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【タイムスリップバロック音楽短編小説】時を紡ぐ音色 〜バロック音楽と少女の冒険〜

作者: 霧崎薫

## 第1章 不思議な古時計


 春の陽光が差し込む教室で、月島ひかりは音楽の授業を受けていた。先生はバロック音楽についての説明を始めていたが、周りの生徒たちの反応は様々だった。


「バロック音楽は1600年から1750年頃までの約150年間、ヨーロッパで栄えた音楽のことです。皆さんもよく知っているバッハやヘンデルなどの作曲家が活躍した時代です」


 ひかりはノートに熱心にメモを取っていた。中学2年生になって間もない彼女は、音楽部でヴァイオリンを担当している。弾き始めたのは小学校からだが、どちらかというと上達が早い方ではない。それでも音楽が好きで、特に古典音楽に興味を持っていた。


「先生! バロック音楽って、なんであんなに難しいんですか?」クラスメイトの一人が質問した。


「難しいと感じるのはなぜかな?」先生は優しく笑った。


「なんか、古くさいというか……聴いててワクワクしないというか」


 クラスの中で笑いが起こる。ひかりは少し残念に思った。彼女にとって、バロック音楽は不思議と心に響くものがあったのだ。特にヴィヴァルディの「四季」は何度聴いても飽きないお気に入りだった。


 そんなことを考えていると、先生が丁度ヴィヴァルディの話を始めていた。


「アントニオ・ヴィヴァルディは『四季』という有名な協奏曲を作曲しました。自然の様子や人々の暮らしを音楽で表現した作品で、今でもとても人気があります」


 先生はそう言いながら、教室のスピーカーから「春」の第一楽章を流し始めた。軽やかなヴァイオリンの音色が教室に広がる。ひかりは目を閉じて音に耳を傾けた。春の訪れを告げる小鳥のさえずりを表現したヴァイオリンの旋律。彼女は音楽とともに春の草原に立っているような感覚になった。


 授業の後、ひかりは放課後に音楽室で一人練習することにした。バロック音楽の話を聞いて、自分でも挑戦してみたくなったのだ。ヴィヴァルディの「春」。難しいけれど、少しだけ練習してみよう——。


 夕暮れが近づいていた。音楽室の窓から差し込む夕日が、部屋を温かいオレンジ色に染めている。練習を終えたひかりは、楽器をケースにしまいながら、ふと音楽室の隅に置かれた古い棚に目が留まった。


 以前はなかった棚だ。古びた木製の棚には、埃をかぶった古い楽譜や本が並んでいる。好奇心に駆られたひかりは、棚の前に立ち、一冊の分厚い本を手に取った。


「バロック音楽全集……」


 本のタイトルを読み上げると、中から一枚の紙が滑り落ちた。拾い上げてみると、それは古びた羊皮紙のようなもので、奇妙な記号と五線譜が描かれていた。


「これは何だろう?」


 ひかりがその紙をじっと見つめていると、棚の奥から何かが光るのが見えた。手を伸ばして取り出してみると、それは古い懐中時計だった。金色の装飾が施された美しい時計で、不思議なことに針が逆回りに動いている。


「変な時計……」


 ひかりが時計の蓋を開けると、中からかすかな音楽が流れ始めた。それはバッハの「G線上のアリア」のメロディー。心地よい音色にうっとりしていると、突然時計が強く光り始めた。


「え? なに!?」


 まぶしい光に目を細めるひかり。体が浮いているような感覚と同時に、めまいがして意識が遠のいていく。


「だれか……助けて……」


 そう呟いたとき、彼女の意識は完全に消えた。


---


「おお、起きたか! 大丈夫かい、お嬢さん?」


 聞き慣れない言葉と男性の声にひかりは目を開けた。目の前には、中年の男性が心配そうな顔で覗き込んでいる。彼は変わった服装をしていた——白いかつらをかぶり、派手な刺繍が施された上着を着ている。


「わ、私はどこ……?」


 周りを見回すと、そこは見知らぬ部屋だった。木製の家具や絨毯、壁にかけられた絵画、どれも現代の日本の住居にあるものとは全く異なる。窓の外には石畳の道と、古い建物が並んでいる。


「フィレンツェだよ。イタリアのフィレンツェさ。君は道端で倒れていたんだ。不思議な服を着て」


「フィレンツェ? イタリア?」


 驚きのあまり声が上ずる。それに、男性の言葉が理解できることも不思議だった。彼が話しているのは明らかに日本語ではない。それなのに意味が分かるのだ。


「ええと、今は何年……ですか?」恐る恐る尋ねた。


「何年って……1600年だよ。今年は新しい世紀の始まりさ」


 男性の言葉にひかりは息をのんだ。1600年——バロック音楽が始まった頃。まさか、タイムスリップしてしまったのだろうか。


「そうだ、自己紹介がまだだったね。俺はマルコ・バルディーニ。音楽家をしてるんだ。君は?」


「わ、私は……」


 咄嗟に本名を名乗るべきか迷った。ここが本当に400年以上前のイタリアなら、「月島ひかり」という名前はあまりにも場違いだ。


「マイア。マイア・ルーナと言います」


 とっさに思いついた名前を告げた。「月島」をイタリア風に「ルーナ(月)」に変え、「ひかり」を西洋風の「マイア」に置き換えたのだ。


「マイア・ルーナか。珍しい名前だね」マルコは微笑みながら言った。「君の服装も風変わりだけど、よそから来たんだね?」


 ひかりは自分の制服を見下ろした。確かに1600年のイタリアでは奇妙な服装に見えるだろう。


「はい、遠いところから来ました……」


「それで、フィレンツェに何をしに来たんだい?」


 ひかりは一瞬戸惑った。何と答えればいいのだろう。そのとき、彼女の頭に閃きがあった。


「音楽を学びに来ました」


 マルコの顔が明るくなった。


「音楽家を目指しているのか! それは素晴らしい。何の楽器を?」


「ヴァイオリンです」


「おお、それはいい! 実は私も音楽仲間とよく集まって演奏会をしているんだ。今、音楽の新しい形を模索しているところでね」


 マルコは熱心に話し始めた。


「私たちのグループは『カメラータ』と呼ばれているんだ。古代ギリシャの劇音楽を現代に復活させようとしているんだよ。単旋律に伴奏をつけて、言葉と音楽を融合させる試みをしているんだ」


 ひかりは息を呑んだ。カメラータ——音楽の授業で習ったばかりだ。バロック音楽の始まりに重要な役割を果たした音楽家たちのグループ。そして「単旋律に伴奏をつける」というのは、モノディという新しいスタイルのことだろう。まさに歴史の重要な瞬間に立ち会っているのだ。


「それはすごいです! ぜひ聴いてみたいです」


「それなら明日、私たちの集まりに来ないか? 新しい音楽の形を目指す同志は歓迎だよ」


 ひかりは嬉しそうに頷いた。現代に戻る方法はまだわからないが、せっかくの機会だ。バロック音楽の誕生に立ち会えるなんて、夢にも思わなかった。


「でも、泊まるところは……」


 その言葉にマルコは首を傾げた。


「君、本当に何も準備せずに来たのかい? まあいい、うちの娘の部屋を使うといい。娘は今、親戚の家に滞在しているからね」


 マルコの親切な申し出にひかりは感謝した。とりあえず今夜の寝床が確保できて安心する。そして何より、カメラータという歴史的なグループに会える期待に胸が膨らんだ。


 部屋に案内されたひかりは、窓辺に座り、夕暮れのフィレンツェの街並みを眺めた。遠くにはアルノ川が夕日に照らされて輝いている。


「まさか本当にタイムスリップするなんて……」


 ふと、懐中時計のことを思い出し、ポケットを確認すると、確かにそこにあった。しかし針は止まっていて、開けても音楽は流れなかった。


「これで戻れるのかな……」


 不安がよぎったが、明日のことを考えると期待が勝った。バロック音楽の誕生に立ち会えるチャンス——それは一生に一度の経験になるだろう。


 ひかりはベッドに横になりながら、これからの冒険に思いを巡らせた。


## 第2章 フィレンツェのカメラータ


 翌朝、ひかりは鳥のさえずりで目を覚ました。一瞬、どこにいるのか分からなかったが、すぐに昨日の出来事を思い出す。本当に1600年のフィレンツェにいるのだ。


 窓から差し込む朝日が部屋を明るく照らしている。ベッドから起き上がり、窓の外を覗くと、もう街は活気に満ちていた。荷車を引く人々、市場へ向かう女性たち、石畳を駆ける子どもたち——400年前の暮らしが目の前で展開されている。


「マイア、起きたかい?」


 ドアの向こうからマルコの声がした。


「はい、起きています」


「朝食ができたよ。それから、君に合いそうな服も用意したんだ。娘のものだが、着てみてくれないか」


 昨日着ていた制服では目立ちすぎるため、ひかりは感謝してその服に着替えた。長いスカートに、シンプルな上着。鏡に映る自分は、まるで歴史の教科書から抜け出てきたような姿だった。


「似合ってるよ」食卓に座ったマルコが言った。


 朝食は、パンとチーズ、オリーブオイルという質素なものだったが、新鮮で美味しかった。


「今日はカメラータの仲間たちが集まるんだ。みんな音楽の新しい形を模索している情熱的な連中さ」


「どんな人たちなんですか?」


「ヤコポ・ペリやジュリオ・カッチーニなど、宮廷音楽家や作曲家たちだよ。それから詩人のリヌッチーニも来る予定だ」


 ひかりは驚いた。ペリの名前は授業で聞いたことがある。世界初のオペラと言われる「ダフネ」の作曲者だ。


「あの、ヤコポ・ペリさんって『ダフネ』を作曲した方ですか?」


 マルコは驚いた様子で彼女を見た。


「『ダフネ』? そんな作品は知らないが……ペリは確かに今、神話をテーマにした新しい劇音楽を構想していると言っていた。君はどうしてそれを知っているんだい?」


 ひかりは口をついて出た言葉を後悔した。「ダフネ」はこれからペリが作曲する作品だったのだ。まだ存在していない。


「あ、いえ……どこかで聞いたような気がして……」


 マルコは不思議そうな顔をしたが、それ以上は問わなかった。


「さあ、行こうか。みんなもう集まっているだろう」


 マルコに連れられて、ひかりはフィレンツェの街を歩いた。狭い石畳の道、高い石造りの建物、行き交う人々の独特な服装——すべてが新鮮だった。道行く人々はひかりの姿を見て好奇の目を向けたが、マルコと一緒だったので、特に問題はなかった。


 しばらく歩くと、荘厳な邸宅の前に到着した。


「ここがバルディ伯爵の邸宅だ。カメラータはここで活動しているんだよ」


 館の中に入ると、既に何人かの人々が大きな部屋に集まっていた。楽器を手にした男性たち、楽譜を見つめる人々、熱心に議論している集団。ひかりはその光景に圧倒された。


「おい、みんな! 今日は特別なゲストを連れてきたぞ」


 マルコの声に、室内の人々が振り向いた。


「こちらはマイア・ルーナさん。ヴァイオリンを学ぶために遠いところからやって来たんだ」


 数十人の目がひかりに向けられ、彼女は緊張して頭を下げた。


「こ、こんにちは。よろしくお願いします」


 丁寧な挨拶をすると、集まった人々は温かく彼女を迎え入れた。


「マイア、こちらはヤコポ・ペリだ」


 マルコが紹介したのは、40代くらいの痩せた男性だった。真面目そうな顔立ちで、鋭い目をしている。


「初めまして」ペリは頭を下げた。「ヴァイオリンを学んでいるのか。若い女性の演奏者は珍しいな」


「はい、まだまだ未熟ですが……」


「いや、情熱があれば上達する。我々も新しい音楽の形を模索している最中だ。君も加わってくれれば嬉しい」


 続いて紹介されたのはジュリオ・カッチーニという男性だった。温かな笑顔の持ち主で、声楽家としても有名だという。


「マイアさん、我々は今、革命的な試みをしているんだ」カッチーニは熱心に語った。「古代ギリシャでは、詩と音楽は一体だったと言われている。一人の声に単純な伴奏をつけ、言葉の抑揚や感情を音楽で表現する——それがモノディというスタイルだ」


「それは素晴らしいですね!」


 ひかりは心から感動していた。これがバロック音楽の始まりなのだ。複雑な対位法が中心だったルネサンス音楽から、感情表現を重視するバロック音楽への転換点に立ち会っている。


 そのとき、部屋の奥から一人の男性が近づいてきた。


「これは珍しい訪問者だな」


 優雅な身のこなしの中年男性。その存在感から、重要人物であることが伝わってきた。


「バルディ伯爵です」マルコが小声で教えてくれた。


 ひかりは慌てて丁寧にお辞儀をした。


「伯爵閣下、お邪魔しております。マイア・ルーナと申します」


 伯爵は微笑んで頷いた。


「マルコから聞いた。遠いところから音楽を学びに来たそうだな。我々のカメラータに興味を持ってくれて光栄だよ」


「いえ、こちらこそ。お招きいただき感謝しています」


「そうだ、せっかくだから君のヴァイオリン演奏も聴かせてくれないか」


 その言葉にひかりは動揺した。演奏を披露するつもりはなかったのだ。しかも、この時代のヴァイオリンは現代のものと構造が少し異なるはずだ。


「あの、今は楽器を持っていなくて……」


「それなら私のを使ってくれ」


 部屋の隅から若い男性が一台のヴァイオリンを持ってきた。


「ありがとうございます」


 恐る恐る楽器を手に取るひかり。確かに現代のヴァイオリンとは少し違う。弦の張り具合も、弓の形も違っている。それでも基本的な構造は同じだ。


 深呼吸をして、ひかりは弓を構えた。何を弾こうか——そうだ、このカメラータの人々が好みそうな曲を。バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタは……いや、バッハはまだ生まれていない。


 ひかりは考えた末、ヴィヴァルディの「四季」から「春」の冒頭部分を弾くことにした。まだこの時代には存在しない曲だが、自然を表現した明るい曲調は、きっと彼らの感性に響くはずだ。


 最初の音を出すと、会場が静まり返った。ひかりは目を閉じ、春の訪れを告げる鳥のさえずりを表現するヴァイオリンの旋律を奏でた。


 演奏を終えると、しばらく静寂が続いた。ひかりは不安になったが、次の瞬間、部屋中から熱狂的な拍手が湧き起こった。


「素晴らしい!」

「これはどこの曲だ?」

「こんな表現方法があったのか!」


 歓声と質問が飛び交う中、ペリが近づいてきた。


「マイアさん、この曲は誰の作品なのか? 私は聞いたことがない」


「これは……」またしても困った状況に陥った。「ある音楽家から教わった曲です。自然の音を表現しようとした作品で……」


「素晴らしい発想だ!」カッチーニが言った。「音楽で自然を描写する——まさに我々が目指している表現だ」


 ペリは熱心にひかりに質問した。


「この曲には物語があるのか? 何か具体的な情景を表しているのか?」


「はい、春の訪れを表しています。鳥のさえずり、そよ風、雷雨……自然の様々な表情を音楽で描いているんです」


 伯爵も感心した様子で言った。


「これこそ我々が求めている新しい音楽の形だ。言葉だけでなく、自然や感情を直接表現する音楽——素晴らしい」


 ひかりは複雑な気持ちだった。ヴィヴァルディの「四季」は1720年頃の作品で、ここから120年も先の未来の音楽だ。それを聴いた彼らが感銘を受けたことで、歴史に影響を与えてしまったのではないか?


