第三章:銀の車輪と色彩の街(二)
「……羽鳥さん、どうして」
彰人の問いは、彼女の痛々しい姿を前にして、最後まで形を成さなかった。
紬は返事をする代わりに、力なく笑おうとして、そのまま膝から崩れ落ちた。
彰人は慌てて車椅子を寄せ、彼女の冷え切った身体をその腕で受け止める。
「寒い……瀬戸さん、ごめんなさい、私……行くところがなくて」
彼女の身体は、氷のように冷たく、小刻みに震えていた。
彰人は迷わず彼女を抱き寄せ、自室の毛布を幾重にも重ねて彼女を包み込んだ。
暖房を最大にし、湯を沸かす。
動かない足をもどかしく思いながらも、彼は今、自分にできる最善を尽くした。
温かいココアを一口飲み、ようやく紬の頬にわずかな赤みが戻る。
彼女は彰人のベッドの傍に座り込み、小さな声で、自らの「影」を語り始めた。
それは、昼間の世界で彼女を縛り付けていた、重く哀しい鎖の物語だった。
「私の家は、代々続く厳格な教育者の家系なんです。……兄も姉も完璧で」
「でも私は、幼い頃の病気が原因で、上手く走ることも、期待に応えることも……」
紬は震える指先で、ココアの入ったカップを強く握りしめた。
「『欠陥品』。それが、父が私に付けた名前でした」
「夜のコンビニで働いていたのは、家から逃げ出すための資金を貯めるため……」
「でも、あの日、スケッチブックを見つかって、全部否定されてしまったんです」
彰人は沈黙の中で、彼女の言葉の一つ一つを胸に刻んだ。
自分も事故の後、社会から「欠陥品」という無言のレッテルを貼られた気がしていた。
けれど、目の前の彼女は、その痛みの中でさえ、誰かのための物語を描こうとした。
その美しさに、彰人は震えるほどの愛おしさを覚えた。
「……羽鳥さん、顔を上げてくれ」
彰人は車椅子から身を乗り出し、彼女の濡れた髪をそっと撫でた。
「君を否定する奴らには、あの絵の騎士は見えていないだけだ」
「段差があるなら、俺がこの銀色の車輪で道を作る」
「君が描くのをやめない限り、俺は何度だって、君のモデルになる」
紬は顔を上げ、涙に濡れた瞳で彰人を見つめた。
「……本当に、私と一緒にいてくれますか? こんな、情けない私の隣に」
「情けないなんて言わせない。……俺にとって、君は光そのものなんだ」
彰人は、彼女を再び強く抱きしめた。
雨音はまだ止まないが、この部屋の中だけは、確かな体温に満たされている。
コンビニのレジ越しに始まった二人の物語は、今、
冷たい現実を塗り替えるための、本物の純愛へと姿を変えていた。
紬の震えは、温かいココアを飲み終えても完全には収まらなかった。
彰人は車椅子をゆっくりと進め、クローゼットから一番厚手のフリースを取り出した。
それを彼女の肩に掛ける際、指先が彼女の冷えた項に触れ、火を灯すような熱が走った。
「……瀬戸さん。私、自分の人生に、意味なんてないと思っていました」
紬は膝を抱え、彰人のベッドの足元に小さく蹲った。
「父の期待に応えられなかったあの日から、私の時間は止まったままなんです」
「明るい場所を歩くのが怖くて、夜のコンビニの光だけが、私の居場所でした」
彰人は、自らの膝の上に置いた掌を強く握りしめた。
「俺も、同じだよ。……事故の後、真っ暗なトンネルの中にいた」
「でも、あのレジ越しに君と出会って、影の中にも色彩があることを教わったんだ」
彰人は車椅子から身を乗り出し、紬の視線の高さまで顔を近づけた。
「君が描いたあの騎士は、俺に誇りを取り戻させてくれた。……だから、お願いだ」
「もう、自分を『欠陥品』なんて呼ばないでくれ。……君は、俺の救いだ」
紬は大きく目を見開き、そこから一筋の涙が静かに頬を伝った。
「……私の絵が、誰かを救うなんて。そんなこと、夢にも思わなかった」
「瀬戸さん。……私、もう一度だけ、描いてみてもいいでしょうか」
彰人は、彼女の涙を拭いたい衝動を抑え、代わりに力強く頷いた。
「ああ。君が描く世界を、俺が一番近くで見守っているから」
雨は次第に小降りになり、窓の外では遠くで街灯が水溜まりを照らしている。
彰人の部屋という、深夜のコンビニよりもさらに親密な「光の箱」の中で、
二人の運命は、より深く、複雑に絡み合い始めていた。
夜が明ける直前の、最も深い群青色が部屋を満たしていた。
雨音はいつの間にか途絶え、湿った空気が窓の外で静止している。
紬は彰人のフリースに包まれたまま、壁に背を預けて浅い眠りに落ちていた。
その寝顔は、深夜のレジで見せる緊張感から解き放たれ、幼い子供のように無垢だ。
彰人は車椅子を音を立てないように動かし、デスクの上のライトを絞った。
オレンジ色の淡い光が、彼女の膝の上に置かれたスケッチブックを照らす。
そこには、昨夜の雨の中で彼女が描き足した、新しい一ページがあった。
銀色の騎士が、暗闇の中で小さな灯火を掲げ、少女の道を照らしている絵。
「……おはよう、羽鳥さん」
窓から差し込み始めた薄明に、紬がゆっくりと瞼を持ち上げた。
「……おはようございます。私、いつの間にか……すみません」
彼女は慌てて身なりを整えようとしたが、彰人は優しくそれを制した。
「いいんだ。少しは休めただろうか」
「はい。……こんなに穏やかな朝を迎えたのは、本当に久しぶりです」
紬は立ち上がり、借りていたフリースを丁寧に畳んで彰人に返した。
その所作には、迷いを断ち切った者だけが持つ、静かな決意が宿っている。
「瀬戸さん。私、一度家に戻って、父と話をしようと思います」
「逃げているだけじゃ、何も変わらない。私の『影』を、ちゃんと認めてもらいたいから」
彰人は、彼女の瞳の中に宿った強い光を見て、誇らしい気持ちになった。
「分かった。……もし辛くなったら、いつでもあの店にいる俺を思い出してくれ」
「俺も、仕事で大きなコンペがあるんだ。君に恥じない結果を出してくるよ」
彰人は、自らの車椅子のハンドリムを力強く握りしめた。
「次に会う時は、君の物語の続きを聞かせてほしい。……それが俺の、新しい目標だ」
紬は深く頷き、玄関のドアを開ける前に一度だけ振り返った。
「はい。……いってきます、瀬戸さん」
「ああ。……いってらっしゃい、羽鳥さん」
彼女の背中が朝靄の中に消えていくのを、彰人はいつまでも、いつまでも見送っていた。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
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