ヴァルキリースコアボードの6
私の策はとりあえず上手く行った。真白を朝から叩き起こし、比良坂うるしの散歩コース付近を走らせ、最終的に講義の日にどうにかして向こうから話しかけさせる策だ。本当は私が彼女に働きかけて走っている真白に目を向けさせる予定だったが彼女の方で勝手に気にしてくれたのはラッキーだった。あの人凄い顔で走ってる、なんて白々しいことを言う必要が無くなったからな。
しかしながら真白の屑さ加減のおかげで完璧な成功を収めることは出来なかった。あの男があそこまで他人と会話するのが苦手だったとは。私と会話している時は普通に話していたから気付かなかったな。このまま毎週の講義前の時間だけで仲良くなるのは難しいだろう。元々それだけでとは考えていなかったがそっちの方も早めに動き出した方がよさそうだ。
外を見ると日が昇り出した頃で、それはつまり比良坂うるしが散歩に出掛ける時間も近いということだ。それなのにこの部屋の家主はのんきに眠っている。私は大きく息を吸った。
「起きろー!」
部屋どころかこのアパート全体に響き渡る声で叫ぶ。もっとも今の私はヴァルキリーなので真白以外に声は届かないが。
私の声に驚いて跳び起きた真白はその直後に時計を見てげんなりとした顔をする。
「まだこんな時間だろ。今日は休みなんだしもうちょっと寝させろよ」
こいつまだそんな事を言ってるのか。寝ている場合か。
「準備しろ。今日も走るぞ」
「一日ぐらい休ませてくれよ。まだ足が筋肉痛なんだからさぁ」
それは辛いかもしれないな、ヴァルキリーには存在しない概念だからわからんが。そして今日と言うチャンスを逃すつもりとは昨日の分では説教が足りなかったと見える。
「いいか、昨日話したが比良坂うるしは毎朝の散歩の習慣がある。それはいつも決まって同じコース、あの河川敷だ」
「そうだな」
「そして昨日お前と比良坂うるしが話をした切っ掛けはお前がそこを走っていたからだな」
「そうだったな」
「ならもしも今日途中で会ったなら向こうから声をかけて来たり、もしかしたら少しぐらい話をすることが出来るかもしれないとは思わないか?」
「あ」
ようやく気付いたか。人なんてのは結構単純にできている。余程嫌いな理由が無ければ何度も会っている内に相手への親近感を覚えて行くものだ。そして今のこいつは毎朝走るだけで挨拶ぐらいはするタイミングが手に入る。これを逃す手は無い。
幸いにも真白は単純で比良坂うるしに会えるかもしれないとわかると颯爽と起き上がりランニングの準備を始めた。普段からこのぐらい物分かりが良ければ楽なのだが、まあ高望みだろう。
ランニングが終わり家に帰ると真白はぜえはあと息を切らしている。情けないやつだ、ほんの5kmも走っていないのに。しかも比良坂うるしに挨拶をされたからだろう、少し嬉しそうにしているのがより一層情けない。挨拶ぐらいで喜んでどうする、少なくとも告白が成功するかもしれない程度には仲良くならなければならないんだぞ。
真白の息が落ち着いた頃、私はようやく次に何をすべきか考えをまとめ終わる。
「よし、真白、そこに正座しろ」
「何でだよ」
「これからどうするか作戦会議だ」
「飯食いたいんだけど」
「後にしろ」
むすっ、と嫌そうな表情を隠しもしないのはこいつの長所か短所か。しかし渋々ながらもその場で胡坐をかいて話を聞く姿勢を見せる。正座と言っただろ。
「とりあえずお前は比良坂うるしと話をしたことで知り合い程度にはなった。これは喜ばしいことだな。今までのお前はあの子の眼中にも無い存在。そうだな、繁華街で擦れ違った他人程度の存在だっただろう」
「そのことには感謝してる。正直お前の策なんて信用してなかったけど、結果的にはうるし先輩の方から話しかけに来てくれたわけだ。それに別れ際にはまた来週、なんて言ってくれたし」
その時のことを思い出しているのか若干顔がにやけている。こいつのこういうところを見るたびに私のやる気が削がれていくわけだが。しかし視線を逸らしたところで足の踏み場も無いぐらいに汚い部屋の惨状が見えるだけで、不快な事には変わりない。
「だがこのままの関係を続けても告白が成功する可能性なんて無い。なぜかわかるか?」
真白は黙り込む。この男、まさかあんな程度の話を繰り返すだけでいつか告白が成功するぐらい仲良くなれるとでも思っていたのか? ……いや、違うな。この表情はどちらかと言えば図星を刺されて何も言えない、そんなところか。
「黙ってないで言ってみろ」
「いや……」
「自分の駄目なところを言うのは辛いか? だがそこから目を背けて成長は無い」
今まで担当してきた人間もそうだった。ほとんどの者は自分の嫌で、駄目で、劣った部分からは目を背けていたものだ。しかしそこを自ら見つめ直し改善しようと自らに戦いを挑んだ者は今でもヴァルハラで目覚ましい成果を挙げている。
「それもそうだな。……昨日よくわかったけど、先輩と楽しくお喋りを続けられる自信が無い。俺の方から何か話題を振ることが出来そうも無いし、逆に先輩が何か振ってくれても上手く受け答えできる気がしない。先輩の前だと緊張してって言うのもあるけど、そもそも俺は会話が得意じゃないんだと思う」
「ふむ、まあまあだな。そのぐらい自分のことが見えているならこれ以上の罵倒は勘弁してやろう」
「なんだよそのシステム」