 そのとき、ペリが興奮した様子で言った。


「私は今、新しい劇音楽を構想している。古代ギリシャの神話『アポロンとダフネ』をテーマにしたものだ。今聴いた音楽のような表現方法を取り入れたい」


 ひかりはドキッとした。これが「ダフネ」の誕生につながるのだろうか。


「ぜひこの後、詳しく聞かせてほしい」リヌッチーニという詩人が言った。「私が台本を書くことになっているからね」


 そうして、カメラータの集まりは熱気に包まれた。ひかりの演奏をきっかけに、様々な議論が始まった。モノディのこと、劇音楽のこと、感情表現のこと——みな熱心に語り合っている。


 マルコがひかりに近づいてきた。


「すごい演奏だった! 君はただの学生ではないな。あんな表現方法、私も見たことがない」


「ありがとうございます……」


「それより、明日はこのカメラータの特別な会がある。モンテヴェルディという若い作曲家が訪れるんだ。彼は新しい音楽の形を模索している革新的な人物でね」


 ひかりの心臓が高鳴った。クラウディオ・モンテヴェルディ——バロック初期の最も重要な作曲家の一人だ。彼の「オルフェオ」は初期のオペラの傑作として音楽史に名を残している。


「ぜひ会いたいです!」


「それじゃあ、明日またここに来るといい。君のような新鮮な感性を持った人と、モンテヴェルディは気が合うはずだ」


 その日の夕方、ひかりはマルコの家に戻った。興奮で頭がいっぱいだった。カメラータの人々との出会い、彼らの熱意、そして明日モンテヴェルディに会えるという期待——。


 日記帳代わりにメモを取りながら、ひかりは今日の出来事を整理した。


「カメラータは古代ギリシャの劇音楽を復活させようとしていて、そこからモノディという単旋律に伴奏をつけるスタイルが生まれた。それが、バロック音楽の始まりなんだ」


 暗くなってきた部屋で、ひかりは懐中時計を取り出した。針はまだ動かない。この時計で現代に戻れるのだろうか——不安がよぎったが、今はバロック音楽の誕生に立ち会えるチャンスを楽しもうと決めた。


「明日はモンテヴェルディに会える……」


 期待に胸を膨らませながら、ひかりは眠りについた。


## 第3章 モンテヴェルディとオペラの誕生


 翌朝、ひかりは早くから目を覚ました。今日はモンテヴェルディに会える日だ。彼女は急いで身支度を整え、朝食を済ませると、マルコと共にバルディ伯爵の邸宅へと向かった。


 道中、マルコはモンテヴェルディについて説明してくれた。


「クラウディオ・モンテヴェルディはマントヴァの宮廷楽長をしている33歳の作曲家だ。彼はマドリガーレという声楽曲で名を上げているが、最近は劇的な表現を取り入れた新しいスタイルを模索しているらしい」


「マドリガーレですか?」


「ああ、複数の声部が独立して歌う多声音楽の一種だ。ルネサンス時代から続く伝統的な形式だが、モンテヴェルディはそこに斬新な和声や不協和音を取り入れて、言葉の意味を強調する手法を取っている」


 ひかりは興味深く聞いていた。教科書で読んだモンテヴェルディの姿が、より具体的になっていく。


 バルディ伯爵の邸宅に到着すると、既に多くの人々が集まっていた。昨日よりも賑やかで、明らかに特別な日の雰囲気だった。


「あ、マイアさん!」


 部屋の中央から声がかかった。昨日会ったペリだ。彼は嬉しそうに手を振っている。


「昨日の君の演奏について、みんなで話していたところだよ。モンテヴェルディにも聴かせたいくらいだ」


「そ、そんな……」


 ひかりは恥ずかしくなった。自分の演奏が歴史的な作曲家たちに評価されるなんて、夢にも思わなかった。


 そのとき、入口に騒がしさが生じた。重要人物が到着したらしい。みなが一斉にその方向を向く。


「来たぞ、モンテヴェルディだ」


 マルコが小声で言った。


 入ってきたのは、細身で知的な顔立ちをした男性だった。30代半ばといったところか。鋭い目と引き締まった口元が印象的だ。彼の周りには数人の従者がいて、中には楽器を持った音楽家も見える。


 バルディ伯爵が前に出て、モンテヴェルディを歓迎した。


「ようこそ、マントヴァからはるばる来てくれたモンテヴェルディ殿。我々のカメラータにご参加いただき光栄です」


 モンテヴェルディは丁寧に頭を下げた。


「ご招待いただき感謝します。フィレンツェの音楽家たちが新しい音楽の形を模索していると聞き、大変興味を持ちました」


 彼の声は落ち着いていて、言葉の一つ一つに重みがあった。


 バルディ伯爵はモンテヴェルディを部屋の中へと案内した。ひかりは人ごみの中からその様子をじっと見つめていた。教科書で見たモンテヴェルディの肖像画よりも若く、活力に満ちている。


「さあ、みなさん。今日はモンテヴェルディ殿のために、我々の新しい音楽形式を披露しましょう」


 バルディ伯爵の声に、会場が静まった。ペリとカッチーニが前に出て、リヌッチーニの書いた詩に基づく小さな劇的場面を披露することになった。


 カッチーニが一人の歌手として立ち、リュートの伴奏に合わせて歌い始めた。それは単旋律の歌に簡素な伴奏がついた形式——モノディーだった。言葉の抑揚に合わせて旋律が動き、詩の内容を忠実に表現している。


 ひかりはその演奏に聞き入った。現代の視点から見れば単純かもしれないが、この時代においては革新的な表現方法だ。歌の内容は神話の一場面で、オルフェウスが愛するエウリディーチェを失う悲しみを歌っていた。


 演奏が終わると、会場から拍手が起こった。モンテヴェルディは考え深げな表情で、しばらく黙っていた。


「どう思われましたか?」バルディ伯爵が尋ねた。


 モンテヴェルディはゆっくりと立ち上がった。


「非常に興味深い試みです。詩の言葉と音楽が一体となり、感情を直接表現する——これは音楽の本質に迫るものだと思います」


 彼の言葉に、カメラータのメンバーたちは喜びの表情を見せた。


「しかし」モンテヴェルディは続けた。「もっと劇的な効果を持たせることができるのではないでしょうか。例えば、感情の高まりを表現するために不協和音を効果的に使ったり、オーケストラをより活用したり……」


 彼の提案にペリとカッチーニは熱心に耳を傾けていた。そこから、新しい音楽表現についての議論が始まった。伝統的なポリフォニー(多声音楽)からモノディへの転換、言葉と音楽の関係、感情表現の方法など——みな情熱的に意見を交わしていた。


 ひかりはその様子を見ながら、歴史の教科書に書かれていたことが目の前で展開されていることに感動していた。これがバロック音楽誕生の瞬間なのだ。


 議論の合間に、マルコがひかりに近づいてきた。


「マイア、モンテヴェルディに紹介したいんだが、いいかな?」


「え? わ、私でいいんですか?」


「ああ、彼は新しい才能に常に興味を持っているんだ。君のように独創的なヴァイオリン奏法を持つ若い音楽家なら、きっと喜ぶさ」


 マルコはひかりをモンテヴェルディのいる場所へと案内した。近づくにつれて、ひかりの緊張は高まっていった。歴史的な作曲家と直接話すなんて——。


「モンテヴェルディ殿、こちらが昨日お話した若い音楽家、マイア・ルーナさんです」


 モンテヴェルディはひかりに視線を向けた。彼の鋭い目は、まるで彼女の心を見透かすようだった。


「マイアさん。マルコから君のことを聞いている。遠いところから音楽を学びに来たそうだね」


「は、はい。よろしくお願いします」


 ひかりは緊張のあまり、声が震えていた。


「君はヴァイオリンを演奏すると聞いたが、昨日の演奏は特に印象的だったそうだね。残念ながら私は聴けなかったが……」


 モンテヴェルディの言葉に、周りにいたカメラータのメンバーが口々に言った。


「素晴らしい演奏でした」

「自然の音をヴァイオリンで表現するなんて」

「新しい音楽の可能性を感じました」


 ひかりは恥ずかしさでいっぱいになった。それでも、せっかくの機会だから何か質問してみたいと思った。


「あの、モンテヴェルディさん。お聞きしてもよろしいでしょうか?」


「何かな?」


「今、どのような作品を構想されているんですか?」


 モンテヴェルディは少し驚いたような表情を見せたあと、微笑んだ。


「実は、マントヴァ公爵の命により、神話を題材にした大規模な音楽劇を作曲しているところだ。オルフェオの物語を基にしたものでね」


 ひかりは息を呑んだ。「オルフェオ」——モンテヴェルディの最も有名なオペラであり、初期バロック・オペラの傑作だ。それが今まさに創作されているのだ。


「それは素晴らしいです! 完成が楽しみです」


「ふむ、君は熱心だね。オルフェオの物語に興味があるのかな?」


「はい。音楽の力で死者の国からエウリディーチェを連れ戻そうとする物語は、音楽の持つ力を象徴していると思います」


 モンテヴェルディは感心した様子で頷いた。


「その通りだ。私はこの作品で、音楽の力そのものを表現したいと思っている。そのためには、従来の音楽の枠を超えた表現が必要だ」


 彼は熱心に語り始めた。声の表現方法、感情を表す和声、オーケストラの効果的な使い方——モンテヴェルディの考えは既に先進的だった。


「私は『プリマ・プラティカ』(第一作法)と『セコンダ・プラティカ』(第二作法)という二つの作曲スタイルがあると考えている。プリマ・プラティカは伝統的なポリフォニーで、音楽の美しさや調和を重視する。一方、セコンダ・プラティカは言葉の意味や感情表現を最優先する新しいスタイルだ」


 ひかりは熱心に聞き入った。これは音楽の授業で習ったモンテヴェルディの音楽理論だ。彼の言葉から、音楽に対する真摯な姿勢と革新への情熱が伝わってきた。


「私も感情表現を大切にしたいです」ひかりは素直な気持ちを話した。「音楽は心を動かすものだと思います」


「その通りだ」モンテヴェルディは嬉しそうに頷いた。「音楽の本質は人の心を動かすことにある。私の『オルフェオ』では、主人公の喜びや悲しみ、絶望や希望を、聴く人の心に直接届けたい」


 話が弾む中、バルディ伯爵が全員に呼びかけた。


「さあ、モンテヴェルディ殿の栄誉のために、宴を始めましょう!」


 侍従たちが食事や飲み物を運び込み、会場は祝宴の雰囲気に包まれた。音楽家たちは思い思いの楽器を手に取り、即興の演奏を始めた。リュート、ヴィオールダガンバ、リコーダー、そして初期のヴァイオリンなど、ひかりにとっては教科書でしか見たことのない楽器が目の前で演奏されている。


 モンテヴェルディはひかりに声をかけた。


「マイアさん、あなたもヴァイオリンを演奏してみないか?」


 突然の誘いに、ひかりは緊張した。しかし、こんな機会は二度とないだろう。彼女は勇気を出して、差し出されたヴァイオリンを受け取った。


「何を弾こうか……」


 ひかりは考えた。昨日は「春」を演奏したが、今日はもっと感情表現に富んだ曲がいいだろう。そうだ、バッハの「G線上のアリア」——まだこの時代には存在しない曲だが、深い感情表現と美しい旋律が特徴的な曲だ。


 ひかりは弓を構え、静かに演奏を始めた。深いト音の響きから始まる穏やかな旋律。会場が静まり返る中、彼女は目を閉じて音楽に身を委ねた。


 演奏が終わると、会場には感動の沈黙が広がった。モンテヴェルディの目には、涙が光っていた。


「素晴らしい……これほど心を打つ旋律は聴いたことがない。この曲は?」


「ある……作曲家から教わった曲です」


 またしても困った質問だ。バッハが生まれるのはまだ先のことだから。


「その作曲家の名は?」


「あ、えっと……」


 そのとき、救いの手が差し伸べられた。マルコが割り込んできたのだ。


「モンテヴェルディ殿、マイアは時々ご自分で曲を作っておりまして。あまり人に言いたがらないのですが……」


「そうか、これは君の作品なのか?」モンテヴェルディの目が輝いた。「それならなおさら素晴らしい。若い女性の作曲家というのも珍しいが、君には才能がある」


 ひかりは恥ずかしさで顔が熱くなった。バッハの曲を自分の作品だと誤解されてしまった。しかし、今は否定するわけにもいかない。


「ありがとうございます……」


 モンテヴェルディは真剣な表情でひかりを見つめた。


「マイアさん、もし興味があれば、マントヴァに来ないか? 私の『オルフェオ』の初演が来年の予定だ。君のような感性を持った音楽家に聴いてもらいたい」


 その誘いに、ひかりは心臓が高鳴るのを感じた。モンテヴェルディの「オルフェオ」の初演に立ち会えるなんて——それは音楽史上の重要な瞬間だ。


「ぜひ伺いたいです!」


「良かった。では来年2月、マントヴァのゴンザーガ宮殿で会おう」


 モンテヴェルディはそう言って、他の音楽家たちとの会話に戻っていった。


 ひかりはマルコに感謝した。


「助けてくれてありがとうございます」


「いいよ。しかし、君はいつか本当のことを話さないといけない時が来るかもしれないね」


 マルコの言葉に、ひかりは複雑な気持ちになった。彼にタイムトラベルの話を信じてもらえるだろうか? それとも現代に戻る方法を見つける前に、嘘がばれてしまうだろうか?


 宴は夜遅くまで続いた。ひかりはカメラータのメンバーたちと交流し、この時代の音楽について多くのことを学んだ。モノディの技法、通奏低音バッソ・コンティヌオの役割、ルネサンス音楽からバロック音楽への移行期の特徴——すべてが生きた知識として彼女の中に刻まれていった。


 マルコの家に戻る頃には、既に夜も更けていた。部屋に入ったひかりは、また懐中時計を取り出してみた。するとどうだろう、針がわずかに動いているではないか!


