ヴァルキリースコアボードの5
うるし先輩に会えるのは週に一度、金曜の三限の講義だけ。その日まで俺は毎朝フロゥに叩き起こされランニングの聖地を走り続けることとなった。毎日筋肉痛でしんどい思いをしながらだ。流石に三日目あたりで今日は無理だと叫び抵抗を試みたが、まあ勝てるわけがない。引き摺り出され死にそうになりながら走る走る。幸い距離は半分に減らしてもらったが走ることだけは免除されなかった。
そして、金曜日も当然走った。俺は重たい足を引き摺って大学へ向かう。
「一限さぼりてぇ……」
「馬鹿言え、お前は大学にきちんと通う優等生だ。それにこの講義はきちんと出席しないといけないんだろう?」
確かにその通りだ。きちんと出席さえすれば楽に単位は取れるらしいが逆に出席しなかったならどうなるかはわからない。特に俺は頭が悪いのだ、噂では最後の試験は簡単らしいが油断はしない方が良い。
一限を終えるといつものように食堂へ。そこにはいつものようにウッシーが待っていた。
「よう、マッシー。……何でそんな歩き方してんだ?」
どうやら俺は周りから見てもすぐにわかるぐらい変な歩き方をしているらしい。
「筋肉痛。まともに歩くと足が痛くて痛くて」
「へえー」
ウッシーは俺の足をじっと見る、と次の瞬間足に手刀をかまして来た。俺は不意に来たそれを避けられずまともに食らった。
「ギッ!」
思わず口から零れる奇声は足に電流でも流れたかのような痛みのせいだ。俺は耐え兼ねてその場に崩れ落ちる。
「あ、すまん。マジの話かよ」
「お、お前、今日は奢らないからな」
「ごめんって」
立ち上がるのにウッシーの手を借りるほど痛い。正直立つだけで辛い。手刀も全然手加減してなかったし。この惨状は全て俺の後ろで浮いているフロゥのせいだと思うと怒りが湧いて来るぜ。……睨み付けてやろうと後ろを見るとさっきまでいたはずの姿が無い。どこに行った?
「しかし何で筋肉痛? 何やってたんだ?」
「ん? ああ」
「それは私のおかげだ!」
俺以外には聞こえないはずの声、しかしその声を聞いてウッシーが反応する。
「え、誰?」
ウッシーが声のした方を向いたのを見て俺もそっちを見る。長い髪を揺らしワンピースを着た女の子がそこにいる、そしてその顔は他ならぬフロゥのものだ。
「何、え?」
何だその恰好とか俺以外には見えないはずじゃとか色々と言いたいことはあったが驚きのあまり声にならない。そんな俺を無視してこっちに来たフロゥはウッシーの前に立つ。
「私は真白の従妹のフロゥ。この馬鹿の生活態度の悪さに危機感を覚えたおじさんに派遣されて来たんだ。それでとりあえず毎日河川敷を走らせてるんだ」
「へぇ従妹いたのかお前。しかもめっちゃ尻に敷かれてるのな」
従妹、従妹? いやお前はヴァルキリーだろ、というかいつもの鎧は? 羽とか無かったっけ? 訳も分からず混乱する俺を余所にフロゥは話を進める。
「今日は大学生活を見学しに来てて、まあとりあえず中で話そう」
「そうだな。行こうぜマッシー」
「あ、ああ」
ウッシー、なんでお前はこんなに順応が早いんだ。情報を多く持ってるはずの俺より圧倒的に早い!
