●07●モフモフとシャア様とグリモン。マコに迫る危険とは?
●07●モフモフとシャア様とグリモン。マコに迫る危険とは?
「きゃほきゃほきゃほほっ、なにしてまんねん!」
マコの“猫吸い”がくすぐったくて、笑い転げるモフモフの魔書。
構わずに深呼吸するマコ。
しかし天罰は、たちどころにやってきた。
「げほげほげほげほ、ゲゲボボーッ! グゲゲゲッ!」
煤煙に似た刺激性の微粒子を山ほど吸い込んで、盛大にむせて咳き込んだマコは椅子から飛び上がって悶えた。
「ゲホゲホッ、な、何なのよこれ、このゲゲボな、いがらっぽさって……」
「せやから嬢ちゃん、さっきから言うてましたやろ」と、ほくそ笑むモフモフ本。「わてが生まれたのはアバウト四千年の昔、欧亜大陸でも最初の文明国家、夏王朝の時代でっせ、そこで宮廷占いの結果の当たりはずれを記録して採点する、皇帝陛下直属の魔時年鑑として編纂されましたんや。陛下の肝いりで編んだ魔書やさかい、特別にサーベルタイガーの毛皮を表紙から裏表紙までぴっちり貼りつけてもろたんでしてな」
「だから……ゲホ、どうだっていうのよ! ゲホ……」
「ああ、前置きの自慢話が長ーなりましたな、堪忍やで。要点をまとめますとな、わては四千年の昔から、一度も風呂に入ってまへんねん」
それを最初に聞いていたら、“猫吸い”なんて絶対にしなかったであろう。
「ゲホゲホ……ということは、あなたの毛並みの中には……」
「さいでんねん」クックックッと笑いをこらえながら、モフモフ本は告白した。「欧亜大陸四千年のミレニアムな埃が、拙書の毛並みにどっちゃらめんこと蓄積しておりますのや。とりわけしつこい埃は有害微粒子のО157とかにゃ」
「それはPM2.5」と、マコは睨みつけて指摘した。
「あ……」食中毒の原因菌と勘違いしていたモフモフ本は、しばし沈黙を置くと、しらばくれて誤魔化した。口笛でケセラセラと唱えると、「認めたくないものだなァ……老獪さゆえのあやまちというものを」
「シャラップ!」マコは鬼の形相で怒鳴りつけた。「埃は本の大敵です! そういうことなら今からお風呂に入っていただきます! そちらの給湯室でお湯が出ますから! シンクにためてジャブジャブと」
「わっ!」心底からの恐怖に、モフモフ本の声が上擦った。「風呂だけは……風呂だけはやめてつかあさい! お願いやから!」
「何言ってんのよ、不潔にしてると虫が湧きます。もう、身体のあちこちが、かゆくてたまんないでしょ? 四千年に一回くらい、垢を落としたらいかがですか!」
「いやや、それだけはご勘弁や、堪忍どすえ! わての身体は最高級のニカワで貼りつけてまんねや。ニカワはな、文化財を守るデリケーーーートな接着剤でおます。早い話が、成分は天然のコラーゲンですがな。それをお湯につけたら、ニカワはゆるんでとろけて、わての表紙も裏表紙も、バラバラになってしまいまんねん! バラバラ殺人でんがな、ひとごろしーー!」
涙ながらの必死の訴えを感じたので、マコもさすがにほだされた。といっても、このまま埃まみれで放置したら、あれほどやってみたかった“猫吸い”が未来永劫、不可能になってしまう。
せっかくのモフモフ、虎縞の立派な毛並み……
よし、とマコは決意した。「ひっひっひっひ……」と意味ありげに笑いながら、クジャクの羽形の“軟風扇”を片手でパチンと閉じて握る。
それは弾力性抜群の、ポリカーボネートの張扇と化した。
「な……なにを……しはりまんねん……」
すっかりビビッたモフモフ本の脚の一本を押さえながら、マコはニッコリと微笑みを浮かべて凶器を振り上げた。
十数分後……
部屋にはもうもうと、“欧亜大陸四千年の埃”が煙幕のようにたなびいて、しかも渦を巻いていた。渦、というのは、室内の十数台の空気清浄機がフル稼働して気流のトルネードを作り出していたからだ。
ポリカーボネートのムチで全身くまなくビシバシと叩き込まれたモフモフ本は恐怖におののき、ぶるぶると震えてか細い泣き声を上げるばかりだ。
「お、鬼……」
ふふふふ……と、マコはうそぶきながら、このために着用していたマスクとゴーグルを外した。
「よおおっし! これで、欧亜大陸四千年の埃はあらかた叩き出してやったわ。それでは改めまして……猫吸いリベンジーーーっ!」
がば、とつややかな真っ白になったモフモフ本のお腹に顔面を密着!