「動いてる!」


 驚きと喜びに声を上げた。これは現代に戻れるということだろうか? しかし、針はまだとても遅い速度でしか動いていない。どうやら、まだ時間が必要なようだ。


 ひかりはベッドに座り、今日の出来事を整理した。モンテヴェルディとの出会い、「オルフェオ」の創作過程についての話、そして来年のマントヴァへの誘い——全てが貴重な経験だった。


「モンテヴェルディは『プリマ・プラティカ』と『セコンダ・プラティカ』という二つの作曲スタイルを区別していて、新しい『セコンダ・プラティカ』では言葉の意味や感情表現を最優先している……」


 ひかりは紙にメモを取りながら、学んだことを整理した。この体験は将来、音楽の授業や演奏にきっと役立つだろう。


 窓の外を見ると、星空が広がっていた。1600年のフィレンツェの夜空——地球の反対側にある日本の2025年からはるか遠く、時間を超えた場所に自分がいることを実感した。


「次はマントヴァで『オルフェオ』の初演……でも、その前に現代に戻る方法を見つけないと」


 そう呟きながらも、ひかりの心の中には少しだけ複雑な気持ちがあった。こんな素晴らしい経験ができる機会はもう二度とないかもしれない。一部では、もう少しだけこの冒険を続けたいという気持ちもあったのだ。


 眠りにつく前、ひかりは時計を枕元に置いた。針はまだゆっくりと動いている。いつか、この時計が彼女を現代へと連れ戻す日が来るのだろうか——その問いを抱えながら、彼女は目を閉じた。


## 第4章 ヴィヴァルディと「四季」の物語


 懐中時計の針が完全に一周した瞬間、ひかりの周囲が急に明るく光り始めた。


「え? なに!?」


 寝ていたひかりは驚いて飛び起きた。部屋全体が光に包まれ、体が浮き上がるような感覚がする。閉じていた目を開けると、景色が目まぐるしく変わっていくのが見えた。フィレンツェの街並み、山々、川、そして都市……全てがぼんやりとした光の中で流れていく。


 次の瞬間、ひかりは硬い床の上に倒れていた。目を開けると、そこは見知らぬ建物の廊下だった。天井が高く、壁には宗教的な絵画が飾られている。


「ここは……どこ?」


 立ち上がって周囲を見回すと、どうやら大きな教会か修道院のような場所のようだ。窓の外には運河が見える。


「ヴェネツィア……?」


 建物の特徴と運河の風景から、ひかりはイタリアのヴェネツィアにいるのではないかと推測した。フィレンツェからはかなり離れた場所だ。そして時代は——彼女は急いで懐中時計を確認した。針は普通の速さで動いているが、時刻を示すというより、何か別の意味があるようだ。


 廊下の先から女性たちの声が聞こえてきた。ひかりは急いで身を隠し、その様子を覗き見た。修道女と思われる女性たちが何人か歩いている。彼女たちの服装は確かにバロック時代のものだ。


 修道女たちが通り過ぎた後、ひかりはそっと廊下を進んだ。すると、どこからか音楽が聞こえてきた。弦楽器の合奏だ。その音色に誘われて、彼女は音の方向へと歩いていった。


 大きなホールに到着すると、そこには驚くべき光景が広がっていた。数十人の少女たちが、楽器を手に練習をしているのだ。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、そして通奏低音のために鍵盤楽器も置かれている。全員が同じ制服のようなものを着ており、10代から20代前半の少女たちばかりだ。


 その様子を見て、ひかりは歴史の授業で習ったことを思い出した。ヴェネツィアの「ピエタ」——捨て子や孤児の少女たちのための養育院で、音楽教育に力を入れていたことで有名だった。そしてそこの音楽教師を務めていたのが——。


「さあ、もう一度最初から!」


 ホールの前方から、赤毛の司祭が声をかけた。40代前半くらいの男性で、情熱的な表情をしている。少女たちはすぐに構えを正し、一斉に演奏を始めた。それは「四季」の「春」だった!


「ヴィヴァルディ!」


 思わず口に出してしまった。そう、彼こそがアントニオ・ヴィヴァルディ、バロック時代を代表する作曲家の一人だ。「四季」の作曲者であり、600以上もの協奏曲を書いたヴェネツィアの天才音楽家。


 幸い、演奏の音に紛れて、ひかりの声は誰にも聞こえなかったようだ。彼女は柱の陰に隠れながら、その光景を見つめていた。少女たちの合奏は素晴らしく、ヴィヴァルディの指導の下で見事な音楽を奏でている。


 ふと、ひかりは自分の服装を見下ろした。フィレンツェでマルコの娘の服を借りていたが、それは当時のフィレンツェの市民の娘の服だ。ここヴェネツィアの修道院では明らかに場違いだろう。


 そのとき、演奏が途中で止まった。


「アンナ、そこはもっと情熱的に! 春の嵐を表現するのだ!」


 ヴィヴァルディは熱心に指導している。彼の指摘を受けた少女——アンナと呼ばれた少女は、申し訳なさそうに頷いた。


「すみません、先生。もう一度試してみます」


 アンナはやり直すために構えたが、そのとき彼女の視線がひかりが隠れている柱の方向に向けられた。二人の目が合った。


 アンナは驚いた表情をしたが、すぐに平静を取り戻し、演奏を続けた。ひかりはどうしようかと迷ったが、すでに見つかってしまったので、このまま隠れているよりは正直に事情を説明した方がいいかもしれないと考えた。


 練習が終わり、少女たちが楽器をしまい始めたとき、アンナがそっとひかりの方に近づいてきた。


「あなたは誰? ここは許可なく入れる場所ではないわ」


 彼女は警戒心を隠さずに言った。15、6歳くらいの少女で、聡明そうな目をしている。


「す、すみません。迷い込んでしまって……」ひかりは言い訳を考えながら答えた。「私はマイア・ルーナといいます。音楽を学びに来たんです」


「音楽を学びに? でもここはオスペダーレ・デッラ・ピエタよ。みなし子の女の子たちのための施設なの。外部からの生徒は簡単には受け入れていないわ」


 アンナの言葉に、ひかりは困った顔をした。


「実は、ヴィヴァルディ先生の音楽に深く感銘を受けて、どうしても学びたいと思ったんです。特に『四季』は素晴らしいと思います」


 アンナは少し驚いた様子で、彼女を見た。


「『四季』? その曲のことを知っているの? まだ発表されたばかりなのに」


 ひかりは自分の失言に気づいた。この時代でいつ「四季」が完成したのかを正確に知らなかったのだ。


「あ、はい……評判を聞いたので」


 アンナはまだ疑わしげな表情を浮かべていたが、何か決心したように言った。


「とにかく、ここにいるのは危険よ。修道女たちに見つかったら大変。私と一緒に来て」


 アンナはひかりの手を取り、人目につかないように細い廊下を通って進んだ。いくつかの階段を上り、最終的に小さな部屋に到着した。


「ここは私の部屋よ。少しの間ならここに隠れていても大丈夫」


 部屋は質素だが清潔で、窓からはヴェネツィアの運河と街並みが見えた。壁にはヴァイオリンが掛けられ、机の上には楽譜が広げられている。


「ありがとう、助かりました」


 ひかりは安堵のため息をついた。アンナはじっとひかりを観察していた。


「あなた、どこから来たの? その服装は……変わっているわ」


 ひかりは自分の服を見下ろした。確かにフィレンツェの市民の娘の服は、ここヴェネツィアの修道院では場違いだ。


「遠くから来たんです。ヴィヴァルディ先生の音楽を学びたくて」


「本当に?」アンナはまだ半信半疑のようだった。「でも、どうして急に現れたの? 普通は正式に入学を申し込むものよ」


 ひかりは咄嗟の思いつきで言った。


「実は、私はヴァイオリンを演奏するんです。ヴィヴァルディ先生に自分の演奏を聴いていただいて、指導を仰ぎたいと思って……」


 その言葉にアンナの目が輝いた。


「あなたもヴァイオリン弾きなの? 私も! 先生は私をソリストに選んでくれたの。『四季』の独奏部分を演奏することになっているわ」


「本当ですか? それはすごいですね!」


 ひかりは心から感動した。「四季」の初演でソリストを務めるというのは、大変名誉なことだ。


「でも、最近少し調子が悪くて……」アンナは壁に掛かったヴァイオリンを見ながら言った。「特に『春』の第三楽章のパッセージが難しくて」


「あの、よろしければ私にも見せてもらえませんか? もしかしたら何かアドバイスできるかもしれません」


 アンナは少し迷った様子だったが、結局、楽譜を手に取りヴァイオリンをひかりに差し出した。


「どうぞ」


 ひかりは恐る恐る楽器を手に取った。この時代のヴァイオリンは現代のものとは構造が少し異なるが、フィレンツェで少し慣れていたので大丈夫だろう。


 彼女は楽譜を見ながら、「春」の第三楽章を弾き始めた。牧歌的な踊りの旋律で、技術的に難しい部分もあるが、ひかりは現代での練習の成果を発揮して、なんとか弾きこなした。


 演奏を終えると、アンナは感嘆の表情を浮かべていた。


「素晴らしいわ! どうやってそんなふうに弾けるの? 特に、あのトリルの部分……」


 ひかりは微笑みながら、いくつかのアドバイスを伝えた。指の位置、弓の使い方、リズムの取り方など、現代のヴァイオリン教育で学んだことを基に説明した。


 二人が話している間に、突然ドアが開いた。驚いて振り向くと、そこにはヴィヴァルディ本人が立っていた。


「アンナ、練習室に忘れ物を……」


 彼は言葉を途中で止め、部屋にいるひかりを見て驚いた表情を見せた。


「この方は?」


 アンナは慌てて立ち上がった。


「先生! この方はマイア・ルーナさんといって、音楽を学びにいらしたんです。とても上手なヴァイオリン奏者で……」


 ヴィヴァルディは厳しい表情でひかりを見た。


「許可なく修道院に入ることは禁じられています。どうやって入ったのですか?」


 ひかりは緊張しながらも、できるだけ落ち着いて答えようとした。


「申し訳ありません。私はヴァイオリンの勉強をしていて、先生の『四季』に深く感銘を受けました。どうしても先生から直接学びたいと思い……」


 彼女の言葉に、ヴィヴァルディの眉がわずかに上がった。


「『四季』? 私の新作を知っているのか?」


 ヴィヴァルディは不思議そうな顔をしたが、すぐに厳しい表情に戻った。


「いずれにせよ、ここは勝手に入れる場所ではない。出ていってもらおうか」


 アンナが急いで間に入った。


「先生、彼女の演奏を聴いてみてください! 信じられないほど素晴らしいんです」


 ヴィヴァルディは少し迷った様子だったが、アンナの熱心な様子に折れたようだ。


「よろしい。では、演奏してみなさい」


 ひかりは渡されたヴァイオリンを手に取り、深呼吸をした。何を弾こうか——「四季」はすでに弾いたが、それ以外に現代人でも知っているヴィヴァルディの曲となると……。そうだ、ヴァイオリン協奏曲「ラ・ストラヴァガンツァ」。ヴィヴァルディの代表作の一つで、革新的な技法が使われている作品だ。


 ひかりは弓を弦に当て、演奏を始めた。情熱的で技巧的な旋律が部屋に響き渡る。彼女は目を閉じ、音楽に身を委ねた。現代で何度も練習した曲なので、この時代のヴァイオリンでも何とか表現できる。


 演奏が終わると、部屋に静寂が訪れた。ヴィヴァルディの表情が変わっていた。驚きと困惑、そして興味が入り混じった複雑な表情だ。


「その曲は……私のものだが、まだ誰にも見せていない下書きにある旋律だ。どうしてそれを知っている?」


 ひかりは青ざめた。選んだ曲があまりにも早すぎた。「ラ・ストラヴァガンツァ」はこの時点ではまだ完成していなかったのだ。


「あの、私は……」


 言い訳を考えようとしたが、ヴィヴァルディの鋭い目が彼女を見つめている。嘘は通じないだろう。


 そのとき、アンナが助け舟を出してくれた。


「先生、彼女はきっと同じような旋律を自分で考えたのでしょう。偶然の一致ということもありますよね」


 ヴィヴァルディはしばらく考え込んでいたが、やがて表情が和らいだ。


「確かに、才能ある音楽家は似たような発想に至ることがある。しかし、君の演奏技術は見事だ。どこで学んだのかね?」


「いろいろな先生から学びました」ひかりはあいまいに答えた。


「ふむ……」ヴィヴァルディはひかりをじっと観察していた。「君は家族と一緒にヴェネツィアに来たのか?」


「いいえ、一人で来ました」


 その答えにヴィヴァルディは驚いた様子を見せた。


「若い女性が一人で旅をするのは危険だ。しかも、こんな才能を持ちながら……」


 彼は何かを決心したように言った。


「よし、こうしよう。君のような才能は無駄にしたくない。明日からピエタの特別生徒として、私のクラスに参加してみないか? 正式な手続きは後で整えるとして」


 ひかりは驚いて目を見開いた。ヴィヴァルディの直接指導を受けられるなんて!


「本当ですか? ありがとうございます!」


「ただし条件がある」ヴィヴァルディは真剣な顔で言った。「来週、ヴェネツィアで『四季』の初演がある。アンナがソリストだが、彼女のために練習パートナーになってほしい。二人で切磋琢磨すれば、さらに良い演奏になるだろう」


 アンナは嬉しそうに手を叩いた。


「素晴らしいわ! 一緒に練習できるなんて」


 ひかりも心から喜んだ。「四季」の初演に関われるなんて、夢のような話だ。


「では、明日から練習に参加するように。アンナ、彼女の宿泊場所は?」


 その質問に二人は顔を見合わせた。ひかりには泊まる場所がないのだ。


「その……まだ決まっていません」ひかりは小さな声で答えた。


 ヴィヴァルディは少し考えた後、言った。


「ならば、今晩はピエタの客室に泊まりなさい。明日、適切な場所を探そう」


 こうして、ひかりはヴェネツィアのピエタでの生活を始めることになった。この時代への二度目のタイムスリップで、今度はヴィヴァルディから直接学ぶ機会を得たのだ。


---


 翌日から、ひかりはアンナとともにヴィヴァルディの指導を受けるようになった。ピエタの少女たちは最初は彼女を不思議そうに見ていたが、すぐに打ち解けてくれた。彼女たちの多くは幼い頃に孤児となり、ピエタで音楽教育を受けながら育ったのだという。


 ヴィヴァルディの指導は厳しいが情熱的だった。彼は生徒たちに高い技術と表現力を求めた。


「音楽は単なる音の羅列ではない! 自然の声、人間の感情、宇宙の調和を表現するものだ」


 そう語るヴィヴァルディの目は輝いていた。特に「四季」の練習では、彼は自然現象をどのように音楽で表現するかを細かく指導した。


「『春』の第一楽章は鳥のさえずりから始まる。軽やかに、喜びに満ちて! そして第二楽章では羊飼いが眠りにつく。穏やかに、優しく……」


 ひかりとアンナは毎日何時間も練習した。二人はすぐに親しい友達になり、互いの演奏について率直に意見を交わすようになった。


 ある日、練習の後、アンナはひかりに尋ねた。


「マイア、あなたはどうして音楽家になりたいの?」


 ひかりは少し考えてから答えた。


「音楽には人の心を動かす力があると思うから。言葉では伝えられないものを、音楽なら表現できる」


 アンナは微笑んだ。


「私もそう思う。私は両親を知らないの。生まれてすぐにピエタに預けられたから。でも、音楽を通じて自分の存在を世界に示せる気がするの」


 その言葉に、ひかりは胸が締め付けられる思いがした。恵まれた現代の日本で育った自分と、孤児として育ったアンナ。環境は全く違うのに、二人は音楽を通じて心を通わせることができている。


「アンナ、あなたの演奏はとても美しいよ。ヴィヴァルディ先生があなたをソリストに選んだのは当然だと思う」


 アンナの頬が赤くなった。


「ありがとう。でも、あなたの方がずっと上手よ。特に技術面では」


「それは現代の……」


 ひかりは言いかけて口をつぐんだ。現代のヴァイオリン教育について話すわけにはいかない。


「どうしたの?」


「いや、なんでもないよ。それより、明日の『四季』の通し練習、頑張ろうね」


 翌日、ヴィヴァルディは「四季」全体の通し練習を行った。オーケストラ全体での練習だ。アンナがソリストを務め、ひかりはオーケストラの一員として参加した。


 練習の最中、ヴィヴァルディはしばしば曲の背景について説明した。


「『四季』の各協奏曲には、私が書いたソネットが付いている。音楽と詩が一体となって、四季の風景と人々の生活を描写しているのだ」


 彼は「夏」の楽譜を指さした。


「ここでは、真夏の暑さで音楽がだんだん重く、緩慢になっていく。そして突然の雷雨! これは急激なフォルテで表現する」


 ヴィヴァルディの説明は生き生きとしていて、音楽の背景にある情景が目に浮かぶようだった。ひかりは現代の音楽の授業では学べなかった、作曲家自身の意図を直接聞くことができて感動した。


 練習の合間に、ヴィヴァルディはひかりに声をかけた。


「マイア、君は音楽の表現力が素晴らしい。特に『四季』の自然描写の部分は、まるで私の意図を完全に理解しているかのようだ」


「ありがとうございます。先生の音楽は、聴く人の心に直接語りかけてくるように感じます」


 ヴィヴァルディは嬉しそうに微笑んだ。


「その通りだ。私は音楽を通じて物語を語りたいんだ。単なる音の美しさだけでなく、人間の感情や自然の様子を伝えたい」


 彼は少し考え込むように言った。


「君は不思議な少女だね。時々、まるで未来から来たかのように、私の音楽を理解している」


 その言葉に、ひかりはどきりとした。もしかして、彼は何か気づいているのだろうか?


