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福助の味

作者: 寺西清隆

 昔、西条駅界隈に、素晴らしいラーメン屋がありました。その店がとても好きで、その店のオマージュになればと、筆をとった次第です。

 一読していただければ、幸いに思います。

 なお、この話は、フィクションであり、現実の事象とは無関係であることを明言しておきます。


   一 西荻窪


 秋のけはいが深まりつつあった。

 西荻窪の駅から裏通りに入れば、ビルに押しつぶされそうな一軒のラーメン屋に行き当たる。

 暖簾が、アルミの引き戸を叩くたびに、『東京中華』の黒文字が、読みづらくなった。

 八百屋のおやじが、入口の戸を開け、風を呼び入れた。おやじは、床をぎしぎし鳴らし、四つあるテーブルの一つに陣取った。

「おねぇちゃん」

 客の中には、『おかぁちゃん』と呼ぶ者もいるが、四十半ばの福子は、『おねぇちゃん』と呼ばれる方を好んだ。髪が短い福子には、白の割烹着がよく似合った。

「一杯、ちょーだい」

 福子が、カウンターの中から、コップをふたつと瓶ビールを一本持ってきた。

「一杯、もらうね」

「そっちじゃねぇよ」

 おやじは、不服そうだが、満更でもないらしい。福子は、おかまいなしにビールの栓を抜いた。ここのメニューは、『東京中華』と銘打った醤油ラーメンと、チャーハン、餃子、それに、飲み物はビールだけという、簡素なものであった。

「かんぱーい」

「しょうがねぇな」

 と、おやじが、渋々、コップに口をつけた。

「大将は、どこ行った?」

 行き先はわかっているのに、常連客は、ついいてしまう。

「パチンコ屋以外に、どこがある?」

 四つ年下の久男は、間違いなくそこにいる。

「ちったぁ言ってやったほうがいいぞ。ふざけるなって」

 福子が、カウンターから出てきて、自分のコップだけにビールをついだ。それでも、仕事の手は休めない。あっという間に、醤油ラーメンが、おやじのもとへ届いた。

「何を言ったって、あいつには、蛙のつらにションベンさ」

 福子が、煙草に火をつけた。その煙りを換気扇がみこんだ。さまになっていた。おやじは、額に汗を浮かべ、ふうふう、ずるずるを繰り返した。


 夫の久男は、どこかのラーメン屋に弟子入りをして修行をしたわけではない。店で使用する麺は、製麺所でつくってもらっているが、スープは、全国のラーメンを食べ歩き、我流でつくりあげた独自のものだ。福子は、夫の仕事を手伝うことでラーメンづくりを身につけた。しかし、根っから探求心が旺盛な福子は、それでは終わらず、日々、試行錯誤を重ね、数年後には、自分が納得できる『東京中華』を完成させた。そのことに関して、久男が文句を言ったことは一度もない。

 『東京中華』の評判は、おおむね良かったが、この店の売り上げは、かんばしくなかった。月末になると、仕入れや家賃、光熱費などの支払いに毎度頭を抱えていた。それでもやっていけたのは、ふたりの間に子供がいなかったからである。

 同居家族には、しゅうとめもいた。姑は、夫とは死別していたが、夫が残した不動産の家賃収入で、家計はうるおい、扶養される必要はなかった。にもかかわらず、姑は、自らが所有するマンションと店舗の家賃を、びた一文まけるでもなく、借り主の久男と福子から、きっちりと集金した。

 毎日の仕込みは、朝の六時からはじまる。営業時間は、十一時から夜の八時まで。片付けが終わったら、時計は九時をまわる。それから、アパートに帰り、三人分のご飯支度に、洗濯と掃除。寝る前には、へとへとになる。

 その上、姑には、いつも手をやかされた。店番が福子ひとりのときでも、久男が見つからないと、姑は、

「ちょっとそこまで行っとくれ」

 と、身勝手なことを言った。

「店が」

 なんて言おうものなら、

「閉めときゃいいんだよ」

 と、言われるのが()()だ。姑所有の駐車場に車をとりに行くしかない。運転は得意ではないが、姑にはさからえなかった。

 福子は、久男と姑との関係にも泣かされた。

 久男は、下着を買いに行くときでも、姑まで街に連れて行った。下着売場では、男物なのに、姑に下着を選ばせ、自分では決めようとしない。それだけならまだしも、それ以上に我慢ならないのは、勝手気儘かってきままな姑のふるまいだ。

 ときには、こんなことがあった。婦人物売場でちょっと目を離したすきに、姑が、人には見せられないようなエロい下着をひらひらさせ、店内をめぐっていた。案の定、それが、店員の目にとまった。 

「お似合いですよ」

 姑は、してやったりと、

「どこを見てるんだい。嫁のに決まってるじゃないか」

 店員が、福子の顔を見て、

「それなら、ぴったりです。今、一番売れてます」

「冗談じゃない。さかりがついたら困るからね」

 と、姑は、エロい下着を店員に押しつけ、地味な下着をハンガーからむしりとった。

「これで十分さ。孫は、いつになることやら」

 福子は、結婚してからも子供ができず、産むのがむずかしい年齢にさしかかっていた。


 ネオンの光が、灰色の闇に、とけてにじんだ。カラオケの音が、窓をふるわせた。福子は、暖簾をはずし、店仕舞いにとりかかった。近所の者が、毎日、目にする光景である。福子は、後片付けをすませると、四畳半の部屋にはいった。年がら年中、作業服で過ごす久男には、その必要がない。

「おい、はやくしろ」

 久男が、煙草に火をつけた。

 表に出てきた福子は、割烹着から、ジーパンとジージャンに着がえていた。

何かが、いつもと違った。

「おい、どうした? 何があった?」

 福子は、自分の息にむせた。はっ、はっ、はっ。喉から息がはいっていかない。涙が、頬をなでた。福子は、久男とむきあった。そして、紙片を突きつけた。離婚届である。夫の欄だけが、空欄になっていた。

 久男は、絶句した。

「……俺のどこがいけない。……俺が、おまえのことを嫌いだって言ったことがあるか。……俺が、おまえに暴力をふるったか。……」

 久男は、離婚届を受け取らなかった。離婚届は、ふわりと床に落ちた。

「何を黙ってる?」

「……」

「……勝手にしやがれッ!」

「……」

「……どこにでも行きやがれッ!」

 福子は、ポケットにレジの金をねじ込み、店を出た。足は、駐車場ではなく、駅の方へと向いた。久男は、後悔した。全身から血の気がひいていった。追いかけたいのだが、追いかけられない。金縛りとは、こういうことをいうのかもしれない。


   二 西へ


 福子は、西を目指そうと思った。実家が静岡だったからではない。福子は、両親の反対をおしきって結婚し、今も、勘当の身である。どのつらをさげても実家には帰れない。ただ単に、寒いところに行きたくなかっただけである。

 中央線の西荻窪駅で携帯電話が鳴った。久男からだ。福子は、マナーモードにきりかえた。橙色(だいだいいろ)の電車がホームに滑り込んだ。電車は、福子の気持ちなんかどこ吹く風と、レールの上で揺れた。

 なるべくなら、各駅停車で行きたかったのだが、夜の十一時前ではどうすることもできない。福子は、東京駅で、高速バスの深夜便を選択した。平日にもかかわらず、深夜便は満席であった。席をうめる乗客ひとりひとりが、命からがら逃げてきた脱獄者のように見えた。福子の席は、通路側だった。隣りの窓側に座る男の客は、ニット帽を目深にかぶっているので、若いのか、若くないのか、わからない。その客は、鞄のチャックを何度も開けたり閉めたりした。福子は、身も心も疲れていたが、さほど迷惑には感じなかった。携帯のバイブが、ひっきりなしに振動した。そのたびに、絶対でるもんか、と、心に決めた。


 藍色に染まる名古屋の朝は、ひややかで、ひっそりとしていた。福子は、たまらず、ぶるっと体をふるわせた。

 コンビニで買ったカップ酒が、すきっ腹に、煙草の煙りが、充血した目に、しみた。

 行けるところまで行って、たとえいちミリでも遠く、あいつから離れたい。

 在来線のホームでは、スーツ姿の客が、ちらほらと見受けられた。サラリーマンと学生の数がふえればふえるほど、福子の心は、すさんでいった。


 車内のアナウンスが、次の駅を告げた。ジーパンのポケットの中で、一万円札が二枚、くしゃくしゃになっていた。福子は、神戸駅で電車を降りた。

 街は、食の匂いに満ちていた。その中でも、オリーブ油とニンニクの香ばしさは格別だった。福子は、イタリアンの店に釣り上げられた。

 注文をとりにきた若いウェイトレスが、さげずんだ目で福子を見た。福子は、化粧もしていなければ、顔を洗ってもいない。汚れの年増女だ。福子は、高くもない鼻をへし折られ、メニューの仰々しい文字を片っ端から指さした。

 もう先のことなど、どうだっていい。ワインを流し込み、たらふく食べた。

 福子は、ほろ酔い気分で街を歩いた。思い残すことは何もない。携帯電話の着信音がけたたましく鳴った。指がふれたのか、マナーモードが解除されていた。携帯から、久男の声が聞こえた。福子は、携帯をアスファルトに投げつけ、足で踏みつけた。


 神戸駅は、秋の日射しがふりそそぎ、のどかであった。

 自動券売機の前で、福子は、涙をためている悲しげな男の子を見かけた。虐待か、いじめか、迷い子か、想像が、頭の中を駆け巡った。乗る客も、降りた客も、平然と通り過ぎていく。見ようともしないし、気づこうともしない。かかわりたくないのだ。

 福子には、わかった。男の子が助けをもとめているのが。親は、どうしたのだろう。ひとりなのだろうか。福子は、声をかけてやりたかったが、ひけめを感じ、ためらった。

 “自分は、着たきりすずめの酔っぱらいだ。誰が見たって怪しいと思うだろう”

 しかし、性分は変わらない。

「ぼく、どうしたの?」

 子供の顔が、ぽっ、と明るくなった。話を聞くと、お金をなくしたという。それがないと、遠く離れた親戚の家に行けないのだ。()いても言わないだろうが、おそらく、この子は、誰にも言えぬ大きな傷をかかえている。福子は、第六感で、ひしと感じた。

「これ、ぜんぶあげる」

 福子は、子供の手に紙幣をにぎらせた。

「落とすんじゃないよ」

 子供は、手の甲で涙をぬぐい、ぺこりと頭を下げた。


 この金額で行けるところまでと、東京駅で買った長距離切符の行き先は、山陽本線の三原駅であった。

 街のひかりが暗い空を押し上げていた。

 福子は、車道に沿って、歩道をひたすら歩いた。がに股の福子は、歩くのが遅かった。

  街の()が、背中で小さくなっていく。

  こんなに歩いたのは、小学校の遠足以来だ。余っぽど、歩くのをやめようかとも思ったが、福子にその選択肢はなかった。

 体を休めるのは、山の中がいい、そんな思いが、わけもなく脳裏に浮かんだ。福子は、白線がひかれた道から白線のない脇道にそれ、川の流れを見ながら、上流を目指してすすむことにした。

 しかし、暗い山道をどこまで行っても、ほどよい格好な茂みは見つからなかった。福子は、足をひきずりながら、眠れる場所は、かならずどこかにあると、弱気な自分を元気づけようとした。今ここに酒でもあればと思ったが、かなわぬ願いであった。体が冷えた。尿意をもようしたが、トイレなどあるはずもない。福子は、なりふり構わず、けつをまくり、小便を飛ばした。

 林立する木々の間から、光のたばが、地を()い、射し込んできた。福子は、あわててジーパンをはいた。こんな山の中に、車が……。なぜ……? セダンの車が、じわじわと、にじり寄り、じわりと止まった。ヘッドライトが、福子を照らした。

 セダンから降りてきた男は、光を背にして、福子の前に立った。逆光ではあるが、男は、()せぎすのロン毛で、年は四十くらいと認識できた。

「こんなところで、何してるの?」

「……」

 福子は、相手にすることなく、歩きだした。

 ロン毛は、ひたひたと車でついてきた。

「黙ってちゃ、わからないよ」

「……」

 福子は、歩みをとめなかった。

 ロン毛が、車を止めた。ドアが開き、福子は、痛烈な力で強く腕をつかまれた。ふりほどけなかった。ロン毛は、無理矢理、福子に抱きつくと、助手席のシートを倒し、のしかかってきた。福子は、脱出をはかろうとこころみた。ロン毛は、手をゆるめようとはない。 