食堂へ入り昼食を頼む。支払いは当然俺、しかも三人分だ。
「おい、お前どういうことだこれ」
小声でフロゥに耳打ちするも圧の強い笑顔で。
「いいから適当に話を合わせろ」
と、何の説明もしてくれるつもりは無いらしい。仕方なく俺は突っ込みを放棄して場の流れに身を任せる。
「しかし従妹ねえ。同い年ぐらいなのか? 背は低いけど」
「まあな。一応私も大学生だ。ここじゃないけど」
「お前何でここまで来たんだよ」
とりあえず不自然にならない程度に聞きたいことを聞いてみよう。ウッシーはなぜかこの不審者を受け入れる体勢ばっちりだし。
「それは真白が悪い。不健全かつ不健康極まりない生活をしているのは良くないからな。私がきっちり監督してやらないと」
「ははは、言われてるぞ。俺みたいにもっとしっかり運動しないとな」
「お前運動してるのか?」
素でウッシーの言動を疑ったが奴が袖をまくるとそこに現れたのは筋肉質な太い腕。賭博に精を出しているのにこんな筋肉がどうやって手に入るんだ。
「俺の賭博代がどこから出てるか知ってるか? きっちりバイトしてんだよ。肉体労働はいいぞお。きついけどバイト代が良い」
「肉体労働かぁ。今の真白じゃ無理そうだな」
その言葉、ぐうの音も出ない。実際俺の腕の太さなんてウッシーの半分ぐらいしか無さそうだ。たぶん仕事の半分もできない内に潰れてしまうだろう。
「そういや従妹ちゃん、フロゥって言ったっけ? ハーフか何か?」
「ん? ああ、そうそう。私の母親が海外の出身でな」
「なーる。マッシーお前さぁ、マジでこんな可愛い従妹いるんなら紹介してくれよな。この食堂でむさい男二人で話すより花がある方が盛り上がるだろ」
「盛り上がんねえよ」
この二人、どうも馬が合うのか話が弾んでいるが俺の方はそれどころじゃない。フロゥの目的とかそもそもどうして他の奴にも見えてるのかとか色々と聞きたいことがある。しかしそれを聞くのはこの食堂を出てからということになるだろう。
「あれ、ウッシーその子誰?」
そして俺と違いウッシーは結構顔が広い。こんな風に食堂にいても知り合いから声をかけられることが多々ある。今日に至ってはいつもと違う異物がいるので猶更だ。
「こいつの従妹だって」
「どうもー、こいつの従妹でーす」
そしてノリノリのフロゥのせいで変な注目まで浴びている。あー、居辛い。早くここから離れたい。拷問のような時間が過ぎて行く。
何とか生きたままウッシーと別れ食堂を出る。次はようやく三限目、うるし先輩がいる講義だ。
「で、お前は講義にもついて来るのか?」
「まあな。それも策の内だ」
「というか他の奴にも見えてるのどういうことだよ」
「ヴァルキリーは人間形態を取ることも可能だ。つまり他人からも可視化することができるしお前にしか見えないようにすることも出来る。便利だろう?」
人間形態ねえ。つまり今のこいつはヴァルハラからやって来たヴァルキリーでなくただの人間ってことか。
「でもばれないか? ほら、人より強いんだろ、ヴァルキリー様は」
「今の私は人間の中では強いぐらいに力も抑えられている」
それは良いことを聞いた。つまり今なら俺でもこいつに一泡吹かせられるかもしれない。今は周囲に人が多い。だがここから移動の途中、建物の横を通る時は視線が切れるだろう。その瞬間に俺は。
「食らえっ!」
必殺の足払い。漫画で読んだことがある、足払いは基本にして最強の攻撃。不意に撃たれればどんな熟練者でも避けること敵わずその場に倒れ落ちるだろうと。まだまだ筋肉痛が辛いはずなのに、或いは逆にそのおかげなのか、我ながら見事な動作でフロゥの足を刈る体勢を取った。そして互いの接触する瞬間、フロゥの両足は地面を離れ俺の足は空を切った。
「は?」
俺が間抜けな声を上げたのは決して足払いが外れたからじゃない。気付いた時には空高く昇った太陽を隠すほどに高く跳ねたフロゥの姿を見上げていたからだ。
フロゥは俺を飛び越えて音も無くすっ、と着地する。俺は呆然とその姿を見つめている。そして目の前の我が麗しの従妹様は首をぎぎぎ、と回して俺を睨み付けた。
「お前、私に勝てるとでも思ったのかぁ?」
「いやあ、フロゥちゃん何か欲しいものある? お高いアイスとか帰りにどう?」
結論から言うとフロゥの身体能力は確かに人間相応のものになっているようだ。ただしあらゆる世界大会で優勝できるレベル程度には強いとのこと。それって人間超えてねえか?
