●08●マコに迫る危険。魔法物理学と耐爆チャンバー、死の密室。
●08●マコに迫る危険。魔法物理学と耐爆チャンバー、死の密室。
「え? 危険、キケン? デン、デン、デンジャラス?」
と、マコは一応驚いてあたりを見回す。“一応”というのは、このエロ爺い、もとい、エロ本、いや、モフモフ本グリモンの真面目な箴言など、頭から信じていないからだ。
そういえば、どこか大きな国の指導者で、言うことはたいていウソっぱちの出まかせだらけのクセに、それウソでしょうと指摘されると真っ赤になってマジ激怒するお爺さんがいたっけ……と思い出したので、“一応”信じているようなふりをしたにすぎない。だって、怒らせると怖いから。
なんといっても、今現在、危険のキすら、マコには感じられない。
窓の外の吹き抜け空間には、ガラス天井のせせらぎが作り出す天使の階段みたいな透過光がゆらゆらとたゆたい、モフモフ本のグリモン以外には怪獣っぽい書物など一冊の気配すらない平和感に包まれた、この静謐の魔書室……。
「ほら、危険どころか平穏そのもの、ほぼほぼ天国じゃない? 何も起こらないわよ。そうでしょグリモン」と短く説諭すると、マコはやわらかく微笑んで両手の指を組み、聖女っぽく祈りのポーズをつくる。アーチ型の骨材が優雅にクロスしたリブ・ヴォールト様式の天井を見上げて、厳かに宣うた。セーラー服の似合う文学少女を気取って。
「神は天にいまし、すべて世はこともなし。……God's in His heaven, All's right with the world!……曰く、アン・シャーリイ」
「それはロバート・ブラウニングだっちゅうの」とグリモンは訂正した。「マコはどこまで能天気なお花畑嬢ちゃんやねん、わてホンマに、よ言わんわ!」
モフモフ本のグリモンちゃんは本気で頭にきたみたい、本だから本気なのかな? なんて、つまらないことを考えながら、こくん、と首を横に傾けて「?」の意思表示をするマコに、グリモンは凄みたっぷりの声を浴びせた。
「あの三人の幽霊女史から、なにか聞いてへんだか? この魔書室でヤバい事態が発生したら、真っ先にどうしたらええんか」
マコは、アケボノ女史からバイト初日にあれこれ聞いていた注意事項の一つを思い出して言った。
「え? ええ、そうね。まあ、まずありえないけれど、もしも万が一、非常事態に陥ったら、部屋の両側にある、あのドアの向こうに逃げ込むこと。防御結界つきの、安全な避難ボックスになってるんだって」
「それ聞いて、なんか変に思わんかったんか?」
「変? そう、そうかなァ? あそこ、非常口ってことなんでしょ。ほら、扉の上に人が走って逃げるピクトグラムがついてるし」
「ほなことわかっとるわい!」顔が無いので感情を測りがたいが、グリモンはかなりイラついているようだ。「ええいもう、じれったいなァ、マコ、魔書室で危険な非常事態いうたら、決まっとるやろ!」
「そうそう」マコはさらに思い出した。「母が言ってた。この国で昔から危ないものは、“地震、雷、火事、親父”なんだって。地震は怖いけど、ここは雷と火事の心配はないし……あ」
マコはおもむろに、グリモンを指さして宣告した。
「エロおやじ」
「ちがわい!」とセクハラに関するコンプライアンス意識はゼロ以下のモフモフ本は両手足を振り回して地団太を踏むと、この無知蒙昧な魔女娘に正答を教えた。
「魔書室で起こりえる非常事態いうたら、“魔法災害”に決まっとるやないか。マコ、魔法とは何か、定義を述べてみい。こないな阿保娘でも、それくらいは言えるやろ」
成績不振に悩むこと四年目の魔女娘は、悲しい劣等感をグサリとえぐられて、心の傷口に塩を刷り込まれる気分で唇を噛んだが、すぐに答えた。それくらいは誰でも知っている。
「魔法って、“あの世”から“この世”へエネルギーを移動して、自在に制御する能力のことですよね!」
「そや、その通りや、ちゃんと知ってるやないか。で、“あの世”言うたらなんやねん?」
「神様が鎮座なさる神界、幽霊が棲む幽界、魔物が蠢く魔界。この“三霊界”のことです」
「“あの世”はどこにある?」
「私たちが生きている“この世”に重なって存在しているわ。“あの世”と“この世”、それぞれの世界を統一している“世界の固有振動”が微妙にズレているので、相互干渉しないんだって。……その、ええと、たとえばTVの放送電波が同じ三次元空間を伝わっていくのに、それぞれのチャンネルの周波数が異なるので混信しないようなものだと教わりました」