 しかし、ヴィヴァルディはすぐに笑顔を見せた。


「冗談だよ。ただ、君のような才能ある若者に私の音楽が響くのは嬉しい限りだ」


 一週間の練習を経て、ついに「四季」初演の日が来た。会場はヴェネツィアの貴族の邸宅で、上流階級の人々が多く集まっていた。ピエタの少女たちは緊張した面持ちで楽器を調律している。


 アンナはひかりの手を強く握った。


「緊張するわ……」


「大丈夫、練習の成果を出せばいいんだよ。あなたなら素晴らしい演奏ができるわ」


 ひかりも励ましながらも、自分自身の興奮を抑えることができなかった。「四季」の初演に立ち会えるなんて、音楽史の重要な瞬間だ。


 ヴィヴァルディが登場すると、会場が静まり返った。彼は簡単な挨拶の後、オーケストラを指揮する位置についた。


「さあ、始めよう。『春』から」


 アンナが前に出て、ソリストの位置に立った。彼女は一度深呼吸をして、ヴィヴァルディに合図を送った。


 そして音楽が始まった。春の訪れを告げる鳥のさえずり、小川のせせらぎ、そよ風——自然の息吹が音楽となって会場に広がる。アンナのソロは見事だった。緊張の色は消え、音楽に完全に没頭している。


 四つの協奏曲を通じて、四季の移り変わりが音の風景として描かれていく。「夏」の暑さと突然の嵐、「秋」の収穫祭と狩猟の様子、「冬」の凍える寒さと暖炉の前での安らぎ——すべてが生き生きと表現されていた。


 演奏が終わると、会場からは熱狂的な拍手が沸き起こった。貴族たちは立ち上がり、ブラボーの声が響き渡る。ヴィヴァルディとアンナ、そしてオーケストラのメンバーたちは何度も頭を下げた。


 コンサートの後、祝賀会が開かれた。貴族たちがヴィヴァルディを取り囲み、祝福の言葉を述べている。アンナもソリストとして多くの称賛を受けていた。


 ひかりは少し離れた場所から、その様子を眺めていた。歴史の瞬間に立ち会えた満足感と、もうすぐこの時代ともお別れしなければならないという寂しさが入り混じっていた。


 そのとき、ヴィヴァルディが人々の輪から抜け出し、ひかりの方に近づいてきた。


「マイア、なぜここで一人でいるんだ? 今日の成功には君の助けもあったんだよ」


「いいえ、主役はアンナとオーケストラの皆さん。私はほんの少しお手伝いしただけです」


 ヴィヴァルディは首を横に振った。


「いや、君の存在は大きかった。アンナの成長を促し、オーケストラ全体に刺激を与えてくれた」


 彼は少し考え込むように言った。


「実は、君に頼みがある。私は『四季』に続く新作の構想を練っているんだ。『調和の霊感』という協奏曲集になる予定だが、君にもアイデアを聞かせてほしい」


 ひかりは驚いた。「調和の霊感(La Cetra)」はヴィヴァルディの重要な作品集だ。その創作に関われるなんて。


「光栄です。ぜひお手伝いさせてください」


 そのとき、ふと懐中時計の存在を思い出した。確認してみると、針は以前よりも速く回っている。時間が経つにつれて、現代に戻る時が近づいているのかもしれない。


 祝賀会の後、ひかりとアンナはピエタに戻った。二人は興奮冷めやらぬ様子で、コンサートの様子を振り返っていた。


「あなたの演奏、素晴らしかったわ!」ひかりは心から賞賛した。


「ありがとう。でも、これはみんなの成功よ。あなたも大きく貢献したわ」


 アンナは少し照れながらも嬉しそうに微笑んだ。


「マイア、あなたはこれからどうするの? ピエタに残るの?」


 その質問に、ひかりは複雑な気持ちになった。いつか現代に戻らなければならない。でも、ヴィヴァルディから学べる貴重な機会を簡単に手放したくもない。


「まだ決めていないの。ヴィヴァルディ先生の『調和の霊感』のお手伝いもしたいけど……」


 そのとき、懐中時計が突然明るく光り始めた。ひかりはパニックになった。もう戻る時間なのか? でも、アンナときちんとお別れをしたい。


「アンナ、あのね……」


 言いかけたとき、時計からの光が強くなり、周囲が歪み始めた。


「マイア? どうしたの? あなたの周りが……」


 アンナの驚いた声が遠のいていく。ひかりの体が浮き上がるような感覚があり、目の前の景色が回転し始めた。


「アンナ、ありがとう! 絶対に忘れないから!」


 叫ぶように言ったが、声が届いたかどうかはわからない。ヴェネツィアの風景、ピエタの少女たち、そしてヴィヴァルディの姿が光の中に溶けていった。


## 第5章 バッハ先生の教室


 光が収まり、ひかりが目を開けると、そこは小さな教会の中だった。パイプオルガンがある礼拝堂で、窓からは見知らぬ街の景色が見える。イタリアとは明らかに異なる建築様式だ。


「ここは……ドイツ?」


 懐中時計を確認すると、針は通常の速度で動いているが、日付や正確な場所を知る手がかりはない。ひかりは静かに教会の中を歩き回り、手がかりを探した。


 教会の一角に、楽譜が積み重ねられた机があった。そこには「Thomaskirche(トーマス教会)」と書かれた文書が見える。ライプツィヒのトーマス教会——そう、バッハが音楽監督を務めていた場所だ!


 ひかりは興奮して息を呑んだ。ヨハン・セバスティアン・バッハ、バロック音楽の最高峰とも言われる巨匠に会えるかもしれない。


 礼拝堂の扉が開く音がして、ひかりは慌てて机の陰に隠れた。中に入ってきたのは10人ほどの少年たちと、その後ろにいる中年の男性だった。威厳のある顔立ちで、鋭い目と広い額が印象的だ。間違いない、これがバッハだ!


 少年たちは聖歌隊のようで、バッハの指示で譜面台の前に整列した。


「さあ、今日は『目覚めよと呼ぶ声あり』を練習する。先週の日曜日の演奏はまだまだだった。特に第四合唱の部分が乱れていた」


 バッハの声は厳格だが、温かみもあった。少年たちは真剣な表情で頷いている。


「まずは第一合唱から」


 バッハはオルガンに向かい、前奏を弾き始めた。その指使いは見事で、複雑な対位法を難なく演奏している。少年たちが歌い始めると、教会全体に美しいハーモニーが響き渡った。


 ひかりはその音楽に聴き入っていた。教科書や録音で聴くバッハの音楽とは違う、生きた音楽がそこにあった。しかし、うっかり身を乗り出したひかりは、近くにあった楽譜の山をくずしてしまった。


 音楽が突然止まり、全員の視線が彼女に向けられた。


「誰だ?」バッハの厳しい声が響いた。


 隠れていても仕方がない。ひかりは恐る恐る姿を現した。


「す、すみません……」


 バッハは眉をひそめ、彼女を見た。


「若い娘が一人で教会に忍び込むとは。何の用だ?」


 ひかりは必死に言い訳を考えた。


「音楽を学びに来ました。先生の音楽に深く感銘を受けて……」


 バッハの表情は柔らかくならなかった。


「音楽を学ぶなら、正式な手続きをとるべきだ。ここは勝手に入っていい場所ではない」


「申し訳ありません」


 ひかりが申し訳なさそうに頭を下げていると、少年たちの一人が前に出てきた。15歳くらいの少年で、知的な表情をしている。


「先生、彼女を追い出すのはもったいないのではないでしょうか? 音楽を学びたいという情熱があるなら」


 バッハは少年を見て、少し考え込んだ。


「フリーデマン、お前はいつも情に厚いな」


 ひかりは驚いた。フリーデマン——バッハの長男のフリーデマン・バッハだ! 後に優れた音楽家になる人物。


「彼女がどれほど真剣なのか、試してみましょう」フリーデマンは提案した。「何か演奏してもらってはどうですか?」


 バッハは少し考えてから頷いた。


「よかろう。娘さん、何か楽器は演奏できるか?」


「はい、ヴァイオリンとピア……鍵盤楽器を少し」


 ひかりは「ピアノ」と言いかけて止まった。この時代、ピアノはまだ一般的ではない。


「ヴァイオリンはないが、チェンバロならある。何か演奏してみるがいい」


 バッハはチェンバロを指さした。ひかりは緊張しながらも、楽器の前に座った。何を弾こうか——そうだ、バッハ自身の作品を。「平均律クラヴィーア曲集」から第1番のプレリュードとフーガを弾こう。現代では初心者でも習う有名な曲だ。


 ひかりは深呼吸して、弾き始めた。チェンバロはピアノと違って音の強弱がつけにくいが、タッチの違いで表現を工夫した。プレリュードの美しいアルペジオが教会に響き渡る。


 演奏を終えると、バッハの表情が変わっていた。驚きと疑問が入り混じった表情だ。


「それは……私の新作だが、まだ誰にも見せていないはずだ。どうして知っている?」


 またしても失敗した。バッハの「平均律クラヴィーア曲集」第1巻は1722年に完成したはずだが、もしかしたらまだ公開されていないのかもしれない。


「あの、噂で聞いたので……」


 バッハはじっとひかりを見つめた。


「噂で聞いただけでは、あのように正確に演奏することはできない。君は誰なのだ?」


 フリーデマンが再び助け舟を出してくれた。


「父上、彼女は才能があるのは確かです。どこでその曲を知ったかは別として、彼女の演奏技術は見事でした」


 バッハは少し考え込んでから、決断したように言った。


「よし、名前は何というのだ?」


「マイア・ルーナといいます」


「マイア・ルーナか。変わった名前だな。まあいい、私のクラスを見学するのを許そう。しかし、勝手な行動は慎むように」


「ありがとうございます!」


 こうして、ひかりはライプツィヒでバッハの教えを受ける機会を得た。フリーデマンが彼女のガイド役となり、トーマス学校や教会の案内をしてくれた。


 数日後、ひかりはバッハの家に招かれた。彼の家は小さいながらも整然としており、至る所に楽譜や楽器が置かれていた。ひかりが部屋に入ると、子どもたちが何人か遊んでいる姿が見えた。


「どうぞ、中へ」


 バッハの妻アンナ・マグダレーナが優しく迎え入れてくれた。彼女は美しい女性で、温かな笑顔が印象的だった。


「あなたがマイアさんね。フリーデマンから聞いたわ。遠いところから音楽を学びに来たのよね」


「はい、よろしくお願いします」


 アンナ・マグダレーナは彼女を居間に案内した。バッハは机に向かって楽譜を書いていたが、ひかりの姿に気づいて振り向いた。


「来たか、マイア。今日は家族と共に過ごしてもらおう。日曜日の礼拝の音楽についても話したいことがある」


 ひかりが部屋を見回すと、楽器が何台も置かれていた。チェンバロ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、リュート、そして小さなパイプオルガンまであった。バッハ家では日常的に音楽が奏でられているのだろう。


 夕食が始まると、バッハの家族全員が集まった。彼には前の妻との間に生まれた子どもたちと、アンナ・マグダレーナとの間の子どもたちがいて、合わせると10人以上になる大家族だった。


「さて、食事の前に讃美歌を歌いましょう」


 バッハの合図で家族全員が立ち上がり、美しいハーモニーで讃美歌を歌い始めた。さすがに音楽家の家族だ。子どもたちも完璧な調和で歌っている。


 食事中、バッハはひかりに質問をした。


「マイア、君はどこから来たのか? 君の演奏技術は相当なものだが、誰に習ったのだ?」


 ひかりは慎重に答えた。


「遠い国から来ました。様々な先生から学んでいますが、特にバッ……先生のような対位法に興味があります」


 対位法という単語を使ったことで、バッハの目が輝いた。


「対位法か! 今の若い音楽家は表面的な装飾や技巧ばかりに気を取られているが、音楽の本質は対位法にある。複数の旋律が独立しながらも調和する美しさこそ、神の創造の秩序を映す鏡だ」


 バッハは熱く語り始めた。彼にとって音楽は単なる娯楽ではなく、神の栄光を表現する手段だったのだ。


 食事の後、バッハはひかりをチェンバロに招いた。


「いくつか新作を聴いてもらいたい。『インヴェンションとシンフォニア』という教育用の作品集だ」


 バッハは席に着き、演奏を始めた。ひかりは息をのんで聴き入った。インヴェンションは2声の対位法、シンフォニアは3声の対位法で書かれた小品集だ。現代でもピアノ学習者が必ず習う曲だが、作曲者本人の演奏を聴けるとは!


