第10話 VS黒瀬
黒瀬が一歩前へ出た瞬間、洞窟の空気が沈んだような気がした。
魔力が重い。
地面がわずかに軋み、俺、九十九穂高の全身に何かが乗っかかったような感覚が走る。
さっき京介を引き寄せた引力に、この上から押しつぶされるような重み。
やはり重力魔法か。
魔法の基本五属性(火・水・風・土・雷)以外の特異属性――その中には重力のように、物理法則を直接ねじ曲げるようなものも存在している。
数にしてごくわずか。
希少というより――そもそも遺伝子的に刻まれていないと発現しない種類の魔法だ。
実際、こういう類のものは、俺でも真似できない。
厄介だな。
黒瀬が掌をわずかに傾ける。
「沈め」
言葉と同時に重力の線が俺を押し潰さんとして、俺の上から降り注ぐ。
重力の塊というより、細く収束された斬撃に近い。
触れれば確実に潰されるだろう。
――が。
俺はその線の起点と角度を読み、紙一重で横に体を滑らせた。
直後、俺がいた場所の地面がベコリと凹む。
黒瀬の眉がわずかに動いた。
「ほう……避けるか。俺の重力を」
「避けないと死ぬだろう」
「言うほど簡単なものではない。重力制御の発生角を読むなど、できる冒険者は一握りだ」
淡々とした声。
だが奥に小さな驚きを感じる。
重力魔法を使う冒険者など、穂高と澄明の記憶を足したとしても一切覚えがない。
あるとすればウワサ程度。
だが結局は魔法の範疇。
重力の発生場所には、微細ながらも魔力が揺れる。
それさえ分かれば避けられるというものだ。
重力線が次々に降り注ぐ中、俺は最小の動きで避けていく。
なんとか穂高の体でも対応できている。
これ自体は良いことなのだが、一つ大きな問題。
攻めに転じる余裕が全くないのである。
重力魔法の発生場が、全て俺の着地する前に形成されているのだから。
避けるだけで精一杯。
重圧による一方的な制圧といったところか。
さすが、戦い慣れているな。
「潰されるだけの弱者が。これ以上抵抗しても、時間の無駄だぞ」
重力が落ちる中、黒瀬が言葉を吐いた。
俺は静かに眉をひそめる。
「そうやって切り捨ててきたのか。仲間を」
「仲間? 勘違いするな。価値がある者だけが生き残る。それが理だ。京介のような無能に、生きのびる未来などない」
京介へ冷たい目が向く。
「利用されていることに気づきもしない忠義の犬。死んでも誰も困らん」
胸の奥で、静かに熱が沸く。
「……言ってくれるな」
「事実を述べているだけだ。弱い者は踏み潰される。それが世界の仕組みだ」
「いや、違うぞ。黒瀬」
俺は黒瀬を真っ直ぐに見据えた。
「少なくとも、京介はそう思ってなかった」
黒瀬の瞳が、ほんのわずかに揺れた。
「ボスを信じ、お前の背中に憧れていた。魔力の質を見れば分かる。あいつは真っ直ぐで、疑いを知らない奴だ」
重力の気配が微かに震えた。
「そんな純粋な奴を平気で踏みにじるお前たちの方が――よっぽど弱い」
「……貴様」
「本当に踏み潰されるべき人間は、果たしてどっちなんだろうな?」
黒瀬の殺意が膨れ上がる。
その瞬間。
「な……んで……」
背後で京介の声が震えた。
「なんで俺なんかのことを、そこまで……」
俺は振り返らずに言う。
「それがお前の正義だったんだろう」
「ッ……!」
「だったら、それでいい。悪いのは、お前の想いを利用した連中だ」
京介の呼吸が変わった気がした。
「九十九穂高、もう容赦はしない!」
掌がこちらへ向き、重力が弾ける。
俺はその線を見切り、滑るように避けた。
しかし黒瀬の攻撃はそれで終わらない。