俺が教室に着いた時、うるし先輩はまだ来ていなかった。当然と言えば当然だ。フロゥの手引きによりいつもより十五分も早くここに来ている。早過ぎて誰もまだ来ていないぐらいだ。
「こんな早くから来てどうするんだ? とりあえず一番後ろでも陣取ればいいのか?」
早く来て得することなどそれぐらいしかない。席は早い者勝ちだから微妙なタイミングで行く俺はいつも一番後ろが埋まった状態の教室しか見たことなかったが。
「……まあそうだな。一番後ろの……、そこでいいだろう」
五列並んだ席の右から二番目を指定される。わざわざ二番目なのは何か意味があるのかと聞きたいところだが今は逆らうのが怖いので。
「へいへい。じゃあそうさせて貰うわ」
とりあえず指示通りに座る。するとフロゥも当然のように左隣に座った。
「お前も講義受けるのか?」
「その方がいいだろ。お前みたいな奴に任せ切りでは話が進展するのがいつになるかわからん」
進展ねえ。お前がいたら何が変わるのかかなり疑問があるんだが。
「なあ、うるし先輩と仲良くなろうってことだったけどさ。本当に大丈夫なんだろうな。お前の策とやらも中身聞いてないから正直全然信用できないんだが」
「はっ、お前一人なら新しいことを始めることすらできなかっただろ? とりあえず私に任せておけ、そもそもお前にはそれしか道が無いんじゃないか?」
それを言われると反論の余地が無い。こいつがいなかったら俺は今日もいつも通りもう少し後に来て先輩の後ろを陣取る気持ち悪いストーカー予備軍ムーブをかましていたはずだ。
「……わかった。とりあえず今日の所はお前を信用して任せる」
教室に人が増え徐々に騒がしくなっていく。とはいえ有象無象には興味が無い。顔を見たことあっても名前も何もわからんし、この場で会っても挨拶もすることは無いんだ。さっきから扉を開けて人が入ってくる度にうるし先輩だろうかとつい後ろを盗み見てしまう。
「お前、今相当気持ち悪いぞ」
「うるさい」
自覚してるから言わないでくれ。
初めの頃は扉が何回開いたのか数えていたが、それが途中で分からなくなった頃。ようやく待ち人が現れた。
「き、来た」
思わず小声でフロゥにそう言ったが、うるさい、と一蹴される。そしてふと思う、うるし先輩が来たのは良いがこれからどうすればいいんだ?
それでここからどうするのかをフロゥに聞こうと思った時のことだ。
「あれ?」
うるし先輩が声を上げて俺の隣で立ち止まった。何事かと思ってそっちを見ると彼女がじっと俺の方を見つめている。
「え、え?」
何、何が起こってるんだ?
「んー、ちょっと待ってね」
「あ、はい」
何を待つんだ? 何でうるし先輩が俺の方を見てるんだ? 何か思い出そうとしてる?
「あれ、お姉さん」
そんなことを考えていると後ろからフロゥの声。落ち着いた様子で、こいつはこうなることを予期していたとでも言うのか? 全然訳が分からなくてついていけねえ。
そんな俺の思考を余所にフロゥは次の言葉を放つ。
「確か河川敷で散歩してなかった? 真白が走ってるの見てたよね」
河川敷? 走ってるの? それって……。
「あー! そうかそうか。河川敷を走ってた子だぁ。すっごくへろへろなのに必死に頑張ってたから印象に残ってたんだね」
「え、あ、そうですか? あ、ありがとうございます」
俺が必死こいて走ってるのをうるし先輩が見てたってこと? 全然記憶にない、というかそもそも走ってる間は必死過ぎて周りを見る余裕なんて無かったしなあ。
「真白君って言うんだねぇ」
そう言いながらうるし先輩が俺の隣に自然に座った。俺の、隣に、うるし先輩が!
