第5話 学年末試験
「へぇ、一年でこれだけ戦えるやつがいるとはね」
塔屋の縁に腰かける銀髪の青年。
ゆるく前髪が揺れ、細い目が穏やかに笑っていた。
整った顔立ち。
気怠げな雰囲気。
だがその立ち姿には、見ただけで分かる圧倒的な均整があった。
俺はこの肉体の記憶をたぐる。
「白凪夜継」
この学園で彼の名を知らぬ者はいない。
学園冒険者ランキング一位。
三年Sクラス所属。
歴代でも指折りの天才。
すでに複数、有名ギルドからスカウト済み。
そのすべてが、目の前の青年の経歴だ。
塔屋から彼はひょいと飛び降り、ふわりと床に着地した。
本当に落ちただけだというのに、足音は微かにしか響かない。
「やあ、九十九穂高くん。さっきの戦い、全部見させてもらったよ」
銀の瞳が柔らかく細められる。
屋上には俺と黒田たちの魔力しか感じなかった。
腕のいい冒険者は自分の魔力を隠すこともできる。
しかし彼は学生だ。
まだ冒険者になってすらいない。
それなのに、もうそんな芸当ができるとは。
さすがはこの学園の頂点。
「君、普通の一年じゃないよね?」
「……どう返せばいいか分からないな」
質問の意図が分からない以上、俺はこう答える他なかった。
「うん、その反応なら十分さ。君の正体を聞くのは野暮ってものだしね」
まるで冗談のように軽く笑うのに、言葉の奥には探るような鋭さがあった。
そして次の瞬間、夜継の気配がふっと変わった。
「じゃあ、ちょっとだけ失礼」
言葉を終えるより早く、その姿が揺らいだ。
視界の端から、鋭い軌跡――。
頭の高さに、しなるような回し蹴りが迫る。
速い――っ!?
しかし俺には見える。
八雲として五十年修行を重ねた反応速度ならそれを捉えることはできる。
だが体がついてこない。
穂高の肉体が、その速度に対応できないのだ。
避けきれないならと、俺は咄嗟に前腕でガードを作った。
直撃すれば無傷じゃ済まない、と感じるほど洗練された夜継の魔力。
なんとか致命傷は避けたいところだが――
その刹那。
バチン、と空気が震えただけで衝撃は来なかった。
夜継の足は、俺の前腕に触れる寸前で完全に止まっていた。
「ほぉ……やるねぇ」
彼は楽しそうに口角を上げる。
「僕の蹴りに初見でガードを入れる一年なんて、まずいないよ。普通なら叩き込まれたことすら気づかないだろうに」
足を下ろしながら、彼はゆるく肩をすくめる。
「やっぱり君、相当強いじゃん」
賞賛してくれる夜継を前に、俺は自分の至らなさに少し心を痛めた。
先の戦いで黒田を圧倒したことで、俺は自分の強さに自惚れていたのだ。
五十年間の修行の成果が出て、浮かれていた。
しかし現実は違う。
視えるが、体が追い付かない。
「ねぇ、九十九くん。きっと僕ら、この先戦うことになるよ」
「……戦う?」
「ランキングバトル。参加する予定なんでしょ?」
その目は確信に満ちていた。
「君ほどの実力があって、参加しないわけないもんね。じゃ、さっさと上まであがってきてよ。上位メンバーの顔ぶれっていつも同じだからさ、ちょっと飽き飽きしてたんだよね〜」
夜継は屋上の出入口前、背中越しに片手を上げる。
「期待してるからね、九十九くん」
そのまま校舎へ戻っていった。
ランキングバトル――
これはこの学校の常設行事。
個人の強さをランキングで示すというもの。
ランキングを上げる方法は基本的に一つだけ。
演習場で行われる個人戦で勝つこと。
対戦相手は当人同士で決め、対戦日も演習場が空いてる日に行うことができる。
参加の可否は完全任意。
ランキングが高ければ高いほど、卒業後は有名ギルドにスカウトされたりするらしいので、参加しない手はないだろうが、穂高は参加してないようだ。
「……果たして、参加していいものなのか」
俺は九十九穂高じゃない。
八雲澄明だ。
この身体も借り物に過ぎない。
いつ穂高が目覚め、俺の意識が無くなるのかも分からない状態。
「やはり、やめておいたほうが……」
その瞬間、
グッと拳に力が入った。
それも無意識に。
そしてある穂高の記憶が流れ込む。
これは感情だ。
彼が冒険者になりたいと願う想い。
有名ギルドに入ってお金を稼いで、医者になりたいという妹の夢を叶えてやりたい。
今の九十九家は穂高の妹の二人だけ。
母は病気で亡くなり、父は借金を抱えたまま、どこかへ失踪した。
だから穂高がお金を稼ぐしかない。
冒険者学校を卒業し、立派な冒険者になる。
それだけじゃダメだ。
強くならないと、大金は稼げない。
そんな切実な想いが、俺の脳に入力された。
「……それがお前の意思なんだな、穂高」
勝手な解釈なのかもしれない。
だが彼の無念や雪辱は嫌というほど伝わった。
「ふっ、じゃあちょうどいいな」
