第三章:銀の車輪と色彩の街
約束の土曜日は、抜けるような冬の青空が広がっていた。
彰人は鏡の前で、何度もシャツの襟を整えては溜息を吐く。
車椅子生活になってから、昼間の街へ出ることは彼にとって一種の儀式だった。
段差、人混み、好奇の視線――それら全てと戦う覚悟が必要だったからだ。
「……落ち着かないな」
独り言が、いつもより高いトーンで部屋に響く。
彼は玄関で車輪を拭き、革のグローブを嵌めてから外へ出た。
冷たく乾いた空気が、高揚した頬を鋭く刺す。
駅までの道中、太陽の光はあまりに無防備で、彼の影を路面に色濃く刻んでいた。
待ち合わせ場所は、並木道の入り口にある小さなレンガ造りの美術館だ。
遠くから、白いコートを着た人影が見えた。
紬だった。
コンビニの制服を着ていない彼女は、光の粒子を纏った絵画のように見えた。
「……羽鳥さん」
彰人が車椅子を漕いで近づくと、彼女はハッとしたように顔を上げた。
昼間の光の下で見る紬は、深夜のレジで見せる儚さとはまた違う、
凛とした、けれどどこか脆さを孕んだ美しさを持っていた。
彼女は彰人を見つけると、花が綻ぶような笑みを浮かべて駆け寄ってきた。
「瀬戸さん! ……わざわざ、ありがとうございます」
紬の足元で、枯葉がカサリと音を立てる。
彰人は、彼女の眩しさに一瞬目を細めたが、勇気を出してその瞳を見返した。
「……こちらこそ。昼間に会うのは、なんだか不思議な気分だ」
「はい。……世界が、こんなに明るかったなんて忘れてしまいそうでした」
紬は彰人の隣に歩調を合わせ、ゆっくりと歩き出した。
彰人は、彼女が自分の速度に自然に合わせてくれることに、深い安堵を覚える。
彼女の視線は車椅子ではなく、常に彰人の横顔に向けられていた。
そのことが、彼の凍てついていた自尊心を、少しずつ溶かしていく。
美術館の中は、静謐な空気に満ちていた。
二人は並んで、飾られた絵画の前をゆっくりと移動していく。
彰人の銀色の車輪が、床の上で微かな回転音を立てる。
それはかつて彼が忌み嫌った「ノイズ」ではなく、二人の時間を刻むリズムだった。
「……瀬戸さん、あの絵。私の絵本のイメージに近いんです」
紬が指差したのは、夕暮れの街を描いた一枚の油彩画だった。
深い藍色と、燃えるようなオレンジ色が交差する境界。
光が影を消すのではなく、影が光を支えているような、力強い一枚だ。
「……確かに。君が言っていた『影の意味』が、分かる気がするよ」
彰人は車椅子を止め、絵を見上げる彼女の横顔をじっと見つめた。
「俺は、ずっと影から逃げようとしていた。でも、こうして君と歩いていると、
影の中にいることも、悪くないと思えるんだ。……変かな」
紬はゆっくりと彰人の方を向き、その白い指先で、
車椅子の肘掛けにある彰人の手に、触れるか触れないかの距離まで近づけた。
「変じゃありません。……私も、瀬戸さんの影の隣にいたいって、思いましたから」
美術館の静寂の中で、二人の想いが色彩となって溶け合っていく。
純愛という名の、名もなき名画が、今ここに描き始められようとしていた。
美術館を出ると、西に傾き始めた太陽が街を黄金色に染め上げていた。
二人は近くの公園へと向かい、池のほとりにあるベンチの傍に身を寄せた。
彰人は車椅子のブレーキをかけ、隣に座る紬の気配を間近に感じる。
冬の風が水面を揺らし、光の破片が彼女の横顔に乱反射していた。
「……これ、ずっと瀬戸さんに見せたかったんです」
紬は膝の上に置いたカバンから、一冊のスケッチブックを取り出した。
使い込まれた表紙の隅には、小さな絵の具の跡がいくつも残っている。
彼女は少しだけ緊張した面持ちで、そのページをゆっくりと捲った。
彰人は、思わず息を呑んでその紙面に釘付けになった。
そこに描かれていたのは、銀色の車輪を持つ騎士の物語だった。
深い森の中、騎士は傷ついた翼を持つ小鳥を、その背に乗せて走っている。
騎士の車輪は、泥にまみれ、影に覆われながらも、
どの宝石よりも気高く、静かな輝きを放ちながら地を進んでいた。
「……これは、俺のことなのか?」
彰人の問いに、紬は頬を赤らめながら、けれど誇らしげに頷いた。
「瀬戸さんがコンビニに来るたび、私はその音に勇気をもらっていたんです。
力強く地面を蹴る車輪の音が、私には、夜を切り拓く音楽に聞こえました。
だから、この騎士は瀬戸さんなんです。私の世界を救ってくれた人」
彰人は、自分の手が微かに震えるのを止めることができなかった。
自分が惨めだと思い、隠し続けてきた車椅子の回転音が、
この少女にとっては、物語を動かす希望の響きだったという事実。
胸の奥に溜まっていた暗い澱みが、彼女の言葉によって浄化されていく。
「……羽鳥さん、俺は、君に何を返せばいいんだろう」
彰人は、自分の手のひらを見つめ、それから彼女の瞳を真っ直ぐに見た。
「君が描いてくれた俺は、こんなに格好いい。……でも、現実の俺は、
段差一つで立ち止まってしまう、不自由な男だ」
紬はスケッチブックを閉じると、彰人の手に、そっと自分の手を重ねた。
柔らかな指先の熱が、冷え切ったグローブ越しに心臓まで伝わってくる。
「段差があったら、私が後ろから押します。……一緒に止まって、
一緒に綺麗な景色を見ればいいんです。不自由だなんて、言わないでください」
紬の瞳から、一筋の涙が零れ落ち、夕日に照らされて真珠のように光った。
「瀬戸さんが走るから、私も描けるんです。……私、瀬戸さんが好きです。
店員としてじゃなく、一人の……羽鳥紬として、あなたに惹かれています」
純粋すぎる告白が、冬の公園の静寂を震わせた。
彰人は、重い鎖から解き放たれたかのように、彼女の手を強く握り返した。
車椅子の銀色のフレームが、二人の影を繋ぐように、最後の残光を反射していた。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
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