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トリムルティ  作者: 姫野博志
第二章  傾蓋知己《けいがいちき》
13/56

月下の湯殿にて

 …………というわけで……、

 サティはしばらくの間食卓に同席して、修行僧のごとき平常心を保ち、周囲のイタい視線に耐えていた。


 だが、一向にとどまることを知らないシュリーの健啖ぶりに愛想を尽かして、一人で自室に戻ると……

 支度を整え、この宿ご自慢の大温泉に向かった。

 脱衣所で脱いだ衣服を、おっかなびっくり洗濯女に託すと、

 (――普通程度(クラス)の温泉宿には洗濯係など常駐していない――)

 幅広の手拭いを携え、湯煙溢れる岩造りの浴場へ入った。


 浴場には、十数人は楽に入れそうな露天風呂を中心に、数種類の変わり湯が点在している。

 月輝石の灯に照らされた乳白色の湯が夜の暗さに映えて、まるで別世界のような独特の雰囲気を醸し出していた。

 また、露天風呂からの展望をウリにするだけあって、眼前に広がる景観は素晴らしく美しかった。

 東の空に密集した大星雲群が、広大な湖面の水平線と溶けるように交わり、天空の虹色を映し込んだ湖面に、波紋がゆらゆら揺れながら拡がる様は幻想的でさえあった。

 サティはほんの一時ではあるが、鬱屈から解き放たれ、その美しい光景に心を奪われて見とれてしまっていた。


「……くしっ――」


 数分後、夜風の寒さに小さくくしゃみをするサティ。

 我を取り戻した彼女は、備えつきのホバ油で手拭いを泡立てると、旅の汚れを丁寧に洗い落とす。

 湯船の淵でかかり湯をし、泡を落としてから湯船に入った。

 広々とした乳白色の湯にゆったりと浸かると、すっかり生き返った気分になる。


「う~ん…………気持ちいい……」


 両手を組んで前方に突き出しながら大きく伸びをし、湯船の中でゆっくりくつろいでいると、この数日で溜まりに溜まった疲労が体の奥から溶け出していくようだった。

 まろやかな湯の感触をのぼせそうになるまでじっくりと味わうと、サティは湯船の淵に腰掛け、湯の中に足を伸ばしたまま、火照った身体を夜風にさらした。


 その時―、


「おおっー! 絶景だねぇ~」


 歓声とともに、シュリーが勢いよくお湯の中に飛び込んできた。


「きゃっ――」


「おっ、悪いね……」


 水飛沫を浴びたサティが思わず発した声で、初めて人の存在に気付いたのか、軽い調子で謝りながら振り返ったシュリー。


 が…………、

 そのままの姿勢でピキッと固まった。


 星明りと月輝石のほんわかした灯りに照らされたサティは、まだまだ成長途上のあどけなさを残した幼い体型だ。

 しかし、瑞々しく健康的な肌がほんのりと桃色に上気した裸身は、無垢な天使のごとき清らかさを醸し出している。


 固まった笑顔のまま視線だけが、膨らみかけたつぼみのような胸から、可愛らしいおへそ、まだ蔭りもないなだらかな丘へとゆっくり降りていき――

 突然全身真っ赤になると、シュリーは湯の中に頭から突っ込んだ。


 いったい何事がおきたのか?


