静謐な一夜の始まり
静謐なひんやりとした空気が、一日中酷使して火照った身体と頭に気持ちいい。
新月を間近に控えた天頂はすっかり夜の闇に浸食されている。
東の地平に広がる銀砂のような星々の光のみが、傾斜のついた屋根の上に寝そべった人影をかろうじて照らしていた。
すでに夜半を大きく回っており、早朝の準備に追われ喧騒に満ちていた集会所も、今はひっそりと寝静まっている。
皆早朝の決戦に備えて、昂る神経と格闘しながら身体を休めていることだろう。
「………………ガナさん?」
開きっ放しにしていた屋根窓がら聞こえてきた小さな声――
首を巡らせたガナの視界に、窓から身を乗り出したサティの姿が映る。
「どうしたんだい?こんな時間に……少しでも眠っておかないと、朝が辛いよ」
半身を起し返事をするガナの目前で、屋根に移り平衡を取りながら近づいていくサティ。
「ガナさんこそ疲れたでしょう……怪我人全部、本っ当にみんな治しちゃうんだもん」
戦闘要員を確保するための治療だったはずなのに――
なまじ人が好いサラは、病人や怪我人を見かける度に、あらあらまあまあ…と、年寄りの神経痛から膝小僧をすりむいた子供の手当てまで片っ端からやってしまったのだ。
ちょっと呆れたような感じでそう言うと、サティはガナの横に並んで座りこんだ。
「ボクは平気さ。――もっともサラの奴は、さすがに疲れて爆睡してるけどね……」
軽く肩を竦めて応えるガナ。
「ガナさん……。サラさんと違って、日頃からあまり眠ってないんじゃないですか?」
この一週間の様子を思い浮かべて、サティが心配そうに問う。
野営の時も夜中にふと目が覚めると、必ずガナは起きていて、どこか遠くに想いを馳せるように夜空を見上げていた。
「……たまにだけど、サラがこっちで眠ったままの状態でボクに交代した時なんかに、そのまましばらく眠ってることがあるくらいかな……」
ほんのわずかな期間一緒にいただけで気付かれるとは思いもしなかったガナは、一瞬躊躇した後――また何かいらぬことを悟られないよう、充分注意して言葉を返した。
……この子の聡明さも、単に頭のよい子……で済ませられる水準を超えているような気がする――
父親が≪機関≫に関係しているうえ、どうも出生に秘密があるような気がするし……
もしかするとその辺に何らかの謎が隠されているのかもしれない。
とは言え……本当に久々だった。
わずかな時間であっても、ぐっすり眠れたのは――
他人の身体の温もりを感じ、安心したのだろうか……
と、つい先日の記憶が戻ってきて、赤く火照った顔で何となくサティを見つめる。
「……? なんです?」
「い、いや、なんでもないよ」
ついと顔を背けるガナを不思議そうに見遣ると、
「そういえば、有難うございました……これ。おかげで跡形もなく綺麗に治りました」
サティは不意に服をめくって、すっかり元通りに治った胸をガナに見せた。
「ぶっ―!!」
サティの言葉についつられて、何気なく視線を向けたガナは……首が折れそうな勢いで視線を逸らす。
そんなガナの奇妙な反応を訝しむサティだったが、まあいつものことだし…と納得し、服を元に戻しながら話を変えた。
「そうそう……父が不思議がっていました。
本来治癒術は自己回復力を高めるだけのもので、これ程大きな傷口を完全に消しさってしまえるなんて聞いたこともないって……」
「……まあね……」
まだ少し動揺の残っていたガナは、そっぽを向いたままのそっけない態度で曖昧な返事を返す。
「たぶん最先端の、『ディエヌエイレベル《、、、、、、、、、》での再生術』……を身に付けているのだろう、と言ってましたけど………………
それにしても、治癒と再生を同時に行いながら体力を補完し、さらに心理的衝撃から精神をも保護する――
そんな神業めいたことを独りでやってのけるなんて、常識をはるかに超越しているって驚いていました」
サティにすれば、サラの魔術の凄さにただ感心して話し始めただけであろう。
しかし、ガナは内心に走る緊張を悟られないように――
「……ふ~ん、魔術のことも詳しいんだね、ガリウス殿は……」
何となく歯切れの悪い口調でそう言うと、呟くように付け加えた。
「……他に……何か言っていたかい?」
小首を傾げてちょっとだけ考えこんだサティは……少し自信なさげな口調で話しだす。
「『ナノタンイ』とか『イデンシノケイシツ』とか……他にもよく分からない言葉を幾つか呟いていましたけど…………」
ガナの表情を窺いながら――サラと異なり相変わらずバレバレな態度である――さすがに不審に感じたのか、サティは最後に一言付け足した。
「……どういう意味なんですか?」
真っ直ぐに見詰めてくるサティの瞳を受け止め、何やら難しい顔をして考え込んでいたガナは……
彼女の問いに直接答えようとはせずに、逆に質問を返した。
「サティはガリウス殿から、生物学についてどの程度教えてもらっているんだい?