「おお、ちゃんと答えられるじゃんか。マックス・プランク宣わく“世の全ては振動である”ちゅうこっちゃ。要は、二つの世界がそれぞれ性質の異なる振動をしていて、そこに位相差が存在することで、互いに目に見えず触ることもできないまま、同じ空間の三次元宇宙に収まって、安全に共存しとるっちゅうわけや。マコ、阿保娘のおまはんでも、大事なところはわかってるやないか」
と、グリモンは褒めた。
褒められた気は全くしないけれど、「中学の魔法科で、みんな習っていますけど……」とマコは謙遜する。知っていることを自慢できない一般常識だ。
「まーええがな、ホンマもんの阿保ではないみたいやしな、一安心や。ほんでな、あんたら魔法使が魔法を使うには、“あの世”からエネルギーを“汲み下ろす”事ができんとあかん。その方法は何や?」
「脳内の魔法制御器官、第六感覚野の中に秘められた、霊的特異点を使います……ええと」
「うんうん、霊的特異点いうのは、“あの世”と“この世”の位相差を一致させることでつながる超自然のエネルギーパイプラインっちゅうか、水道の蛇口みたいな同調門のことやな」とグリモンが助け舟を出してくれたので、マコはご厚意に乗っかる。
「はい、そうなんです! そこから“あの世”のエネルギーをもらうんです。その容量とか機能に個人差はあるけれど、じつは人はみんな、霊的特異点を持っているんですね。でも神様のご意志によって、魔法使として選ばれた者だけが、そのエネルギーの蛇口を開けられるのだそうです」
「おお、そういうことや。そうやって“あの世”からエネルギーをジャバジャバかチョロチョロと“汲み降ろす”ことによって、“この世”のエネルギー保存則を“見かけ上”無視した形で魔法を駆使できるっちゅうことや。“見かけ上”いうのは、“この世”と“あの世”を合体した三次元宇宙全体の中では、エネルギーを右から左に移動しただけであって、総合的にはエネルギー保存則に反してはいないからやで」
「そうですね」とマコはうなずいた。「でもそれが、どうして魔法災害と関係があるんですか?」
今のところ、魔法物理学の基本のキをおさらいしただけだ。マコはもう慣れてきたけれど、グリモン爺さんは、何事につけやたらと前置きが長い。なにぶん四千歳、他人を待たせることに良心の呵責など感じなくなっているのだろう。
「せやな」
さすがにそろそろ本題に突入せねばならないと知ったらしく、グリモンはゆっくりと、噛んで含めるように解説した。
「この図書館の本棚に詰まっている魔書は、たいがいがニセモノや。ニセモノの魔書は、なんやかや言うてもただの本や。魔法に関することが書いてあるのは事実やし、内容もデタラメばっかりいうわけやない。至極まっとうなことが書いてある本も多い。せやけどしょせんはただの本、それ自体が魔法を引き起こす力は持ってへんわな」
そこで、エッヘンとふんぞり返ると。「せやけど、拙書みたいなモノホンの魔書は、本自体が魔法技術で編纂されとるんやで、つまり、本の中に、“あの世”から魔法の力を引き出してくる霊的特異点がバッチリと格納されとるんや。拙書は善の中の善、最高級なる良性の魔書やからどうってことはあらへんけど……これが、性根の悪いグレた魔書やったら、本の中の霊的特異点を伝わって、“あの世”の魔界から凶悪な魔物が招喚されてきて、ここで巨大化して怪獣になって暴れまくる……ことになりかねんのや!」
「か……怪獣!?」
カイジュー、いまや国際語になっているKAIJUとは、魔法界の自然災害を管轄している“鬼象庁”が認定する魔法災害のカテゴリーの一つである。ものによっては台風並みに脅威度が高い。要するに、“あの世”から“この世”に現れて、質量を獲得して巨大化し、いろいろと悪さをするモンスターのことである。
ちなみに、“気象庁”の名前で知られている役所は、世間の裏側に隠れた闇政庁である“鬼象庁”の氷山の一角をなす世間向けの外郭団体であって、天気予報や気象観測などは世を忍ぶ副業にすぎない。その最も大切な本業こそ“あの世”からやってくる“怪獣の出現予測とその対策”なのだ。
「ウソやない。マコが本物の悪魔書と出会ったら、その本のページから魔物が飛び出して怪獣化することも、現実にあり得るのや。だから……あのアケボノっちゅう幽霊女史は、マコにちゃんと教えたやろ、ヤバいときはあの非常口のドアの中へスタコラと逃げ込めと」
「た……確かにそうです」