冗談めかして言ったが、実際この男がちゃんと自身のことを理解しているというのは喜ばしいことだ。スコアボードの点がある程度高くとも自身の弱みは見ないふりしている者の多いこと多いこと。こいつは屑だがそこに関しては評価してやってもいい。
「よーし、じゃあ次の策……、策と言うほどの物でもないか。目標だが」
真白が期待と不安からかごくりと唾を飲み込む。そこまで大したことは言わないぞ。
「比良坂うるしの趣味について知ることだな」
「趣味」
「ああ、趣味を知れば共通の話題を持ちやすくなる。例えば同じゲームをしていればその話題を、同じ動画を見ていればその話題を、同じ本を読んでいればその話題をできるだろう? だから趣味を知ることは仲良くなるにはかなり大事な話だ」
「でも同じ趣味を持ってるとは限らないだろ」
「馬鹿だなお前は。お前が合わせに行けばいいだけだろ。お前に読書の趣味が無くとも比良坂うるしの趣味が読書なら本を買って読むんだ。それで次に会った時に先輩の話を聞いて僕も久しぶりに本を読みましたとでも言えば会話が始まるだろ」
「な、成程」
感心したようにしているがそこまでの話じゃないぞ。お前はこれまでの人付き合いをどんな風にして来たんだ。
「それに関連して聞き出したいのがサークル活動だ」
「大学のサークル活動なんてほとんど碌なんじゃないって。あれでしょ? 酒飲んだり女の子と遊んだりするやつ」
「……流石屑だな。偏見が凄い。お前が自らやりたいことの為に邁進することが出来ないからってそれを行う連中を馬鹿にしてどうにか自分を慰めようとしているのか?」
「……いや、冗談だって。本気で思ってるわけじゃない」
一気に沈んだ様子を見せる辺り、本当に本心から言ったわけでもないのか。まあいきなりあんなことを言い出すやつに碌な奴はいないのだが。
「しかしサークルねえ。確かにサークルも趣味の一環みたいなところはあるよな」
「趣味か本気かはともかく、もし比良坂うるしがサークルに所属しているならこちらにとってはかなりおいしい展開だ」
「どういうことだ?」
こいつさっきから自分で考える気は無いのか?
「同じサークルに入れば自ずと関わる機会も増えるだろう。サークルに関連することが何でも話せるのだから話題も大きく増やすことが出来る。サークルの活動について連絡すると言う名目で連絡先も自然に聞けるかもしれないな」
「おぉ……、いやその為にサークルに入るのってちょっと難易度高くないか?」
下心が出過ぎとか仁義にもとるとかぐちぐちと言い訳をし始める真白。しかし私には想像がつく、本当はそんな理由で文句を言っているのではなくもっとくだらない理由があることが。
「お前、サークルに所属したとして上手く溶け込める自信が無いんだろ」
真白がわかりやすく固まる。
「想像してみろ、お前がサークルに所属した時の姿を。仮に、そうだな十人ぐらいにしよう。お前は比良坂うるしを目当てにサークルに入るが、当然他にも人はいる。サークルの代表はお前に好意的に接してくれるかな? 皆の前では少なくとも好意的な様子を装うかもな。でもお前、サークル活動を積極的にできるか? 仮に運動系だとしてお前本気でできるか? 音楽は? 絵は? 小説や詩、他にも星の数ほどあるわけだが、お前はそのどれにも本気で向き合えないかもなあ。当然、代表はそんなお前に内心愛想を尽かすだろう。他の奴も同じだ、そして比良坂うるしも」
「そこまでだ!」
真白は手で私の言葉を制する。
「それ以上は、俺の心が折れる。やめてくれ」
もう少し言ってやりたい気持ちもあるが心が折れて困るのは私も一緒だ。とはいえ私が言ったことは事実の一端に過ぎない。こいつにはこの最も想定されうる最悪の未来を回避してもらわねばならない。
「実際、お前自身わかっているだろうが、さっき言ったことは概ね事実だ。故にサークルには参加し、その未来を回避する策が必要なわけだな」
「あるのか?」
「無いと思うか?」
真白は一瞬疑うような表情をしたがすぐに思い直したらしい。理由は簡単だ、私はこれまでに十分な実績を挙げている。ほとんど接点の無かった比良坂うるしの方からこいつに話しかけるようにした実績が。
「何のことは無い、お前が話しやすい相手が一人いればいい」
「話しやすい相手? ……ウッシーならサークルには入ってないって聞いたが」
「あのギャンブル中毒じゃない。あいつはまあ、悪い選択肢ではないかもしれんがお前の尻を叩くには事情を知らな過ぎる」
「事情……、って、知ってるやつ一人しかいないだろ」
真白の目が私を見る。その通りだ、お前の想像通りだぞ真白。
「まあ多少の下調べはしておいてやる。その間にお前にはとあるミッションを授けよう」
私は部屋を見下ろす。ヴァルキリーにとって飛ぶのは大して面倒なことではないが、それとは別に私がこの部屋で宙を浮いているのには訳がある。床に転がる菓子の袋、弁当の殻、零した汁を拭くのに使われた宗教のチラシ、エトセトラエトセトラ。
「この休みを使ってこの部屋を綺麗にしておけ。もし仲良くなれば比良坂うるしを家に招く可能性もあるんだぞ? そうでなくともサークルのメンバーと仲良くなれば家で何かすることもある。最低限の綺麗さは保つようにするんだ」
「……なあ、それって本当にそれが理由か?」
私は無視して色々と下調べに向かう。真白、私は嘘は言っていない。誰かを家に招くことになれば当然ある程度の清潔さは大事なんだ。ただ理由の大半がこの足の踏み場も無い汚い部屋を見るのが嫌だってだけだ。