十数秒後……
マコは黙って、自分の顔をモフモフのお腹から持ち上げた。
不思議な表情をしている。猫や馬が特別な臭いを嗅いだときに起こるフレーメン反応に似ている。
「嬢ちゃん、何をまた半分口開けてポケーっとしてまんねん。なんやビミョーな顔やなァ」
いぶかしむモフモフ本に、マコは醜く唇を曲げて、人生初の本格的“猫吸い”の結果を忌憚なくレポートした。食レポならぬ嗅ぎレポかと思いながら。
「加齢臭……あなたの皮膚にじっとりと浸み込んだ、四千歳の、くーっさい加齢臭……」
今度はモフモフ本が屈辱の怒りに燃える番だった。全身の毛を逆立てて、猫っぽい雄たけびを張り上げる。
「ふぎゃぎゃぎゃぎゃらーーっ」
魔書は爪を振り乱して、マコに襲い掛かった。
数分後……
「ひえええ、ごめんなさい御免なさい、あたしが悪かった、うかつな失言でした、お詫びしますっ」
マコはぺこぺこと謝っていた。
モフモフ本のくせに、本気で怒ると結構怖い。
そいつはテーブルの上で仁王立ちになって、たった今、マコの黒いエプロンの胸元をずたずたに引き裂いた前足の爪をひっこめると、その拳で白毛の胸板をどんどんと叩いて見せた。
もっさりとした毛の下は、意外とマッチョのようだ。
頭部がないので、何を考えているのか表情は読めないのだが、さすが四千歳の歴史的魔書だけのことはある、プライドはフジヤマよりも高いに違いない。
「男はオオカミ、魔書はケダモノなのね……」
両手で胸を押さえて縮こまるマコに、ついいましがたの凶暴さはどこへやら、モフモフ本はえっへんと胸を張って述べた。
「思い知ったか、こたびは拙書への侮辱を詫びたが故、エプロンの破損だけで勘弁してやるわ。せやけど二度と拙書をボケ爺い扱いしたら、へっへっへ……嬢ちゃんのセーラー服をボロンチョにしてブラ剥ぎ取って、精力絶倫のこの爪で乳首ツンツンしたろかいな」
「いやっ!」マコは鬼の形相でモフモフ本をにらみつけた。「何考えてんのよ、このエロ本! 助平、痴漢、変態! ド色魔! アブノーマルサイコパス!」
「へー」とあざ笑うモフモフ本。マコの胸をジロジロ見ながら「触ったら減るとでも言うんか?」
「減る!」
「減るほどあるか? 鉄板の絶壁のくせに」
「う……」
悔しいが反論を封じられたマコに、モフモフ本はわざとらしく勿体をつけて語る。
「ああ、赤壁の戦を思い出すなァ、もう千八百年の昔か、あんとき拙書は諸葛亮孔明の愛書やったンや。戦の勝敗予測は、拙書に記録された過去の予言の的中率から割り出しとったんやで」
「それが何か?」と、マコは素直に訊ねた。「しつこい自慢話は年寄りの証拠ですよ」
「ふん……一本取られたな。せやけど、ここで描写したいのは赤壁の絶景ぶりや、長江の壮大華麗な流れに洗われた、つるつるで垂直の、あんたの胸とクリソツの断崖絶壁!」
ボスン! と、マコのパンチがモフモフ本のお腹に命中していた。
「ぶつよ」
「ぶってから言うか!」モフモフはくねくねと身悶え……いや、“書悶え”して抗議した。「不意打ちは卑怯だ! 真珠湾だ、リメンバー・パールハーパー! あンとき拙書はイソロク・ヤマモトの愛書やったんやで! ヤマモトがまたとんでもないギャンブル好きで、拙書は教えてやったんや、一発目は勝つけど二発目は敗けるんやで! 三発目はもうなくて、その前にあんたは死ぬんやで! ……と」
「はいはい、またまた昔々の自慢話ですね。こんなにホラ吹きな魔書に出会ったのは初めてだわ」と、すっかりあきれたところで、マコは気が抜けた。「ま、いいか。四千歳の超々後期高齢者の魔書様なんだもん、口だけ痴漢気分でも、たいした悪さはできそうにないわ。それに……このモフモフぶりはいい感じだし」
猥談が唯一の趣味となったよぼよぼの認知症老人の介護をする心境で、マコはポーチから自分の櫛を出すと、モフモフ本の背中すなわち表紙の毛並みを優しく解きほぐし、梳いてやる。
小学生の頃は、ペットのトリマーさんに憧れた事もあった。でもトリミングのお相手が可愛いニャンコばかりとは限らない、猫でも犬でも、大型の品種になると怖いし、チンピラ的に意地の悪いペットもいるだろう。
ビビリな性格の自分では無理だとわかった。噛みつかれたら、きっと泣いてしまう。
「お……」と、突然に長い吐息のような語調に変わって、モフモフ本はごろりと、テーブルの上に転がってお腹を出した。「こっちもしとくれやす。……嬢ちゃん、その櫛、いい腕しとるやんけ。ああ……ええわ、こらええわ……」
齢十八の乙女の櫛で毛を解かされて、すっかり恍惚気分になった四千歳の古本。
こうなると、完全にマコの支配下に陥っている。
ま、これでいいか……と、マコは落ち着きを取り戻して思った。口が悪くてエロいけど、悪だくみをして恐ろしい事態を招く、邪な魔書ではないようね。それはわかる。直感的だけど、危険じゃないことは、わかるわ……
そこで、ふと気が付いた。
成り行きでこうなっちゃったけど、このモフモフさん、いったいなぜ、ここに?