アケボノ女史はサラサラと何でもなさそうに説明したので、マコは全然気にしていなかったが、思い返してみると、災害時に生存するために極めて重要な情報だった。
言われてみて初めて気づかされる。観光地の道端の立て札に、前回の津波では水面下になったことが警告され、高台への逃げ道が示されていても、誰も気にせず通り過ぎるのと同じだ。
「あのドアの中の小部屋には、テーマパークで上がって落ちるアトラクションの椅子みたいな座席が幾つか並んでいてな、そこに座るとヘルメットのでかい奴みたいな上半身ガードがかぶさって、直ちにお尻の下のロケットに点火、イージス艦のミサイルの垂直発射みたく上空に射出、高度千メートルあたりでパラ開いてフワフワ降りて来るんやけど、射出時に8Gかかるので、たぶん上下圧縮効果で身長がグイッと縮んで、お腹周りがちょいとデブるやろな、まあ覚悟しときや」
「ひえええええ」
マコは心底、怯えた。グリモンの言葉は脅しでなく、心からのアドバイスだと直感したからだ。
「嫌です、あたし、それって絶対に嫌です!」
「ほなこと言うても、怪獣に襲われて逃げるんやったら射出座席が一番や。それが国民的常識なんやで。まあ、ええとこ人間ミサイルなんやけどな」
「嫌です! 打ち上げられるのも怖いけど、身長が縮んで横幅が増えるのはもっと嫌です!」
レゴブロックの人形みたいにずんぐりむっくり化した自分を想像して、マコはゾッとした。成績も身長も、ウエストを除くスリーサイズも平均以下で“伸びない自分”にはうんざりしているのだ。
「いやほんで、魔法災害にはもう一つあるんや。こっちはもっとドでかくて恐ろしい。魔書に隠されていた霊的特異点の制御をしくじって、エネルギーの蛇口を壊してしもて、シュバーッと一斉開放してしまった場合やねん」
「……ど、どうなるというの?」
「知れたことよ、ドカンやがな。つまり霊的特異点の暴走現象。心霊科学では心霊暴走いうやつやな。マコがいる“この世”は三次元全宇宙の質量のたった5%しかないんやけど、“あの世”は正体不明の暗黒質量で27%、正体不明の暗黒エネルギーで68%を占めるっちゅうやないか。質量はエネルギーやで、エネルギーは質量やで。もう“あの世”の方が圧倒的に“エネ圧”がデカイんや! となると、霊的特異点の暴走現象で蛇口が壊れたら“あの世”から火山の噴火みたいにあふれ出してくる重光子っちゅう光粒子の変種、その物量が半端ないわな。そいつは“この世”に顕現したら重力子やヒッグス粒子と反応して質量を急激増幅するんやで、最悪の場合は超ミニミニなマイクロビッグバンや! ほんでEイコールMCの二乗やんか。そうなったら一瞬で、こんなちっぽけな部屋は消し飛ぶんやで!」
「そ、そんなこと、まさか本当に……」
「マコ、あたりをよう見てみい。部屋の三方に重なって並んでいる高さ六メートルの本棚の背中は高張力鋼の装甲板で裏打ちしたるけど、床には蝶番のジョイントで留めてあるだけなんや。せやから真ん中の作業机のあたりで魔法エネルギーの暴発が起こったら、三方の本棚は簡単にドミノ倒しになって、本を守りながら爆圧を天井へ逸らす。天井に向かった爆圧はアーチの凹みに当たって反射して、その衝撃の焦点はマコの後ろに並んでいる大窓に集中する。窓枠のフレームもジョイントで留めてあるだけやから、窓は外側に勝手に開く。何もかも押しつぶす爆圧は外の吹き抜けに出て、四階上の地上へ噴出するんや。アクリルガラスの天井は割れて、流れている水は滝のように落ちながら蒸発して、爆発の炎から気化熱を奪うことで、地上の延焼被害を和らげるんやけど……」
戦慄して凍り付くマコ。グリモンの説明に沿って室内を見回したら、確かに指摘されている通りだ。じわじわと背筋が震えてきた。
「もしも……そんなことになったら、あたしは……」
「非常口のドアに駆け込むことができるか、哀れ昇天して異世界転生か、五分五分やろな。もたもたしてたら、瞬殺で押し寄せる重光子のハンマーと空気の断熱圧縮で一口サイズの人肉コロッケにされちまうわ」そして不気味な声で結論づけた。「なあマコはんよ、この部屋はおまはんの背中の窓以外は、十メートル以上の分厚い鉄筋コンクリと戦艦並みの装甲板に囲まれとる。つまりこの魔書室は、まんま、爆発を内部に抑え込む“耐爆チャンバー”ってことなんやで。大爆発のドッカンが起こっても、図書館全体に被害を及ぼさへんように」
そしてグリモンはじっとりとマコを向くと、猫足で指さしながら告げた。
「そんとき、死ぬのはおまはん一人だけで済むようになってるっちゅうことや」