 理解の範疇を超えた彼女の行動に戸惑って、サティは湯の中に立ち上がり声をかける。


「……シュリーさん?」


「ごぼごぼごぼ…………ぶ~~~~~~~」


 どうやら水中で何か言っているらしいが、さっぱり聞き取れない。


「………………………」


 そのまま何も言わずに生温かく見守っていると……、

 ぶくぶくと泡立っていた水面が次第に静かになり、完全に止まる。

 さすがにこのまま放置していてはまずいかと、おっかなびっくり手を伸ばしかけた時――

 突然、湯殿を照らしていた月輝石が猛烈な光を放ち始めた。


「なっ、なに……!?」


 明滅する灯に気を取られていたサティの足元で、乳白色のお湯が秋の空の色のような薄青色に染まり、やがて夕暮時の茜色に変化する。

 異変を感じたサティが目線を下に戻すと、いきなり水面が盛り上がり…………神々しい笑顔を浮かべた女神が降臨して、厳かな口調で問いかけてきた。


「あなたが落としたのは、この絹の手拭ですか?それともこの網目織(レース)の手拭ですか?」


「………………」


 いったい彼女に何が起きたのか? ますます理解の範疇を飛び越えていく行動に言葉も出ないサティ。


「…………もう~、駄目じゃない~~~。

 そこですかさず、『私が落としたのは、普通の麻の手拭なんです…』って応えてくれないと~~」


 絹と網目織(レース)の手拭を両手に持ったまま、腰に手をあてて頬を膨らませた女神様は――


「……シュリーさん……、何をやってるんですか……?」


「あらぁ、私のことは女神様と呼んでくださらないとぉ……」


 ――実は……というかもちろんシュリー(、、、、)だった。


「……で、どっちがいいですか?」


 そういうとシュリーは、嬉しそうに両手の手拭を差し出し選択を迫った。


「………………………………………………………………」


 こめかみに青筋を浮かべたまま押し黙るサティ。俯いたまま握り締めた両手の拳が、わなわなと震える。


「……聞きたい事がありすぎて、いったい何から始めればいいのか、もう訳わかりませんけど………………」


 期待を込めた眼差しで、両手の手拭をちらちらと振っているシュリー。

 そんな彼女を正面から見据えて、サティは一番心に掛かっている疑問をぶつけた。


「――こんなことをしているくらいなら、なぜすぐに村に向かわないんですか?

 私は村の皆を一時でも早く助け出したいんです…………」


 声を震わせながら、思いつめた表情でシュリーを問い詰めるサティ。

 相変わらずお気楽な表情を浮かべていたシュリーは、しばらく黙ってサティを見つめていた――が、すとんと……唐突に湯の中に身体を沈めると、優しい笑みを浮かべて諭すように言った。


「立ちっ放しだと湯冷めいたしますわよ。

 あなたのお聞きしたいことに何でもお答えしますから……ゆっくりお話しましょ」


「………………………」


 今までとは少し違う包み込むような柔らかい微笑――なんとなく拍子抜けしたサティは、無言で腰を下ろしお湯に浸かった。


「え~っとぉ~、一気にセロンまで跳ばない訳でしたわね……」


 とりあえず落ち着きを取り戻して、お湯の中にきちんと正座するサティ――

 シュリーは彼女の様子に軽く頷くと、折りたたんだ手拭を二つとも頭の上に乗せながら、早速説明を始めた。


「結論から言いますと~、サティさんを連れて瞬間移動をすることができないからなの」


「――できない……って……なぜっ!?」


「……魔術はねぇ、万能じゃないんですの……」


 ぽつりと、こぼれるように漏らしたシュリー。

 その笑みの影に、年老いた老婆のような寂しさを感じ、サティは思わず目をこすった。


「最新の魔道理論によりますとね――人間の肉体は、闇の素子を元に物質的に構成されているそうなんですの。

 そして精神(こころ)は、光の素子を中核として非物質的に――いわゆる『魂』と呼ばれる実体の無い存在として肉体に宿っている――そういう風に考えられていますのよ」


 難しい魔術論をいきなり語り始めたシュリーの意図が全く掴めず、当惑するサティ……とりあえずは、シュリーの説明を黙って聞くことにした。


「そして――

 その身を構成する闇の力を利用して、奇跡をこの世界に顕現させる技術を黒魔術。

 闇の代わりに、光の力を利用するのが白魔術。

 アロォーンの大気や大地に満ちる自然の力を利用するのが精霊魔術。

 ……魔術というものを大まかに説明すると、以上の三つに分類されるんですけど……いずれも大気に満ちる真言(マナ)を媒介として、人の思念によって発動するものなんですの」


 一息にそこまで話したシュリーは、ひとまず口を閉じ……頭に置いた絹の手拭をとると、額に浮かんだ汗を拭いた。


「……ところで、瞬間移動というのはどの系統の魔術だと思います?」


「えっ?」


 急に振られた質問に目を丸くしながらも……一所懸命考えたサティは、


「……全く分かりませんけど……なんとなく風が運んでくれるっていう印象(イメージ)があるので、精霊魔術……かな?」

 首を捻りながら自信なさげに答えた。


「う~ん、残念……。確かに、大気に溶け込むという心象を具現化するために、呪文(キーワード)に『風』という言葉が使われますけど――飛翔術と違ってね…空間移動の場合、主に光の力を利用するので、白魔術の分野に属すると分類されているんです」


 ここでちょっと一息入れて……頭から網目織(レース)の手拭も降ろすと、シュリーは心持ち表情を引き締めた。


「そして白魔術はね……光の力を利用しているが故に、闇に属する肉体への負担が物凄く大きいんですの」


 ようやく話が核心に近づいてきたことを感じ、サティは玉砂利を敷き詰めてある湯の底に手をついて、身を乗り出すように聞き入る。


「光の器たる肉体は、この世界―魔道用語では次元というのだけれど…………

 この次元に存在するさまざまな法則――時間とか距離とか重量とかによって、がんじがらめに縛られているの……」


 例えのつもりなのか、絹と網目織(レース)の手拭をギュッと何度も結びつけながら、シュリーが話を続ける。


「瞬間移動をするにはねぇ……白魔術で一時的にこの次元との接続(リンク)を断ち切って、亜次元という隣接した次元に移動しなければならないのよ♡」

 