 バッハの指は信じられないほど正確で、複雑な対位法をものともせず、完璧に弾きこなしていた。演奏が終わると、彼はひかりに尋ねた。


「どう思うか?」


「素晴らしいです! 特に各声部の独立性と全体の調和が見事でした」


 バッハは満足そうに頷いた。


「その通りだ。この作品集は『鍵盤楽器をまじめに学ぶ人のために』書いたものだ。技術だけでなく、音楽的な思考力を養うためのものでもある」


 彼はひかりにチェンバロを勧めた。


「君も何か弾いてみるがいい」


 ひかりは迷った後、バッハの「フランス組曲」の一部を弾くことにした。優雅なアルマンドからはじまり、活気あるクーラントへと進む。


 演奏を終えると、バッハは驚いた表情を見せた。


「それも私の曲だな。しかし、君の演奏には独特の感覚がある。現代のフランス様式を知っているようだが、どこで学んだのだ?」


「いろいろな先生から……」


 またしても曖昧な返答だが、バッハはそれ以上追及しなかった。代わりに、音楽理論について熱心に話し始めた。音程の関係、和声の原理、フーガの構造——彼の知識は深遠で、ひかりは熱心にメモを取った。


 夜が更けてきたとき、アンナ・マグダレーナが声をかけた。


「もう遅いわ。マイアさん、今日はここに泊まっていきなさい」


 ひかりは感謝して申し出を受けた。客間に案内されると、そこにはすでに何人かの子どもたちが寝ていた。ひかりは静かに空いたベッドに横になった。


 翌朝、ひかりは早くから起きて、バッハの日常を観察した。彼は朝の祈りの後、すぐに作曲に取りかかった。絶え間なく楽譜を書き続け、時々チェンバロで確認している。バッハは教会の音楽監督として毎週新しいカンタータを作曲し、演奏しなければならなかったのだ。


「先生はいつも朝早くから作曲をされるのですか?」ひかりはフリーデマンに尋ねた。


「ああ、父は驚くほど勤勉だ。教会の仕事、教育、作曲と常に忙しい。それでも、自分の芸術的な作品を書く時間も見つけている」


 フリーデマンはひかりにトーマス学校を案内してくれた。そこでは多くの少年たちが音楽教育を受けていた。バッハは彼らに厳しい指導をしながらも、才能ある生徒には特別な配慮をしていた。


「父は外面的には厳格だが、本当は情熱的で優しい人なんだ。彼の音楽にはそれが表れている」


 フリーデマンの言葉に、ひかりは頷いた。確かにバッハの音楽には論理的な構造の中にも、深い感情が込められている。


 数日後、バッハはひかりに大きな話をした。


「来週、ドレスデンの宮廷で演奏会がある。私も招かれているが、君も一緒に来ないか? そこでは優れた音楽家たちが集まるから、君にとっても良い経験になるだろう」


「ドレスデン!?」


 ひかりは驚いた。バッハがドレスデンで演奏したという話は教科書で読んだことがある。特に有名なのは、当時フランス様式の音楽が主流だったドレスデン宮廷で、イタリアの鍵盤奏者ルイス・マルシャンとの演奏対決の話だ。しかし、その対決は実現せず、マルシャンが勝負前に逃亡したというエピソードが残っている。


「はい、ぜひご一緒させてください」


 一週間後、ひかりはバッハとその息子フリーデマンとともにドレスデンへと向かった。馬車での旅は揺れが激しく、不便だったが、沿道の美しい景色に見とれる余裕もあった。


「ドレスデンはザクセン選帝侯の都だ。豪華な宮殿や教会があり、芸術が栄えている」


 バッハの説明に、ひかりは熱心に耳を傾けた。彼はドレスデンの音楽事情についても詳しく語ってくれた。


「現在の宮廷楽長はヨハン・クリストフ・シュミットという人物だが、フランス様式の音楽を好んでいる。私はドイツの伝統とイタリアの表現力を融合させた音楽を書いている。どちらが優れているかは、聴く人の判断だが……」


 バッハの言葉には少し皮肉が混じっていた。当時のドイツでは外国の音楽様式が持て囃されることが多く、バッハはドイツ音楽の価値を証明しようとしていたのだ。


 ドレスデンに到着すると、その壮麗な街並みにひかりは目を見張った。バロック様式の建築物が立ち並び、エルベ川に映える教会の尖塔。まるで絵画のような風景だった。


 彼らは宮廷の客室に案内され、翌日の演奏会に備えた。バッハは自作のオルガン曲とチェンバロ曲を演奏する予定だった。


 夕食の席で、宮廷楽師の一人がバッハに声をかけた。


「バッハ殿、明日はルイス・マルシャンも演奏するそうですね。彼はフランス王ルイ14世の御前演奏を務めた名手です」


「そうか」バッハは淡々と答えた。「楽しみにしている」


 ひかりはこの会話に興味を持った。これが有名な対決の前触れなのだろうか。


 夜、部屋に戻ったひかりは懐中時計を確認した。針はかなり速く回っている。時間が経つにつれ、現代に戻る瞬間が近づいているのかもしれない。


 翌朝、宮廷の音楽ホールには多くの貴族や音楽家が集まっていた。バッハは静かな自信を持って登場し、オルガンに向かった。


 彼の演奏は圧倒的だった。複雑な対位法、豊かな和声、巧みな足鍵盤の技術——すべてが完璧に組み合わさり、ホール全体が音楽で満たされた。演奏が終わると、聴衆からは熱烈な拍手が沸き起こった。


 次に登場したのは、フランスからの客人ルイス・マルシャンだった。華やかな衣装をまとった彼は、優雅にチェンバロに向かった。しかし、彼の演奏は技術的には優れていたものの、バッハの深遠さには及ばなかった。


 演奏会の後、宮廷の高官がバッハとマルシャンに近づいてきた。


「お二人とも素晴らしい演奏でした。ぜひ明日、即興演奏の対決をしていただけませんか? 同じテーマでお二人がどのように発展させるか、非常に興味があります」


 バッハは穏やかに頷いた。


「喜んでお受けします」


 マルシャンは少し緊張した様子だったが、同意した。


「もちろん」


 ひかりはこの展開に胸が高鳴った。歴史的な対決の現場に立ち会えるのだ。


 しかし、翌朝になると、マルシャンの姿はどこにも見えなかった。宮廷の使いの者が報告した。


「マルシャン殿は夜のうちにドレスデンを去られたようです。荷物も持っていかれました」


 会場には動揺が広がった。バッハは驚いた様子もなく、静かに言った。


「では、私だけで演奏させていただきましょう」


 彼はオルガンに向かい、与えられたテーマを基に壮大なフーガを即興で演奏し始めた。聴衆は息をのんで聴き入った。即興とは思えない複雑で美しい音楽が生まれていく様子は、まさに天才の証だった。


 演奏が終わると、ホールは熱狂的な拍手に包まれた。ザクセン選帝侯自身がバッハに近づき、賞賛の言葉を述べた。


「素晴らしい演奏でした。あなたのような才能あるオルガニストがライプツィヒにいることを誇りに思います」


 バッハは謙虚に頭を下げた。


 帰路の馬車の中、ひかりはバッハに尋ねた。


「マルシャンさんが逃げたことについて、どう思われますか?」


 バッハは穏やかな笑みを浮かべた。


「競争は音楽の本質ではない。彼には彼の良さがあるのだろう。私は自分の音楽で神に仕えることが使命だと思っている」


 その言葉に、ひかりは感銘を受けた。バッハは名声や地位よりも、音楽そのものと神への奉仕を大切にしていたのだ。


 ライプツィヒに戻ると、バッハはさらに熱心に作曲に取り組んだ。ひかりは彼の家に滞在しながら、毎日のように新しい音楽が生まれる過程を目撃することができた。


 ある日、バッハはひかりにチェンバロを教え始めた。


「対位法を理解するには、実際に演奏するのが一番だ。まずは二声のインヴェンションから始めよう」


 バッハの指導は厳格だが、非常に論理的で分かりやすかった。彼は音楽理論の基礎から丁寧に説明し、ひかりの質問に根気強く答えてくれた。


「音楽は数学的な秩序と感情表現が一体となったものだ。どちらか一方だけでは、真の音楽とは言えない」


 そんなバッハの教えは、ひかりにとって貴重な財産となった。


 週末になると、バッハは新しいカンタータの練習をトーマス教会で行った。ひかりも合唱に参加させてもらい、バッハの指揮の下で歌った。バッハのカンタータは聖書のテキストに基づいており、合唱、アリア、レチタティーヴォなどが組み合わさった壮大な宗教音楽だった。


「音楽は神の栄光を讃えるものだ。だからこそ、最高の技術と心を込めなければならない」


 バッハのそんな信念は、彼の音楽の隅々にまで表れていた。


 ある日、バッハはひかりに新しい楽譜を見せた。


「これは『マタイ受難曲』という作品の構想だ。イエス・キリストの受難の物語を音楽で表現したいと思っている」


 ひかりは興奮した。「マタイ受難曲」はバッハの最高傑作の一つだ。その創作過程を目の当たりにできるなんて!


「壮大な計画ですね」


「ああ、二つの合唱団とオーケストラを使用する予定だ。物語の劇的な要素と神学的な意味の両方を表現したい」


 バッハは熱心に説明を続けた。彼の目には情熱と確信が輝いていた。


 その夜、ひかりは懐中時計を再び確認した。針はさらに速く回っている。もうすぐ現代に戻る時が来るのかもしれない。彼女は複雑な感情に包まれた。バッハからもっと学びたいという気持ちと、家族のいる現代に戻りたいという思いが交錯する。


 翌朝、バッハは驚くべき提案をした。


「マイア、私はハンブルクに行く予定がある。そこで旧友のテレマンに会う予定だ。君も一緒に来ないか?」


 ゲオルク・フィリップ・テレマン——バロック時代のもう一人の巨匠だ。彼もまた多作で知られ、バッハと親交があった。


「ぜひ行きたいです!」


 ひかりは喜んで答えたが、その瞬間、懐中時計が突然光り始めた。


「あっ……」


 バッハは不思議そうな顔で彼女を見た。


「どうした?」


 時計からの光がどんどん強くなり、部屋全体が明るく照らされた。


「これは一体……」


 バッハは驚いた様子で立ち上がった。


「先生、ありがとうございました!」


 ひかりは咄嗟に叫んだ。「あなたの音楽は未来でも愛され続けます!」


 言い終わる前に、彼女の体は光に包まれ、ライプツィヒの風景が遠ざかっていった。バッハの驚いた顔、トーマス教会の姿、そして18世紀のドイツの風景が光の中に消えていった。


## 第6章 ヘンデルと王様の水上音楽


 光が弱まり、ひかりが目を開けると、そこは豪華な邸宅の一室だった。巨大なシャンデリア、絢爛豪華な装飾、高い天井——明らかに裕福な家の室内だ。窓の外には整備された庭園が広がっている。


「ここはどこ?」


 彼女が周囲を見回していると、ドアが開き、一人の召使いが入ってきた。


「あら、起きましたか。ヘンデル様がお呼びです」


「ヘンデル?」


 ひかりは驚いた。ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル——バッハと同じ1685年に生まれた作曲家で、「メサイア」や「水上の音楽」などの傑作で知られる巨匠だ。


「あの、ここはどこですか?」


「ロンドンです。バーリントン伯爵の邸宅におります」


 ロンドン! バッハのいたドイツから、今度はイギリスにタイムスリップしたのか。


 召使いに導かれて廊下を進むと、豪華な音楽室に案内された。そこには、立派な体格の男性が鍵盤楽器に向かって座っていた。威厳のある顔立ちで、豊かな巻き毛のかつらをつけている。


「やあ、マイア。気分はどうかね?」


 彼はドイツ訛りの英語で話しかけてきた。間違いない、これはヘンデルだ!


「あ、はい、大丈夫です……」


 ひかりは混乱しながらも答えた。どうやら、この時空間でも「マイア・ルーナ」という名前で知られているらしい。


「良かった。昨日は突然気を失って心配したよ。医者に診せたが、休息が必要とのことだった」


「すみません、ご心配をおかけして」


 ひかりは恐る恐る周囲を見回した。いつの時代なのか、そしてヘンデルとはどういう関係なのか、手がかりを探したかった。


「さて、今日は重要な日だ。王様の水上パレードのためのリハーサルがある。私の新作『水上の音楽』を初演する日だ」


「『水上の音楽』!?」


 ひかりは思わず声を上げた。ヘンデルの代表作の一つであり、ロンドンのテムズ川での王室の船上パレードのために作曲された音楽だ。その初演に立ち会えるなんて!


「そう、驚くほどのことではないだろう。君はすでに楽譜を見ているはずだ」


 ヘンデルは少し不思議そうに彼女を見た。


「ええ、もちろん……素晴らしい作品ですね」


 ひかりは曖昧に答えた。どうやら、彼女はヘンデルの弟子か助手のような立場にあるようだ。


「では、準備をしよう。演奏者たちはもうすぐ到着する」


 ヘンデルが立ち上がると、彼の堂々とした体格がより際立った。バッハが中肉中背で物静かだったのに対し、ヘンデルは大柄で社交的な印象だ。


 音楽室には次々と演奏者たちが集まってきた。弦楽器、木管楽器、金管楽器の奏者たち——全部で20人程度の小さなオーケストラが形成された。


「皆さん、今日は最終リハーサルだ」


 ヘンデルは威厳のある声で話し始めた。


「明日は国王ジョージ1世のための特別な演奏となる。テムズ川での船上パレードだ。我々は王の船に同乗し、音楽を奏でる。これは非常に名誉なことだ」


 演奏者たちからは興奮の声が上がった。国王のための特別な演奏というのは、音楽家にとって最高の栄誉だ。


「マイア、楽譜を配ってくれ」


 ヘンデルの指示に、ひかりは机の上に積まれた楽譜を取り、演奏者たちに配った。「水上の音楽」の楽譜だ。3つの組曲からなる壮大な作品で、屋外での演奏を考慮した編成になっている。


 リハーサルが始まると、ヘンデルは熱心に指揮をした。彼の指導は情熱的で、時に厳しいが、常に音楽表現を大切にしていた。


「もっと堂々と! これは王のための音楽だ。威厳と喜びを表現するんだ!」


 ヘンデルの指示で、オーケストラの演奏はみるみる洗練されていった。壮大な序曲、優雅なメヌエット、華やかなホルンパッセージ——すべてが見事に調和していた。


 リハーサルの合間に、ヘンデルはひかりに近づいてきた。


「マイア、君の意見も聞かせてくれ。第二組曲のホルンの部分、もう少し目立たせた方がいいだろうか?」


 ひかりは驚いた。ヘンデルが彼女の意見を求めるということは、単なる助手以上の存在と見なされているようだ。


「はい、ホルンの音色は屋外でもよく響くので、もう少し前面に出しても良いと思います。特に王様の船が通過するときは、その華やかさが効果的でしょう」


 ヘンデルは満足そうに頷いた。


「その通りだ。君は音楽の効果についてよく理解している」


 リハーサルが終わると、ヘンデルはひかりを書斎に招いた。壁には肖像画が飾られ、大きな書棚には楽譜や書物が並んでいた。


「マイア、私は今、次の作品の構想を練っている。イタリアオペラから離れて、英語によるオラトリオを書きたいと思っているんだ」


「オラトリオですか?」


 ひかりは興味を持った。ヘンデルは後にオラトリオの作曲家として大成功を収めることになる。特に「メサイア」は不朽の名作として今も世界中で演奏されている。


「そう、聖書の物語に基づいた劇的な音楽作品だ。舞台装置や衣装は必要ないが、音楽だけで物語を表現する。イタリアオペラは費用がかかりすぎるし、英国の観客にはあまり受けていない」


 ヘンデルは熱心に説明した。彼はロンドンでイタリアオペラを上演する劇団を運営していたが、経営は順調ではなかったようだ。


「素晴らしいアイデアだと思います。英語のテキストなら、より多くの人々に理解されますね」


「その通りだ」ヘンデルは嬉しそうに答えた。「聖書の物語は誰もが知っているし、音楽を通じて感動を与えることができる」


 彼は机の上の楽譜を指さした。


「これは『エスター』というオラトリオの草稿だ。旧約聖書の物語に基づいている。まだ実験的な段階だが……」


 ひかりは楽譜を覗き込んだ。後にヘンデルの作風となる壮大な合唱と感情豊かなアリアの原型が既に見て取れた。


「とても興味深いです。ぜひ完成を楽しみにしています」


 その夜、ヘンデルの邸宅で盛大な夕食会が開かれた。ロンドンの音楽家や貴族たちが集まり、明日の水上パレードについて話に花を咲かせていた。


 ひかりは初めはおどおどしていたが、周囲の人々は彼女をヘンデルの弟子として尊重してくれた。話を聞いているうちに、彼女はこの世界での自分の立場を少しずつ理解していった。どうやら彼女は「マイア・ルーナ」として、イタリアから来た若く才能ある音楽家という設定になっているようだ。


