考えるだけ強くなれる人間とかいう怪物
「やあ」
誰から向けられたかもわからない言葉にふと懐かしさを感じ世界は光を取り戻す。
夢を見るとはいささか不思議なことだなぁとこの年になっても思うのは変なことなのだろうか?過ごした日々を凝縮しているハイライトのようでもあり、はたまた突拍子もないような訳のわからないことの積み重ねでもあるかもしれない。脳がその日のことを整理するのだ、などという話は幼き頃から何度も聞いてきたけれども、結局実感はないわけでその点では神話に過ぎないと思う自分も少なからず存在している。
記憶とは不思議でかつ脆く儚いものだなぁと当然かのように思う。自分がつい先程、半日前、昨日、一週間前、先月、昨年、数年前...。何をしていたのか、は文章だの写真だのを通してそれとなく思い出せはするのだが、その時の周りの様子、人然り風景然りはどこかうやむやになってしまうことが多い気がしてやまない。尤も、感情なんてものは一過性に過ぎなくて本当にすぐ消え失せるものだと思わずにはいられない。何を感じていたのか、ということはそれこそそのまま人格だとか思想だとかの話に直結してくる気がして、自分って何なのだろう。などと永遠をさまよう羽目になってしまうので一度忘れることにしようか。
今は今でしかなくて、一瞬を大切に生きることがどれだけ大切か、なんて、誰に言われずともわかっている気になってしまう代表格なんじゃなかろうか。わからないんだよ。大切かどうかを判断して、結果的にうまく行ったかどうかを決定づけるのも自分以外の何物でもないだろう?いくら他人にとやかく言われようとも、自分が良ければそれでいいんだよ...。今、僕は理想を雑に語っているだけなのだけれど。自分のことがもちろん大切でしょうがないけれども、他人あってこその自分だということは本当に紛れもない事実であると思う。人は一人じゃ生きていけない、という論の通りといえばそれまでだけれども。真の理想を思ったようになんとなくで言ってしまうと、自分も他人もみ~んな幸せ、争いなんて望むやつがやればいい、一切の争いを拒むわけではないが基本的にはみんな仲良く、みんなハッピー‼みたいなさ。社会主義だとか共産主義だとか言葉をつけることはできるんだろうけどそれを考えることにあんまり魅力を感じえない。大切なのは自分がやりたいことをやりたいようにやれること、一億総活躍社会や!みたいに人間は何でもかんでも簡単な言葉でまとめたがるよね。それが悪いなんてことは決してないけれど、そして自分もそれを望んでいる節が十二分にあるけれども、単純な言葉や目標みたいなもので先導されうるということを漠然とした恐怖とでも呼ぼうかなぁ。墓穴だな。