●06●モフモフの尊大な魔書、登場。妖精語、そしてマコの愛玩。
●06●モフモフの尊大な魔書、登場。妖精語、そしてマコの愛玩。
ボロ雑巾を引き千切るかのような、か弱い乙女の悲鳴。
と同時に、ばむ! と、その怪物が目の前の作業テーブルに打ちつけられていた。
それを見てようやく、マコは背中に飛びついたそいつに、反射的に背負い投げを食らわせていたことを知った。
やっちまってから気がつくというパターンである。
それはビビリ魔女娘を自認するマコが、本能的な恐怖感のままに繰り出した早業であった。
だから技をかける気配は微塵もなく、全くの不意打ちとなった。
ということで、そいつは今、完敗状態で机の上にのびている。
それは魔書の一冊だった。
ただし、かなり風変わりな装丁の魔書だ。
表紙、背表紙、裏表紙とも、高級感あふれる革装である。
しかし普通のなめし革ではない。フサフサの毛皮だ。
本の内容を記した羊皮紙のページ部分以外は、立派な毛並みで覆われている。
毛足は長く、二十センチはありそうだ。
毛柄は俗にいう“茶トラ”で、背中と手足は茶色の濃淡による虎縞、ただし背負い投げされた結果、テーブルの上に伸びたそいつは白毛のお腹を丸出しにして、所謂“ヘソ天”の体勢だ。
すなわち、表紙は背中で、裏表紙がお腹、どちらも毛皮で、裏表紙の四隅から虎縞の猫足が生えているわけだ。
そいつは意識を取り戻したらしく、手足をばたつかせて、もがき始めた。
ふぎゃ、ふぎゃぎゃぎゃっ……と、哀れなうめき声をあげている。
「あ、ごめんね、痛かった? ごめんごめん、酷い事するつもりはなかったのよ、つい、びっくりしちゃって……ほら、あなただって、暗い夜道で後ろから黙って抱きつかれたら、痴漢だと思って投げちゃうでしょ?」
などと、相手の正体を確かめもせずに、ぺこぺこと頭を下げて言い訳してしまうマコであった。
机の上のそいつを見ると、背負い投げした結果、手前が前足だ。肉球があり、爪も出し入れしているので、たった今、マコの首筋を左右から挟んだのはこの前足。
ぴとっと冷たく感じられたのは、肉球の感触だったわけだ。背表紙には長いふさふさの尻尾が付随しているようだが、それはページの間に平たくはさまれていた。
大きさはB3サイズに近い、横35センチほど、縦に50センチほどで、厚みは十センチ以上はある。判型は高級な画集か図鑑といった印象だが、その厚みは魔法界で最も権威ある辞書“魔辞苑”の書籍版に匹敵する。
つまりこれって……何?
フカフカ、というか、モフモフの毛並みに包まれた……本? それとも頭無しのヤマネコ? 子トラ? 首しかないチェシャ猫がどこかに忘れてきた胴体部分?
しばし沈思したところで不可思議な驚愕が巻きあがり、マコは口走った。
「わっ、なになになにこれ! まるきしメークインじゃないの!」
「阿保! それ言うんやったらメインクーンやがな、頓智気娘、偉大なる賢者様をカレー用の芋扱いしよってからに。わての毛皮は由緒あるサーベルタイガーの大王様なんやで!」
「わっ、モフモフが喋った!」
一瞬、白目を剥いて仰天するマコ。
頭の中に響いて文字化されるその言葉は、なんとなく訛りの強い関西風に認識されたからだ。
両者のやりとりは肉声ではなく、妖精語だ。
俗にいう“妖精語”とは魔法語の一種で、成分は超音波。
人間の魔法使が喋る場合、普通に囁くように唇を動かすが、それは習慣的な動作であって、実際は、魔法使が覚醒させている脳内の特殊器官“第六感覚野”から高周波で発振し、同じく相手方の脳内の“第六感覚野”で、送られてきた超音波信号を受け取るというものだ。