「暴れるんじゃねぇ」

 怖気おじけが、全身を駆けめぐった。

 “服をはぎとられたら終わりだ。そしたら、遊ばれて、最後には殺される”

 福子の手が、後ろでくくられた髪の束をつかんだ。ありったけの力を込めた。ロン毛は激痛で反り返り、福子ともつれながら、車外に転がり落ちた。福子は、懸命に立ち上がった。ロン毛が体当たりをした。福子は、四つんばいになり、枝ををかき分け、山の斜面を登ろうとした。ロン毛が足首をつかんだ。福子は、もう片方の足を思いっきり真っ直ぐに蹴り出した。確かな感触があった。ロン毛は、身もだえし、のたうちまわった。後ろは振り返らない。福子は、こけつ、まろびつ、闇の奥へと突き進んだ。

 こだまが、山に響いた。

「くそったれが。今度あったら、ぶっ殺してやるッ!」

 それきり、声は途絶え、静寂が戻った。


 歩くのがつらくなり、体を横たえたのまではおぼえている。その後は、どうやら、眠ってしまったらしい。

 冬ごもりの準備に余念がない蟻たちの行列が、福子の鼻先にあった。このにおいは、何の臭い……? コッコ、コッコ……。にわとりだ。それも、一匹や二匹ではない。かなりの数だ。そうか、これは、鶏糞の臭いか。福子は、安堵し、腐葉土に顔をうずめた。

 小石を踏みしだく音がした。誰かが来る。福子は身を固くした。

「大丈夫ですか」

 福子の目の中に、驚いた若者の顔がある。さわやかなイケメンだ。

「どうかしたんですか」

 日焼けした肌と、白い歯が印象的であった。

 福子は、いきなり、抱きかかえられた。若者は、軽のワゴン車まで運び、助手席に寝かせた。後部座席には、『おいしい卵』と横に印刷された段ボール箱が積まれていた。福子は、自分のせいで食材の買い出しがとどこおったことを、後で知った。

 緊張がゆるんだ福子は、睡魔に襲われ、苦もなく、まどろんだ。


   三 『けろけろ子供園』


 窓越しに、石の門柱が見えた。『けろけろ子供園』と文字が刻んである。そこは、児童養護施設であった。軽のワゴン車は、運動場を横切り、古びた建物の前でとまった。壁面が、ツタでおおわれていた。

 施設の職員たちが、軽のワゴン車を囲んだ。若者は、ここの職員であった。

 福子は、女の職員に肩を抱かれ、施設の中に入った。廊下の壁紙が、黄ばんで、やぶれていた。ある場所では、乳児のにおいがした。廊下の一番奥に、何部屋か職員の部屋があった。職員は、いている、その一室に布団を敷き、福子を寝かせた。カーテンが、秋の日射しを遮断してくれた。疲れきった福子は、果てのない、深い眠りについた。


 暗闇で、長い吊り橋がゆれている。

 福子が、わたっていく。

 遠くに、雲間から射し込む一筋の光がある。


 廊下の灯りが、ほんのり部屋を明るくした。

 窓の外は、もう夜だ。枕元には、着替えとタオルが置かれていた。福子は、勝手がわからず、廊下をうろうろした。

 職員が、声をかけてくれた。

「お風呂へどうぞ」

「ここは、どこですか」

 職員が、えっ、という顔をした。

「『けろけろ子供園』です」

 けろけろ……? 夢じゃないだろうか。

「ここは、三原ですか」

 職員は、驚いたようだったが、思いなおし、やさしく答えてくれた。

「いいえ、西条という街です。どちらからいらっしゃったんですか」

「東京です」

「ずいぶん遠くからですね」

 職員は、さらりと言った。


 浴室は、タイルがはがれ落ち、下地がむき出しになっていた。しずくが、天井から落ちてきた。タオルに石鹸をすりこみ、全身をこすった。積年にわたり、積もりに積もったあかが、はがれ落ちたような気がした。お湯につかると、筋肉とふしぶしが、弛緩しかんした。ゆっくりと風呂に入ったのは何年ぶりだろうか。福子は、不思議な気持ちになった。


 がらんとした食堂には、福子しかいない。テーブルと椅子がたくさん並んでいた。調理員が、食事を持ってきてくれた。

 なすびの浅漬け。白味噌の味噌汁。白いご飯。

 この世に存在する、おいしいものは、すべて食べ尽くしたように思っていたが、それは間違いであった。


 福子は、晴れやかな気分で、すっきりと朝をむかえた。


 強化ガラスの玄関ドアを開け、施設に入ると、廊下の突き当たりに食堂がある。その途中に、事務室と園長室があり、突き当たりを右に行けば男子寮で、左に行けば女子寮である。寮では、百名の子供たちが暮らしていた。

 福子は、コンクリートの床を歩き、園長室の前まで行った。戸車がせているせいか、園長室の引き戸は、開けるのに手こずった。

 園長がすわる布張りのソファーは、ほころびが、ひどい。あとわずかになった毛髪が園長の頭ではねていた。園長は、半袖の下着と半ズボンしか身につけていない。そんな格好で寒くはないのだろうか。血管の浮き出た二本の腕は、毛むくじゃらで丸太のようだった。

 園長が、福子に、柔和な笑顔をむけた。

「僕の格好が、おかしいですか」

 福子は、答えようがなかった。

「僕は、こう見えても、誰にもゆずれない信念をもっているんです。見ての通り、建物は、あちこち傷んで、壊れかけていますが、あえて、このままにしています。この惨状をどこかで聞いた公営ギャンブルの方々が、寄付を申し出てくださるんですが、お断りしています。何故か分かりますか」

 初対面で、こんな話をされても……。軽はずみなことは言えない。

「ここにいる子供たちの中には、賭け事に親がのめり込み、そこから、虐待だとか、暴力だとか、離婚だとか、多くの不幸な事件がおこり、孤児同然の身になった者もいるのです」

 おだやかな口調が、突然、きびしいものに変わった。

「だから、そういうところからの寄付は、一切、受けない」

 福子は、強い心を感じた。

 園長には、自らが経営する幼稚園からの収入と、講演会とか、テレビの出演とか、書籍の出版という、副収入があったが、それだけでは、施設の運営費はまかなえなかった。それでも、信念はゆるがない。

 園長の顔に、笑みがもどった。

「気分が落ち着くまで、ゆっくりしていきなさい」


 世話になりっぱなしの福子は、何か自分にできることはないかと、職員に申し出た。それならばと、洗濯の仕事を与えられた。子供の衣類といっても、乳児から中学生までの洗濯物、百人分である。さすがに、圧倒された。十台の二層式洗濯機をフル回転させても、すぐには終わらない。

 一回目の洗濯で、すべての洗濯機をまわし終えたとき、福子は、園児が自分を見ていることに気づいた。園児は、パジャマ姿である。福子は、男の子がひとり幼稚園を風邪で休んだとは聞いていた。園児は、見なれぬ人が珍しいのかもしれない。

 子がなく、親元とも絶縁状態の福子は、子供と接する機会がほとんど皆無で、こんな場合、どうしてよいかわからない。

 しかし、こっちが話しかけなくても、むこうから、話しかけてきた。

「僕のおとうちゃんはね、鉄砲をもっとるんよ。本物じゃけん。すごいじゃろ」

 福子は、面食らった。

「おとうちゃんが、うとったんじゃけぇ。本物じゃ言うて。嘘は言わんけん。僕がここにおるんは、おとうちゃんが、帰ってこられんとこへ行ったけぇよ」

 しっかりした言葉つきだった。本当か嘘かもわからない。冗談かもしれない。福子は、園児が不憫でたまらなくなり、強く抱きしめた。

「飾る必要なんてありません。それでいいんですよ」

 後ろに、園長が立っていた。

「しばらく、うちで働いてみたらどうですか」

 ここで、人の人情にすがったら、一からやり直せなくなる。

「ありがとうございます。ですが、今日で、こちらをおいとまさせていただきたいと思います」

「そうですか」

 園長は、残念そうに言った。

「すいません」

 と、福子は、頭をさげた。

「困ったことがあったら、いつでもいらっしゃい」

 園長の言葉には、嘘がない。福子には、そう思えた。


   四 派遣社員


 ジージャンに袖を通すと、洗剤の香りが心地よかった。

 福子は、園長に感謝の意を告げ、施設を後にした。

 西条の街は、『けろけろ子供園』に来たときとは違って、黄昏たそがれていた。

 ちょっとした、ひらめきがあり、福子は、近くのコンビニに立ち寄った。しかし、煙草とビールを買う金はない。無料の求人誌を取るなり、外の公衆電話へと向かった。そして、なけなしの十円で派遣会社に電話を入れた。

 派遣会社の営業は、すぐさま採用を決め、これから迎えに行くからと、マイルドな声で言った。そればかりか、たまたまその日に空き部屋となった寮の一室が、福子にあてがわれた。部屋には、レンタルではあるが、電気製品も、家具も、布団もそろっていた。

 他県から派遣されはしたが、一日で遁走とんそうした男の臭いが、布団から漂ってきた。


 派遣会社がチャーターしたマイクロバスは、自動車の部品工場で、二十名ほどの派遣社員をおろした。福子の他に、新人らしき者はいない。

 年増の事務員が、小柄な体型にあわせ、福子の作業服や帽子などを用意してくれた。はじめての安全靴は、き心地がわるかった。

 始業時間や終業時間からはじまって、むずかしい熟語を使った会社理念とか、就業についての倫理観などを、事務員が、小冊子をめくりながら、一つ一つ口頭で説明してくれた。頭には入らなかったが、給料引きで、昼の弁当が注文できると聞いて、問題が、またひとつ頭から消えた。


 現場では、二台の機械が、福子を待ち受けていた。

 二台とも高さはニメートルくらいで、機械と機械との間には、半加工品を左から右に流す橋のような枠付の鉄板があった。

 左の機械を担当する女が、福子の相方である。白髪が、帽子からはみ出していた。福子は、白髪女の右側に立たされた。

「ここで仕事をする(もん)は、うちとあんただけ。前工程がうちで、後工程があんたじゃけん。今日一日でやめるんは、なしにしてぇね。ええ?」

 白髪女は、返事をさせることなく、

「それじゃあ、やってみせるけん。ちゃんと見ときんさいよ」

 白髪女が、機械のスイッチをいれた。旧式然とした二台の機械は、ウィーン、ウィーンと起動した。白髪女は、左手でつかんだ手のひらサイズの鉄板と、右手で掴んだ太さが中指位のシャフトを機械にセットすると、バネスイッチをはじいた。その直後、ドンッと音がして、シャフトがかしめられた鉄板が、圧のかかったエアーにプシュっと押し出された。続いて、白髪女は、その半加工品とボールピンを右側の機械にセットして、特大のボタンスイッチを押した。さらにボールピンが付いた半加工品は、ポリ箱に整列した。

「簡単じゃけぇ、もうおぼえたじゃろ」

 工場も機械も初めて。鉄板なんかさわったこともない。すべてが未体験の福子には、残酷な言葉だった。

「はようやらんにゃあ、たまるばっかりよ」

 白髪女は、前工程の品を鉄板の橋にどんどん積み上げた。


 外は真っ暗だったが、頭の中は真っ白だった。

 後ろから誰かが近づいてくる。

「送って行こうか」

 福子は、束ねた長い髪を見て、気持ちが悪くなった。

「僕は、マイカーだから。寮まで送っていくよ」

 このロン毛は、派遣会社が一緒なのかもしれない。もしや……。この風体ふうてい。ピンとくるものがあった。あのときの……。強姦魔……。だが、確かではない。

「あたしは、会社のバスで帰るから」

「名前だけでも教えてよ」

「なんで、あんたなんかに」

 かちんときた福子は、すたすたと歩をはやめた。


 一日一食で、三日間を何とかやり過ごした。

 すると、福子を世話してくれた営業が、気をきかしてあらわれた。もと野球部というだけあって、上背もあった。わずかではあるが、特別に、と前置きをし、給料の前借りをさせてくれた。福子は、その金で、缶ビールと煙草を買った。


 白髪女が担当する機械の横に、稼働率が表示される電光掲示板がある。福子は、仕事中に何度もその数字を見たが、五十パーセントを超えることはなかった。班長が設定した八十五パーセントの目標は、いつになったら超えられるのだろうか。福子は、気が遠くなった。

