表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/14

第二章:レジ越しの境界線(二)


 「……動き出すことは、できる」


 紬はその言葉を、壊れやすいガラス細工を扱うように、心の中で大切に反芻していた。

 彰人は、自分の内側をさらけ出した気恥ずかしさを隠すため、あえてぶっきらぼうに、

 膝の上のレジ袋を指先で手繰り寄せた。

 だが、その指先は、期待と緊張が入り混じったような微かな震えを帯びている。


「私、……昨日まで、自分の影が怖かったんです」


 紬がぽつりと、掠れた声で話し始めた。

 深夜の店内に、彼女の告白が静かな波紋を広げていく。

 レジの向こう側で、彼女は自分の肩を抱くように、少しだけ身を縮めた。

 その仕草は、暗闇の中で身を寄せ合う小鳥のように儚く、彰人の胸を締め付ける。


「うまく歩けないことや、周りに馴染めない自分を、ずっと隠したくて。

でも、瀬戸さんがコートを走る姿を……いえ、お話を聞いて」


 彼女は一度言葉を切り、今度は逃げずに彰人の瞳を真っ直ぐに見つめた。

 蛍光灯の白い光を反射するその瞳は、混じり気のない、純粋な意志を宿している。

 二人の間に横たわる、無機質なプラスチックのカウンターが、

 今は世界で最も尊い、告解の場所のように思えた。


「影があるから、光が形を持つ。……その言葉を、私の物語の真ん中に置きたいと

思いました。本当に、ありがとうございます」


 紬は深く、深く頭を下げた。

 それは客に対する型通りの礼ではなく、魂を震わせた一人の表現者への、敬意だった。

 彰人は、言葉にできない熱い塊が喉元まで突き上げるのを感じた。

 自分のような欠落した人間が、誰かの物語の光になれるなど、思いもしなかった。


「……お互い様だ。俺も、君の言葉に救われてる」


 絞り出すようにそう言い残し、彰人は車椅子を反転させた。

 店を出ると、冷たい夜風が火照った頬を撫でる。

 坂道を下る車輪の回転は、いつもより軽やかで、力強い。

 心の中に、消えることのない小さな灯火が宿ったことを、彼は確信していた。


 マンションに戻り、彰人は上着も脱がずにデスクに向かった。

 画面に映る、制作中のロゴ案。

 彼はそこに、今まで避けていた「優しさ」の色を、一筆ずつ乗せていく。

 それは彼女の瞳の色であり、夜の底で触れ合った、微かな希望の色でもあった。


 純愛なんて、今の自分には分不相応な重荷だと思っていた。

 誰かを守ることも、誰かに寄り添うことも、この身体では叶わないと決めつけていた。

 けれど、ただ言葉を交わし、互いの影を認め合うだけで、

 こんなにも世界が鮮やかに、呼吸をし始めるものなのか。


 翌週、彰人の勤めるデザイン事務所で、小さな奇跡が起きた。

 彼が提案した、新しい方向性のデザインが、クライアントに絶賛されたのだ。

 「影を知っているからこそ、光の温かさが伝わる」

 そんな評価を受けたとき、彰人の脳裏に真っ先に浮かんだのは、あのレジの光だった。


 報告したくて、たまらなかった。

 この喜びを、彼女にだけは、誰よりも先に伝えたかった。

 