 席の隣に座った年配の紳士が彼女に話しかけてきた。


「マイア嬢、ヘンデル先生の下で学ぶのはいかがですか? 彼は気難しい面もありますが、天才的な音楽家ですからね」


「はい、毎日が学びの連続です。先生の音楽への情熱と深い理解に感銘を受けています」


「そうでしょうね。私は彼がハノーファーにいた頃からの知り合いなのですよ。彼がイタリアで研鑽を積み、その後ロンドンに来たときも応援していました」


 この情報から、ひかりは現在の時代をおおよそ把握できた。ヘンデルは若い頃イタリアで音楽を学び、その後ハノーファー選帝侯(後のイギリス王ジョージ1世)の楽長となり、1712年にロンドンに移住した。「水上の音楽」が初演されたのは1717年だから、今はその頃だろう。


 夕食会の後半、ヘンデルがチェンバロに向かい、即興演奏を始めた。彼の演奏は技巧的でありながら、聴く人の心に直接訴えかける力強さがあった。バッハの厳格な対位法とは異なる、より劇的で感情豊かな音楽だ。


 演奏が終わると、ヘンデルはひかりに手招きした。


「マイア、君も何か演奏してみないか?」


 席から立ち上がり、チェンバロの前に座ったひかりは、何を弾くべきか考えた。ヘンデル自身の曲を弾くのは少し気が引けるが、バッハの曲だとこの場の雰囲気に合わないかもしれない。そうだ、スカルラッティの「ソナタ」を弾こう。ドメニコ・スカルラッティはヘンデルと同時代の作曲家で、鍵盤音楽の名手だった。


 ひかりは軽快なスカルラッティのソナタを弾き始めた。技巧的な跳躍や装飾音が特徴的な曲だ。聴衆は彼女の演奏に魅了され、拍手喝采を送った。


「見事だ!」ヘンデルは称賛した。「スカルラッティの曲だな。彼とは昔、ローマでピアノ対決をしたことがある。彼は鍵盤の名手だが、作曲の幅広さでは私の方が上だと自負しているよ」


 ヘンデルの率直な自信に、ひかりは思わず微笑んだ。彼は自分の才能を十分に認識していたのだ。


 翌日、ひかりはヘンデルとともにテムズ川の船着場に向かった。川岸には既に多くの人々が集まり、王室のパレードを見ようと待ち構えていた。


「あれが王の船だ」


 ヘンデルが指さした方向には、豪華な装飾が施された大きな船が見えた。その後ろには50隻以上の船が連なり、壮大な船団を形成していた。


「我々の船はこちらだ」


 音楽家たちは専用の船に乗り込んだ。オーケストラのメンバーたちは既に集合しており、楽器の調律を行っていた。特にホルン奏者たちは念入りに準備していた。彼らの華やかな音色が「水上の音楽」の特徴だからだ。


 ヘンデルは最終確認をした。


「天候は良好だ。風も穏やかで音が拡散しすぎることはないだろう。全力を尽くそう」


 程なくして、国王ジョージ1世を乗せた豪華な船が出発した。それに合わせて、ヘンデルは指揮棒を上げた。


「さあ、始めよう!」


 荘厳な序曲が響き渡った。テムズ川の水面に音楽が反射し、独特の響きを生み出している。岸辺の観衆は歓声を上げ、船上の音楽隊に手を振った。


 ひかりはヘンデルの隣に立ち、楽譜をめくる役割を担っていた。彼の真剣な表情、音楽への情熱、そして作品への誇り——すべてが彼の姿から伝わってきた。


 船がウェストミンスターの橋を通過する頃、「水上の音楽」の最も有名な部分、ホルン協奏曲が始まった。力強いホルンの音色がテムズ川全体に響き渡り、沿岸の観衆からは喝采が沸き起こった。


 王の船から手が振られた。ジョージ1世本人だ。彼はヘンデルの方を見て、満足げに頷いた。


「王様がお喜びのようだ」


 ひかりが小声で言うと、ヘンデルは誇らしげに微笑んだ。


「この音楽で、私とジョージ王との関係も修復されるだろう」


 ひかりはその言葉に興味を持った。歴史の授業で習ったことを思い出す。ヘンデルはかつてハノーファー選帝侯(後のジョージ1世)に仕えていたが、許可なくロンドンに長期滞在したことで不興を買っていた。「水上の音楽」はその関係修復のために作曲されたという説があるのだ。


 パレードは3時間以上続き、その間ずっと「水上の音楽」が演奏された。ヘンデルは船の上を行ったり来たりしながら、演奏者たちに指示を出していた。彼の情熱は尽きることがなかった。


 最後の楽章が演奏され、パレードが終わると、国王の船から使いの者がやってきた。


「陛下がヘンデル様をお呼びです」


 ヘンデルは緊張した様子で、王の船に向かった。ひかりも同行を許された。


 船内の豪華な客室で、ジョージ1世はヘンデルに声をかけた。


「素晴らしい音楽だった。私の耳に心地よく響いたぞ」


 ドイツ訛りの英語で話すジョージ1世。彼はもともとハノーファーの選帝侯で、イギリス王位を継承したため、英語は流暢ではなかった。


「恐悦至極に存じます、陛下」


 ヘンデルは深く頭を下げた。


「今後も宮廷の音楽をお願いしたい。年金も増額しよう」


「身に余るご厚意、誠にありがとうございます」


 王との会見を終え、船を降りると、ヘンデルは安堵の表情を浮かべた。


「これで私の地位も安泰だ。ロンドンでの活動をさらに発展させることができる」


 ひかりも彼の成功を心から喜んだ。「水上の音楽」の初演に立ち会い、その歴史的瞬間を目撃できたことは、この不思議な旅の中でも特別な体験だった。


 その夜、ヘンデルは成功を祝うパーティーを開いた。音楽家たちは皆、興奮して今日のパレードについて語り合っていた。


「あのホルンの響きは素晴らしかった!」

「観衆の反応も最高だったね」

「これでヘンデル先生の名声はさらに高まるだろう」


 ひかりはそんな会話を聞きながら、ヘンデルの音楽の歴史的意義について考えていた。彼の「水上の音楽」は300年後の現代でも演奏され、愛されている。自分がその初演に立ち会えたことが信じられなかった。


 パーティーの後半、ヘンデルはひかりを書斎に呼んだ。


「マイア、私は来週、イタリアオペラの新作『リナルド』の改訂版を上演する予定だ。君にも手伝ってほしい」


「喜んでお手伝いします」


「実はこのオペラ、初演は成功したが、費用がかかりすぎた。今回はもう少し質素に、しかし音楽の質は落とさずに上演したい」


 ヘンデルは机の上の楽譜を広げた。「リナルド」はヘンデルのイタリアオペラの代表作の一つで、美しいアリアが多く含まれている。


「この『緑の草地』のアリアは、特に聴衆に好評だった。しかし、オーケストレーションをもう少し見直したい」


 ひかりはヘンデルと共に楽譜を検討し、いくつかの提案をした。現代での音楽教育が役立ち、彼女の意見にヘンデルも耳を傾けてくれた。


 数日後、ひかりはヘンデルとともにオペラハウスでのリハーサルに立ち会った。歌手たちの練習を見ながら、ヘンデルは時折演出について指示を出していた。


「もっと感情を込めて! これは愛の歌なのだ。心の底から歌わなければ観客は感動しない」


 彼の指導は厳しいが、常に音楽表現を最優先していた。歌手たちも彼の指示に従い、見違えるように表現力が増していった。


 リハーサルの合間、ひかりはヘンデルに尋ねた。


「先生は今後、どのような音楽を作曲したいとお考えですか?」


 ヘンデルは少し考えてから答えた。


「私はいつも時代の要求と自分の芸術的欲求の間でバランスを取ってきた。イタリアオペラは洗練されているが、英国の観客には少し遠い存在だ。もっと彼らの心に直接届く音楽を作りたい」


 彼は窓の外を見ながら続けた。


「実は、聖書に基づく大規模な作品を構想している。オラトリオの形式だが、従来のものより劇的で感動的なものにしたい。『メサイア』という仮題で考えているんだ」


 ひかりはドキッとした。「メサイア」はヘンデルの最高傑作であり、「ハレルヤ」合唱を含む不朽の名作だ。その構想段階に立ち会えるとは!


「素晴らしいですね! キリストの生涯を音楽で表現するのですか?」


「そう、誕生から復活までを描く壮大な作品にしたい。合唱を多用して、民衆の声を表現する。個人的な信仰表現というよりは、普遍的な人間ドラマとして描きたいんだ」


 ヘンデルの目は遠くを見ているようだった。彼の中で既に「メサイア」の構想が形になりつつあるのだろう。


 その夜、ひかりは自分の部屋で懐中時計を確認した。針はかなり速く回っている。もうすぐ現代に戻る時が来るのかもしれない。彼女は複雑な気持ちだった。ヘンデルの「メサイア」の創作過程を見守りたい気持ちもあるが、家族のいる現代に戻りたいという思いも強かった。


 翌朝、ヘンデルは嬉しそうに新しい楽譜を持ってきた。


「マイア、夜中にインスピレーションが湧いてね。『メサイア』の一部を書いてみたんだ。聴いてくれないか?」


 彼はチェンバロに向かい、楽譜を置いた。それは後に「ハレルヤ」合唱として知られることになる部分の原型だった。ヘンデルの指が鍵盤を叩き、荘厳な旋律が部屋に響き渡った。


「まだ荒削りだが、こんな感じだ。合唱とオーケストラが加われば、もっと壮大になるだろう」


 ひかりは感動して言葉を失った。「ハレルヤ」合唱の誕生の瞬間に立ち会えるとは。彼女の目に涙が浮かんだ。


「どうした? そんなに悪いか?」ヘンデルは心配そうに尋ねた。


「いいえ、素晴らしすぎて……この音楽は必ず人々の心を打ちます。何百年も愛され続けるでしょう」


 ヘンデルは彼女の言葉に驚いたような表情をした。


「何百年も? 君は時々、未来が見えるかのような言い方をするね」


 その瞬間、懐中時計が急に明るく光り始めた。部屋全体が白い光に包まれる。


「マイア? 何が起きている?」


 ヘンデルは驚いて立ち上がった。


「先生、あなたの『メサイア』は必ず完成させてください! それは不朽の名作となり、世界中の人々に感動を与えます!」


 ひかりは光に包まれながら叫んだ。ヘンデルの姿、ロンドンの街並み、18世紀のイギリスの風景が、光の中に溶けていった。


## 第7章 宮廷と教会の音楽家たち


 光が弱まり、ひかりが目を開けると、そこは美しい宮殿の一室だった。天井には繊細なフレスコ画が描かれ、壁には金色の装飾が施されている。窓からは整備された庭園と噴水が見える。


「ヴェルサイユ宮殿?」


 ひかりは思わず声に出した。フランスのヴェルサイユ宮殿によく似た内装だ。彼女が周囲を見回していると、扉が開き、優雅な身なりの年配の紳士が入ってきた。


「やあ、マドモワゼル・マイア。お待ちしていたよ」


 彼はフランス語で話しかけてきた。不思議なことに、ひかりには完璧に理解できた。


「あの、貴方は?」


 紳士は少し驚いた様子だった。


「私だよ、ジャン=フィリップ・ラモー。一昨日まで一緒に王室のオペラの準備をしていたではないか」


 ラモー! フランスバロック音楽の代表的作曲家の一人だ。彼は対位法や和声の理論家としても有名で、重要な音楽理論書を著している。


「あ、すみません。少し頭がぼんやりしていて……」


 ラモーは心配そうに彼女を見た。


「大丈夫かい? 昨日の夜、急に気分が悪くなったようだったからね。医者にも診せたが」


「はい、もう大丈夫です。ありがとうございます」


 ひかりは状況を理解しようと努めた。どうやらフランスの宮廷に来たようだ。ラモーが活躍したのは18世紀前半から中頃。ルイ15世の時代のことだろう。


「さて、今日は重要な日だ。王の前で『優雅なインドの国々』の最終リハーサルがある。君には重要な役割があるからね」


 『優雅なインドの国々(Les Indes galantes)』——ラモーのオペラ・バレの代表作の一つだ。エキゾチックな異国の情景を描いた作品で、当時のフランス人の異文化への憧れを反映している。


「はい、頑張ります」


 ひかりは曖昧に答えたが、自分がどんな役割を担っているのか見当もつかなかった。


 ラモーに導かれて宮殿の廊下を歩きながら、ひかりは周囲の豪華な調度品や美術品に目を奪われた。ヴェルサイユ宮殿の内部は、芸術の宝庫だ。


 大きなホールに入ると、そこには多くの音楽家や踊り手たちが集まっていた。豪華な衣装を着た歌手たち、練習をする踊り手たち、楽器を調律する演奏者たち——フランスの宮廷オペラの世界だ。


「皆さん、注目を!」


 ラモーが声を上げると、全員が静かになった。


「今日は国王陛下の前での最終リハーサルだ。全力を尽くそう。特に『花の祭り』の場面は陛下がお気に入りだと聞いている。完璧に仕上げたい」


 音楽家たちは緊張した様子で頷いた。


「マイア、君はチェンバロを担当してくれ」


 ラモーの言葉に、ひかりは安堵した。チェンバロなら何とかなるだろう。彼女はチェンバロの前に座り、楽譜を確認した。『優雅なインドの国々』の通奏低音のパートだ。


 リハーサルが始まると、ラモーは熱心に指導を行った。彼は細かい音楽表現にこだわり、特にフランス風の優雅なリズムと装飾を重視していた。


「もっと軽やかに! 我々の音楽は軽やかさと優雅さが命なのだ」


 彼の指示の下、オーケストラと歌手たちは見事な調和を見せ始めた。ひかりもチェンバロで通奏低音を担当し、何とか務めを果たしていた。


 リハーサルの合間、ラモーはひかりに近づいてきた。


「マイア、昨日とは違う弾き方をしているね。より生き生きとしていて良いが、少し驚いたよ」


「あ、すみません。少し新しいアプローチを試してみました」


「いいよ、むしろ興味深い。君はイタリアでクープランやスカルラッティの影響を受けたと言っていたが、今日の演奏にはそれが表れているね」


 フランソワ・クープラン——フランスバロックの鍵盤音楽の大家だ。ひかりは音楽の授業で彼の名前を聞いたことがあった。


 リハーサルの後半、一人の華やかな衣装を着た貴族が入ってきた。周囲の人々が急に緊張した様子を見せ、深々と頭を下げた。


「国王陛下だ」


 ラモーが小声で教えてくれた。ルイ15世本人だ。まだ若く、威厳ある姿をしている。


 国王は特別な席に着き、オペラの最終場面を見学した。豪華な衣装と舞台装置、美しい音楽と洗練された踊り——フランスバロックオペラの華麗さが凝縮された場面だ。


 演奏が終わると、ルイ15世は立ち上がり、微笑んだ。


「素晴らしい。ラモー、あなたの音楽はフランスの誇りだ」


 ラモーは深々と頭を下げた。


「身に余るお言葉、恐悦至極に存じます」


 国王はさらに続けた。


「明日の本番が楽しみだ。特に『花の祭り』の場面は、自然の美しさと人間の技芸が見事に調和していた」


 お褒めの言葉をいただいたラモーは喜びに満ちた表情を見せた。彼の芸術がついに国王に認められたのだ。


 国王が退出した後、音楽家たちは興奮して語り合った。


「陛下に褒められたぞ!」

「明日はもっと完璧に演奏しなければ」

「ラモー先生の傑作が認められて良かった」


 ひかりもラモーの成功を心から喜んだ。彼の音楽は現代では少しマイナーかもしれないが、フランスバロック音楽の重要な遺産だ。


 その夜、ラモーはひかりを自分の仕事部屋に招いた。そこには多くの楽譜と理論書が並んでいた。


「マイア、君に見せたいものがある」


 彼は一冊の厚い本を取り出した。タイトルには『和声論』と書かれている。ラモーの音楽理論書だ。


「これは私の理論研究の集大成だ。音楽は感情を動かすものだが、その基礎には数学的な秩序がある。私はその秩序を解明しようとしているんだ」


 ひかりは興味深く本をめくった。そこには和音の進行や転回形、基本的な和声法則が体系的にまとめられていた。現代の音楽理論の基礎となる内容だ。


「素晴らしいです。音楽と数学の関係を解明されたのですね」


「そう、私は音楽を科学的に分析することで、より良い作曲ができると信じている。しかし、最終的には感情表現が大切だ。理論は手段であって目的ではない」


 ラモーの言葉に、ひかりは深く共感した。彼は理論家でありながら、芸術家としての感性も大切にしていたのだ。


「先生は理論と実践の両方で優れていらっしゃいますね」


 ラモーは微笑んだ。


「君の言葉に感謝する。私は50歳を過ぎてからようやくオペラ作曲家としての成功を手にした。若い頃は地方のオルガニストとして細々と暮らしていたんだ。人生、諦めてはいけないということだね」