 機械と機械とをつなぐ鉄板の橋に、半加工品の山が築かれていく。福子は、あせりから、今やること、次にやることが、頭から消しとんだ。

 白髪女が、言った。

「何を悩んどるん? 悩まんでもええけぇ、はようやりんさいや。鉄板、ながめとっても、物はできゃあせんのんじゃけぇ」

 薄情は、うけながせばいいのだが、なかなか、それができなかった。心にひっかかり、間違って、ボールピンを鉄板の逆側につけてしまった。

「なにゅうしょうるん? 今まで、何年、生きてきたん? それぐらいのこたぁわかるじゃろ」

 福子は、痛みを感じるほど歯をくいしばった。


 昼休みは、ひと息つける唯一の時間である。

 食堂で、相席をする仲間たちもできた。全国から集まった、様々な職歴、経歴をもつ老若男女が、地方の一工場で昼食をともにする。摩訶不思議な偶然の一致だ。

「調子はどう? やっていけそう?」

 と、ロン毛が、福子に声をかけ、向こう側の席にすわった。

 空気が一変した。

 派遣の仲間たちは、一様に、不快な表情を浮かべ、食べかけの給食弁当を持って、蜘蛛の子を散らすように四散した。

 ツンと鼻をつく汗の臭いがした。ロン毛は、アパートにも帰らず、車の中で寝ることが多いらしい。

「今度さ、食事でもしない?」

 目的は、それではない。意図は、明白だ。福子は、無言をつらぬいた。


 担当の営業が、喫煙所で煙草を吸っていた。打ち合わせがあって来たという。福子は、煙草に火をつけるのも忘れ、これ幸いと一方的に畳みかけた。ロン毛野郎は、女と見れば見境なく声をかけ、あわよくば、ものにしようと虎視眈々と狙っている、このまま、ほっておけば何をしでかすかわからない、とにかく首にしてくれ、と訴えた。しかし、暴漢に襲われたことは言えない。担当の営業が、何かあれば電話をください、と言って、けたけたと笑った。むきになった福子の顔が、相当おもしろかったらしい。


 派遣社員になって、一年半が過ぎた。

 福子は、目標の稼働率を苦もなく、こなせるようになった。いつのまにか、白髪女が、憎まれ口を叩くのをやめた。

 ロン毛は、以前と変わることなく、新人の女が来ると、食事に誘おうとしたり、車で送ろうとしたりした。何人かが、食事目当てで誘いにのったとも聞いた。

 そんな折、部品工場の親会社が極度の業績不振に落ち込んだ。下請けの会社は、そのあおりを受け、急遽、派遣切りを行った。部品工場も例外ではなかった。

 貯金がある程度でき、生活が安定した福子は、派遣にしがみつく理由もなくなったが、他の仕事を紹介するからという、営業の熱意に負け、もう一踏ん張りすることにした。


 マイクロバスは、工場の新築現場で派遣社員たちを降ろした。職務の内容は、消防設備が完備され、機能するまでの間、建設が進行する工場の各階を巡回してまわるというものであった。

 蛍光色の安全ベストに、防塵ぼうじんメガネとヘルメット、それに、安全靴を身につけた福子たちは、さらに、トランシーバーとハンドマイクと懐中電灯を持たされた。

 ヘッドライトの光線が、薄暗い工場の中空で、もつれあい、からみあった。垂直に上下する何十台もの高所作業車が、そこかしこで、警報を鳴らし、床に敷きつめられた板紙いたがみの上をせかせかと移動した。

 ドガッ、という衝撃音が響いた。高所作業車が何かに衝突したらしい。

 断熱材や電線の切れっ端が、梱包に使われていたビニールや板切れが、いたるところで散乱し、巡回通路をさえぎった。

 作業員たちは、材料や道具を床に投げ捨てた。まるで、他者を威嚇するかのように。

 高所作業車の上で、誰かが、かけ声をかけた。

「こーりゃー」

「せーっ」

 と、壁の向こうから、かけ声が返ってきた。

「こーりゃー」

「せーっ」

「こーりゃー」

「せーっ」

 かけ声にあわせ、太くて長い電線が、壁の向こうに押し込まれていく。

 高所作業車の上から、怒号が耳に届いた。

「ああ、くせぇ、おめぇの口がくせぇんだよ。もっと離れろ。頭が痛くならぁ」

 見るもの全てが新鮮な福子には、なれないことばかりであったが、場内を歩きまわる仕事は体にもよく、新工場は、申し分のない職場といえた。


 かんかん照りの暑い日に、うまい酒でもさがそうかと、福子は、缶ビールを片手に、西条駅周辺の散策にでかけた。

 『うどん屋』。筆文字は、雨風にさらされ、かすれていた。福子は、その看板が気になり、足をとめた。もう、店はやっていない。看板は、黒く汚れた壁に取り付けられていた。建物は、二階建てだが、住居には使えそうにない。入口に、『貸店舗』と書かれた紙が、貼ってある。入口の横には、『福助』の絵が描かれていた。指でなぞると、白い粉がついた。『福助』と『福子』。福子は、何かの縁を感じた。

 心の中で、虫がうごめいた。迷いはなかった。福子は、貼り紙の番号に電話をかけた。

「あんたぁ、ついとる。はやもん勝ちじゃけ。今なら、敷金も礼金もいらんけぇ」

 大家は、年老いた女だった。

 腑に落ちない点もあったが、こんなに条件のよい物件は、どこにもないだろうと、福子は、即決で借りることにした。


 安全帯のフックと腰道具が、作業員の尻で、カチャカチャと鳴った。作業員たちが連なって歩けば、さながら、行進する兵士たちのようであった。

 シルバーに輝く無数の管が、直線や曲線を描き、天井ー面に、幾何学模様をつくりあげた。

 床を埋めつくす高価な装置は、立ち並ぶ大都市のビル群を思わせた。

 福子たちの仕事は、新工場の火災警報システムが検査に合格した段階で、火災を未然に防ぐ巡回業務から、作業員の服装や装備をチェックする監視業務へと移行した。


 駅前に、みすぼらしくはあるが、自分の城ができた。福子は、こびりついた油垢(あぶらあか)を落とすため、休みになれば、店舗に通った。油垢には、掃除用の洗剤に詳しい福子でも、四苦八苦させられた。

 平日の夜は、寮にこもり、手芸用品店で買った赤い布を使い、暖簾づくりに没頭した。


 東京を離れて、二年が経過した。

 福子は、友人に委任状を送り、転出届を出してもらい、転入の手続きは、自身でおこなった。そして、それまで使うことがなかった有給休暇を利用し、営業許可申請書を保健所に、開業届を税務署に提出した。


   五 『福助ラーメン』


 職を転々とした後、私は、住宅の増改や外構が専門の工事会社に入社し、営業の職にいた。とはいっても、現場の段取りや職人の手伝いが主な仕事で、いつも、作業服にスラックスという格好で得意先をまわった。

 十一月が、そこまできていた。

 軽自動車で移動していた私は、西条駅の近くで、ラーメン屋を発見した。わびしく、さびしい、その、たたずまいに心をひかれ、私は、砂利じゃりの空き地に車をとめた。

 真っ赤な暖簾が、おとしなしげに舞った。『福助ラーメン』の文字が、白く漂白されていた。ガラス窓から店内が見えた。客はいない。昼の三時に来る客は、私ぐらいだろう。

 ちかけた木戸を横に引くと、ガタピシと音がした。煮干しと豚骨の匂いがぷんときた。私は、足をとられそうになった。ねばりつく油脂あぶらが床に層をなしていた。申し訳程度の調理場は、炎ですすけ、L字のカウンターは、傷だらけだった。テーブルは、折りたたみ式が一脚しかない。

 福子は、僧侶が普段着る作務衣さむえを身にまとい、カウンターの向こうで包丁を使っていた。作務衣の色も、頭に巻いた布巾の色も、灰色である。

 私は、カウンターの席にすわった。福子は、その間ずっと顔も上げない。私は、狭い店内を見まわした。メニューがどこにもなかった。

 もう一人、男の客が入って来た。

「ここにゃあ、何があるのぉ?」

 福子が、顔をあげた。短髪のせいか、小顔に見えた。目は、二重でぱっちり、背は、そんなに高くない。

「ラーメンしかないよ」

 声が、かすれていた。

「なんぼうや?」

「いくらでもいいよ」

「ぼったくりかぁ?」

「値段を決めるのは、お客さん。それが、この店のルール」

「なんじゃ言うのぉ。こがぁな、きっちゃなぁ店で、ラーメンなんか食わりゃへん」

 客とも呼べない客は、ガチャンと戸を閉め、出ていった。

 福子が、忌々しげにつぶやいた。

「こっちだって、食ってほしくないよ。こん畜生」


 ひとの心がこわれるのは、自由の代償だ。

 だからといって、束縛がいい、ということにはならない。


 私は、言った。

「福助ラーメン、お願いします」

「福助ラーメンって言わなくても、ラーメンでわかるよ。それしかないんだから」

 どんぶりに湯を注ぎ、頃合いを見て素速く捨てた。仕草が、こなれていた。福子の腕は、細い。煮えたぎる湯の中で、麺が踊った。振りざるの動きに合わせて、湯玉が散った。スープがそそがれ、どんぶりに麺が落とされた。その上に、チャーシューと煮卵がのった。どんぶりが両手で捧げられ、カウンターに据えられた。

 福子が、普段の福子に戻った。


   六 正太


 少年の顔には、かさぶたとあざがあった。暴力の痕跡こんせきだ。小学五年生の正太は、昼の日中、学校にも行かず、街をさまよっていた。正太は、福子にうながされ、私の隣りにすわった。

 私は、正太の前にどんぶりをずらした。

「僕は、あとでいいです」

 福子は、うんうんとうなずいた。

 正太は、割り箸をつかむと、いきなり、ずうずうと麺をすすった。私は、喉を焼くのではないかと、はらはらどきどきした。

 麺の玉をつかんだ福子の顔が、キッと引き締まり、たくましく、精悍になった。そして、ラーメンをつくり終えると、その表情は、普段のものになった。

 角張った細麺には適度な歯ごたえがある。程よく味もしみている。私は、しばし、至福にひたった。豚骨や鶏ガラや、アゴの煮干し、そして、セロリやネギに根菜類、どれをとっても、すべてが生命いのちの産物だ。汁は、一滴たりとも残せない。

 正太は、汁も、あっという間に飲んだ。熱さに強いのか、それとも、耐えているのか、よっぽど腹がすいているのか、もしくは、何かに取りつかれているのか、知るよしはない。

 正太が、どんぶりを置き、勢いよく立ち上がった。椅子が倒れた。正太は、一目散に店を飛び出した。

 私も、立ち上がった。

「ほっときな」

 言葉には、しんがあった。私は、座り直し、残りの汁を飲んだ。

「いくらですか?」

「そっちで決めて」

 カウンターの台の上に、からになった紙の菓子箱があった。

「ごちそうさまでした」

 と、私は、菓子箱に、五百円玉を入れた。福子は、見ようともしなかった。

「ありがとね」

 型ガラスの向こうに小さな人影が透けて見えた。私は、引き戸を開け、正太と向きあった。

 福子の声が、私を飛びこえた。

「行くとこはあるの?」


 『けろけろ子供園』の園長が、半袖の下着姿で、運動場の草を抜いていた。私は、運動場のすみに軽の車をとめ、道具箱をおろした。園長が、屈託のない笑顔を私に向けた。

「来てくれて、ありがとう。玄関の戸が、閉めるたびに、バーンッ、てなるんだ。危なくて。子供が怪我をしちゃいけないからね」

「わかりました。てみます」

 強化ガラスのドアが、バーンッと閉まる原因は、閉まる速度にあった。私は、座り込み、床とツラになった開閉装置のふたを開けようとした。ところが、蓋をとめたビスがまわらなかった。蓋が取れなければ、速度の調整ができない。私は、持久戦を覚悟した。

「園長先生」

 ハスキーな声は、福子の声だった。後ろには正太がいた。園長の顔がほころんだ。

「おりいって、お話が」

「まあ、そう急がず、中にはいって。それからにしよう」

「あ」

 と、玄関ドアの修理をする私を見て、福子が通り過ぎた。

 園長は、福子と正太を園長室に招き入れた。三人は、ソファーに腰をおろした。

「その子の名前は?」

「正太です。園長先生。話を聞いてください」

「正太君のこと?」

 正太は、母親と、その愛人から、虐待をうけていた。母親と愛人は、児童相談所の職員が何度きても、理由をつけて、うまく言い逃れ、その都度、職員を追い返した。正太は、一緒にいたら殺されると思い、広島市街から逃げてきたのである。