 ――よ♡ と言われても…………さあ、解らなくなってきた……

 そんなサティの表情に気付き、苦笑を浮かべたシュリーが表現を切り替える。


「……解りやすく言い換えますとぉ~」


 軽く深呼吸をしながら言うと、シュリーはとぷんとお湯の中に潜ってしまった。

 そして数メートル先まで移動すると、プカリと浮かび上がる


「水面上がこの次元でぇ、水中が亜次元だとするとぉ――そこで消えて、ここにいきなり現れたように見えるでしょう」

 乱れてお化けのようにかぶさった髪を掻きあげながら、シュリーは元いた位置と浮かび上がった位置とを指差した。


「今のはこの次元内での水中移動だから、潜ってから浮かび上がるまでに時間がかかってしまいますけどぉ――

 亜次元での移動では、基軸次元に復帰する際に、肉体の体感時間に合わせて基軸次元の時間を選択することができるの……

 だから、本当に一瞬といえるうちに長距離を移動することが出来るんですのよ」

 なんとなく……納得の表情を浮かべるサティ。


「……でも、泳げない人が潜って移動しようとしたらぁ……溺れちゃうでしょ――」

 そう言いつつシュリーは、結び目だらけの手拭をぶくぶくぶくと湯の中に沈めていく。


「瞬間移動もそうなの。魔術の素養も無い人が、全然訓練もせずに亜次元に身を置いたりしたら、良くて発狂――たいていは死んじゃいますの……」


 珍しくちょっと難しい顔をしてサティの表情を窺うシュリー。そんな彼女の様子に気付くこともなく、サティはこれまでの話を消化しながら、自らの思考に没頭していた。


 …………ピトン……


 夜の闇を彩る湯煙の中、静寂の中響く水滴の音…………

 俯き加減になって考え込んでいたサティは、やがて決然と顔を上げた。


「報酬として捧げた身で、こんな事言っちゃいけないと思いますけど………シュリーさんさえ村に辿り着くことができれば、目的は達成されたことになるんじゃないでしょうか?

 …………例えあたしの身に――」


「だ~め……♡」

 シュリーは立てた人差し指を言葉に合わせてゆっくりと左右に振りながら、にっこりとサティの言葉を遮る。


「それは却下ですよ――

 最後の最後に切り札として、自らの命を利用することまで否定はしないけれどぉ……その事と安易に命を投げ出すこととは、決して同義ではないのよ」


 表情や言葉遣いに著しく難はあるが……言っている事は至極真っ当である。


「でも……」


「それにねぇ――」


 サティの反論を封じるかのように言葉を重ねるシュリー。


「もうひとつ大きな問題がありますの――

 瞬間移動ってねぇ……全く行ったことがない場所に転移するには、移動先の正確な座標が必要なんですの」


「正確な座標……?」


「そうですの。あっちの方向にどのくらいとかいう大まかな距離ではなくてぇ、最低でも(ミル)(メルトレ)単位の正確な三方向の座標が必要なんですの………意味判りますぅ?」


 首をかしげて覗きこんでくるシュリーに向かって、ぷるぷると頭を振るサティ。

 シュリーはこめかみの辺りを右手の人差し指でとんとんと叩きながら、


「一度行った場所なら、(わたくし)自身の(ここ)が把握しているから大丈夫なんですけどぉ……

残念ながら、サティの村には行ったことがありませんしぃ――」


 ニコニコと(、、、、、)申し訳(、、、)なさそうに(、、、、、)笑う。

 ――器用というか、不可思議というか……よく解らない女性だ……


「あとぉ、月暦の問題とかぁ、戦術的な問題とかぁ――詳しい理由はおいおい説明しますけど……色々とあるんですの。

 だからまずは休養をとって、明日からの強行軍に備えましょう………それが今(わたくし)達にできる一番のことだと思いますよ」


「………………はい……」


 感情的には多少不満を残しながらも、理性的に判断したサティは、今度は素直に頷いた。


「じゃ~あ、戦術的な問題は明日移動しながらイーシャが説明しますからぁ、お風呂から上がったら美味しいものをいっぱい食べて、ゆ~っくりお休みしましょ」


 ……いーしゃ?


 聞き慣れぬ固有名詞に、一瞬疑問を感じたサティだったが………

 ニコニコと嬉しそうにシュリーが続けた言葉の凄まじい衝撃(インパクト)に――

 頭の中が真っ白になった。


「…………………………まだ、食べる気……なん…ですか……?」


「ひどぉ~い。お昼に食べてから何にも食べてなくて、お腹ぺっこぺこなのにぃ~」


 両手をお腹に当て、ぷんすかと異議を唱えるシュリー。

 ……どうやら、本気で言っているらしい。

 ……あ――頭がくらくらする…………

 そんなことを思ったサティは、なんだか本当に気が遠くなってきて――

 あらぁ?サティさん………と、暢気そうに呼びかけるシュリーの声が、どんどん遠くなっていった。

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