●01●落第した魔女娘と愛情弁当と巨大な本棚。
第一章 魔時年鑑でトキカケっ!
●01●落第した魔女娘と愛情弁当と巨大な本棚。
「ヒぎゃぁぁぁぁぁぁぁっ!」
絹を裂くような乙女の悲鳴。
……ンなわけないよなあ、いいとこ、綿の雑巾を引き千切るような絶叫か。
と、悲鳴の主である少女マコは、自虐的自己認識のもと、両目をふさいでいた手を離すや、立った今開けた弁当箱の蓋をサッと戻して、閉じていた目を開ける。
広々としたマホガニーの机の上に、大きめの竹製曲げわっぱの弁当箱が、ひとつ。
十八歳の少女の昼食を収めるにはいささか高級品だが、その蓋の真ん中には、このように墨書した護符が貼ってあった。
“冷暗室”
なんとなく不吉な語感ではあるものの、護符の素材がチベットの某寺院でなめされた羊皮紙であるため、誠に霊験あらたか、霊能御利益のスペックは最高級である。魔法界における“護符”の世界最強ブランドは、チベット製と決まっているのだ。
そのためこの弁当箱の内部は常に、格納した食材に最も適した低温に保たれ、一週間ほどは味も栄養も劣化する心配がない。
五月も連休が終わったこの時期、大切な一人娘に食中毒の腹地獄を体験させてはなるまいと、母が愛を込めて作ったお弁当に冷蔵機能の護符を貼ってくれているのは、ありがたき幸せなのだが……
「母、母、どうしていつもこうなのよ、キャラ弁ってのは、可愛くなくちゃキャラ弁じゃないの!……」
悲嘆のあまり涙ぐんでグスンと鼻を鳴らし、額に噴き出した冷や汗をハンカチで拭ったところに……
♪ピロロロピロロン、ピロピロロンピロロンロン……と、スマートフォンが鳴った。冒頭のヨーデルを省略した、アルプスの少女のテーマ曲である。
母であった。ちゃんと食べたかチェックしてくる。
「どう? マコちゃん、本日のメーンイベント! 母のラブラブランチボックスのお味はいかが?」
知るかクソッ! と顔をゆがめる魔法少女。
「本日のお題は何なのよ?」と、いまいましげな舌打ちを隠して聞く。
「ご覧のとおり、“解体新書”。魔法科の高校三年なら必須の教材でしょ。今回は腸胃篇図をお手本にした人体内蔵模型よ。よく見て味わってね、内臓は重なっているから、裏側に何があるのか知らないと、また試験に落ちるわよ。ちなみに腎臓はそら豆で表現しました……」
プチッ。
一方的に接続を切ると、はァァァァァァァァっと長い溜息をついて、マコはうなだれる。
ママンの声は美声である、暇なときにはアルバイトで一流葬儀会社のナレーター嬢を務めるほどだが、ヤなのは電話で喋るときに背後から聞こえるBGMがショパンの葬送行進曲であることだ。
母によると、天才ピアニスト、ディヌ・リパッティ氏の幽霊が自らの葬儀に奏でたという、超貴重な神演奏のはずなのだが……
新緑萌える、うららかな春のランチタイムを彩るには、やはり不気味すぎる。
にしても、ここで食べるべきか食べざるべきか……
弁当箱の蓋に手を置いて、マコはしょんぼりと思案する。
目を閉じたまま蓋を開け、お箸で中身の原形をとどめぬほどグチャグチャにかき混ぜれば、この視覚的恐怖から逃れられるかもしれない。
先々週は“フランケンシュタインの怪物のデスマスク”なるものが曲げわっぱの全体を使って表現されてあった。本体は高級ブランド米のナナヒカリを使用した美味な五目炒飯で目鼻口といった顔面を造形、その上に黒海苔や紫蘇で髪の毛や青ざめた死相を演出している。首の左右のボルトはシイタケの軸を使い、剝き出しになった白目はウズラ卵でできていた。
先週は一段と手の込んだ作品で、そこには古代エジプトのファラオのミイラに被せる“黄金マスク”が見事に造形されていた。
黄金の部分は、宇宙食風に半乾き状態に炒めたラーメンに砂金に見まごうばかりの高級すり胡麻をまぶしており、ラピスラズリの青いストライプは、茄子漬けの青い皮の部分をテープ状にスライスしたものである。
しかもご丁寧に、黄金マスクの下にはミイラ本体が潜んでいて、きしめんの包帯を巻いた内側は、五目炒飯にくるまれたクリームコロッケであった。ご遺体をミイラに加工する過程をミスってしまい、部分的にトロリと腐敗した状態を表現したとのことである。
このときの母の電話によると、作品のお題は“半乾式ツタンラーメン”で、会心の傑作だそうだ。
いや、確かに、食えるし美味い。母の料理の腕は確かで、お味は申し分ない。
しかしビジュアルはどう見ても、常識的なキャラ弁の域を異次元的に逸脱していることは明らかで……
名付けて、“デスキャラ弁当”。
マコの純真な乙女心をパニックに陥れる、この刺激的なビジュアルを回避する手段は、“目を閉じたまま箸でかき混ぜて、細密な写実画をピカソな抽象芸術に変えてしまう”ことに尽きるのであり、今まではそうやってきたのだが……
今度のデスキャラ弁は、そうはいかない。
さっき一瞬だけ蓋を開けたときにチラッと見えたのは、ケチャップ増し増しのスパゲティナポリタンが血糊も鮮やかにのたうつ小腸と、その周りを巡るアスパラガス製の大腸!