 園長から、笑顔が消えた。

「正太君、何の心配もいらないからね」

 園長には、人を安心させる何かがある。福子は、来てよかったと思った。

「ありがとうございます」

 正太は、うつむいていた。

「正太。今日からお世話になるのよ。ちゃんと挨拶しなさい」

 まるで、母親のようであった。正太が、福子の腕をぎゅっとつかんだ。

「どうしたの?」

「……」

 正太の目が、何かを訴えている。福子は、確かめるように正太の目を見た。

 正太が、小声で言った。

「おばちゃんと一緒にいたい」

「正太君、福子さんを困らせちゃいけないよ」

 予期せぬ言葉が、福子の口から飛びだした。

「園長先生。正太の面倒は、私が見ます」

「うーん、……そうはいっても、親の意見も聞かなくちゃならないし、児童相談所とも連絡を取り合わないといけないんだよ」

「なんとかなりませんか」

 福子は、必死だった。園長が、ふたりの顔を交互に見た。許可をすれば、大きな責任がのしかかる。

「よし。なんとかやってみよう」

 園長は、法にふれる危険をかえりみず、こどもの幸せを選んだ。


 『福助ラーメン』の店舗兼住居には、風呂も、トイレも、洗面所もない。かといって、前の空き地で、行水や、立ち小便をするなど、もってのほかである。


 料金は高いが、歩いていける場所にサウナがあった。福子は、正太に、くどいぐらい、シャワーの使い方や湯船に入る礼儀などを話して聞かせた。それでも、風呂に入っている間中、正太のことが気になり、ちゃんと洗っているだろうか、湯船には入れただろうかと気をもんだ。

 ところが、先に待っていたのは、正太の方だった。正太は、こざっぱりとして、石鹸の匂いがした。


 西条駅の床面は、ロータリーの舗装面より、数メートル高い所にあった。駅のトイレを利用しようとすれば、階段を十数段、のぼらなければならない。

 駅のトイレは、煌々とかがやき、夜のとばりに向けて光を放っていた。人影は、なかった。

 福子と正太は、女子トイレと男子トイレにわかれて顔を洗い、歯をみがいた。あちこちで、黒カビが見え隠れした。手洗い器の水が冷たかった。なるべくなら、深夜のトイレは避けたいので、体内の水分は、しぼれるだけ、しぼるようにした。

 帰り際に、駅員に出会った。駅員は、挨拶をしただけで、笑って見すごしてくれた。『福助ラーメン』に食べに来てくれる駅員だった。


 店舗の二階には、電気製品はおろか家具さえもない。

「窓を開けるよ」

 ひんやりとした風が、部屋のぬくもりをさらっていった。福子が、煙草に火をつけた。

「やめて」

 その声は、繊細で、たよりなかった。

「……」

「お願いだから。煙草はやめて」

 正太は、おびえていた。

「大丈夫。正太のことは考えてるからさ」

 福子は、窓の外に向かって煙りを吐いた。むらさきが街の灯りに同化した。

「そんなんじゃないんだ。おばちゃん、お願い」

「うるさい子ね」

 福子は、煙草の火を灰皿でもみ消し、命令口調で言った。

「正太、これに着替えなさい」

 福子は、段ボールの箱から、トレーナーの上下を引っぱりだした。正太は、下着姿になった。ひよわな肩が、ランニングからはみだしていた。福子は、目をそむけた。肩には、火傷のあとが幾つもあった。誰かが、煙草の火を押しつけたのだ。トレーナーは、女物ではあったが、正太の体には丈が長すぎ、ズボンはかなくてもよかった。

「正太。寝るよ」

 とは言ったものの、布団は、ひと揃いしかない。ふたりが寝るには、身を寄せ合うしかなかった。しかし、福子には、そのような経験が一度もない。とはいえ、面倒を見ると言ったのは、自分だ。福子は、布団にはいり、掛け布団をめくった。

「さあ、おいで」

 正太は、恐る恐る、布団の端にころがった。福子は、正太を抱き寄せ、その手に力をこめた。正太は、何も言わず、じっとしていた。福子の目から、大粒の涙がぽろりと落ちた。


 朝一番、福子と正太は、小便を我慢し、駅へと急いだ。霜は降りていない。その日は、土曜日である。駅には、行楽客の姿があった。正太は、寒さに耐えかね、歯ブラシをくわえたまま、ベンチで膝をかかえた。

 洒落た服を着た三人の親子が通り過ぎようとした。

「見ちゃ駄目よッ!」

 と、母親が、息子の手を引っぱった。

 父親が、あけすけに言った。

「悪いもの見ちゃったな」

 息子が、後ろを振り向こうとした。母親は、その頭をパシッと平手で打った。

「駄目って言ってるでしょ!」

 福子が、正太を見つけて飛んできた。

「もうッ。何してるのッ!」


 あの日以来、園長は、携帯電話を肌身離さず持ち歩き、正太の母に辛抱強く何度も電話をかけつづけた。しかし、電話はつながらず、連絡がとれないまま、日曜日の朝を迎えた。そして、日が暮れかけたころ、ようやっと、正太の母を電話でつかまえた。

「あんたぁ、自分が何を言うとるか、わかっとるんじゃろうねッ! 正太が誘拐された言うて、警察に通報するけぇ、首をあろうて待っとりんさいッ!」

 それが、第一声だった。夜通し飲んでいたのかもしれない。酔いつぶれていた。

「かわいい、かわいい、うちの正太に、何かあったら、許さんけぇねッ! わかっとるんかッ!? くそったれがッ! 正太はどこッ? どこねぇッ? うちの彼氏が黙っとらんけんねッ! あんたぁ、ぼっこぼっこにされるけぇ。ぼっこぼっこに。あぁ、かわいそうじゃ。あんたなんか、殺されりゃええんよ」

 母親は、まくしたてるばかりで、話は終わりそうにもない。

 園長は、あきらめ、しかたなく、“切る”のボタンを押した。そして、すぐさま、警察に電話を入れた。しかし、捜索願が出された形跡はなかった。


 児童相談所の職員は、無力な調停者だ。親と子、双方の言い分は聞く。吟味ぎんみもする。ところが、結局、職員が重きを置くのは、大人の考えと、大人の言葉だ。とどのつまり、暴力を受けた子供は、さらに、暴力を受けることになる。役所の決まりを無視することはできないが、役所にまかせっぱなしでは、子供の生命は救えない。

 園長は、正太が助かるならばと、覚悟を決めた。


 ギャンブルも煙草も酒もやらず、五十過ぎのこの歳をやりすごす私にとって、『福助ラーメン』は、かけがえのないものであった。

 正太が、カウンターの上に水を置いた。

「ラーメン、お願いします」

 と、私は、注文した。

 福子は、私に、

「お願いしますは、余計だよ」

 と、言って、正太に、

「ぼやぼやしてる暇はないよ」

 と、言った。

 正太が、寸胴に麺を投げ入れた。湯しぶきが上がった。

「そんなに火傷やけどがしたきゃ、すればいいさ」

 火傷の跡は、今でも、正太の体にはっきりと残っている。福子は、言ったあとで後悔した。

 福子は、ことあるごとに、あれこれと注意や指図をし、正太がしくじる度に、きつく叱咤しったした。それでも、正太は、歯を食いしばり、ひと言も弱音を吐かなかった。

「きびしいですね」

 私の息子と娘が小学生だったとしたら、……どうだろう。果たして耐えられるだろうか。

「どうってことないさ。ひとは、生まれたときから、みんな、平等じゃない。特に、正太は、人一倍、辛い目にあってる。だけど、負けちゃ駄目。強く生きなきゃ」


 ひとは、死ぬときさえも、平等ではない。

 その先は……?

 たぶん……平等ではないだろう。

 ひとは、上でもなく、下でもなく、前を見据みすえて生きるしかない。

 

 正太が、このまま、ここで埋もれるようなことになってはいけない。まずは、学校に行くことだ。福子は、無理を承知で園長に懇願した。

 園長は、関係各所をあちこち奔走し、親しい人には言うまでもなく、そうでない人にも掛け合ってくれた。

 詳細は訊かない。けれども、園長が、各方面に顔がきくことぐらいは、なんとなくわかった。正太の現住所が店の所在地であるかのように偽装されたことなど、福子は知らない。


 数日が経過した。

 その夜、店を早仕舞いして、福子と正太は、『けろけろ子供園』にでかけた。

 園内の食堂から、子供たちのにぎやかな声が聞こえてきた。ふたりは、期待に胸をふくらませ、緊張したおももちで、園長室の敷居をまたいだ。まぶしさで、目がくらんだ。テーブルの上には、ランドセルや制服、そして、教科書に筆箱がならんでいた。いずれも使い古しではあったが、ふたりの目には、宝物に見えた。ふたりは、深々と頭をさげ、感謝の言葉を口にした。園長は、鷹揚にうなずいただけで、何も言わなかった。

 正太の面倒は自分が見る、と言った以上、いつまでも、園長に甘えてばかりはいられない。福子は、あらためて、自らの心を奮い立たせた。


 店内には、煮干しと豚骨の匂いが満ちていた。空きっ腹をかかえた私は、気持ちを高ぶらせ、丸椅子にすわった。

「正太君は?」

「いないよ」

 喜んでいいものか、悲しむべきなのか、その先を聞かないとわからない。

「学校だよ」

 学校……。いろいろ問題もあるが、子供は、やっぱり、その方がいい。

「ラーメン」

「いつもの、て言えば、わかるよ」

 外の空き地で、爆音がとどろいた。外車のエンジン音だ。こんなところに乗ってくる奴の気が知れない。福子は、ラーメンに集中している。

 店の戸が開いて、大男が入ってきた。スーツがきまっていた。頭には毛が一本もないが、貫禄と眉毛はあった。

「うまいの、たのむわ」

「まずいものは、売ってないよ」

「はようしてくれ。運転手がまっとるんじゃ」

「待てないなら、帰ってちょうだい」

 私は、あせる必要もないので、大男に順番を譲ろうと思った。

「僕は、あとでいいですから」

「おにいちゃん、悪いな」

 この男にすれば、私は、かなりの年下だ。

「そうはいかないよ」

「きっつい、おかぁちゃんじゃの」

「失礼な。誰が、おかぁちゃんだって?」

 福子には、何を言っても無駄だ。大男は、閉口した。

 私は、気がひけたが、先に食べることにした。

「すいませんけど、お先に食べさせてもらいます」

 私は、大男が気になって仕方がなかった。喉の通りは悪く、箸の動きは半減した。

 大男が、茶々をいれた。

「おいっ。お上品な食い方せんと、男らしゅう、がつっと食っちゃれぇや」

 福子が、叱るように言った。

「何、言ってるの。この人が、食べれなくなるじゃない」

 大男のラーメンは、超がつくほど、早くできた。一見いちげんの客に、なめられたくなかったのかもしれない。

 大男は、レンゲで汁をすすった。

「こがぁにうまいのは、初めてじゃあ」

 まんざら、嘘でもないらしい。

 大男は、麺をつるっと平らげ、汁を最後まで飲み、満足そうに爪楊枝をくわえた。

「毎日、来ちゃるけぇ」

「もし来なかったら?」

 大男が、仰々しく、カウンターの上に名刺を置いた。

「こけぇへ電話せぇ。おあいそじゃ」

 それぞれの客が、自分で値段を決め、その額を払うのが決まりであると、福子は、大男に伝えた。

「よっしゃ」

 大男は、一万円札を菓子箱に入れた。

 福子は、

「ありがとね」

 と、だけ言った。

 しばらくして、エンジン音が消えた。

 私は、一万円札の上に五百円玉をのせた。

 福子が、訊いてきた。

「あたしが、どこの人間だかわかる?」

「どこのって?」

「どこの生まれかってこと」

「東京ですか?」

「どうして、そう思うの?」

「東京にいたことがあるんで、なんとなく」

「生まれたのは、静岡県。十八から、東京に住んでた」

 福子は、東京で夫とラーメン屋をやっていたこと、姑とうまくいかず、逃げるように普通列車に飛び乗ったこと、手持ちの金がなくなり、飲まず食わずで西条にたどり着いたこと、それらの出来事を一気に語った。