次は左右から挟むように重力が迫ってきたのだ。
「……っ!?」
思わず前に飛び込む。
しかしその時、黒瀬は余裕の笑みを浮かべる。
「終わりだ――」
着地と同時に、次は上から重力が降ってきた。
「……っ!?」
リズムの異なる攻撃に俺はタイミングを崩された。
ズン、とのしかかる重みに全身が沈む。
くそ、避けきれなかった……。
膝が今にも割れそうだ。
息が、しづらい。
「さっさと潰れろ」
黒瀬がさらに魔力を込める。
「……っ!」
俺は体に全魔力を纏い、何とか踏ん張っている。
が、これも時間の問題。
いつまで穂高の体が保つものなのか。
それまでにここから抜け出さないといけないが、現状の方法はおそらくたった一つだけ。
黒瀬の魔力がブレた隙に抜け出す。
いくら強い冒険者とはいえ、重力魔法なんていうトンデモ魔法を同じ出力で発揮し続けるのは至難の技だろう。
つまり俺の魔力防御か黒瀬の魔力コントロールかの、力比べということ。
その時。
俺、黒瀬にとって予想外のことが起こる。
「うあぁぁああああッ!!!」
洞窟全体を揺らす怒号。
京介だ。
迷いも恐怖も完全に吹き飛んだ表情で――ただ黒瀬へ向かっていた。
「京介!?」
黒瀬が振り返るより早く、京介の拳が突き出された。
その魔力は弱々しい。
黒瀬にとって脅威にはならない。
まともな傷一つ付かないだろう。
だが――。
「ッ……!」
黒瀬が一瞬だけ目を見開いた。
ほんのわずかな、計算外。
重力制御の起点が、わずかにぶれた。
それは黒瀬にとって致命の隙だった。
京介の拳は、黒瀬の頬へ軽く当たっただけ。
まるで子どもの反抗のように弱く、小さい。
しかしその瞬間、黒瀬の内側から何かが軋んだ。
そして京介は血を流しながら、震える声で吠えた。
「使い捨ての駒として死ぬなんて……絶対に嫌だ!」
その言葉は、黒瀬の完璧な制御を揺さぶった。
上から降る重力の線が、ほんの一瞬だけ弛緩する。
「今だっ!」
俺は地を蹴り、重力の牢獄から抜け出した。
そのまま黒瀬へ迫っていく。
本来なら重力操作で動きを止められる場面。
しかし――
今の黒瀬には、発動の余裕がない。
魔力の流れがわずかに乱れているから。
「馬鹿が……! 貴様ごときが俺の重力を――!」
黒瀬が慌てて手をかざすが、すでに遅い。
「京介」
俺は声を飛ばす。
「よくやった」
京介の目が見開かれた。
その瞬間――
全身の魔力を一点に絞り、黒瀬の懐へ踏み込む。
黒瀬の重力線が俺の周囲を掠める。
だが止める力がない。
制御がわずかに乱れている。
通る――!
黒瀬の腹部が視界いっぱいに広がった。
「――これで終わりだ!」
拳に魔力を瞬間凝縮し、沈めるように放つ。
ガッ――
めり込む感触。
黒瀬の身体が後方へ大きくのけ反った。
重力の気配が、一瞬で霧散する。
洞窟の空気から、圧が消えた。
その光景を、京介は息を呑みながら目に収めていた。
黒瀬は腹を押さえ、ぐらりと膝を折る。
まだ倒れてはいない。
だが結んでいた糸が解けたかのように、今の黒瀬からは魔力をほとんど感じられない。
拳を引いた俺と黒瀬が、しばし睨み合う。
黒瀬の喉から、ひび割れた声が漏れた。
「……あり得ん……。なぜ……俺が……」
俺は口を開く。
「人の想いを軽んじ、踏みにじった結果だ」
京介の方へ目だけで示す。
「京介は、お前たちの道具ではない」
黒瀬の瞳が揺れる。
その揺れこそ、魔力の乱れ――敗北の証。
「く、そ……」
そのまま黒瀬の身体は、正面から地へ倒れ込むのだった。