要するに潜水艦が目標探知に使用するアクティブソナーとパッシブソナーの関係である。前者が発振、後者が受信。
しかも、耳で聞く声ではない。脳から脳へと直接に“概念”が超音波信号で伝わり、その“イメージ”が自分の脳の中で自分が理解できる言語に置き換わって(つまり自動翻訳されて)文字認識へと再構成される。
TV画面の音声ボリュームをゼロにして、字幕だけで視聴するような感じだ。
この妖精語は、魔法能力を取得した人間が、野を飛び回る妖精たちと偶然に出逢って、この方法で話をしたことに因む。
一九世紀の偉大なファンタジー作家チャールズ・ラトヴッジ・ドジソン氏は、一般にはルイス・キャロルの名で知られているが、初歩的な魔法の素養があり、ある黄金のような午後、爽やかな水辺の木陰で目撃した妖精たちと、気ままに雑談したという。
その会話の内容をヒントに、可愛がっていた少女アリス・リデルを主人公にしたファンタジー作品を着想したと伝えられる。
歴史上のエポックとしては、西暦1917年に、イリギス連合王国の片田舎の町コティングリーに住む二人の少女が、近所の妖精と仲良くなって、その証拠写真も撮影した……という驚くべき事案があげられる。明らかに、“この世”の人間と“あの世”からやってきた妖精が“妖精語”で通話した実例であり、当時、心霊科学の第一人者で、高名なミステリ作家でもあったサー・アーサー・コナン・ドイル氏が『コティングリー妖精事件』という報告書にまとめ上げている。
“あの世”とは、“この世”に重なるように存在している霊的な異界のことであり、“この世”の質量は全宇宙の全質量の5%に過ぎず、残りの95%の中に“あの世”の質量が含まれている……と、高校の地学でマコも習っていた。
“あの世”は、神様が鎮座される“神界”、幽霊や妖精たちが住む“幽界”、魔物がはびこる“魔界”の“三霊界”で構成されている。そして、“あの世”から“この世”に現れた神様、幽霊、魔物などと対話できるツールも“妖精語”というわけだ。
だから妖精語は、“あの世”の神界から顕現された神様や天使たちと人間が語り合う手段としても有効だ。
歴史上のスーパーヒロイン、ジャンヌ・ダルクは魔法使であり、幼いときに神様と出会い、妖精語でお告げを聞いたとされる。
また、西暦1917年の5月13日にポトルガル国のファティマに住む三人の少年少女が、“この世”に降臨した聖母アリマ様と語らい、一連の超自然現象をもたらした“ファティマの奇蹟”という事件においても、神様と人間の交信に妖精語が用いられたとされる。
妖精語を使うことができれば、妖精たちだけでなく、幽霊や魔物、あるいは神様といった“あの世”の存在に対しても、日常会話レベルならまず問題なく意思疎通ができるわけだ。
さらに、魔法使同士の母国語が異なっていても、超音波言語である“妖精語”を使えば、容易に意味が通じる。
魔法使にとって、妖精語は、とても便利な“世界/異世界共通言語”なのだ。
ただしこの“妖精語”という名称は、民間の俗称だ。
十九世紀以降の魔法言語学者が本格的に研究した結果、現在は学術的に正式な名称が与えられている。
“前バベル語……プレ・バベリッシュ”。
つまり妖精語の正体は、バベルの塔を建設する前に全人類が使っていた言語だ……というのである。
この“バベルの塔”という建造物の正体は何だったのか?
