第4話 VS黒田仁
屋上の風がざわりと音を立てる。
黒田仁が、一歩。
また一歩、俺との距離を詰めた。
「チッ……取り巻きがアレじゃ、締まらねぇな」
拳を握る音が聞こえた。
まずは殴る気らしい。
「お前が調子に乗ってる理由……殴りながらゆっくり聞いてやるよ」
黒田は地面を強く蹴り、一直線に踏み込んできた。
迷いがない。
速度も十分。
Dクラスが相手なら――いや、普通の一年なら圧倒されただろう。
だが粗い。
こちらへ向かって来る瞬間、肩に力が入りすぎている。
拳を握るタイミングが早すぎる。
踏み込み時、魔力の流れがバラついている。
全部、見える。
「おおおッ!」
突き出される右ストレート。
その瞬間、俺は半歩だけ横に退いた。
拳は空を切り、そのまま黒田の体勢がわずかに前のめりに崩れる。
「……は?」
黒田の眉が跳ねた。
すぐさま左の回し蹴り――だが、これも遅い。
俺は軽く腰をひねり、その足を紙一重で避ける。
そして次の瞬間、黒田の左脇へ触れるだけの掌底を打ち込んだ。
「ぐっ……!」
黒田の体がよろめく。
「黒田。勢いに任せて殴れば、俺に勝てると思っているだろう?」
「……ッ黙れよ」
「魔力を整えずに筋力だけで攻撃するのは、木の枝を振り回している子供と同じものだ」
黒田の表情が歪む。
「クソが……ッ」
もう一度、踏み込んでくる。
今度はフェイントを混ぜたジャブからのボディ。
さっきよりは工夫がある。
だが魔力が流れを乱している。
ジャブを、俺は掌で軽く弾いた。
同時にボディの軌道も――見えている。
「なっ……!?」
俺は黒田の拳が触れる寸前に、そっと肩へ指先を置いた。
魔力を点でぶつける。
それだけで黒田は大きく体勢を崩した。
「て、めぇ……今、何しやがっ……!」
「俺はただ触れただけだ」
黒田が歯を食いしばる。
「……調子に乗んなよ」
今度は低く、腹の底から出た声だ。
黒田の中で、何かが音を立てて切り替わったのが分かった。
顔つきが変わる。
攻撃が読まれたことに対しての怒り、そしてプライドが瓦礫のように崩れ落ちた音がした。
「オレが……お前ごときに、拳で負けるわけねぇだろうが!!」
黒田が体勢を落とし、魔力を拳へ無理やり流し込む。
皮膚の下で魔力のノイズがパチパチ音がする。
今までとは比べ物にならない速度で飛び込んできた。
だがそれでも、
俺は右足を半歩だけ下げ、重心を落とし、黒田の拳を指先で逸らす。
「っ……!」
そして胸元へ軽く拳を置いた。
そう、拳を――置いただけだ。
だが魔力を整えている俺の拳は黒田の体勢を根こそぎ奪う。
黒田は数歩、後ろへ跳ねるように下がった。
「なんで……なんでだよ……!?」
黒田が息を荒げ、目を見開く。
「殴り合いなら……オレの方が強いはずだろ……!?」
「強い弱いではない。魔力を扱う技術が違うだけだ」
黒田の顔が真っ赤に染まる。
「技術……? テメェ、このオレを見下してんのか……?」
「事実を述べただけだ」
「っっ……!」
黒田が血を吐きそうなほど奥歯を噛む。
「マジでなんなんだよ……お前」
風が止まった。
「昨日まで……いや、ついさっきまで……お前はオレらに殴られることしかできなかった。抵抗もできねぇ、情けねぇ弱虫だっただろうが!」
穂高の胸がぶるりと震えた。
器が覚えているのだ。
黒田から浴びせられた罵倒、拳、足の衝撃――その全部を。
俺は深く息を吸う。
黒田の怒声はまだ続く。
「なんでだよ……なんで強くなってんだよ!! どうしてオレより……上に立とうとしてんだよ!!」
「上に立つつもりはない」
俺は静かに返した。
「ただ、お前たちに殴られ続ける理由がない。それだけだ」
「ふざけんな!!」
黒田の怒りが爆発した。
「くそっ、くそっ、くそっ、くそっ、くそっ、くそがぁぁぁぁっ!!!!」
掌に炎が灯った。
屋上の空気が一気に熱を帯びる。
「殴ってダメなら……燃やすだけだ!!」
完全に正気を失っている。
「――ここでお前を、殺してやる!!」
炎がうねり、黒田の拳に集まる。
中庭の時の炎魔法とは桁が違う魔力量。
「上級炎魔法〈フレイムストーム〉」
掌の炎が暴風のように渦を巻く。
それは徐々に膨れ上がり、今や屋上の四分の一を占めるほどの大きさへと成長した。
熱気だけで肌が焼けそうなほど熱い。
屋上のフェンスも、あまりの高熱に変形し始めた。
「これはまだ完全に習得できてない魔法でな、当のオレにも制御が効かねぇんだが……」
黒田は口角を引き攣らせ、
「どうせ殺すなら、加減とかいらねぇよなぁぁ!!」
笑い声をあげる。
「仁さん、なんなんですかそれ……」
「こんなの、Sクラスの生徒でも止められねぇよ!」