俺はまだまだ修行の成果を試したい。
お前は家族のために、この世界で成り上がりたい。
「だから、今は安心して眠っていろ」
穂高が戻ってくるまで、この人生を任せてくれ。
俺がお前の分までぶちかましてやる。
そんな想いを胸に刻み込むべく、俺は無意識に手を合わせ、合掌していた。
瞑想の時に行う時、感謝を伝える時の所作。
なかなか癖は抜けないもんだな。
* * *
翌朝。
教室へ向かう廊下を俺は穏やかな気持ちで歩く。
覚悟が決まったからだ。
穂高として生きることの。
そして扉の前、ゆっくりと開くと――
「……ん?」
空気が違った。
いつもなら俺が視界に入るだけでひそひそ声や嘲笑が起きていた。
学年の中で最底辺のDクラス。
そして穂高はその中でもダントツで底の底。
唯一適性の属性がなく、魔力総量も一番低い。
そんな九十九穂高がクラスメイトから蔑まれるのは、昨日まで当然の環境だった。
だが今日は違う。
俺を見下すような視線が明らかに減った。
「お、おはよう、九十九」
「あ……あの、再試験の結果見たよ。すごかったね!」
「小数点までピッタリって……どうやって合わせたの? マジでビビったんだけど……!」
数人の男女が声をかけてくる。
それは今までの嘲りではなく、純粋な興味と驚きだった。
穂高の環境が、一夜で変わったな。
昨日までの地獄のような空気が、まるで嘘のように消えている。
人間とは実に分かりやすいものだ。
とはいえ全員が変わったわけじゃない。
「……いや、たまたまだろ」
「マジであんま調子乗んなよ」
半数ほどは冷酷な視線を向けてくる。
まぁ黒田やその取り巻きの視線が減っただけ、ずいぶん楽になったものだが。
「そういえばランキングバトルって、どうやって参加するんだっけ?」
ちょうどいい機会、声をかけてくれた一人の男子に問いかける。
穂高の記憶にその情報はなかった。
どうやら始めから参加するつもりなかったらしい。
「おっ、九十九も参加するのか?」
「……ああ。そのつもりだ」
「なら申し込み方法教えるよ。職員室に行けば申し込み用紙があって――」
コン、と教壇横のドアが開いた。
「席についてください。ホームルーム始めますよ」
春森先生だ。
「あ、やべ。じゃあ申し込みの話はまた後でな!」
男子は急いで席に戻る。
先生が前に立ち、タブレットを手にした。
「みなさん、おはようございます」
担任の春森先生は、いつものように穏やかに微笑んでいた。
柔らかい茶色の髪が揺れ、黒縁眼鏡の奥の優しい瞳が、教室全体を包み込むように見渡す。
怒鳴ることも、威圧することもない。
話すだけで、空気が自然と和らぐ――そんな教師だ。
「今日は、少し大事なお話があります。学期末試験についてですね」
教室がざわり、と小さく色めき立つ。
「今年の一年生は、通常の座学試験ではなく……鍛錬合宿を行うことになりました」
「え、合宿?」
「どこ行くんですか?」
春森先生は微笑みを崩さず、ゆっくり説明を続けた。
「学園が管理している育成島です。三泊四日で、魔力の基礎を鍛えながら生活してもらいます」
また教室がざわつく。
「育成島ってあれ、たしか街の外と同じくらい危険なんじゃないのか?」
「モンスターとか……出たりするんですよね?」
「その点は安心してください」
春森先生は、落ち着いた声で言葉を紡いだ。
「本来、街の外は魔素濃度が高く、モンスターが異次元から顕現しやすい場所です。皆さんも知っている通り、街が安全なのは魔素を制御する防壁があるからですね」
生徒たちがコクリと頷いた。
「育成島は、街と同じ仕組みで魔素濃度が調整されています。そのためモンスターは原則として出現しません。安心して鍛錬できますよ」
街と同じ安全圏の島……なるほどな。
俺は静かに聞き、興味を抱いた。
「島には、魔力測定器や身体能力の補助器材、基礎トレーニングルームなど、鍛錬に必要な設備が整っています。最終日に魔力量・魔力制御・生活適応力を測定しますので、試験はその総合評価になります」
春森先生は眼鏡に指を添え、優しく締めくくった。
「詳しいことはまた後日説明します。今のうちから、体調を整えておいてくださいね」
教室には、期待と緊張が混ざりあったざわめきが広がった。
「三泊も島で生活すんのかよ……」
「でもちょっと楽しみだな」
「生活適応が評価とか、俺島で暮らしたことないから心配なんだけど……」
ランキングバトルに学期末試験。
穂高の人生は、思った以上に鍛える機会に満ちているようだ。
いいだろう。
穂高の往く道を整えるためにも、できるだけ強くなっておくに越したことはないな。
と、俺は人知れず胸を弾ませるのだった。
しかしこの時の俺はまだ、あの島で起こる異変のことなど――知る由もなかった。




