第七章:夜明けのスケッチブック
会場を後にした二人の背中に、冷たい冬の夜気が容赦なく吹き付けた。
都心の喧騒を離れ、彰人は全速力で車椅子を漕ぎ、紬の手を引いて闇を駆ける。
背後からは、正蔵の放った追っ手の車のエンジン音が、怪物のように唸りを上げていた。
「……瀬戸さん、あっちです! あの公園の、一番高い場所へ!」
紬が指差したのは、かつて二人が出会った、あの思い出の公園だった。
急な坂道を、彰人は歯を食いしばって登り続ける。
動かないはずの足が熱く脈打ち、全身の筋肉が悲鳴を上げていた。
けれど、その痛みさえも、彼女を連れて自由を掴もうとする生の証に思えた。
丘の頂上に辿り着いた瞬間、追っ手の車のライトが、二人の影を長く地面に映し出した。
「……ここまでだ。紬、大人しく戻れ。それがお前の、最後の温情だぞ」
車から降りてきた正蔵の声が、凍てつく空気の中で鋭く響く。
彰人は、肩で荒い息をしながら、紬を自分の背中に庇うようにして車椅子を向けた。
「……羽鳥さん、怖くないか」
彰人が低く問いかけると、紬は彼の肩にそっと手を置き、静かに首を振った。
「いいえ。……あなたと一緒なら、暗闇も怖くありません」
紬は、カバンの中から一冊のスケッチブックを取り出し、正蔵に向かって掲げた。
そこには、今この瞬間の、雪が舞う中で対峙する三人の姿が描かれていた。
「お父様。……あなたは私に、完璧な白さを求め続けました」
「でも、私が欲しかったのは、この汚れを知る色彩だったんです」
紬の声は、冬の夜風を切り裂くほどに澄み渡り、正蔵の足を止めた。
「瀬戸さんの車輪が刻んだ轍は、私の心の中に、消えない虹を架けてくれました」
「私はもう、あなたの期待という名の籠には戻りません。……表現者として、生きます」
正蔵は、娘の瞳に宿る、自分ですら支配できない強い光に気圧され、立ち尽くした。
正蔵は、差し出されたスケッチブックのページを、凍りついたように見つめていた。
そこに描かれた線は、かつて彼が紬に強いた「正解」とは程遠い、歪で、激しいものだった。
だが、その一筆一筆には、彼がどれほどの財を積んでも手に入れられなかった体温が宿っている。
「……それが、お前の選んだ道か。泥にまみれ、車椅子に寄り添う、薄汚れた未来か」
正蔵の声は、もはや怒りではなく、どこか祈るような微かな震えを含んでいた。
「はい。……白く塗り潰された部屋にいるより、私はこの人と、嵐の中を歩きたい」
紬は彰人の肩に置いた手に、さらに力を込めた。
「お父様、さようなら。……今まで、私を私としてではなく、作品として愛してくれて、ありがとう」
その言葉は、正蔵の胸に、どの罵倒よりも深く冷たい刃となって突き刺さった。
彼は深く息を吐き、重い足取りで車へと戻り始めた。
側近たちが駆け寄るが、彼はそれを手で制し、一度も振り返ることなく闇の中へと消えた。
「……終わったんだね。羽鳥さん」
彰人は、張り詰めていた緊張が解け、激しく脈打つ胸を抑えながら呟いた。
「いいえ。……始まったんです。瀬戸さん」
紬は、彰人の隣に跪き、雪に濡れた彼の頬を、温かな掌でそっと包み込んだ。
その時、紺青の空の端から、一筋の鋭い黄金色の光が地平線を割り、差し込んできた。
朝陽は、丘の上に降り積もった雪を、一瞬にして千の宝石のように輝かせる。
二人の長い影が、真っ白なキャンバスのような雪原に、どこまでも真っ直ぐに伸びていった。
「見て、瀬戸さん。……私たちの轍が、光っています」
紬が指差した先には、彰人の車椅子が刻んできた、二本の深い軌跡があった。
それは単なる車輪の跡ではなく、困難を乗り越えた者だけが刻める、誇り高い道標だった。
「……綺麗だな。あんなに暗い夜を抜けてきたのに、こんなに眩しい」
彰人は、彼女の手を自分の手で包み込み、ゆっくりと深呼吸をした。
冷たくて清らかな朝の空気が、肺の隅々まで行き渡り、生きている実感を彼に与える。
「これからも、描いてくれるか。……俺が走る、この世界の続きを」
「もちろんです。……あなたの行く先には、いつも私が色を添えますから」
二人は、昇りゆく太陽に向かって、ゆっくりと、けれど確かな足取りで歩み始めた。
銀色の車輪が雪を噛む音が、静かな朝の公園に、新しい物語の序曲として響き渡る。
この作品はAI40%、筆者60%で書きました。
原案100%筆者。
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