「あのーモフモフさん」と、マコは話しかけた。「Youは何しに、ここへ出てきたの? そういえば、あなたのお名前、伺ってなかったわ」
「おお……それはそうじゃな」と、モフモフ本は櫛の快感に浸りながら答えた。「拙書の名前は長いのだ、寿限無寿限無……のパターンで唱えれば円周率に匹敵するほど、長いんやで」
「それは困ったわ。無限に長いお名前なのね」
「超短縮すると、四千年昔の夏王朝の皇帝の命により最初のページが編纂されて、表紙と背表紙と裏表紙をもらった時、宮廷の召使娘たちからリスペクトを込めてこう呼ばれておった。……“夏大人 《シャア・ ターレン》”とな」
「シャア・ターレン……それじゃ、シャア様!」
「そう呼ぶことを許しちゃろう」
すっかり上機嫌になったモフモフ本……シャア様に、マコは幸せそうに頭を差し出した。
「シャア様、それではわたくしの頭に肉球の手を置いて、こうおっしゃって下さいませ。……マコは賢いな……と」
「はァ?」シャア様は面食らった。「なにかのまじないか?」
「幸せを呼ぶおまじないです。マコは賢いな、とおっしゃったら、わたくしは“そういう言い方、嫌いじゃないですよ。子供っぽいけど、それが真実だもの”と返事しますから、さらにこう続けてくださいませ。……“それなら、気を抜こう。今日から私は、マコの命令にゴロニャンと甘える”と」
「何じゃそれは?」と、シャア様は素っ頓狂な反応を見せた。たちまち拒否ってくる。「あかんあかん、ほんなのムリムリ」
「ど、どうしてよ?」
いつの日か、ペットに赤毛の雄猫を迎えて、絶対に“シャア様”と名付けるつもりでいたアニメ好きの少女は、“赤毛の雄猫”なるものがこの世に存在するかどうかを疑う余裕もなく、ガックリと落胆しながら問い詰めた。
しかしシャア様の態度は冷たい。
「お前はアホや。アホな娘を賢いとは、よう言えまへんがな。わて正直者やさかい」
「ひ、ひどい~」
シャア様へのロマンティックな甘い幻想が打ち砕かれ、嘆くマコの頭に肉球の手を置いたまま、モフモフ本は告げた。
「マコと言うたな。そや、マコ、ドタバタしてすっかり忘れとったが、わてはおまはんにな……」
重要な話題を始める出鼻をくじくタイミングで、マコはモフモフ本を指さして宣告していた。
「グリモン!」
「はァ?」
何言うてまんねん、藪から棒に……と、思考がこんぐらかってフリーズするモフモフ本。
「今日からあなたはグリモンです。命名! 魔書室に出てきたから、グリモン!」
「ちょちょちょっと嬢ちゃん」モフモフ本のグリモンは、慌てて抗議した。「いくら何でもほないな名前、まるでケチ臭いチビた鉛筆みたいなチンケな怪獣やおまへんか、冗談はよし子ちゃんやで」
「グリモン!」
絶対権力の独裁者となって、マコは決めつけた。どこかの国の大統領みたい、と思ったけど、あたしのことを“アホ娘”呼ばわりする魔書を、シャア様とお呼びしてお仕えする義理も義務もないはずよ。
「わーった、わーった!」もう堪忍してや、グリモンで上等、ほんでよろしおま……と降参したグリモンは、言いそびれていた深刻な本題を述べた。
「マコ、おまはんは危険にさらされとるんや、知らんのやろ、ここは、大変なデンジャラスゾーンなんやで!」