「すごく頑張ってたけどマラソンでもするの?」
「い、いや、そういう訳じゃないんですけど……」
「生活がだらしないんで私が鍛えてます」
「そうなんだ。二人は……、彼氏彼女とか?」
「いえいえいえいえ」
「いやいやいやいや」
この言葉には二人して全力で否定した。こいつと彼氏彼女とか冗談じゃない。向こうも全く同じ気持ちらしく、何ならうるし先輩の前だというのにめちゃくちゃ不快そうな表情を見せている。
「私はこの馬鹿の従妹で、叔父さんに頼まれて生活習慣を正してやってるんです」
馬鹿とか汚い言葉を使うんじゃない。うるし先輩にこの汚い言葉遣いがうつったらどうする!
「ああそうなんだぁ。従妹さんなんだねぇ」
心配は杞憂だったようでうるし先輩は少し緩い感じの話し方でのんびりとした話し方だ。うむ、心地よい癒しのボイス。そして心も清らかで素直さに満ちている。……いつか詐欺師にでも騙されそうだと思ったのは内緒だ。
そんな余計なことを考えているとフロゥが肘で俺を軽くつつく。これはあれだ、うるし先輩と何か話せということだろう。しかし何を話せばいいんだ? 急に隣に座られて緊張しているせいか何も話題が浮かばない。
緊張に加え何か話さなければという焦りのせいで変な汗をかき出した頃、隣で呆れるような溜息をつく音がした。
「お姉さん何て言うんですか? 私はフロゥって言います。こいつは……」
ぎろっ、と鋭い視線が向けられる。黙ってないで名前ぐらい自分で名乗れということか。
「えと今井真白です」
「フロゥちゃんと真白君だね。私はね、比良坂うるしって言います。よろしくね」
にっこり笑顔で自己紹介。パーフェクトじゃないか。癒し系の名に恥じぬ、いや彼女こそ癒し系の元祖を名乗ってもいい程の美しくも可愛らしい笑顔だ。
しかしそんな風に見惚れていると再び肘でつつかれる。……え、何?
「うるしさん、よろしくお願いします」
あ、そういう。
「よろしくお願いします」
まあ普通に返事ぐらいはしないと駄目だよなあ。うるし先輩がこんなに話しかけてくれているのに俺は何をやっているんだろう。
「……真白君、緊張してる? もしかして隣に座るの迷惑だった?」
それどころか向こうに気まで遣わせてるじゃないか。いや、逆に考えろここでこっちが気の利いた返しをすれば好感度アップ間違いなしだぞ!
「あ、いえ。その、可愛らしい笑顔に見惚れてしまって」
言い切った瞬間、凄まじいまでの後悔が俺の中に芽生える。向こうはどうも二月に会っていることは覚えてないみたいだし、関係性は初対面と言っていい。その状態でこれって滅茶苦茶気持ち悪くない? 実際、うるし先輩はきょとんとして返答に困っている様子。たまらず頭を掻くふりをしながらフロゥの顔を見たが、そっちもそっちでドン引きしているみたいだ。
もしかして、うるし先輩と仲良くなる作戦ってもうお終いなのでは。
しかし幸いにもうるし先輩は再び笑顔を見せてくれた。
「真白君、可愛らしいなんて嬉しいこと言ってくれるねぇ」
先輩、もう少し世間擦れした方が良いと思います。やっぱり僕ちょっと心配ですよ。
さて危機を乗り越えたのは良いが結局問題はまだ山積みだ。まだ講義が始まるまで少し時間がある、その間にどんな話をすればいいんだ。
そう思っているとフロゥの助け舟が出される。肘で突かれたので見るとどこから用意したのか小さな紙を持っていた。そしてそこには文字が書かれている。
『河川敷になぜいたのか』
つまりとりあえずそんな話題を振れということだろう。このフロゥの指示、俺は心底助かったと思った。正直結構な割合で疑っていたのだが、フロゥは確かに俺とうるし先輩が仲良くなれるように手を貸してくれるらしい。味方がいる、そう思うと勇気が湧いてくるのを感じる。自信を持って話ができる。
「うるしせ」
「あっ!」
ゴッ!