 そのような経験は、私にもあった。

 映画の道をこころざしたものの、才能がなく、仕事を投げ出し、失踪し、北海道へと渡った。しかし、すぐに金は底をつき、野宿をしながら札幌まで歩き続けた。

「僕にも、似たような経験があります」

 その言葉を、福子がどう受け取ったかは、わからない。

 私には、次の仕事が待っていた。


   七 久男


 ガラガラッと、戸の開く音がした。

「ごちそうさまでした」

 と、言った、私の後ろに男が立っていた。背格好は普通であった。

「あんた」

 福子の目が、いまにも飛び出しそうであった。

「食ってないんだ」

「何しに来たの?」

 久男が、一枚の紙を出した。

「あっ」

 福子の口が、ふさがらない。

 くしゃくしゃになった離婚届。久男の欄は、空白だ。離婚届が、細かくちぎられ、宙を舞った。東京の店は、福子がいなくなった後、閉店したらしい。私は、座り直し、成り行きを見守ることにした。

 久男が、テーブル席にすわった。

「手が動いてねぇぞ」

 雲行くもゆきが、怪しくなってきた。福子が、カウンターから出て、久男の背後にまわった。

「どした?」

 突然、夕立の如く、頭と肩と背に、福子の拳骨が降りはじめた。久男は、文句も言わず、反撃もしなかった。叩くのに疲れたのか、福子は、油脂あぶらの床にひざまずき、嗚咽おえつした。久男は、背を向けている。他人が入るすき一分いちぶもなかった。

 外には、街の音があった。


 自分と他人。おたがいの性格は変わらない。だったら、どうする? 相手を見て、うまく立ち回るしかない。しかし、それには、ストレスと苦痛がつきまとう。だったら、どうする? 追いかけてまで、他人とは、つきあわないことだ。

 けれども、ひとには、意志ではどうにもならぬ()()という、やっかいな()()がある。


 正太は、店の前で、近所の小学生たちを待った。冷たい空気が、鼻をついた。制服を着るのは、今日で二日目だ。

「おはよう」

 小学生たちが、列を作ってやってきた。

 福子が、店から顔をのぞかせた。

「おはようございます」

 小学生たちの声が、通りに響き渡った。

「おはよう。正太をお願いね」

 福子は、正太の姿が見えなくなるまで手を振った。


 表では、暖簾が、はためいていた。

 私は、丸椅子にすわり、ラーメンを注文した。

「いつもの」

 福子が、煙草に火をつけた。ラーメンをほったらかしにして、どうしたんだろう? とは思ったが、私は、黙っていた。

「あんたの夢は、何?」

「……?」

 唐突すぎる質問に、私は、当惑した。夢は、何十年も前に終わっていた。

「これから、やりたいこととか」

 クリント・イーストウッドは、映画の中で生きている。彼の人生は、映画である。もっと言えば、人生そのものが夢なのだ。スッポンの私は、ボロボロになった自分を誇りに思い、生きている。いや、誇りではない。ならば、心の支えか。いや、それも違う。だったら、夢の、残りカスか。

「……夢は、ありません。おねぇさんの夢は、何ですか」

他人ひとには言えないよ」

 私は、それ以上、訊く気はなかった。夢は、本人が胸にしまっておけば、それでいい。

 携帯電話が鳴った。煙りが目にしみるのか、福子は、目を細めて相手の話を聞いていたが、急に気色けしきばみ、煙草の火を踏み消した。

「あいつを呼んできて!」

 私は、鼓膜がさけるかと思った。

「パチンコ屋よ!」

 私は、単なる客でしかないのだが……。

「はやく行って!」

 私は、声に圧倒され、店を出た。


 パチンコ屋は、駅前通りを右に行き、最初の交差点を右にまわった所にあった。

 客は、まばらだった。しかし、騒々しさは、いつもと変わらない。

 久男は、台の前にいた。銀の玉が、ガラスの板をパチパチと叩いている。私は、大至急店に戻るよう久男に言った。


 福子が、二階から降りてきた。灰色の作務衣さむえは、真っ赤なワンピースに変わっていた。目にもあやな、その原色は、ひと目をひくにちがいない。

 店には、福子が、ひとりである。

「負けるもんか、こん畜生ッ!」

 ぶるっと、震えがきた。

 駅前通りを右へ、一番目の交差点を左へと、福子が駆けていく。ワンピースの裾が、風をはらみ、大きくひろがった。


 久男が、不服そうに、

「やっと、出たばかりだってのに。玉をなくしたら、許さねぇぞ」

 と、さっさと出ていった。

 パチンコは、結婚を機会にやめた。私が、玉を打つのは、それ以来ということになる。ハンドルをにぎると、昔の風景が、脳裏によみがえった。大音響で鳴り響く『軍艦マーチ』。大当たりが出れば、

「フィーバー、フィーバー、ありがとうございます、ありがとうございます」

 と、マイクを持った店員たちが、がなり声で、店内の雰囲気を盛り上げ、射幸心をあおったものだ。

 想い出にひたれたのも、束の間だった。パチンコの玉は、別れを告げる暇もなく、すべて台の中にみこまれた。しかし、おかしなことに、残念も無念も悔しさも、感情は一切わき起こらなかった。


「おい、どうなった?」

 私が頭をさげると、久男は、舌打ちをした。

「まだ、食ってねぇんだろ。食ってけよ」

 久男が、寸胴の上で、手をふるった。その姿に気負いはない。命もかけていない。麺は、ほぐれて、湯の中に落ちた。

 トンッと、はぎれのよい音がして、どんぶりが、カウンターに据わった。見栄えも匂いも良かった。汁は熱く、うまみが凝縮されていた。麺には、絶妙な芯があった。


 放課後の職員室は、こんな感じだっただろうか。

 小学校を卒業してから、三十年以上にもなる。福子は、事務机の横で、男の担任と向きあった。年齢は、同じくらいだろうか。隣りで、正太が、うつむいて立っていた。デスクチェアが、やたら、キーキーと鳴った。他の職員たちが、チラチラと福子を見ている。ワンピースの赤が、ひときわきわだっていた。

 担任の目袋が、ぴくぴくっと、わずかに動いた。

「あのですね、おたくの正太君がですね」

 担任は、ひと息すって、ふーっと息を吐いた。

「今日の休憩時間のことなんですが、同級生の胸倉をつかみ、どんと突き飛ばしたんです。幸いにも、怪我はありませんでしたが、その時に、制服のボタンが取れました」

 担任が、正太を見て言った。

「そうだよな?」

 正太が、さらに小さくなった。

「おかあさん。正太君は、あろうことか、暴力をふるってしまったんです」


 世の中には、いい奴なんかいない。

 受験という教育のせいだ。


 親ならば、教師の前で問いただし、その場しのぎの体裁で子供を叱るのかもしれないが、福子は、本人の口から真実を聞いてからでも遅くはないと思った。

 担任が、息を吹き返した。

「同級生の子は、見たことを話しただけなんです。嘘はついていません。それなのに、暴力をうけたのです。いわれのない暴力です。おかあさん、何か反論することがありますか」

 福子は、力なく首をふった。

「駅で歯を磨いているのを見られたら、いじめられるに決まってるでしょう。親がわりなら、何とかしなきゃ。育てる自信がないなら、実の親に返されたらどうなんですか」

 涙が流れた。福子は、爪が刺さるぐらい拳をにぎりしめた。


 正太は、ランドセルを背負って、店の中で待っていた。

 昨夜、正太は、唇を固く結んだままで、ずっといた。正太の顔を横で見守る福子は、担任の言葉を反芻はんすうし、自身の愚かさを反省した。そして、歯磨きは、駅ではなく、行きつけのサウナか、店の流し台ですることにした。しかし、トイレだけは、駅のを借りるしか方法がなかった。

 福子は、正太の正面に立ち、ランドセルのベルトの上に手を置いた。

「行きたくなければ、行かなくてもいいよ」

「僕は行く」

 子供ではあったが、いっぱしの男であった。福子は、正太にまかせることにした。


 味をみしめながら、私は、ラーメンをすすった。福子は、ガスコンロにかけた寸胴のスープをかきまぜている。

「いらっしゃい」

 うしろで長い髪を束ねた男が、私の隣りに座った。

「福子さん、久しぶり。ラーメンをつくってよ」

 福子の目が、くもりをおびた。こんな福子を見たのは初めてだ。ロン毛が、小指で、しきりに耳の穴をほじった。小指には、うっすらと血がついていた。

 私には、福子が、ロン毛をみ嫌っているのが、よくわかった。それでも、ラーメンは置かれた。

「あー、うまい。やっぱり、来てよかった」

 ほめ言葉が、わざとらしく聞こえた。

 私は、席を立たなかった。爆音が、ガラスをふるわせた。外車のエンジン音だ。

「おうっ」

 やってきたのは、スキンヘッドの大男だ。ロン毛は、尻がむずがゆいのか、もじもじ仕始めた。

「ごちそうさま。また来るね」

 福子は、視線をそらさず、きっぱりと言った。

「もう来ないで」

 大男が、ロン毛の肩をむんずとつかんだ。

「おいっ、返事をしろっ」

「は、はいぃーっ」

 声が、うわずっていた。ロン毛は、菓子箱に金を入れ、あたふたと店を出て行った。

 大男が、言った。

「ありゃあ、何じゃったんや?」

「何でもないから。気にしないで」

 いくらか、福子の顔色がよくなった。

「世の中をぶっつぶしちゃるいう、顔をしとるで」

「そんなことないって」

「ええ世の中なんか、どこにも、ありゃあせんわい。」

「つくればいいじゃない」

「そんなん無理じゃ」

「得意なこと、できること、それだけやってりゃ、食える世の中をね」

「むずかしいこと言うのう」

「ひとりひとりに向くものを見つけて、伸ばせばいいだけよ」

「おかぁちゃんが、やりゃあええ」

「何を?」

「文部大臣にきまっとろうが」


 正太は、ランドセルを背負ってはいたが、瞳の奥が暗かった。昨夜から、食べることもせず、ひと言も口をきいてくれない。


 追い詰められたとき、ひとは、相談もしないし、打ち明けもしない。ひとは、ひとりを選択する。このときだけは、親子も友情も夫婦も存在しない。

 正太もしかり。福子もしかり。私もしかり。

 

「あたしだって、辛いのは一緒さ。ああ、見てらんない。学校なんか、やめたっていいんだよ」

 福子は、正太を抱きしめた。

 店の外で、女の子が名前を呼んだ。友子だった。

「正太くーん」

「おばちゃん、はなして」

 正太は、店をでた。福子は、後ろ姿を見送ることができなかった。


 福子は、ラーメンをつくりながら、泣いていた。その涙が、スープに入っていたのか、こちらまでが、哀しい気持ちになった。

 久男が、現われた。

「ラーメンはいらねぇ」

 と、福子のがま口財布から何枚か札を抜き取り、

「またな」

 と、表に消えた。

 正太と友子は、店の手前で、久男を見かけると、離れて距離を置いた。

「仲がいいなあ。ラブラブじゃねぇか」

 正太は、立ち止まることなく、店の中に入った。

「じゃあな」

 と、久男は、友子に軽く手を振った。

「ちょっと待ってください。おじさんは、正太君の父親がわりですよね」

「う、うん。まあな」

 と、久男は、言葉をにごした。

 友子が、大人びた口調で話し始めた。

 休憩時間のことである。正太が、トイレに行こうとすると、誰かが足を出した。正太は、ふいをつかれ、机の角で頭を打った。教室の中に、笑い声が充満した。笑っていないのは、友子が、ひとりだけであった。正太は、誰にも何も言わず、教室を出た。涙は、とうの昔にれていた。

 昼からは、体育の時間であった。チャイムは鳴ったが、体育の教師はまだ来ていない。またしても、正太が、餌食になった。二人の同級生が、腕をつかみ、動きを封じた。三人目の同級生が、体操ズボンとパンツを脱がした。すっぽんぽんの正太を見て、男子たちは、腹を抱えて笑い、女子たちは、キャーキャーとわめいた。笑い声や、黄色い声には、いっさい手加減がなく、容赦がなかった。正太にも、羞恥心は人並みにある。目がくらみ、足元がふらついた。ここでも、友子だけが救いだった。風で飛ばされるパンツとズボンをとらえると、正太のもとへと走った。友子は、毅然きぜんとした態度で、それを渡した。