しかも、この上なくリアルな盛り付け。
まずいまずい、これをかき混ぜるとどうなるのか。
ブルドーザーか戦車の下敷きにされた轢死体の惨状ではありませんか!
それを直視して箸でつまみ上げることが、このか弱いあたしにできましょうか?
ムリ、ムリムリムリムリ……
あまりのジレンマにマコはショートカットの頭を抱え、机に突っ伏した。
五月の土曜日の穏やかな昼、漆黒のセーラー服に深紅のスカーフをあしらった多摩玉……これは世間向けの表記であり、本当は多魔魂と書く……学園高校魔法科の制服もしめやかな腹ペコ魔女娘を苦しめるデスキャラ弁当は、しかし決して母の意地悪ではない。
ましてや育児ネグレクトみたいな常軌を逸した感情の産物では絶対にありえない。
その真逆、深い愛情ゆえのデスキャラなのだ。
それというのも、多摩玉学園はこの国の魔法界では著名な進学校として誉れ高い中高一貫校であり、マコも中学の頃はそこそこ上位の成績で母に褒められていたのだ。
しかし高校へエスカレータ入学してから、没落の日々が始まった。
周りのみんなに、ついていけない。
魔法科では、国語、数学、英語などの一般教養科目は普通科と変わらないが、それ以外の芸術、技術、体育などが魔法科目に置き換わっている。
それら学業全般で、スコアが低下したのだ。
落ちこぼれ一途の学園生活。
最大の難物は、高校の魔法科では実技が急激に高度化することだ。
飛行箒のアクロバット飛行、詠唱呪文を複数組み合わせた魔法物理力の招喚術、格闘戦闘術、物体の高速移動、動物などへの憑依術、妖精語を高度化した精神感応伝達、そして、治癒魔法の基礎となる医学と生理学、魔法使いや魔女には基本的技能となる解剖学と薬品調合術……。
この解剖学と薬品調合術で、マコは決定的に躓いた。
授業のたびに視覚性ショックで卒倒し失神して、校医からマムシエキスの気付け薬を処方してもらったのが十回二十回……
ついに落第が決まって、三年生をもう一年続ける羽目になったとき、マコは母の前で号泣して訴えたのだった。
「ふええええん、あたし、ガマガエルの干物を股裂きして鍋に放り込んだり、生きてるマンドラゴラを押さえて千切りにしたり、フリーズドライの吸血コウモリをチンして湯煎して戻して生き血を絞るなんて……とても、できません……」
要するにマコは、一人前の魔女になるには、「ビビリ」だったのだ。
ビビリの克服。
これが、二度目の高三の五月を迎えたマコの、当面最大の課題なのだ。
「大人の魔女になるためには、エロティックとグロテスクの経験がつきもの。マコの年齢だとエロはまだ深入りしてはいけませんが、グロは慣れることで克服できるわ、少しずつ訓練しましょうね」
母はそう言って励ましてくれた。
そのことには感謝している。
しかしその手段のひとつが、母が腕によりをかけた、超リアルなデスキャラ弁当なのであった。
「屍体を腑分けして魔法調剤に役立つ部位を採取する実習に耐えるには、まず、見た目の恐さに慣れることよ。お弁当って、そもそも植物や動物の屍体を詰め合わせた棺桶なのだから、その現実を眺めて、冷静に食することで、グロさを心理的に乗り越えることができるようになるはずよ、ファイト! マコ!」
そんな、明るい声で背中を押される。
そうよ、慣れるのよ!
グロいものでも直視する、手に取る、切り刻んで鍋に入れることができる……そうなるためには、とにかく慣れるしかなく、慣れなければ、この国の魔法界で最高峰の東王大学魔法学部は全然無理! ……としても、私立でずーーーーっと格下の三流大学ならば、何とかして滑り込めないかしら……と、半泣き気分で悩むマコであった。
にしても、マコが通う多摩玉学園高校にはカフェテリアや売店が完備されていて、平日はもっぱら、ごくごく普通のコロッケパンや焼きそばパンやサラダパンを買って屋上のベンチで食べている。
母のデスキャラ弁当に対面するのは週一回、土曜日のバイト先の昼食タイムに限られているのが、せめてもの救いだ。
そう、ここはバイト先。
窓を背にしたマコの正面も左右も、高さ六メートルあまりの巨大本棚に囲まれている。本棚はその奥に何十列にもわたって続いている。
ここは国立黒界図書館。
地下四階を占める魔書室なのだ。