「……お、ぐぅお」
脇腹にいい一撃が入り俺は思わず悶絶し腹を抱えて蹲った。前言撤回、どこが味方だよ。急に脇腹に肘入れて来るとか暗殺者だよもはや。
「え? 真白君、大丈夫?」
「あー、ちょっと消しゴム落としちゃって、その時に脇腹に肘が当たっちゃったんです」
「それは……、痛そうだねぇ」
うるし先輩、信じちゃ駄目ですよ。そいつはヴァルキリーとか言う名の悪魔です。消しゴム落としちゃってって何だよ、お前持ってないだろ消しゴム。
恨みを込めて睨むとフロゥは再び小さな紙を見せてきた。どんな言い訳が書いてあるのかと思ってそれを覗いたのだが。
『先輩と呼ぶな』
そう書いてあった。そういえば確かに俺が先輩って言おうとした瞬間に肘を喰らった気がする。多少荒っぽくともそれを止めることを優先したってことか、聞こえ良く言えばだけど。こいつの場合は単に蹴ったり殴ったりが好きなだけだ。
しかし先輩と呼ぶなって何でだ? 俺がそれを疑問に思っているとそれを察してかフロゥがどうやって書いたのかわからないが次の紙を見せてきた。
『先輩と知ってるのは不自然』
それを見て俺はようやく理解する。そういえば俺とうるし先輩の関係はほぼ初対面みたいなものなのだった。先輩だって知っていたら確かにおかしい。というか先輩目線だと普通に不気味だよな。
ありがとう、フロゥ。誰だよ暗殺者とか言った奴、こいつは俺を助けてくれるヴァルキリー様だぞ。
「痛いの? 保健室行く?」
俺はすっ、と背筋を伸ばす。
「いえ、大丈夫です。痛かったけど治りました」
「本当? よかった」
「えっと、うるしせ……。うるしさんは、えっと、僕が走ってるの見たって言ってたじゃないですか。うるしさんは何をしてたんです?」
やり切った、そう思った直後にまた横から紙が差し出されている。
『なんかきもい』
やっぱこいつ暗殺者な。俺のメンタルが殺されたわ。
「私ね、犬を飼ってたの」
「犬を?」
「そうなの。実家でね、今も元気にしてるんだけど。あ、写真もあるの」
そう言って見せてくれた写真ではうるし先輩と柴犬が写っている。先輩は笑顔で頬ずりしているが柴犬はどことなく嫌そうな表情にも見えるのが空しさを引き立てていた。
「かわいい犬ですねえ」
とりあえず無難な感じに言っておけばいいだろう、そう思って愛想笑いを浮かべたのだが。
「犬、嫌がってません?」
フロゥは遠慮なしにそう言いやがった。しかし先輩はそれに普通に頷いている。
「そうなの。どうも柴ちゃん私の事あんまり好きじゃないみたいでね」
「あー、中々飼い主の愛情は伝わらないもんですよね」
「毎朝の散歩は私がやってたんだけど、不思議とあんまり懐いてくれなかったのよね」
「実家でって言ってましたけど今は一人暮らしなんですか?」
「そうなの。大学入学を機にね。それで柴ちゃんとも離れ離れになっちゃって。ああ、そうそう。それで柴ちゃんはいないんだけど散歩だけは日課で続けてるの」
「へえー、健康的でいいですね。真白も見習いな」
「ははは。いや、それで走ってるんだろ」
不思議だ。俺よりもフロゥの方が先輩とどんどん仲良くなっている。中の良い二人組に挟まれた全然関係ない人の気分だ。俺は所詮フロゥにくっ付いている付属品、ペットボトル飲料にたまに付いている興味の無いおまけだ。
つまり何が言いたいかといえば、このままだと非常にまずいということだ。
「そういえば」
「あ、先生来たよぉ」
……まだ講義は始まらない。しかし何か話そうとした俺の決心は折られてしまった。
「知ってる? この先生の授業ね、難しいんだよ。私ね実は去年この授業の単位落としちゃったの。だから受けるの二回目なんだ」
「え」
先輩が自分から単位を落としたことを告白しただと。俺だったらそんなこと恥ずかしすぎて絶対に言えない。ダサくて勉強もろくにできないやつだと思われかねない行為。それを先輩はいとも容易く。
驚いていると脇腹が小突かれる。そうだ、確かに驚いている場合じゃない。そんな恥ずかしい過去を自ら暴露してくれた先輩に対して敬意を持って何かしらの言葉を返さなければ。
「え、と、先輩だったんですね。全然見えませんでしたよ。ははは」
……これ合ってる?