二十一世紀の今、それは科学の粋を集めた“軌道エレベータ”だったのではないか? と論じる魔法物理学者もいる。
ともあれ、はるか太古の昔、神々の世界に届けとばかりに巨大超高層タワー“バベルの塔”を建設した人類は、喋る言語が一種類に統一されていて、全世界の人々が、同じ言葉でスムーズに意思を通じ合えたとされる。
結局、バベルの塔の建設事業は神々の怒りを買って破綻させられ、建築途中の塔は粉々に砕け散った。そして人類は便利な共通言語を使うことを神々によって禁じられ、世界各地に散らばっていって、それぞれの地域で別々の言葉を喋るようになったという。
そこで、魔法言語学者たちは、一つの仮説を立てるに至った。
前バベルの時代、人類はだれもが魔法を使うことができたのだ。
だから、魔法の言語である“妖精語”、専門用語では“前バベル語”と名付けられた超音波言語で、人類全員が正確に意思を通じ合わせていた。
そして、魔法力を駆使して、とてつもなく大量の建築資材を組み上げ、“バベルの塔”を実際に建設することができたのだ。
しかし何らかの理由で、神様たちはバベルの塔を破壊することにし、わずかな例外を除いて、人類が魔法の能力を発揮しないように、魔法遺伝子の機能をブロックしてしまった。
そして千年万年だかわからない、膨大なときが過ぎて……
魔法遺伝子の発現を許されて魔法使となり、妖精語……学術的な名称は“前バベル語”……を使うことができる者は、数千人に一人……に、限られている。
……以上のことを、マコも魔法塾や学校の授業で習っていた。
今、このモフモフの百科事典みたいな怪生物は、魔法使が喋るのと同じ妖精語で、マコに話しかけてきた。
ただし、友好的というよりは高圧的な語り口で。
「あたりまえや、わてかて、いっちょまえの偉大なる賢人の魂が宿った魔書の中の魔書なんやで。なめたらあかんぜよ。欧亜大陸四千年の栄枯盛衰を右に左にと振り回した、いわくつきの名予言と、その結果の当たりはずれを判定する評価書である拙者……いや正確には“拙書”の歴史的功績の前に、おまはんみたいな阿保娘は、ははーっまいりましたと這いつくばって額づくがよろしおす!」
マコはカチンときた。うら若き乙女を背後から襲っておきながら、何を偉そうに……である。
「威張るな猫足本! 変な格好してるけど、しょせんただの古本じゃないの! あたしにチカンするつもりで背中に乗ってきたのなら、あなたはもっとキモいエロ本ってことなのよ!」
言い返しつつ、マコは両手でモフモフ本の二本の後ろ足をギュッと捕まえた。
こいつが危険なエロ怪獣なら、逃がすわけにはいかない。
見たところ、頭部が無いだけの野良猫だ。うっかり手を離して逃がそうものなら、パニクって部屋中を所狭しと跳び回り、只今、ペラリ、ビビビ、ウィーン……と、のどかに虫干しの作業を続けている自動除虫器たちにぶつかり踏みつけて壊しまくり、虫干し中の魔書を爪で引っ搔いて紙屑の山に変えてしまうかもしれないわ……
と、ビビりながら考えた言葉が、頭の中の“第六感覚野”で妖精語の超音波信号に変換されて、一部を発振してしまったようだ。
そいつは慌てて弁明した。
「ダダダダイジョーブ、わてはほんなイヤラしいエロ本やおまへん。心配せんときや、嬢ちゃん、わてはこれでも知的な書物なんやで。誓って野蛮なニャンコちゃいまんねん。これでも欧亜大陸四千年の昔、時の初代皇帝の寵愛を受けてサーベルタイガーの毛皮で装丁してもろた、高貴なる魔書なんやから、この期に及んで無作法なジタバタはせーへんがな、まあ信用してけつかれ」
「信用していいの?」
ついつい真に受けてしまう自分自身に不信感を抱きながら、慎重に確認するマコ。
「ドンマイドンマイ、わてはウソつかへん。逃げも隠れもしまへんがな、せやから信用してちょんまげ」
「その軽薄な文法が、詐欺っぽい~!」
芸能事務所のスカウトかと思ったら風俗嬢の勧誘だった……みたいな、自分で自分が嫌になる騙されパターンを想像して、警戒感のバリアを張り巡らす、齢十八の清く正しい乙女であった。
どうしたものか……と困惑しながらも、ふと、両手でつかんでいるモフモフな後ろ足の感触に、ペット飼育禁止の団地で暮らしてきたマコがこれまで体験したことのない、たまらない心地よさをチラッと予感してしまったのがいけなかった。
そやつの、毛並み豊かなモフモフ感と、その下の皮膚のプニプニ感、ほどよい体温のヌクヌク感があいまって、マコの女性本能的な愛玩感情の琴線をバチンと弾いてしまったのである。
人生初の、ぬいぐるみではない、生きとし生けるリアル・モフモフとのスキンシップ!
「ふふふふ……」
怪しく、マコは笑った。幼少のみぎりから、いつかやってみたいと憧れていた行為を試す時が来たのだ。
これぞ千載一遇のチャーンス!
「な、なんやねん……」
明らかに怯えてたじろいだモフモフ本のふさふさの白いお腹のホンワカな世界に一気に顔を埋めながら、マコは叫んでいた。
「猫吸いーっ!!」