 その夜、彰人はいつもより少しだけ背伸びをして、差し入れ用の高級な

 チョコレートを一つ選んだ。

 緊張で指先が冷たくなる。

 自動ドアをくぐる瞬間、彼は自分でも驚くほど、一人の男としての顔をしていた。


「いらっしゃいませ」


 紬の笑顔が、今夜は一段と輝いて見えた。


「瀬戸さん! ……あ、すみません、大きな声を」


 慌てて口を押さえる彼女の仕草が、彰人の心を激しく揺さぶる。

 互いの名前を呼び合い、視線を交わす。

 境界線は、確実に、そして静かに溶け始めていた。



「……これ、差し入れ。いつも、頑張っているから」


 彰人はぶっきらぼうに、けれど壊れ物を扱うような手つきで、チョコレートの小箱を

カウンターに置いた。

 紬は目を丸くし、自分の胸元に両手を添えて、信じられないというように箱を見つめた。

 深夜の静まり返った店内に、二人の吐息だけが、かすかな熱を持って混ざり合う。


「……ありがとうございます、瀬戸さん。私、こんな、……嬉しいです」


 紬が顔を上げると、その瞳は潤み、コンビニの蛍光灯を反射して宝石のように輝いた。

 彼女の指先が、箱の表面をそっとなぞる。

 その光景があまりに美しく、彰人は胸の奥が締め付けられるような感覚に陥った。

 ずっと、自分の人生には無縁だと思っていた、純粋な「幸福」の断片。


「……瀬戸さんのデザイン、きっとたくさんの人を温かくしているんでしょうね」


 紬が何気なく放った言葉が、彰人の心臓を強く叩く。

 自分でも驚くほどの勇気が湧き上がり、彼は喉元まで出かかった言葉を形にしようとした。

 このまま、彼女を夜の街へ連れ出したい。

 レジカウンターという物理的な壁を越えて、もっと近くで、彼女の声を聞きたい。


「あの、羽鳥さん。もし、良ければ……」


 誘いの言葉が唇を離れようとした、その時だった。

 ふと視線を下げた彰人の目に、カウンターの銀色に反射する自分の姿が映った。

 車椅子に深く腰掛けた、無骨な身体。

 動かない足を守るように太く頑丈なフレーム。


 その瞬間、熱を帯びていた彰人の思考が、一気に氷点下まで冷え込んだ。

 自分は、彼女を「エスコート」することすらできない。

 階段があれば立ち止まり、人混みがあれば彼女に道を切り拓かせてしまう。

 そんな自分が、彼女の隣に並ぶ資格などあるのだろうか。


 紬は、彰人の次の言葉を待つように、潤んだ瞳で彼をじっと見つめている。

 期待に満ちたその眼差しが、今の彰人には、耐え難いほど眩しく、そして痛かった。

 彼は握りしめたハンドリムに力を込め、白くなった関節を隠すように膝の上に置いた。


「……いや、なんでもない。遅くに、邪魔をしたな」


 絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。

 紬の表情が、一瞬で強張る。

 差し出された光を、自ら手放そうとしている自分の愚かさに絶望しながらも、

 彰人はこれ以上、彼女の純粋な世界を汚したくないという恐怖に支配されていた。


「瀬戸、さん……?」


 紬の戸惑うような声が、背中に刺さる。

 彰人は答えず、逃げるように車椅子を反転させた。

 自動ドアが開く。

 夜の冷気が、汗ばんだ背中を無慈悲に突き刺した。


 境界線を越えるための勇気は、自らのコンプレックスという重い鎖に繋がれていた。

 彰人は暗い夜道を、ただひたすらに、腕の筋肉が悲鳴を上げるまで漕ぎ続けた。

 背後に残してきた彼女の困った顔が、網膜に焼き付いて離れなかった。





 マンションの自室に戻った彰人は、明かりも点けずにベッドへと身体を投げ出した。

 闇の中で、激しく脈打つ鼓動だけが耳元で鳴り響いている。

 彼女に差し出したあのチョコレートは、今頃どうなっているだろうか。

 喜ばせた直後に、突き放すような態度を取った自分を、彼女は軽蔑したに違いない。


「……身の程知らずなんだよ、俺は」


 独り言が、冷えた室内の壁に虚しく吸い込まれていく。

 車椅子に乗っている自分を、彼女は一人の男として見ているわけではない。

 ただの「少し話の合う、気の毒な客」に過ぎないのだ。

 そんな歪んだ自意識が、せっかく芽生えた純粋な感情を、黒い絵具で塗り潰していく。


 それから数日、彰人はサンライト・マートを避けて通った。

 遠回りをして帰る道すがら、遠くに輝く看板の光を見るだけで、

 胸の奥が焼けるように痛んだ。

 仕事のデスクに向かっても、あれほど大切に描いた「影」のラインが、

 今はただ、自分の人生の暗部を象徴しているようにしか見えなかった。


 そして、冷たい雨が街を濡らす金曜日の深夜。

 彰人は、避けていたはずのその場所へ、磁石に引き寄せられるように立っていた。

 降り頻る雨が、車椅子のハンドリムを滑らせ、操作を困難にさせる。

 ずぶ濡れになった肩の冷たさに耐えかね、彼は吸い込まれるように店内へ入った。


 電子音が鳴り、温かい空気が彰人を包む。

 レジにいたのは、紬だった。

 彼女は彰人の姿を認めた瞬間、持っていたペンを床に落とした。

 数日間の空白が、二人の間に、レジカウンターよりも高い壁を作っていた。


「……瀬戸、さん」


 その声は、震えていた。

 怒っているのか、それとも悲しんでいるのか、彰人には判別がつかない。

 彼は何も言えず、タオルを持ってくることも忘れ、ただ滴り落ちる雨水を見つめた。

 惨めだった。こんな姿を見せたくて、ここに来たわけではないのに。


「……雨、ひどかったんですね。今、タオルを……」


「いいんだ。すぐに出る」


 彰人は遮るように言い、慌てて車椅子を回そうとした。

 だが、濡れたタイヤがタイルの床の上で空転し、バランスを崩した車体が、

 近くの陳列棚に鈍い音を立ててぶつかった。

 

「っ……!」


 膝からレジ袋が滑り落ち、バッグの中身が床に散らばる。

 情けなさに視界が熱くなる。

 助けを呼びたくない、誰にも触れられたくない。

 そう思って頑なに閉ざしていた彰人の心に、小さな、けれど温かな衝撃が走った。


「瀬戸さん、動かないで!」


 紬がレジを飛び出し、彰人の足元に膝をついた。

 彼女は濡れるのも厭わず、彰人の冷え切った手に、自分の温かい手を重ねた。

 コンビニの光の下で、二人の影が一つに重なり、

 雨音だけが、静まり返った店内に優しく響いていた。





この作品はAI40%、筆者60%で書きました。

原案100%筆者。

指摘や感想とか頂ければ励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