 久男は、友子の話を黙って聞いていた。腹の底からこみあげてくるものがあった。おさえることのできない、……怒り。


「おいっ、正太さまが帰ったぞ」

「とっくに帰ってるわ」

 久男が、両手を差し出した。

「さっき、取ったでしょ」

 と、福子が、久男の手をポンと叩いた。久男の姿は、またたく間に消えた。

 正太は、棒立ちになり、迷っていた。福子を安心させるには、どんな顔をすればいいのだろうか。小学生にはむずかしかった。福子は、正太が不憫ふびんになり、そっと髪をなでてやった。その手が、何かを見つけた。前髪を寄せると、額には、たんこぶがあった。

「これはっ? これはどうしたのっ」

 正太は、何も答えない。福子は、上から下まで、正太の体を見た。

「膝だってそう。血が出てるじゃない」

 正太は、初めて、膝の怪我に気づいた。

「何があったの。黙ってちゃ、わからないでしょ。どうして言えないのっ。本当のおかあさんじゃないから?」

 正太が、口を開いた。

「おばちゃんを困らせたくないから」

 福子は、きつく正太を抱きしめた。涙がとまらなかった。


 『福助ラーメン』には、人情という隠し味がある。


 次の日は、仕事の都合で、私は、午前中に昼食をとることにした。

 店には、福子がいるだけで、正太の姿はなかった。今日も、学校に行ったのだ。私は、胸をなでおろすと同時に、正太のたくましさを感じた。なのに、福子は、浮かない顔をしていた。

「どうかしたんですか」

「あいつが、顔を見せないのよ」

「用事ができたんじゃないですか」

「パチンコ以外に、何があるって?」

「勝ってるんですよ」

「勝ったことなんか、一度もないわ」

 福子の視線が、寸胴に落ちると、その顔がひきしまった。


 久男は、正門から、小学校の校内にはいった。屋根のない階段の両側に大きな木が植えてある。何の木かは、わからない。階段は、コンクリートの板でできていた。それを二階までのぼると、正面に、職員室があった。久男は、靴は脱いだが、スリッパは履かなかった。職員室には、男の教頭と女の教師がいた。

 眼鏡をかけた教頭が、上目づかいに久男を見た。久男は、女教師に、ぬきさしならぬ用で正太に会いに来たことを告げ、教室の場所を訊いた。職員室から久男がいなくなって、教頭が、思い出したように言った。

「あいつは、問題児の親がわりだ。何かあったら、面倒なことになる。はやく、連れ戻すんだ」

 女教師は、大儀そうに重い腰を上げた。


 校舎の廊下で、久男は、友子に出くわした。天の助けだった。

「正太君とは、同じクラスです」

 チャイムが鳴り、児童たちが教室に入り始めた。久男も、あとに続いた。既に、給食の配膳は終わっていた。

 久男は、教壇の上に立ち、児童たちと向きあった。担任は、状況がのみ込めず、顔を突きだし、唇をふるわせた。

「お、おいっ。き、君。す、すぐに、出て行くんだッ。ここは、君なんかが来るとこじゃない」

 久男は、顔を紅潮させ、しゃべりはじめた。

「俺は、おまえらに言いたいことがあって、ここに来た。俺は、暴れたりはしない。おまえらが、聞いてくれたら、俺は、すぐに帰る。ちょっとだけ我慢してくれ」

 児童たちは、じっとして、耳を傾けた。中には、予期せぬ闖入者ちんにゅうしゃに恐れをなす者もいた。

「俺は、思うんだ。どんな人間にも、事情ってものがある。わかるか?」

 児童たちは、どう反応すべきか迷った。

「人間は、生まれたときから、みんながみんな平等じゃない。自分がしたくなくても、笑われるようなことをしなきゃいけない人間だっているんだ。そこのところをわかってほしい」

 金縛りにあったように、女教師が教室の中を見ている。教頭が、ゆっさゆっさと体を揺らし、近づいてきた。

「おい、何をやってる。はやく、あの馬鹿を外に出せ」

 教頭の声が聞こえているのか、いないのか、女教師は無反応だった。

「えぇいっ、もういいっ!」

 教頭は、単身で中に飛び込んだ。

「もう終わりだッ。外に出ろッ!」

 教頭は、久男の腕を両手で引っぱった。

「正太が、あんなことを好きでしてると思うか? 駅で歯を磨くのを見られて、いじめられたら、どんな気持ちになる? 悲しくならないか? 人生はな、思い通りにはいかない。親は、寝ても覚めても殴る蹴る、そんな親と一緒にいられるか? 学校が変わったら、からかわれて、笑われて。もしそうなったら、おまえら、耐えられるか?」

 児童たちの中には、泣き出す者もいた。恐怖からか、同情からか、それはわからない。

 教頭が、声を荒げ、

「やめないと、警察を呼ぶぞッ!」

 と、久男をはがいじめにした。

「俺は、正太を守る。正太がいじめられたら、俺は、何度でも来る」

 久男の口調が、哀願に変わった。

「お願いだ。友だちになってくれとは言わない。だけど、いじめるのだけはやめてくれ」

 久男は、両手を合わせ、

「この通りだ。頼む」

 と、児童たちに一礼した。


 頭のいい奴らは、いいこと、ができない。

 あほらしくって。ばかばかしくって。

 いいこと、ができるのは、馬鹿な奴らだけだ。


 久男は、いとも簡単に教頭の手をふりほどき、

「どうも、お騒がせしました」

 と、丁重に頭をさげ、教室をあとにした。

 教頭が、拍子抜けしたように言った。

「みんな、給食にしよう。はやく食べないと、時間がないぞ」

 児童たちは、衝撃をひきずり、各々の席に着いた。

 友子が、正太にメモを渡した。

「?」

 メモには、携帯電話の番号があった。

「わたしのよ」

 番号の下には、『正太君の味方』と、きれいな文字で書かれていた。いじめにあったときには、助けてくれるということだろうか。

 正太は、給食を食べはしたが、何を食べているのかさえわからなかった。


 時計の針が、三時をまわっていた。昼食は、もちろん、『福助ラーメン』である。

「こんにちは」

 声が、ふるえていた。

「おばさん、ごめんなさい」

 同級生だった。

「正太君には、もう、あやまったから」

「そう。わざわざ、来てくれたのね。ありがとう」

 同級生の顔が、いくらか晴れた。

「おばさん、さよなら」

 いじめっ子の声が、来たときとは違っていた。

 “でも、どうして?” 

 福子は、素直に喜べなかった。

 私は、

「ごちそうさま」

 と、言った。

 正太と友子が、帰ってきた。

 友子が、給食時間の出来事を、一部始終、詳しく教えてくれた。それからの福子は、いつもと様子が違った。ラーメンをつくるときでも、うわのそらで、視線は宙をさまよっていた。

 最後の客となった駅員たちが、店を出た後も、それは変わらない。

 暖簾をおろした福子は、いてもたってもいられなくなった。正太は、二階でテレビを見ている。今夜は、サウナに行く日ではない。後は、寝るだけだ。なのに、洗い物は明日にまわすことにした。

 福子が、二階に声をかけた。

「正太、ちょっと留守番してて」

 返事はなかったが、福子は、外に飛び出した。

 暗い歩道をひたすら走った。通りを行く人間に何度かぶつかった。

 サウナのネオンが、点滅を繰り返していた。福子は、息を整え、自動ドアをくぐった。受付嬢が、愛想よく笑った。

「あら、いらっしゃい。今日は、どうしたの?」

 福子は、前掛けをとるのを忘れていた。肩でする息がおさまらない。

「僕ちゃんは?」

 福子は、はやく会いたかった。

「あいつが、来てるでしょ?」

 受付嬢は、きょとんとした。福子は、自分でさがしたかったが、そうはいかない。

「久男。久男っていえば、わかるから」

 久男は、すぐに見つかった。ほんのりとビールで顔が赤らんでいた。パンツ姿は、あまりにも貧相で、ほめられたものではなかった。

 福子が、久男の手をにぎりしめ、目を見て言った。

「これからは、三人で暮らそ」

 久男は、こっくりとうなずいた。


 私は、有給休暇を使い、休みをとった。しかし、やりたいことも、用事もない。結局、いつもの場所で、いつもの席におさまった。その日は、三杯だっていけそうな気した。

 学校から帰ったばかりの正太に、福子が言った。

「あのおじさんが、まだ、駅にいたら、ここに連れてきて」

 昨日の夜、西条駅で、男が、野球帽を顔にかぶせ、ベンチの上で寝ていた。格好を見れば、スリムな紳士であった。福子と正太は、行きと帰りに、その男の横を通り過ぎたが、気にもならなかった。今朝も、その男は、駅にいた。気にはなったが、声をかけられなかった。昼間には、その姿が、駅の風景にとけ込んでいた。

 その男が、私の隣りにいる。頬はくぼみ、口元には、白い無精髭があった。男は、目の前に置かれたラーメンを見て、蚊の鳴くような声で言った。

「ママさん。情けない話ですが、今は、持ち合わせが全然ありません」

 福子が、微笑んだ。

「出世払いでいいよ」

 久男が、顔を見せた。この人は昔から変わらない、これからも、と、福子は思った。


 伴侶とは、ともに旅をし、苦楽をともにする相棒のことかもしれない。


 老婦人が、どこからともなく、やってきた。

「ここは、ラーメン屋でしょ。ラーメンを食べさせてくれる所でしょ」

 どこからどう見ても、老婦人は、ラーメンを食べるような人には見えなかった。顔の皺はやわらかく、どことなく上品な感じがした。身につけた衣服は高価なものだった。

「息子の僕ちゃんは、ラーメンがとっても好きでね、僕ちゃんがちっちゃい頃、よく、ここに連れてきてたんですよ」

 今は、『福助ラーメン』だが、うどん屋の前は、ラーメン屋だったのかもしれない。

 老婦人が、カウンターの上に、巾着袋の中身をぶちまけた。

「私の財布が。財布がない。あいつだッ! 息子の嫁に決まってる。息子と結婚したのは、財産が欲しかったからさ。あいつは、息子を捨てて、浮気相手と逃げるつもりなんだッ!」

「おばあちゃん、興奮しないで。お金は、今度でいいからさ」

「ラーメンなんかいらないよ。食べたくもない。馬鹿にしやがって。私はね、ぼけちゃなんかいないよ。どいつもこいつも。そっちがそうなら、こっちだって。二度と来るもんか」

 悲劇の姑を演じる老婦人は、怒りに身をまかせ、店を去っていった。

 福子が、心配そうに言った。

「大丈夫かな」

「知るかよ」

 久男は、小遣いを手にすると、出て行った。

 お使いから、正太が帰ってきた。

「おばちゃん、これでよかった?」

「ありがとう」

 福子は、正太から受け取った履歴書用紙をカウンターに置き、もといた派遣会社の電話番号と、担当者の名前を紙切れに書いて、それに添えた。

「電話してみたら」

 と、福子は、お金も幾らか渡した。野球帽の男は、腰を深くおり、重ね重ね礼を言い、店を後にした。

 私が、三杯目にとりかかろうとしたとき、隣りの席には、人の良さそうなじいさんが座った。爺さんは、食べるのがはやく、私を追い抜き、どんぶりをからにした。

「ごちそうさん」

 爺さんは、おもむろに立ち上がり、福子に背を向けた。しかし、出てはいかない。爺さんには、良心の呵責かしゃくがまだ残っていた。

 福子は、どんぶりをさげた。爺さんが、くるりと向き直った。

「わしゃあ、金を持っとらんのじゃ」

「へぇー」

 と、言ったっきり、福子は、とりあおうともしなかった。

「わしがやっとることは、食い逃げじゃけん」

「それが?」

「警察を呼んでつかぁさい」

 爺さんは、われ関せずの福子を見て、あきらめたのか、きびすを返し、よたよたと店を出ていった。

 それが助けにならないことはわかっているが、福子には、思いがあった。

 “あのおじいちゃん。少しでも、幸せになってくれたかしら”


   八 地上げ屋


 福子は、窓の外が気になり、目をやった。通りの向こう側には、見なれぬ二人の男がいた。一人は兄貴分で、もう一人がその舎弟だろうか。オレンジ色のサングラスをかけた兄貴分は、えんじ色の革ジャンをまとい、首もとには、開襟シャツのヒョウ柄をのぞかせていた。黒いバケットハットをかぶり、ダブルの黒いスーツを着た舎弟は、小柄で、縮れ毛だった。

 さきほどの爺さんが、二人のもとへ行った。遠目には、はっきりとわからないが、金を受け取ったようにも見えた。爺さんは、頭上に金をささげると、ふところに入れ、遠ざかっていった。