 ひかりはその言葉に励まされた。ラモーのように、遅咲きでも素晴らしい成功を収めることができるのだ。


 翌日、『優雅なインドの国々』の本番が宮廷劇場で行われた。ひかりはチェンバロで演奏に参加し、作品の素晴らしさを実感した。フランスバロックオペラの特徴である壮大な序曲、優雅な舞曲、感情豊かなレシタティーヴォ——すべてが見事に調和していた。


 公演は大成功を収め、国王をはじめ宮廷の人々から熱烈な拍手が送られた。ラモーの音楽が当時の最先端として評価された瞬間だった。


 公演の後、ラモーはひかりに次の計画を話した。


「明日からパリに戻り、一般の観客のための公演を行う。宮廷だけでなく、より広い層に私の音楽を届けたいんだ」


「素晴らしいですね。より多くの人々があなたの音楽に触れるべきです」


 ラモーは嬉しそうに頷いた。


「マイア、君は若いが音楽への理解が深い。これからも私の助手として協力してほしい」


 その言葉に、ひかりは複雑な気持ちになった。ラモーの下でもっと学びたいという思いと、いつか現代に戻らなければならないという現実の間で揺れていた。


 その夜、宮殿の自室に戻ったひかりは、懐中時計を確認した。針はさらに速く回っている。もうすぐまた移動するのだろうか。


 翌朝、ひかりはラモーとともにヴェルサイユを出て、馬車でパリへと向かった。途中、彼は熱心に次の作品について語った。


「私は次に『カストールとポリュックス』というオペラを構想している。ギリシャ神話に基づく物語で、兄弟愛を扱った作品にしたい」


 『カストールとポリュックス』——ラモーの最高傑作の一つとされるオペラだ。ひかりはその創作過程に立ち会えることに感動した。


 パリに到着すると、彼らはオペラ座に直行した。そこでは既に次の公演の準備が始まっていた。歌手や踊り手たちは熱心に練習し、装置係は舞台背景を整えている。


「パリの観客は宮廷と違って率直だ」とラモーは言った。「彼らは気に入らなければ容赦なく批判する。だからこそ、より完璧な演奏を目指さなければならない」


 ひかりはパリのオペラ座を興味深く観察した。宮廷の劇場より大きく、より多くの観客を収容できるようになっている。バロック時代のパリの文化的中心地の一つだ。


 リハーサルが始まると、ラモーは細部にまでこだわった指導を行った。彼は特に舞踊の部分に力を入れていた。フランスバロックオペラでは舞踊が非常に重要な要素だったのだ。


「フランス音楽の真髄は優雅さにある」とラモーは音楽家たちに語った。「イタリアのような派手さではなく、洗練された表現を目指すのだ」


 リハーサルの合間、ひかりはオペラ座の裏手にある小さなカフェで休憩していた。そこに一人の若い男性が近づいてきた。


「マドモワゼル・マイア、ですよね? ラモー先生の助手だと聞きました」


「はい、そうですが……」


「私はジャン=ジャック・ルソーと申します。音楽にも関心があって、特にラモー先生の和声理論に興味を持っています」


 ひかりは驚いた。ジャン=ジャック・ルソー——後に『社会契約論』を著す啓蒙思想家だ。彼が若い頃、音楽にも関わっていたというのは授業で聞いたことがあった。


「ルソーさん、お会いできて光栄です」


「いえいえ。実は私も作曲を試みていて、いつかオペラを書きたいと思っているんです。ラモー先生の和声理論を勉強していますが、難しくて……」


 彼は恥ずかしそうに笑った。


「もし良ければ、少しアドバイスをいただけないでしょうか?」


 ひかりは現代の音楽教育で学んだ知識を生かして、簡単な和声の仕組みをルソーに説明した。彼は熱心に聞き入り、メモを取っていた。


「感謝します。あなたの説明は先生よりわかりやすいです。実は私、イタリアオペラの簡素な様式の方がフランスの複雑なものより自然だと思っているんですが……これは先生には言わないでください」


 ルソーは小声で言った。彼の意見は当時のフランスでは少数派だったようだ。後にルソーはラモーと音楽観をめぐって対立することになるが、この時点ではまだ若く、学ぶ立場だった。


 カフェでの会話を終え、ひかりがオペラ座に戻ると、ラモーが新しい楽譜を持って待っていた。


「マイア、これは『カストールとポリュックス』の第一幕の草稿だ。君の意見が聞きたい」


 ひかりは楽譜を見て、感動した。現代でも演奏される名作オペラの誕生の瞬間に立ち会えるとは。


「素晴らしいです。特にこの合唱の部分が印象的ですね」


 ラモーは満足そうに頷いた。


「そうだろう? 私は合唱を通じて集団の感情を表現したいんだ。個人の感情だけでなく、共同体としての人間の姿も描きたい」


 その夜、パリの自室に戻ったひかりは、懐中時計を再び確認した。針は異常な速さで回っている。もうすぐまた移動するのだろう。彼女は複雑な気持ちだった。ラモーの新作オペラの創作過程をもっと見守りたい気持ちもあるが、この不思議な旅もそろそろ終わりに近づいているのかもしれない。


 翌朝、オペラ座での最終リハーサルが始まった。『優雅なインドの国々』のパリ公演はいよいよ明日だ。ラモーは細部にまでこだわり、音楽家たちを厳しく指導していた。


「さあ、もう一度『花の祭り』の場面から。より優雅に、より表情豊かに!」


 オーケストラが演奏を始め、踊り手たちが優美な動きで舞台を舞う。ひかりはチェンバロで通奏低音を担当しながら、フランスバロック音楽の優雅さと洗練を実感していた。


 リハーサルが終わると、ラモーはひかりに近づいてきた。


「マイア、明日の公演は大丈夫だろうか? パリの観客は厳しいからね」


「きっと成功しますよ。先生の音楽は誰の心も捉えます」


 ラモーは少し不安そうな表情を見せた。


「私はずっと地方で活動していて、パリのデビューは遅かった。今やっと認められ始めたところだ。この成功を無駄にしたくない」


 ひかりは彼を励ました。


「先生の音楽は時代を超えて愛されるものです。自信を持ってください」


 ラモーは彼女の言葉に感謝の笑みを浮かべた。


 オペラ座を出ると、ひかりはパリの街を散策することにした。18世紀のパリは活気に満ちていた。カフェでは知識人たちが熱心に議論し、書店には新しい思想を記した本が並んでいる。啓蒙時代の息吹が感じられた。


 セーヌ川沿いを歩いていると、ノートルダム大聖堂が見えてきた。そこからは荘厳なオルガンの音色が聞こえてきた。興味を持ったひかりは、中に入ってみることにした。


 聖堂内部は薄暗く、ステンドグラスから差し込む光が幻想的な雰囲気を作り出していた。オルガンの演奏はまだ続いている。力強い音色が聖堂全体に響き渡り、荘厳な空間を作り出していた。


 演奏が終わると、オルガニストが降りてきた。50代くらいの男性で、穏やかな表情をしている。


「素晴らしい演奏でした」


 ひかりは思わず彼に声をかけた。


「ありがとう、若いお嬢さん」


 男性は微笑んだ。


「私はルイ・クープランだ。この教会のオルガニストをしている」


 クープラン! フランスを代表する音楽家一族の名前だ。特にフランソワ・クープランは「偉大なるクープラン」として知られている。


「クープランさん、お目にかかれて光栄です。私はマイア・ルーナと申します。ラモー先生のもとで音楽を学んでいます」


「ラモーか。彼は優れた理論家だ。私の従兄のフランソワも彼の和声理論を高く評価している」


 ルイ・クープランは彼女をオルガンのある場所に招いた。


「フランソワはヴェルサイユの宮廷で活躍しているが、私は教会音楽の道を選んだ。どちらも同じ神に仕える音楽だと思っている」


 彼はオルガンの鍵盤に手を置いた。


「教会音楽には厳格さと荘厳さが必要だ。バッハのような複雑な対位法ではなく、フランス独自の優雅さと明快さを大切にしている」


 ひかりはクープランの言葉に興味を持った。バロック時代には国ごとに異なる音楽様式があり、それぞれが独自の特徴を持っていたのだ。


「バッハ先生の音楽もご存じなのですか?」


「ああ、ドイツの大家だね。彼の作品はフランスではあまり知られていないが、音楽家の間では評価が高い。私も彼のオルガン作品を少し研究しているよ」


 クープランは再びオルガンを演奏し始めた。バッハの「トッカータとフーガ ニ短調」だ。力強く荘厳な音楽が聖堂に響き渡った。


「バッハの音楽は神の栄光を表すのに最適だ。複雑な構造の中に、深い信仰心が表れている」


 ひかりはクープランの演奏に聴き入った。同じバロック時代でも、国や作曲家によって音楽の特徴が大きく異なることを実感した。


 演奏が終わると、クープランは彼女に尋ねた。


「君も何か弾いてみないか?」


 ひかりは恐る恐るオルガンの前に座った。何を弾こうか——バッハの「小フーガ ト短調」を選んだ。この曲は現代の音楽教育でもよく取り上げられる作品だ。


 彼女は集中して演奏を始めた。パイプオルガンの独特の響きに戸惑いながらも、曲の構造をしっかりと表現しようと努めた。


 演奏が終わると、クープランは驚いた表情を見せた。


「見事だ! 君はドイツで学んだのかね? バッハの音楽をそれほど理解しているとは」


「いえ、様々な先生から学びました」


 ひかりは曖昧に答えた。


「君の演奏には何か特別なものがある。まるで音楽の本質を見抜いているようだ」


 クープランの言葉に、ひかりは複雑な感情を抱いた。現代の音楽教育で学んだことが、この時代の演奏に反映されているのだろう。


 ノートルダム大聖堂を後にし、ひかりはオペラ座に戻った。夕方になり、明日の公演のための最終準備が行われていた。


 ラモーは彼女の姿を見つけると、嬉しそうに近づいてきた。


「マイア、良いところに来た。実は宮廷から連絡があってね。国王が明日の公演を観に来るそうだ!」


「まあ、それは素晴らしいですね!」


「ああ、これは私の音楽が真に評価された証だ。宮廷だけでなく、一般のパリ市民の前でも演奏したいという私の願いに、国王が理解を示してくれたんだ」


 ラモーは興奮して語った。彼の目は喜びに輝いていた。


 その夜、オペラ座の近くの宿に戻ったひかりは、懐中時計を見て驚いた。針が猛烈な速さで回転し、時計全体が明るく輝き始めていたのだ。


「もう時間なのか……」


 彼女はベッドに座り、これまでの不思議な旅を振り返った。モンテヴェルディ、ヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデル、そしてラモー——バロック時代の偉大な作曲家たちとの出会い。彼らの音楽が生まれる瞬間に立ち会えたことは、かけがえのない経験だった。


 時計の光が強まる中、ひかりは窓の外のパリの街並みを最後に見つめた。


「ラモー先生、明日の公演、きっと成功しますように……」


 そう祈るように呟いた瞬間、彼女の体は光に包まれ、18世紀のパリの風景が遠ざかっていった。


## 第8章 時を超える音色


 光が弱まり、ひかりが目を開けると、そこは見覚えのある場所だった。音楽室——彼女の学校の音楽室だ。窓からは夕日が差し込み、部屋を温かいオレンジ色に染めている。


「戻ってきた……」


 ひかりは自分の制服を見下ろした。元の姿に戻っている。懐中時計を確認すると、針はもう動いていなかった。


 時計を手に取り、ゆっくりと蓋を開けてみた。すると、かすかな音楽が流れ始めた。バッハの「G線上のアリア」——彼女の冒険が始まったときと同じ曲だ。しかし今回は、時計が光ることはなかった。


 ひかりは深い安堵とともに、少しの寂しさを感じた。あの不思議な旅は終わったのだ。


 時計を閉じ、彼女は音楽室の棚を見た。あの古い楽譜が置かれていた棚だ。しかし今は、何もない。まるで最初から何もなかったかのように。


 ふと、机の上に置いたヴァイオリンケースが目に入った。練習を終えて、ちょうどしまおうとしていたところだったのだ。ケースを開け、彼女はヴァイオリンを手に取った。


 弓を構え、彼女は自然と「四季」の「春」を弾き始めた。バロック時代への旅を経て、彼女の演奏は明らかに変わっていた。より表現力豊かに、より深い理解を持って、音楽が生き生きと響き渡る。


 演奏を終えると、ドアが開く音がした。


「ひかりさん、まだいたの?」


 音楽の先生が顔を出した。


「素晴らしい演奏だったわ。特に装飾音の付け方が上手くなったわね。どうしたの?」


「あの、先生……」


 ひかりは少し考えてから質問した。


「バロック音楽って、本当に素晴らしいですよね」


 先生は嬉しそうに微笑んだ。


「そうね。バロック音楽は形式的には厳格だけど、その中で感情表現の自由がある。それが魅力なのよ」


「モンテヴェルディやヴィヴァルディ、バッハやヘンデル……彼らはどんな人だったんでしょうか?」


 先生は少し意外そうな顔をした。


「急に興味を持ったのね。それぞれ個性的な人物だったわ。モンテヴェルディは革新的で、古い音楽の枠を破った人。ヴィヴァルディはヴェネツィアの孤児院で教えながら、自然を音楽で表現することに長けていた。バッハは敬虔なクリスチャンで、神への奉仕として音楽を作った。ヘンデルは社交的で、観客を魅了する天才だったわ」


 ひかりは微笑んだ。先生の説明は、彼女が実際に出会った作曲家たちの印象と見事に一致していた。


「ラモーについては?」


「あら、ラモーまで知っているの? フランスの作曲家で、理論家でもあったわ。遅咲きの天才と言われていて、50歳を過ぎてから本格的に成功したのよ」


 まさに彼女が見たとおりだった。


「先生、明日の音楽の授業、とても楽しみです」


 先生は嬉しそうに微笑んだ。


「そう言ってくれて嬉しいわ。明日はちょうどバロック音楽の続きよ。バッハの『マタイ受難曲』について話す予定なの」


 ひかりはケースにヴァイオリンを収め、懐中時計をポケットに入れた。窓の外は既に暗くなりつつあった。


「お母さんが心配しているでしょう。早く帰りなさい」


「はい。ありがとうございました」


 学校を出て家路につく途中、ひかりは頭の中でバロック音楽を整理していた。1600年から1750年までの約150年間、モンテヴェルディからバッハまで——それぞれの作曲家が異なる国で、異なるスタイルで音楽を作り上げていた。しかし共通していたのは、音楽への情熱と革新への意欲だった。


 家に着くと、母親が心配そうに待っていた。


「ひかり、遅かったじゃない。心配したわよ」


「ごめんなさい、音楽室で練習してたの」


 夕食の時、ひかりは父親に尋ねた。


「お父さん、バロック音楽って聴く?」


 父親は少し驚いた顔をした。


「たまにね。特にバッハは好きだよ。なぜ急に?」


「学校の音楽の授業でバロック音楽について習ってるの。モンテヴェルディとかヴィヴァルディとか」


「ふむ、いい音楽だね。複雑だけど、聴けば聴くほど味わいが深まる。今度、一緒にコンサートに行ってみるか?」


 ひかりは嬉しそうに頷いた。


「うん、行きたい!」


 夕食後、自分の部屋に戻ったひかりは、机の前に座った。懐中時計を取り出し、そっと見つめる。もうあの不思議な旅は二度とできないのだろうか?


