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第二章:レジ越しの境界線(三)


 「触らないでくれ……」


 彰人の口から出たのは、鋭い拒絶の言葉だった。

 だが、その声はひどく掠れ、自分自身の無力さに震えている。

 床に散らばったバッグの中身。競技用のテーピングや、使い古したグローブ。

 一番見られたくない無防備な断片を、一番守りたい相手に晒してしまっている。


「……いいえ、離しません」


 紬の声は、驚くほど力強かった。

 彼女は彰人の濡れた掌を両手で包み込み、じっと彼を見上げた。

 その瞳には、憐れみなど微塵もなかった。

 ただ、嵐の中に一人で立っている仲間を見守るような、深い慈しみだけがあった。


「瀬戸さん、あなたはいつも、一人で戦おうとしすぎるんです」


 紬の体温が、雨に奪われていた彰人の感覚を、ゆっくりと呼び覚ましていく。

 彼女の制服の膝が、濡れたタイルで汚れていくのも構わず、

 彼女は彰人の車椅子のブレーキをしっかりと固定した。

 その献身的な動作に、彰人の強張っていた肩の力が、ふっと抜けた。


「……格好悪いだろ。こんなところで、無様に滑って……」


「格好悪くなんてありません。……私、知っています」


 紬は彰人の手からそっと離れ、床に落ちた荷物を一つずつ拾い集めた。

 そして、大切にバッグに戻しながら、誰にも聞こえないような小声で続けた。


「瀬戸さんの手のひらが、どれだけ努力で硬くなっているか。

その手が、どれだけ優しい影を描いているか。……私は、知っていますから」


 彰人は息を呑み、彼女の細い背中を見つめた。

 自分を支えているのは、車椅子のフレームではなく、

 彼女が向けてくれる、この混じり気のない言葉なのだと悟った。


「羽鳥さん……君は、どうしてそんなに優しいんだ」


 紬は荷物をすべて詰め終えると、ゆっくりと立ち上がり、

 少しだけいたずらっぽく、けれど切ない笑みを浮かべた。


「私も、瀬戸さんと同じだからです。……夜の光の中にいないと、

自分を保てない理由が、あるんです」


 彼女がなぜ、深夜のこの場所を選んで立っているのか。

 彼女が描く絵本の「影」が、なぜあんなにも切実な響きを持っていたのか。

 彰人は、初めて彼女という人間を、自分のコンプレックスの投影としてではなく、

 一人の、愛おしい表現者として理解したいと強く願った。


「……雨が止むまで、ここにいてもいいかな」


 彰人の問いに、紬は深く、優しく頷いた。


「はい。……コーヒー、淹れてきますね。今度は、冷めないうちに」


 レジへと戻っていく彼女の足取りは、どこか昨夜よりも確かなものに見えた。

 深夜の静かな店内で、二人は初めて、

 店員と客という境界線を、心の奥底で静かに踏み越えたのだった。




 カウンター越しに手渡された紙コップから、香ばしい湯気が立ち上る。

 彰人はそれを両手で包み込み、熱が指先の芯まで浸透していくのを待った。

 雨音は、店の外で厚いカーテンのように世界を隔絶している。

 広い店内には今、自分たち二人しか存在しないかのような、密やかな錯覚。


「……羽鳥さん。さっき、同じだって言ったのは、どういう意味?」


 彰人は、自らの心の渇きを問いに変えて投げかけた。

 紬はレジの縁を細い指先でなぞり、視線を遠い闇の向こうへと投げた。

 その横顔は、蛍光灯の白さに透けてしまいそうなほど繊細で、

 それでいて、消えない痛みを抱えた者が持つ、特有の静けさを帯びていた。


「私は、昼間の明るい世界が、少しだけ怖いんです」


 紬の声は、雨音に混じって静かに、けれど真っ直ぐに彰人の鼓動へ届いた。


「みんなが迷いのない足取りで、前だけを向いて歩いている場所。

そこでは、自分がどこにいるのか分からなくなってしまう。

でも、夜の底にあるこの場所は、誰もが寂しさを抱えて集まるから……」


 彼女はそこで言葉を切り、彰人の車椅子のホイールに落ちた水滴を見つめた。


「ここなら、私の描く物語も、誰かのための居場所になれる気がしたんです。

瀬戸さんの車椅子の音を聞いた時……あ、私と同じ響きだって、思いました」


 同じ、響き。

 彰人は、胸の奥で何かが静かに崩れ落ち、同時に再構成されるのを感じた。

 これまで「不自由」の象徴だと思っていた車輪の音が、

 彼女にとっては、魂の共鳴を知らせる旋律として響いていたのだ。


「……俺も、昼間は無理をして笑っているのかもしれないな」


 彰人は、初めて自分自身の孤独を、肯定的な言葉で表現した。

 彼女の前では、虚勢を張る必要も、憐れみを拒絶するために牙を剥く必要もない。

 ただ、濡れた肩を休める一羽の鳥のように、静かな時間を共有すればいいのだ。


「羽鳥さん。……この雨が上がったら、君の絵を見せてくれないか」


 勇気を振り絞った彰人の言葉に、紬は顔を上げ、潤んだ瞳を揺らした。


「私の絵を……本当に、見てくださるんですか?」


「ああ。……その代わり、俺の知っている場所へ、君を案内したい。

車椅子の俺が、君の隣にいてもいいなら」


 紬の唇が、震えるように小さな弧を描いた。

 それは今まで見たどの微笑みよりも深く、彰人の心を救い上げるものだった。


「……はい。瀬戸さんの隣が、一番安心できる場所ですから」


 約束は、コーヒーの熱が消え去る前に交わされた。

 降り続いていた雨が、わずかに小降りになり、雲の切れ間から星が覗く。

 コンビニの自動ドアの向こうには、まだ深い闇が広がっている。

 けれど今の二人にとって、その闇は決して恐れるべきものではなかった。







この作品はAI40%、筆者60%で書きました。

原案100%筆者。

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