 舎弟が、学生服の三人組に声をかけ、何やら、会話を交わした。三人の高校生は、空き地を横切り、入口の戸を開けた。

 背の低いリーダー格が、しれっと言った。

「おばさん、ここのラーメンは、おいしい?」

 正太が、即答した。

「おいしいよ」

 ラーメンは、正太が、テーブルまで運んだ。学生服がぴちぴちの高校生が、おべんちゃらを言った。

「おばさん。匂いが最高じゃ。へぇでから、この麺は、ほせぇのに腰があって、スープのからみもええし、絶品じゃわ」

 その通りだが、言い方が鼻につく。

 リーダー格が、残りの一人に言った。

「おめぇも、何か言えぇや」

 三人目の高校生は、顔もあげず、しゃべることもなく、食べるのに専念した。

 ぴちぴちが、そつなく言った。

「こがぁに、うまいのは、生まれてはじめてじゃ」

「ありがとう。うれしいわ」

 福子が、照れながら言った。

 テーブルのどんぶりは、三つとも底が見えていた。賛辞の言葉は、嘘ではないらしい。

 久男が、店に顔を出した。

「おい、頼む」

 久男に向けて、がま口が投げられた。

「それじゃない。腹ごしらえだ」

 すきをついて、三人組が、店から逃げ出した。

 久男が、怒鳴った。

「この野郎ッ!」

 福子が、カウンターから身を乗り出し、久男の腕をつかんだ。

「許してやんな。遊びなんだよ。あんたにも、あんな時期があっただろ」

「食い逃げだぞ」

「食い逃げじゃない。値段がないんだから」

 血の気を沈めるには、パチンコしかない。久男は、ラーメンを食べるのも忘れ、出かけていった。


 “打ち直しといくか”

 久男は、パチンコ台の前で煙草をくわえた。客が、久男の背中をかすめ、通りすぎた。食い逃げの三人組だ。それも、学生服で。久男には、気づいていない。三人は、悪びれた様子もなく、はしゃいでいた。

 “あいつら、金をもってやがった”

 とは、思ったが、もうすんだことだと、久男は、気持ちを切り替えた。

 銀の玉は、増えるかと思えば、増えもせず、なくなりそうで、なくならず、気がつけば、なくなっている。久男は、来るたびに、翻弄ほんろうされた。

 怒声が、不意をついた。客たちは雁首がんくびをそろえ、声のする方に顔を向けた。三人の高校生が、背中をどつかれながら、カウンターの後ろにあるドアの向こうに消えた。

 三人は、磁石を使って、いかさまをやっていたらしい。いかにも、子供の手口だ。

 久男は、三人が気になった。

 持ち玉は、一つ残らず台に呑まれた。久男は、店員の制止をふりきり、『従業員以外立入禁止』のドアを開けた。

 三人は、恐れおののき、こうべをたれていた。リーダー格の唇から、血がたれた。久男は、三人の気持ちをひしと受けとめた。スカジャンの龍の刺繍が、こちらをにらんでいる。用心棒が振り向いた。肉体は重量級だ。この男のパンチは、食らえない。

「なんか用か?」

 用心棒とは、顔見知りだった。

「こいつらは、俺がやってる店の客なんだ」

「それが、どうかしたんか?」


 店に戻った久男は、がま口と、菓子箱の金を作業服のポケットにねじ込んだ。

「何やってるのッ!?」

「時間がねぇんだ。あとでな」

 福子が、声をふりしぼった。

「待ちなさいよッ!」

 久男は、もう、店にはいなかった。


 用心棒は、金を受け取ると、不敵な笑みを浮かべた。

「まあ、そこまで言うんじゃったら、今回は許しちゃるけぇ。今度やったら、こんなもんじゃすまんけんの。こんならにゃあ、よう言うとけよ」

「ありがとう」

 久男は、手のひらで三人を追っぱらった。三人は、うなだれ、ドアの向こうに消えた。無罪ではないが、放免となった。

 リーダー格と、ぴちぴちと、無口は、通りに出るや、けろっとした顔で煙草に火をつけた。

 くたびれたスーツを着た二人の男が、三人に近寄ってきた。

「おまえらは、パチンコ屋に行ってた。そうだな?」

 パチンコ屋をでた久男は、またまた、三人に出くわした。

 “世話の焼けるガキどもだ”

 ほうってはおけない性分だ。

「おまえら、何、因縁つけてんだよ」

 男の一人が、何かを取り出した。あろうことか、警察手帳であった。さからうわけにはいかない。三人が、あわてて、煙草を投げ捨てた。

 久男が、とっさに、機転をきかした。

「こいつら、俺を捜してて。俺を呼びに来たんです」

 機捜の私服刑事は、久男に、疑いの目を向けた。

「こいつらが世話になってる人が、俺の先輩でもあるんですが、突然、倒れて、これから病院に行くところなんです」

 二人の私服は、信憑性しんぴょうせいを確かめようと、久男の顔を凝視した。久男は、少しも、ひるまなかった。

 その時、覆面パトカーの無線が、刑事たちを呼んだ。空気が張り詰めた。事件発生である。

「そういうことでしたら、問題はありません。はやく、その人のところへ行ってあげてください」

 二人の刑事は、赤色灯を取りつけ、覆面パトカーで街の中に消えた。


 その夜、目を三角にした福子が、久男を、こっぴどく責めあげた。話し下手の久男は、言い訳や口実で何とか逃れようとしたが、ことごとく福子にやりこめられ、ぐうの音もでなくなった。結局、嘘は見破られ、久男は、まとまりのない文脈で真実を話すはめにおちいった。

「なんで、赤の他人にそこまでしなきゃいけないの?」

 正太が、浮かない顔で福子を見た。

 “しまった” 

 と、福子は、そこで話を打ち切った。

 久男は、肩を落とし、布団にもぐり込んだ。福子が、電気を消した。三人が川の字で寝る畳の部屋に、重苦しい空気が流れた。

 眠れない福子は、空気を入れ換えようと、窓をあけた。外気が、ひんやりと福子の頬をなでた。

 泣き声が……。猫ではない。三人は、まさかと耳を疑った。赤ちゃん!? でも、なぜ。親は、どうしたのだろう。三人は、窓から顔を突きだし、下を見た。人は、いない。真下には、かごがあるだけだ。

 外にでた三人は、肩をすぼめた。福子は、ぎこちない格好で、赤ん坊を抱き上げた。赤ん坊は、手足をばたつかせ、烈火のごとく泣いた。

 久男が、ぼやいた。

「欲しくったって、できねぇとこもあるのによ」

 時が時であれば、もう一度、三行半みくだりはんをつきつけられたにちがいない。

 『福助ラーメン』の二階は、一名が加わったことで、にぎやかになった。

「あんたっ。何してるの?」

「これじゃ、外は寒いだろ」

「パジャマの上にジャンバーを着ればいいでしょ」

 “なんで、俺が、こんなこと、しなきゃならねぇんだ。まったく”

 久男は、口をとがらせ、タクシーを呼びに行った。正太の役目は、留守番と決まった。


 タクシーの運転手は、迷惑そうな顔をした。無理もない。赤ん坊が、泣きやまないのだ。泣き声は、車内で反響し、脳をゆさぶった。福子は、赤ん坊がいとおしく、頬をこすりつけた。

 “この子には罪はない、この子には罪はない”

 運転手は、根ほり葉ほり訊いてきたが、事情がわかると、

「それは、それは、ご苦労なことで」

 と、同情を寄せるような素振りを見せた。

 ドラッグストアは、二十四時間やっていた。福子は、救われた思いがした。赤ん坊は、疲れたのか、泣くのをやめた。

「かわいらちぃ赤ちゃんでちゅね」

 と、女の店員が、手に触れた途端、赤ん坊は、前にも増して、燃えさかるように泣いた。

 ほ乳瓶。紙オムツ。粉ミルク。お尻ふき。頭に浮かぶものは、ほぼ、そろえることができた。赤ん坊を抱く久男は、ガラガラを見つけると、それを振りまわした。


 その翌日、福子は、正太を送り出すと、『けろけろ子供園』までタクシーを走らせた。

 半袖の下着に半ズボンの園長は、忙しく園内を駆けまわっていた。しかし、赤ん坊を抱く福子を見ると、仕事を放り投げ、すぐに飛んできた。

 園長は、話のさわりを聞いただけで、すべてを理解し、

「あとは、僕にまかせなさい」

 と、寛容に笑った。

 “頼りになる人だ”

 福子は、安堵した。


 店に、福子はいない。

 久男は、仕込みにとりかかった。もともと、ラーメンをつくる仕事は嫌いではない。むしろ、しょうにあっている。ただ、誰かが一生懸命にやっていると、邪魔をしたくないというか、譲ってあげたいというか、つい、みずから身をひいてしまう。そんな久男ではあるが、トンカチを手にすれば、豚骨をガツンと叩き割り、えんま棒を手にすれば、微妙な力加減でスープの上面になめらかな渦をおこした。


 店のむこうで、兄貴分と舎弟が目をひからせていた。その二人とは別に、通りをぶらつく男がいる。兄貴分が、ロン毛の行く手をふさいだ。 

「そこのラーメン屋で、食い逃げをしちゃあ、くれんかのぅ」

 何を勘違いしたのか、ロン毛は、自分と福子が関係をもてるように力を貸してほしいと、突拍子もない話をもちかけた。

 さらに、

「あの店をつぶしたいんでしょ」

 ロン毛は、ひとり興奮し、過呼吸気味に、

「そうすれば、夫婦の仲も悪くなり、ラーメン屋は一網打尽。あなたたちにとっても、いい話だと思いますよ」

 と、アイデアを披露した。

 舎弟が、

「なにゅう、訳のわからんことをうるのぉ」

 と、息巻いた。

 兄貴分は、

「まあ、まて」

 と、舎弟をいさめ、ロン毛に、やさしく言った。

「こんなの言うことばっかり、きくわけにゃいかんけん。こっちの言うことも、きいてもらわんにゃあのぉ」

「わかりました。あの店で、食い逃げをしてきます」

 と、ロン毛が、『福助ラーメン』に行こうとした、その時、兄貴分のはがねのような手が、ロン毛の髪をひっぱりあげた。

「痛いッ!」

「そう、あせらんでもええけ、わしらにつきおうてくれぇや」


 駅前に、年季の入った高級車がとめられていた。かっこいいなどと言える代物ではない。兄貴分は、後部席にロン毛を押し込んだ。それでも、ロン毛の減らず口は、とまらなかった。

「あの女とやらしてもらえるんだったら、何だってやりますよ。あいつらを追い出すことくらい、ちょろいもんです」

 兄貴分が、オレンジ色のサングラスを少し下げた。両目があらわになった。それを見たロン毛は、血の気がひいた。

 舎弟は、裏通りに面した、大きな看板の前で、車をとめた。『サラリー金融』の文字が、車の窓から見えた。

 兄貴分が、物静かに言った。

「借りれるだけ借りてこいや」

 事、ここにいたって、ロン毛は、ようやく、自分が置かれた状況を理解した。

「何でもやる言うたのは、そっちじゃけぇの」

 ロン毛の口が、だらしなく開いた。

「そ、それはできません」

「ごちゃごちゃ言わずに、はよう行けぇや」

 ロン毛は、観念するしかなかった。サラ金屋は、そこで終わりではなく、それから、何軒もはしごをさせられ、借金の額は、百万を超えた。それでも、ロン毛は、何もわかっていなかった。

「そろそろ、約束通りお願いします」

「なにゅう言うとるのぉ。そがぁなもんじゃ、足りゃあせんわい」

 兄貴分は、金を奪うと、ロン毛を外に蹴り出した。ロン毛は、ごろごろと勢いよく道路をころがった。


 街は、すっぽりと闇におおわれていた。

 店舗の灯りが、家路につく通行人たちの白い息を照らした。

 店には、これ以上、客が来そうにもない。暇をもてあました福子が、煙草を口にくわえた。正太が、うらめしそうな顔をした。

「あ、ごめんごめん」

 福子は、ライターと煙草を手に持ち、外に出ていった。


 通りの向こうで、黒い人の輪郭が動いた。


 店の壁と、隣りの壁との間をすり抜けると、『福助ラーメン』の裏手に出る。そこは、四方が壁で囲まれていた。ラーメンスープの蒸気が、換気扇から流れてきた。福子は、煙草に火をつけた。ほたる火は、息に合わせて濃淡を繰り返した。

 砂利を踏む、足音がした。誰だろ?