救いを求めるようにフロゥを見たがもはやこっちを見てもいなかった。ああ、絶望的。思えば今まで生きてきた中で良いことなんて無かったな、さようなら人生、もはや俺に生きて行く気力など。
「そうそう先輩なんだよ。お姉さんだぞぉ」
どうだ、と胸を張る先輩の姿が俺の目に映る。
ぽかん、と俺は口を開けて固まっていた。後にフロゥがそう教えてくれたので間違いない。
「あれ、変だったかな」
そう言って照れたようにはにかむ先輩。うるし先輩は俺と違って飾らない態度で接してくれている。素直で、元気で、太陽のように眩しい。俺は確かに屑で心の内は鬱々とした暗い沼の底みたいなものだが、先輩を見ていると少しだけ自分にも何か出来るんじゃないかと思えて来る。
「いえ、変じゃないですよ。ちょっと可愛らしくて見惚れてました」
「あー、真白君また言ってるぅー」
そうやって笑い合えたのが今日のハイライト。その後は講義が始まってしまい、流石にかのゲド先の講義中にお喋りなど出来ず真面目に参考書に目を通しノートを取る。しかし隣にうるし先輩がいると思うとそれだけで良い気分だ。
ちなみに反対側にいるヴァルキリーは机の上に何も出さず堂々と腕組みしながら講義を見物していた。ゲド先も何も言わなかったがいいのかこれ。というかお前そもそもこの大学の何にも属して無いのに講義受けてていいのか。
結局、講義の間は何事も無く時間が過ぎて行った。チャイムが鳴ると同時にゲド先が終わりを告げて気が早い者は颯爽と立ち上がり去って行く。普段の俺ならばうるし先輩が去って行くまで見送っていくところだが、今日はそのうるし先輩が隣にいる。
……ど、どうすれば。
「真白君はこの後は授業あるの?」
そんな風に悩んでいるとうるし先輩の方から声をかけてくれた。もしかしたら先輩は俺が話すの苦手なの気付いているのかもしれない。
「え、っと。いえ、僕はこの後は何も無いです」
「そうなんだぁ。羨ましいなあ。私はこの後まだもう一限あるんだよねぇ。疲れちゃうよ」
……内心この後一緒にどこか行こうと誘ってもらえるのか、なんて期待していたがそれは夢と消えた。だってあんな思わせぶりなこと言われたら期待しちゃうだろ。
「でも今日は真白君とフロゥちゃんとお話しできて楽しかったよ。また来週もよろしくね」
「え、あ、はい! よろしくお願いします」
「また来週ね、ばいばいお姉さん」
うるし先輩が去って行く。俺は扉の向こうにその姿が消えるまでぼーっと見惚れていた。
ゴッ!
そしてその姿が消えると同時に横にいたヴァルキリーのチョップが俺の頭に決まった。余韻も何もかも吹き飛ばす行為に思わず怒りが湧き出る。
「痛いだろ」
「お前さあ、もうちょっと上手くできないか?」
「上手くって何だよ」
「まさか私の方であそこまでお膳立てしてやらないといけないとは思わなかった」
それに関してはその通りだ。多少なりとも会話らしきものができたのはフロゥの助力とうるし先輩の人柄のおかげだ。どちらかが欠けていたなら隣にいるのに無言の嫌な空間ができていたか、最悪の場合先輩の方からあの場を去っていたかもしれない。
「今日の所はこれ以上やることも無いだろ。帰ってから説教してやる」
もはや反論のしようも無い。俺は机の上を片付けると教室を去る。家までの足取りは重く、帰ってからと言っていたのにその間フロゥの説教を聞き続けるのだった。