 試しに時計の蓋を開けてみたが、「G線上のアリア」が静かに流れるだけで、特別なことは起こらなかった。


 諦めてベッドに横になり、天井を見上げながら、彼女は自分の経験を思い返した。モンテヴェルディとの出会い、ヴィヴァルディの「四季」の初演、バッハの家庭での温かな音楽の時間、ヘンデルの「水上の音楽」、ラモーのオペラ——すべてが鮮明に思い出された。


「あれは夢だったのかな……」


 そう呟きながらも、彼女の心は確信していた。あれは単なる夢ではない。何らかの形で、彼女は本当にバロック時代を訪れたのだ。


 翌朝、ひかりは新しい気持ちで学校に向かった。音楽の授業が特に楽しみだった。


 教室に入ると、クラスメイトが彼女に声をかけてきた。


「ねえ、ひかり。昨日の放課後、音楽室であなたの演奏聴いたよ。すごく上手くなったね!」


「え? 聴いてたの?」


「うん、偶然通りかかったら聴こえてきたから。『四季』の「春」でしょ? あんなに表現豊かに弾けるようになったなんて驚いた」


 ひかりは少し照れながらも、嬉しい気持ちになった。あの旅での経験が、確かに彼女の演奏に影響を与えていたのだ。


 音楽の授業が始まると、先生はバッハの「マタイ受難曲」について説明し始めた。


「この作品はバッハの最高傑作の一つと言われています。キリストの受難の物語を、二つの合唱団とオーケストラという大規模な編成で表現しています」


 ひかりは熱心にメモを取りながら、バッハの書斎で「マタイ受難曲」の草稿を見せてもらったことを思い出していた。


 授業の後半、先生は「マタイ受難曲」の一部を聴かせてくれた。壮大な冒頭合唱「来たれ、娘たちよ、我とともに嘆け」が教室に響き渡る。


 ひかりは目を閉じ、音楽に身を委ねた。バッハが熱心に説明していた声部の独立性と全体の調和、神への賛美と人間の感情——すべてが音楽の中に表現されていた。


 授業が終わると、ひかりは先生のところへ行った。


「先生、バッハの音楽についてもっと知りたいんです。何か良い本やCDはありますか?」


 先生は嬉しそうに頷いた。


「もちろん。明日、いくつか持ってくるわ。こんなに興味を持ってくれて嬉しいわ」


 放課後、ひかりは音楽部の活動に参加した。顧問の先生が新しい課題曲を紹介した。


「次の定期演奏会では、ヴィヴァルディの『四季』から「夏」を演奏します。難しい曲ですが、挑戦してみましょう」


 部員たちからは不安の声も上がったが、ひかりは自信を持って手を挙げた。


「私、ソロパートにチャレンジしてみたいです」


 顧問の先生は驚いた様子だった。


「ひかりさん、それは難しいパートだけど、大丈夫?」


「はい、頑張ります」


 練習が始まると、ひかりの演奏に部員たちは驚いた。彼女の「夏」の演奏には、単なる技術だけでなく、曲の背景にある夏の情景や感情が表現されていた。まるでヴィヴァルディから直接指導を受けたかのように。


「ひかりさん、すごい! どうやったらそんなふうに弾けるの?」


 後輩の女の子が質問してきた。


「音楽の背景にある物語や情景を想像するの。『四季』の場合、ヴィヴァルディは自然の様子や人々の暮らしを音楽で表現しようとしたんだ。「夏」なら、暑い真夏の昼下がりや、突然の雷雨を思い浮かべながら弾くといいよ」


 後輩は熱心に頷いた。


「そうか、音符だけじゃなくて、その背後にあるものを考えるんだね」


 ひかりは微笑んだ。


「そう。バロック音楽の作曲家たちは、音楽で物語を語ろうとしたんだよ」


 部活動を終えて帰宅する途中、ひかりは音楽ショップに立ち寄った。バロック音楽のCDコーナーを見ていると、様々な作曲家の作品が並んでいる。モンテヴェルディの「オルフェオ」、ヴィヴァルディの「四季」、バッハの「ブランデンブルク協奏曲」、ヘンデルの「メサイア」、ラモーの「カストールとポリュックス」——彼女が実際に出会った作曲家たちの作品だ。


 ひかりはいくつかのCDを購入し、家に帰った。


 夕食後、彼女は自分の部屋でCDを聴きながら、旅の記録をノートに書き始めた。モンテヴェルディとカメラータの会合、ヴィヴァルディとピエタの少女たち、バッハの家庭での音楽、ヘンデルの「水上の音楽」、ラモーのオペラ——あの旅で見たこと、聞いたこと、感じたことを詳細に記録していった。


 書き終えると、彼女は窓の外の星空を見上げた。時空を超えた不思議な旅は終わったが、バロック音楽との出会いは彼女の人生に大きな変化をもたらした。音楽の背後にある物語や感情を理解し、それを自分の演奏に反映させることができるようになったのだ。


 そして何より、モンテヴェルディ、ヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデル、ラモー——彼らが単なる歴史上の人物ではなく、情熱を持って音楽を創造した生きた人間だということを実感できた。彼らの音楽は、時を超えて今も私たちの心に響いている。


 ひかりは懐中時計を手に取り、そっと胸に抱きしめた。


「ありがとう、素敵な旅をさせてくれて……」


 彼女はそう言いながら、目を閉じた。そして不思議なことに、遠くからかすかに音楽が聞こえてくるような気がした。それはモンテヴェルディのオペラ、ヴィヴァルディの協奏曲、バッハの対位法、ヘンデルの合唱、ラモーの舞曲——バロック音楽の響きが、時空を超えて彼女の心に届いているようだった。


 その夜、ひかりは素晴らしい夢を見た。彼女が大きなコンサートホールでヴァイオリンを演奏し、客席には彼女が出会ったバロック時代の作曲家たちが座っている夢だった。モンテヴェルディ、ヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデル、ラモー——彼らは彼女の演奏に満足げに微笑んでいた。


 朝、目覚めると、ひかりは新しい決意を胸に抱いていた。バロック音楽をもっと深く学び、その魅力を多くの人に伝えたい。そのためには、自分自身の演奏技術も磨かなければならない。


 数週間後、音楽部の定期演奏会が開かれた。ひかりはヴィヴァルディの「四季」から「夏」のソロを担当することになっていた。舞台袖で、彼女は少し緊張していた。


「大丈夫よ」


 顧問の先生が励ましてくれた。


「あなたの演奏には特別なものがあるわ。自信を持って」


 ひかりは深呼吸をして、舞台に上がった。客席には保護者や友人たちの姿がある。彼女は弓を構え、演奏を始めた。


 「夏」の第一楽章——夏の暑さで疲れ果てた人々、遠くで鳴る雷鳴。ひかりはヴェネツィアでヴィヴァルディに教わったことを思い出しながら弾いた。技術だけでなく、音楽の背後にある情景を表現することの大切さ。


 第二楽章——嵐の予感と不安。そして第三楽章——激しい夏の嵐の到来。ひかりの演奏はますます熱を帯びていく。彼女はヴィヴァルディが「もっと情熱的に! 嵐を表現するのだ!」と叫んだことを思い出していた。


 演奏が終わると、会場から大きな拍手が沸き起こった。聴衆は皆立ち上がり、彼女の演奏に喝采を送っている。


 演奏会の後、音楽の先生が興奮した様子で近づいてきた。


「ひかりさん、素晴らしかったわ! コンクールに出てみない? あなたの才能、もっと多くの人に聴いてもらうべきよ」


「コンクール……」


 ひかりは少し考えてから、決意を固めた。


「はい、チャレンジしてみます」


 その後、ひかりの音楽生活は大きく変わった。毎日の練習に加え、バロック音楽の歴史や演奏法について熱心に学ぶようになった。両親も彼女の情熱を理解し、サポートしてくれた。


 父親は約束どおり、ひかりをバロック音楽のコンサートに連れて行ってくれた。プロの音楽家による生の演奏を聴きながら、ひかりは自分の冒険を思い出していた。


「お父さん、バロック時代の音楽家たちって、どんな思いで曲を書いたんだろう?」


 ふと、そんな質問をしてみた。


「難しい質問だね」父親は考え込んだ。「でも、きっと現代の作曲家と同じように、自分の感情や思いを表現したかったんだろうね。ただ、当時は教会や宮廷のために作曲することが多かったから、そういう制約の中で創造性を発揮する必要があったんだ」


 ひかりは頷いた。まさに彼女が見てきたとおりだ。バッハは神への奉仕として音楽を作り、ヘンデルは観客を魅了するために曲を書いた。それぞれが置かれた環境の中で、最高の音楽を生み出そうとしていたのだ。


 コンクールの日がやってきた。ひかりはバッハの「無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番」を演奏することにした。技術的に難しい曲だが、バッハ本人に教わった対位法の理解が彼女の助けになった。


 舞台に立ち、ひかりは深呼吸をした。客席には審査員たちの厳しい視線が感じられる。彼女は懐中時計を胸ポケットに入れていた。お守りのように。


 バッハの音楽が会場に響き渡る。複雑な対位法、深い感情表現、神への祈りのような荘厳さ——ひかりは音楽に魂を込めた。


 結果は見事、優勝だった。審査員の講評には「若手奏者とは思えない深い音楽理解と表現力」と書かれていた。


 コンクールの後、音楽界の著名な先生から個人レッスンのオファーがあった。


「あなたには特別な才能がある。バロック音楽に対する理解が素晴らしい。私のもとで学んでみないか?」


 ひかりは喜んで受け入れた。こうして彼女の音楽の道はさらに広がっていった。


 高校生になったひかりは、音楽の授業で後輩たちにバロック音楽について教える機会もあった。


「バロック音楽の特徴は、感情表現の豊かさと形式の美しさのバランスにあります。モンテヴェルディは感情を直接表現するモノディという形式を発展させ、ヴィヴァルディは自然や情景を音楽で描写し、バッハは複雑な対位法で神の栄光を表現し、ヘンデルは壮大な合唱で聴衆を感動させました」


 彼女の話に、後輩たちは熱心に耳を傾けた。彼女の言葉には説得力があった。まるで実際にその時代を経験したかのように。


 ある日、ひかりは学校の図書室で古い音楽の本を見つけた。そこには、彼女が出会った作曲家たちの肖像画や手紙が載っていた。特に興味を引いたのは、バッハの手紙の一節だった。


「昨日、不思議な少女が教会に現れた。彼女の演奏には特別なものがあり、私の未発表の作品を知っているようだった。マイアと名乗るその少女は、まるで未来から来たかのようだった……」


 ひかりは息を呑んだ。これはバッハが彼女について書いたものだ! その後の記述も読み進めると、モンテヴェルディ、ヴィヴァルディ、ヘンデル、ラモーも同様の不思議な少女との出会いについて記していた。


 彼女の旅は、歴史に小さな痕跡を残していたのだ。


 高校の卒業を前に、ひかりは進路について考えていた。音楽大学に進み、バロック音楽の研究と演奏を続けたいと思っていた。両親も彼女の決断を支持してくれた。


「ひかり、あなたの音楽への情熱を見ていると、本当に誇らしく思うわ」


 母親はそう言って彼女を抱きしめた。


 大学受験の前日、ひかりは古時計を手に取り、もう一度蓋を開けてみた。かすかに「G線上のアリア」が流れ出したが、特別なことは起こらなかった。


「もう二度とあの時代には戻れないのね……」


 少し寂しく思いながらも、彼女はその経験が自分に与えた贈り物に感謝していた。バロック音楽への深い理解と愛、そして作曲家たちとの出会いは、彼女の人生を豊かにしてくれたのだ。


 大学受験に無事合格し、ひかりは音楽の道を本格的に歩み始めた。バロック音楽の演奏法を専門的に学び、古楽器アンサンブルにも参加するようになった。


 大学三年の時、ひかりは友人たちと「時を紡ぐ音色」という名前のバロック音楽アンサンブルを結成した。彼女はそのグループでリーダーを務め、モンテヴェルディからバッハまで、様々な作曲家の作品を演奏した。


 初めての公演の日、ひかりは客席に不思議な光景を見た。最前列に座っている五人の男性——モンテヴェルディ、ヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデル、ラモーによく似た姿だった。彼女が驚いて目を凝らすと、その姿は消えていた。幻だったのだろうか。


 演奏が終わり、盛大な拍手の中、ひかりは懐中時計を胸ポケットから取り出した。不思議なことに、針がわずかに動いている気がした。


 その夜、彼女は日記にこう書いた。


「バロック音楽は時を超える。モンテヴェルディが新しい音楽形式を創り出してから400年以上経った今も、その音楽は人々の心を動かし続けている。私が経験した不思議な旅は、その証明だったのかもしれない。音楽には時空を超える力がある。そして私は、その架け橋になりたい」


 ひかりは窓の外の満天の星空を見上げた。どこかで、バロック時代の作曲家たちが彼女の演奏を聴いてくれているような気がした。


 懐中時計は静かに光を放ち、彼女の部屋を柔らかく照らしていた。それは終わりではなく、新しい音楽の旅の始まりだった。


 —— 終 ——


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