、一瞬たりとも目を逸らさない。
ガリウスの指示通り、集会所の裏庭にある抜け道へと急いだサティだったが、そこに到着すると、入り口はすでに塞がれてしまっていた。
副長達が避難経路の安全確認のため抜け道に侵入した直後、剣戟と怒号が響き、轟音とともに極太の丸太で組まれた防門が落ちてきたそうだ。
敵の追撃を阻止するために、脱出の際抜け道の内部から操作して大岩と丸太で道を塞ぐ仕組みになっていたのだが、何らかの理由で誤作動してしまったらしい。
仕方なく別の抜け道へと急ぐ途中に獣人兵たちと出くわしそうになり、崖下の茂みに潜んで様子を伺っていたのだが………。
偶然目にした祖父の窮地――
どうしても見過ごすことができずに、つい矢を放ってしまったのだ。
しかし、妖女に対して毛筋ほどの損傷を与えることもできず、実は八方塞…
絶体絶命の状況に陥ってしまっていた…………
間近から見上げる妖女は、見た目や声で判断していたよりもはるかに年嵩のようだ。
思ったよりは目尻の小じわが目立つ――
だが、さらに接近してよくよく目を凝らせば、髪の生え際から目元に走るいくつもの筋が、小じわではなく小さな鱗であることが見て取れただろう。
首筋や胸元、二の腕へと視線を下ろしていくと、肌の露わとなった部分は全て同様の鱗で覆われていた。
おそらく全身に及んでいるものと思われる。
意のままに剣歯虎を操り、数十体もの獣人兵を従える年増女。魔道師の類であろうとサティも――
おそらくは他の村人達も考えていた。
しかし妖女の驚くべき正体の全貌が、はでな外套着や腰巻の下に隠されていることに、未だ誰一人として気づいていなかった。
が――、
「……女……何者だ?……お前は…………」
唯独り……朧げながらも尋常ならざるものを感じとった老族長が、剣歯虎の肢元から呻くように問いかける。
「クフフフ…………覚えてないのかい、洟垂れ坊主……薄情なもんだねぇ。
泣きながら、行かないでぇって、どこまでも追いかけてきたくせに…………」
「……何を…………」
薄れる意識の中で、脳裏に蘇るその光景―あれは……五十数年も前の…………
「――馬鹿な――っ!?」
飛び出さんばかりに眼を見開き、妖女の顔を凝視する老族長――
「ま…まさか……、まさか、お……あ…あなたは……」
「クフフフ……。特別よ、お前は後でゆ~~っくりと念入りに可愛がってあげるわ
ウフフフフゥ…………。でも、そ・の・ま・え・に――」
言葉での対話にはもう飽きた……とでも言いたげな態度で緩慢に右手を持ち上げると、人差し指をサティに向けた――
妖女の口から耳をつんざくような圧縮変換呪文が響いて、指先を中心に異様な熱気が渦を巻く。
その時――、
「うおぉぉぉぉぉぉぉ-っっっ!!」
猛々しい雄叫びとともに、ガリウスを筆頭とした自衛団が、獣人たちの囲みを破って突入してきた。
崖下に谺する剣戟、野獣の唸り声――
ガリウスとともに妖女に立ち向かった数人以外は、獣人兵の振り回す剣を掻い潜ると、次々と集会所に飛び込んでいく。
合流しての戦力強化を優先したのであろう。
「父さまっ!!」
自分を狙っていた妖女の指が、ガリウスへと向けられるの察した瞬間、サティが警告を発する――
ほぼ同時に、妖女の冷たい声が響く。
「炎熱神呪」
指先から撃ち出された拳大の火球が、獣人兵と鍔迫り合いをしていたガリウスを襲う。
異常を察したガリウスは、獣人兵の押しこむ力を利用して咄嗟に後方へ飛びのいた。
――凄まじい熱気と衝撃波の余波が四方を襲う。
爆炎が晴れた後、その場に残されたのは、上半身を失った獣人兵の無残な姿。
そして少し離れた場所で額から血を流し、膝を突く父の後ろ姿。
思わず飛び出しかけたサティを、肩越しの鋭い視線で戒めるガリウス。
ほんの一瞬躊躇したサティは………
後ろ髪引かれる思いを無理矢理断ち切ると、踵を返して駆け出した。
走り去っていく娘の気配を背中で感じながら、ガリウスは口の端で満足そうに微笑む。
「親馬鹿かも知れんが……俺には出来すぎた娘だよ」
そう呟いた彼は、妖女へ向けて乾坤の一撃を放つべく、立ち上がりざま間髪いれずに躍りかかった。
――が、剣歯虎に跨った妖女の顔を目に留め――一瞬……剣先が鈍った。
「マッ…… 」
「……相変わらず甘ちゃんだね――ガリウス」
妖女が皮肉な口調で言い切った瞬間、剣歯虎の尻尾が唸りをあげて飛んでくる。
粉々に砕かれた大剣……
ありえない方向に曲がった腕……
跳ね飛ばされて防壁に激突するガリウス――
こぼれそうになる涙を必死にこらえ、辿り着いた防壁の前で一瞬振り向いたサティが見た――
それが最後の光景であった。
跳ね飛ばしたガリウスに眼もくれず、防壁に沿って走り去るサティの後ろ姿に向けて、妖女は再び指を伸ばした。
が……、ふと気が変わったように指を下ろすと、聞こえよがしに叫ぶ。
「お待ち――っ、このアーシュラ・アムリタから逃れられると思ってか!!」
……けれど、追おうとする素振りなど微塵も見せずに、サティの姿が視界から消えるのを確認すると、獣人どもに対して次々と指示を飛ばし始めた。
「ミズの班! 引き続き包囲網を緩めずに待機…………
ヤマの班は二手に分かれて、捕虜どもと荷物を例の場所に運び入れるんだよ――!!
ヒトの班は………………………………」