 久男が、正太に訊いた。

「あいつは?」

 正太が、煙草をくわえる仕草をした。

「ニコチン切れか」

 久男は、作業服のポケットに手を突っ込み、外に出た。


 福子の前に、ロン毛があらわれた。瞳孔が異常に開くのが見えた。

 思わず、声が出た。

「気持ち悪いッ!」

 ロン毛が、福子におどりかかった。ほたる火が地に落ちた。

「気持ちよくしてやるよ」

「いらねぇわ。くそったれッ!」

 福子は、もがいた。

「おとなしくしろッ!」

 ロン毛が、福子を壁に押しつけた。

「このガキゃあ!」

 と、壁と壁との間から、久男が、飛び出した。久男の拳が、ロン毛の頬をつぶした。福子は、泣きながら、久男にしがみついた。

 しかし、手遅れだった。久男は、既に、凶器と化していた。


 幼い頃、あの人は、差別を経験した。だけど、誰にも言えなかった。歯を食いしばり、涙をこらえた。暴力は、唯一の抵抗手段であった。あの人は、誇りを守るために、人を傷つけた。それを、責める気にはなれない。しかし、どんな理由があれ、人を傷つけてはいけない。

 “暴力はやめて”

 福子は、いつも、そう念じていた。


 ロン毛は、血と砂にまみれ、うようにして、その場から逃れた。

 駅のトイレで顔を洗い、血と砂は流したが、れは、どうにもしようがない。もはや、ロン毛には、明日への希望はなかった。

「兄貴」

 ロン毛は、性懲しょうこりもなく、鉢合わせになった兄貴分をそう呼んだ。

 それが、かんにさわった。

「誰が、兄貴じゃと?」

 舎弟が、間に入った。

「目障りじゃ、はよう行けぇや」

 と、ロン毛の脇腹を足で蹴った。

 ロン毛は、うつろな目をして、よろめいた。


 店の戸を叩く者がいた。朝とはいえ、二階の部屋は真っ暗だ。

 出てみると、若い女が立っていた。話を聞けば、店の前で泣いていた赤ん坊の母親であった。若い女は、終始、涙ではれた目をこすり、ひっくひっくと喉を鳴らした。

「あの日、コインロッカーの前で立ってたら、そんなとこに赤ちゃんを入れちゃいけないよって、男の人に言われたんです。向こうは冗談だったかもしれないけど、わたしは、本気でした。男の人は、わたしの顔を見て、力になるよって。せっぱ詰まってた、わたしには、男の人が親切に見えたんです。ラーメン屋の前に置いておけば、女将が、ほっときゃしないからと、言われました。わたしが馬鹿でした。ごめんなさい。許してください」

 問題が、ひとつ解決した。晴れやかとは言えないが、暗い気持ちは、うすれた。福子は、若い母親と『けろけろ子供園』に向かった。


「そこのマスターが、客を血まみれにしたらしいで。ひでぇ奴じゃ」

 舎弟が、通行人をつかまえては、口からでまかせを言った。通行人たちは、うつむいたまま、足早に通りすぎた。

 店の中には、久男がひとりである。げんが悪かった。しょっぱなの客が、兄貴分と舎弟では、何をするにしても、やりようがない。二人は、テーブル席に座った。

「福助をくれぇや」

 と、兄貴分が言った。しかし、はなっから、食べる気などない。

「福助じゃない。福助ラーメンだ」

「どっちだってええわ。どうせ、こがぁな店にゃあ、福なんか、きゃあへんのんじゃけぇ」

「福助は、俺の女房だ。俺は、寝ても覚めても、女房の幸せだけを考えてる」

 今は、どうか知らないが、昔は、そうではなかった。

「客に暴力をふるうとって、よう、そがぁなことが言えるのぉ。ちゃんと、被害者もおるんじゃけんの。言い逃れはできゃあへんど」

「悪いのは、あいつだ」

 舎弟が、目をひんむいた。

「こんなにゃあ、血も涙もありゃあせん。こんなは、人間じゃなぁわい」


 久男は、幼少の頃から、いわれもなき理不尽な差別をうけてきた。それは、記憶から片時も消えることはなく、直接の言葉ではなくても、久男がそうだと思えば、琴線にふれた。


 人間じゃない。


 久男の眉間に深い溝ができた。

 その言葉で、何度からかわれたことか。

「お客さん、今、なんて言われました?」

「こんなは、人間じゃなぁわい」

「はあーッ! 表へ出ろッ!」

 久男の怒りが、噴出した。

「言われんでも、ぶっ殺しちゃらぁ」

 舎弟が、木戸のガラスを蹴り割った。

 久男の口が動いた。

「俺は、何回も、死んだ人間だ」

「……?」

 二人は、空き地に出た。

 目にもとまらぬ速さで、襟首をつかみ、砂利の上に舎弟を投げつけた。舎弟は、顔に傷を負ったが、立ち上がり、蹴りを飛ばした。久男は、舎弟の足を脇でとらえ、顔にパンチをいれた。舎弟は、体をささえきれず、仰向けに倒れた。その機を逃さず、久男は、足で腹を踏みつけた。舎弟は、うめき、のたうちまわった。兄貴分は、加勢も、仲裁もせず、唇をゆがめ、煙草をふかした。

「暴力はやめてッ!」

 戻ってきた福子が、絶叫した。


 久男の思いは、とめられない。なぜなら、久男は、思いをとげるために、生まれてきたのだから。


 久男は、我に返り、呆然とした。

 兄貴分が、ぴんっと煙草を指ではじいた。久男の胸で煙草の火がはじけた。

「一週間で、ここを出るか、治療費一千万か、どっちかにせぇや。そっちのでかたによっちゃ、出るとこへ出てもええんで」

 兄貴分と舎弟は、地上げ屋だった。立ち退けば、水に流すが、さもなくば、警察にしょっぴいて行くという。

 怪我をさせたのは、まぎれもない事実だ。久男の過去も調べられかもしれない。福子は、強気になれなかった。


 私は、仕事を依頼された。引き戸のガラス修理だ。私は、営業車から、作業用トラックに乗り換え、店に駆けつけた。骨が折れたが、新しいガラスは、木製の建具になんとかおさまった。しかし、福子の哀しい顔は、もとには戻らなかった。


 店の前に、わめきちらす者がいる。

 こんな遅い時間に、誰だろう。

 福子は、体を起こし、部屋の灯りをつけた。正太が、寝ぼけまなこをこすった。久男は、目をかたく閉じ、布団をかぶった。

 二階の窓から福子が顔をだすと、大家のばあさんが目を吊り上げていた。

「はよう開けんさいやッ! うちゃあ、許さんよ」

 福子は、下に降りて鍵を開けた。大家は、遠慮会釈えんりょえしゃくなく二階に上がり、よっこらどっこらしょと重い腰をおろし、首に巻いた手ぬぐいをゴミ箱にかけた。

「あんたらが、ここを出る言うたら、うちゃあ、承知せんけんね。わかっとるじゃろ」

 大家が、ゴミ箱の手ぬぐいに手を伸ばした。来たばかりなのに、もう帰るのかと、福子は思った。大家は、しょぼついた目を手ぬぐいでこすると、また、ゴミ箱にそれをかけた。

「この土地は、死んだおとうちゃんが守っとった大切な土地じゃけぇ。あがぁな奴にゃあ、渡さりゃあへん。安う叩かれるだけじゃけ。まともに売りゃあ、高う売れるんじゃけぇ。あんたら、わかっとるんかいね」

 詰まるところ、不動産屋に買い叩かれるのが嫌なのだ。大家は、白髪を振り乱し、凄い剣幕でまくしたてた。福子の契約は一年で、今、出れば、契約違反だと。

 こういうときの久男は、借りてきた猫のようにおとなしい。女、子供、年寄りには、決して手をあげてはならないという、強い信念を持っているからだ。

 地上げ屋の件は、契約書には書いてなかったと、福子は、食いさがったが、布団でおおわれた久男の背中を見ているうちに、これ以上のもめごとは、もうごめんだと、高い違約金を払うことにした。


 その日は日曜日で、正太は店にいた。

 福子は、今日が最後の日と、心の中で決めた。そのことは、久男も知らない。

 いつかの高校生が、三人でやって来て、ラーメンを食べた。着ているものは、学生服ではなく、普段着だった。ラーメンをすする私も、普段着である。

「おばさん、いくら?」

「いくらでもいいよ」

 リーダー格が、

「この前のと一緒で」

 と、菓子箱に千円をいれると、ぴちぴちも無口も、それにしたがった。

 三人が帰ったあと、私は、つい口をすべらせた。

「生きていれば、いいこともありますね」

 福子が、ひとりごとを言った。

「ラーメンはラーメンでしかないけど、あたしにとって、ラーメンは、何なんだろ?」

 それは、誰にもわからない。

「あたしは、ラーメンがつくりたくて、生まれてきたわけじゃない」

「僕だって、ラーメンが食べたくて、生まれたきたとは思いません」

 また、口がすべった。

「あたしは、食ってくれなんて、ひとことも言ってないよ……あぁ、何のために生まれてきたんだろ」

 “私は、首から血を流し、片目をつぶしてまで生まれてきたが、いまだに、それは謎だ”

「あたしの人生は、苦しいことばっかで、楽しいことなんか、これっぽっちもない。出会う男は、クソばっかでさ。あんたは?」

「悪いこともありましたが、いいこともありました」


 地上げ屋に日曜日はなかった。通りの向こうで、兄貴分と、包帯を頭に巻いた舎弟が、ぬかりなく周囲に目配りをしていた。


 客は、ひとりも来なかった。

 二杯目を私が食べているとき、外車が、空き地で停車した。

「俺に、何か用か」

 と、大男が、背を丸め、鴨居をくぐった。福子が電話で呼んだようだ。

「この店は、今日で終わりよ」

「何でや?」

「あいつが、喧嘩したから」

「そがぁな男たぁ、別れりゃええんじゃ」

「食べるの? 食べないの?」

「食べるで」

 大男の食べ方は、味わうというよりも、何か、思いをかみしめているようにも見えた。

「なんぼうや?」

 福子は、園長の名刺を渡した。

 大男が、名刺を見て言った。

「こかぁ、よう知っとるわい」

「いくらでもいいから、お願い」

「わしに、まかせぇ」

 スキンヘッドの大男は、福祉関連の製品を開発、製造している会社の社長である。福子は、新聞で何度か目にしたことがあった。この男なら、園長の力になってくれるかもしれない。


 次の日は、久男が、八面六臂はちめんろっぴの働きをした。朝一番に、リース屋でトラックを借りると、商売道具や生活用品で、売れそうな物は、リサイクルショップに持って行き、そうでない物は、産業廃棄物の集積場へと運んだ。

 福子と正太は、『けろけろ子供園』に行き、お別れの挨拶をした。園長は、寂しがると同時に、これから先のことを案じ、心配もしてくれた。生活の基盤ができるまで、うちで預かろうかと言ってもくれたが、命懸けで守るという強い意志はゆるがなかった。園長は、タクシーが視界から消えるまで、名残惜しそうに手を振ってくれた。


   九 旅立ち


 引っ越しの掃除が終わった頃には、日が、西に傾いていた。

 久男が、駅の自動券売機を前にして、他人事のように言った。

「やり直すなら、近くよりも、遠くの方がいいか」

 公衆電話で電話をしていた正太が、少し待ってほしいと、珍しくわがままを言った。

 正太は、ベンチに座りもせず、街の方を一心に見続けた。

「……友子ちゃん」

 正太が、涙ぐんだ。悲しさが半分、嬉しさが半分だった。歩道の奥から、小さな赤い影が、こちらに向かって駆けてくる。正太は、待ちきれず、駅の階段を駆けおりた。さらに、奥に向かって駆けていく。正太は、駅から、かなり離れたところで、友子と出会った。

「正太君、連絡くれるよね」

 友子が、念を押した。

「うん」

 正太が、うなずいた。

 “正太が、ここにいたいと言っても、ここにはいられない。あたしが守ると決めたから”

 ふたりを見た福子は、自分を納得させようと何度もうなずいた。

 三人は、改札口をぬけた。

 正太は、電車に乗っても、手がちぎれるほど手を振った。友子は、改札口から身を乗り出し、電車が見えなくなるまで手を振り続けた。


 あの日から数ヶ月がたった。

 『福助ラーメン』の面影だけでもと、駅前に行ってみたが、福助の絵はおろか、建物さえもなくなっていた。


 世の中は、ろくなもんじゃない。

 そう思えれば、

 裏切りも、絶望も、失意のどん底もない。


                            〈終〉

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