……例えば、人間を含む動植物の多くは、小さな細胞がたくさん集まってできている多細胞生物だっていうことは……?」
「……あ、はい―それなら習っています」
だったら話が早い。でも、ちょっとばかり難しいよ……と、前置きをしてガナは説明を始める。
――余談ではあるが……魔道理論はさっぱりのガナだが、科学理論にはかなり精通している。
その辺はやっぱり…………おっと、話を戻そう……
「身体中のすべての細胞の中にはね…………
この細胞は分裂増殖して皮膚に、こちらの細胞は血管に、そちらの細胞は内臓になりなさい――という風に命令を下していく、設計図のような高分子生体物質『DNA』が存在しているんだ。
なんせ細胞の中にあるくらいだからもの凄~く小さい物質でね……
一粍米のさらに一千万分の一っていう、想像も出来ないくらい小さなものなんだ」
ちなみに、その大きさの単位を『ナノ』っていうんだけどね…と付け加えるガナ。
ガナの口から淡々と紡ぎだされる難しい言葉を、何とか理解すべく、一言も聞き逃さぬよう耳を傾けるサティ。
「ガリウス殿の言う通り……
治癒魔術で創傷の自然治癒を促しただけだと、傷ついた細胞組織が完全に元通りになることは決してない。
欠損組織の修復の過程で、どうしても形質が変形してしまうからね。
細胞の破損程度が高ければ高いほど――
つまり創傷が酷ければ酷いほど、大きな傷跡が残るのはそのせいなのさ」
ここまでは解るかい…と、目で問いかけるガナへ、心持ち斜めに頷くサティ。
首を捻るか頷くか迷ったのだろう。さすがに少し難しすぎるか……
「サラはね、DNAに記録されている約30億個もの塩基配列の設計情報をまず読み取ったんだ。
そして、その情報を元に本来の正常な細胞を複製して、治癒の過程で変形した肉芽組織に含まれる異常細胞と片っ端から置き換えて修復していったんだよ……」
ガナの言葉が途切れるとともに、静寂が辺りを支配する。
天空には晦日の月がようやく顔を出そうとしていた――
まるで二人の間に蟠る重苦しい沈黙をとりなそうとでもするかのように……
市井においては極めて聡明なサティといえども、ガナの説明を脳内で反芻して理解するまでに、それなりの時を必要とした。
「……そんなことが……出来るものなんですか……?」
所々に難解な用語が混じっているため、百%理解できたわけではない。
が、傷口周辺の細胞に限定したとしても、数十万から数百万個単位の細胞を照合しなければならないということくらいサティにも解る。
果たして神ならぬ人の身に、そのような技が可能なのであろうか……?
やや青ざめて問いかけるサティに対して、
「………………」
ガナの返答はない。
さらに重みを増した長い沈黙が、二人の間に横たわる。