取り巻きたちも意識を取り戻したようで、怯えた声を出している。
だが――それでも俺は微動だにしなかった。
穂高の器は怯えていたが、俺自身の心は至って静かだ。
「死ねや、九十九ォォッ!!」
放たれた特大の炎が目前に迫る。
その瞬間。
俺は手を一つ、軽く前にかざした。
「――凍れ」
青く澄んだ魔力が手のひらから溢れる。
熱が一瞬で冷気へ転じた。
黒田の炎は、俺に届く前に――
氷の結晶となり、音もなく砕け散った。
「……は?」
黒田の声が震えていた。
「な、なんで……炎が……凍んだ……?」
「どの属性も適性が無いからといって、魔法が発動できないと……誰が決めた?」
俺はそのまま言葉を続ける。
「属性の適性なんてもの、所詮は発動のしやすさを表しているに過ぎない。魔力消費量が少なく済んだり、威力が上がりやすかったりする程度のこと」
「だ、だけど……氷魔法なんて、特別な家系じゃないと使えなかったんじゃ……」
フェンスに背を預け、座り込んでいる取り巻きがそう呟く。
事実、その認識は間違っていない。
この世界の属性魔法の適性は、その多くが血筋に由来する。
そして基本五属性とは別に氷や光、闇などの〈希少属性〉を扱える家系も存在しており、
そんな彼らを、この世界ではこう呼んでいる。
特異血脈と。
だが俺にとっては火も氷も光も闇も大した違いはない。
結局どれも魔力から構築される、いち性質に過ぎないのだから。
「質の高い魔力は、性質を変えられる。ちょっとしたイメージとコツだよ」
「た、たまたまだ……偶然だ……!」
「偶然ではない。五十年、魔力の質だけを磨けば、この程度は容易い」
「五十年……何を……」
黒田は後ずさり、完全に恐怖の目になっていた。
俺は歩み寄る。
「強くなりたいのなら、魔力と向き合え。怒りに任せて振り回しても、何も掴めない」
「う、うるせぇんだよ、オレに指図すんじゃねぇ!!」
黒田はがむしゃらに突っ込んでくる。
「……仕方ない」
いくら説明したところで、ヤツが納得することはない。
それが今の戦いでよく分かった。
だったら――
「肉体に教え込むまでだ」
俺は右腕全体に魔力を纏った。
「うらぁぁぁっ!!!」
黒田が距離を詰め、拳を放つ。
相変わらず読みやすい攻撃だ。
「怒りに任せているうちは、本当の強さを得られないぞ」
俺は黒田の拳を難なく躱し、そのままさらに距離を詰める。
そしてボディに向けて、今の全力を叩き込んだ。
拳が腹部にめり込む瞬間――上腕背面から魔力を後方へ噴射させて、威力を増大させる。
「がっ……!?」
ガシャンッ――
黒田は熱により変形したフェンスにぶち当たった。
取り巻きが震える。
「じ、仁さんが一撃で……!」
「っざけ……んな……」
黒田は地面に崩れ落ち、意識を失った。
「なんだ、まだやるのか?」
そう聞くと、二人の反抗的な目はすぐに止んだ。
「い、いや……その、九十九……今まで、悪かった……」
「お、俺も……もう、手出しとかしねぇからさ……許してくれよ」
それどころか完全に腰が引け、怯え切ってしまった。
「……本当に悪いと思っているのなら、今後の行いで示すんだ。穂高に対してだけじゃない。共に励み、高みを目指す仲間を見下すような行為はもうやめるんだな」
この器の記憶では、彼らは穂高だけじゃなく自分たちよりも実力の劣る生徒に対しても、傲慢な態度で接していた。
「そんなことでは、ろくな冒険者になれないぞ」
「は、はい!」
「すみませんでした! 以後気をつけます!」
先ほどとは明らかに違う畏まった態度で、二人は何度も深く頭を下げる。
そして気を失っている黒田を両脇から抱え、この屋上を後にした。
爽やかな風が屋上を吹き抜ける。
それはまるで、九十九穂高の抱えていた問題の解決を祝福しているかのような優しさだった。
そして――
「五十年の修行には、ちゃんと意味があったんだな」
生涯を終えるまで続けてきた瞑想という修行に、本当の価値が生まれた瞬間でもあった。
そういえば師匠はこう言っていた。
『この修行は死んだ後にこそ、意味を成す。だから今は、ひたすらに鍛えるのだ』
初めは修行中の俺たちを鼓舞させるための励ましの言葉だと思っていたが、
もしかして師匠は、初めからこうなることが分かっていた?
死後、誰かの肉体に憑依することを前提に、この瞑想の修行を……?
――そんな思考の途中。
「へぇ、一年でこんだけ強いやつがいるとはねぇ」
屋上の奥、塔屋の上に立つ銀髪の男子生徒。
制服の袖の紋章が――金色に輝いていた。
この学園の頂点、Sクラスの印だ。
そして、制服の胸ポケットに刺繍されている緑色の校章。
「この学校の三年生、か」
彼は銀色の髪をなびかせながら、爽やかな笑みを見せるのだった。




