ナメクジ男
あるスーツ姿の男が一人いた。三十七歳の草臥れた会社員。
彼は今日もまた仕事を終え、夜の電車を乗り継いで帰宅する。
車内は満員というほど混んではいないが、都内を駆け抜ける電車なので、旅行中の外国人や飲み帰りの集団が乗り込んでくることもある。
彼はスマホをスワイプしながら、無表情のまま、何気なく猫の画像を閲覧して暇をつぶしていた。
やがて電車がホームに滑り込み、駅へ到着した。ターミナル駅なので、それなりに乗降数が多い。
その時、行楽帰りであろう子連れの親が優先席の方に陣取り、子供らは甲高い声で騒いでいる。
親はスマホを弄ったまま、何も言わない。
彼は一瞥だけして、興味無さそうにスマホに視線を戻した。しかし――
(……親が親なら子も子か。……じゃあ、ナメクジを進呈)
彼がそう思うと、ナメクジが数匹、親二人の頭にボタボタと落ち、額や口の周りをにゅるにゅると徘徊し始めた。
件の親はというと、貼り付けられたことに気付かぬまま、知性を感じない振る舞いをし続けていた。
彼は、ナメクジを人の人生に貼り付けることが出来る。
不可視で本人にしか見えない。貼り付けられた者は、匹数にもよるが、大なり小なり人生を食い荒らされる。
先の親子には、早速影響が現れた。
お土産の紙袋を電車に忘れて行ったのだ。入れ替わりで乗ってきた人が気付いたが、既に親子の姿はホームに見当たらなかった。
こういった、その後の顛末に何が起きるかは彼にも分からない。
ただ、ナメクジ達は派手に人生を壊さない。じわじわと〝花開く時期〟や〝羽ばたきの機会〟を奪う。
小さなミスが続く、選択の判断を誤る、人間関係の乱れ、チャンスを失う、成績の下落、縁談が遠退く等々。
彼は自宅最寄りの駅で降り、構内のトイレに立ち寄った。
洗面台には、飲みかけのカップが放置されていた。
(ナメクジ、置いときますね)
彼が放つナメクジは、迷惑者が残していくキラキラと輝く軌跡を辿ることも出来る。
今回はどういった事柄が起きるのか。
ゴミを置いて行った青年は、三日後の深夜にナメクジが到達し、布団の中で失禁することとなる。
彼は駅を出て、ようやっと帰路に就いた。
途中、コンビニの前で、髪を染めた中年男がタバコを吹かし、吸殻を歩道に投げ捨てていた。
(……あ、ナメクジ付けときますねー)
男の手足にナメクジが纏わりついた。
結果を見てみよう。
彼の場合は三年後にまで及び、肺の七分の一を失う事故に遭っていた。
しかし、ナメクジ男が知る由も無い。興味も無い。
ただ、自身や周囲が迷惑行為を被った時、半ば事務的にナメクジを放つ。
今日も、明日も、ずっと――。
ナメクジをどうぞ。
了
ご精読ありがとうございました。
次作『ナメクジ女』
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