第113話 “さまよい欺かれて”…偽りのダークヒーロー編
それは、二人がキョウト南東部のウジカサトリ山中で再会する一週間ほど前。
ワカヤマのシオノミサキより東の小さな町の砂浜に、一人の男が打ちあげられた。
海水浴シーズンの終わった九月の夕暮れに、そんな砂浜を気にする地元の人が居る訳も無く、その男の存在に気付く者も居なかった。
次の日、一軒の家の家族が惨殺された。
男物の衣類が持ち去られていたが、金も取られていたため警察は押し込み強盗の線で捜査を始めた。
だが、海にうちあげられた男の存在が分ろう筈もなく、近い将来に捜査は暗礁に乗り上げることになる。
*****
男は奪った衣服に着替えると、血に塗れた服を山の奥深くに捨てた。
記憶はぼんやりとしていたが、頭の中に響く声と何となくの感覚に任せてヨシノの山中を彷徨始めた。
その手に真っ黒い、唸り声をあげる剣を持ったまま。
幾度も道路を横切り、山の斜面を登り、川さえ渡り、男はひたすら北上した。
何故かは全く分からない。疑問すら沸かなかった。
右手の黒い剣から、惨殺した家族の魂がエネルギーとなって流れ込んでいるのを感じていた。
山中の小動物も剣で殺すだけで自らの力になった。人間のそれと比べたら、微々たるものだったが。
不思議と、最初の打ちあげられた町以来、人里・街中に出ることは無かった。
やがて何日も山の中を彷徨い歩いているうちに小さな祠がひっそりと建っているのを見つけた。
その祠の傍らに異様な風体の獣が居た。
遠目から見ると狸のようにも見えるが、近づくとその顔は猿で手足は虎、そして尻尾が蛇になっていた。
いわゆる鵺と呼ばれる妖怪なのだが、その男にはそんな知識は無い。
精々、ゲームに出てきそうなヤツだ、ぐらいにしか思わなかった。
実際、その鵺の大きさは狼か猪ほどの大きさでしかなかった。
黒い剣からもたらされる魂のエネルギーは尽きかかっていたので、良い供給源が見つかったと男はほくそ笑む。
男が飛び掛かると鵺も素早く左右に移動しながら襲ってきた。
“左に振り下ろしてすぐに後ろに横に薙げ”
頭に響いてくる指示の通りに剣を振るう。黒い剣の一撃で、鵺の頭部を叩き割った。
久しぶりに味わう大物の魂に、男は身体に力が漲るのが分り、思わず顔を天に向けた。
黒い剣……魔剣からもたらされる黒い闇のエネルギーが、全身に行き渡るのを感じる。
そのとき、男は懐かしい気配に気がついた。
この感じは……。
しばらく脳内に流れる記憶を検索。そしてようやく気配の主に思い至る。
同時に思い出すは自分自身のこと。
男は──ミトラは思わず哄笑をあげた。やはり俺は“主人公”だ、と。
俺の、俺様のプライドを傷つけたあの糞野郎に、こんなところで会えるとはな!
そして哄笑と共に、その懐かしくも鬱陶しい気配に声をかける。
「はははは! よお兄貴、コソコソ隠れてないで出て来いよ! そこに居るんだろ!?」
*****
「やっぱり生きてやがったか、ミトラ。くだらねえ野郎の癖に悪運ばかり強いカス男が」
兄がそうミトラに返した。ミトラの感情を逆撫でするように。
気に入らねえな糞が。そうミトラの胸に湧き上がる感情。
ポツポツと降ってきた雨にも関わらず漂ってくる甘い匂い。兄からだ。
兄が気取って香水の匂いをさせているのも、ミトラの気に障る。
──気取りやがって! オマエは怒りと悔しさで顔を真っ赤にしながら俺を睨んでるだけで良いんだよ、ガキの頃みたいに!
早速ミトラは、苛立ちで思考がショートしかける。
だがすぐに気持ちを落ち着かせる。もうこの前の船の上みたいに、ヘマはしない。
そう考えながらミトラは周囲を見渡し、魔剣をプロテクターにして手足に装着する。
いざとなれば木を薙ぎ倒すだけだが、剣の状態では振り回した時に、周囲の木々に引っ掛かるかも知れないと判断したからだ。
魔剣から思考が伝わる。
“ふん、ようやく少しだけ知恵が付いたか”
ミトラはまたイラつき魔剣に返す。
──うるせえ! ゴチャゴチャと指図ばっかしやがって! 黙って俺に使われていろ!!
“ふふん、そこまで大口を叩くなら、どこまでやれるか見ておいてやる”
ミトラは足を肩幅に広げて手を胸の前でクロス。
そしてプロテクターの手甲を変形させて鉤爪を伸ばした。
魔剣から流れてくるエネルギーでの驚異的な回復力とで、どこかの漫画かハリウッド映画のヒーローみたいだな、とミトラはちらりと考えて笑う。
だが兄はすぐに藪の中に飛び込んだ。
ガサガサと派手な音を立てながら、たちまち山の斜面を登ってミトラから身を隠す兄。
すぐにその音が消えた。
──逃がすかよ雑魚が!
音が消えた辺りで耳を澄ませて兄の気配を探る。
完全に物音を遮断しながら移動することなどあり得ない。
特にこんな森の中では。
例え雨が降っていようとも、その雨音で気配が掻き消されてしまうほどの強さではまだ無い。
その時、ミトラの元へ甘い香りが漂ってきた。
先ほど嗅いだばかりの匂い。兄がさせていた香水の匂い。
──へ、馬鹿が。柄にも無く気取って、慣れねえモン付けてるから墓穴を掘るんだ!!
その匂いを辿っていくと、とある太い樹木の陰から服の裾のようなものが見えた。
色合いから、さっき兄が来ていたコートに間違いないだろう。
さて、どう攻撃するべきか。
遠距離から例の飛び道具攻撃でも浴びせるか。
いや、向こうも刀から何かを飛ばせることが出来た。
タンカーの時のように、溜めている途中に攻撃されるのがオチか。
さっきから木の陰のコートは少しも動かない。
ミトラの気配に気が付いた様子は無い。
ミトラは上を見上げた。木の葉を叩く雨音が強くなっている気がする。
ニタリと口角を上げた。
──小賢しいマネしやがってくれたが、この雨が俺の動く気配を消してくれる。世界は俺の味方なんだぜ!
ミトラは身を屈めて近づく。一歩一歩、慎重に。
襲いかかった時の兄の表情を思い浮かべながら。
あと少し。
もう飛び掛かるか?
いや、もっと近くから確実にだ。
もう良いかな?
いや、楽しみはもう少し待とう。
もうそろそろ良いんじゃねえかな?
そうだな、もう良いだろう。
ミトラは一気に跳ねる。兄が隠れている樹の左側に。
着地した足を踏ん張り、左腕を振り上げ飛び掛かる。
そのまま流れるように、一気に左腕を振り下ろす。
風切る音と共に空振り。
愕然としながらミトラは、兄が隠れている場所を見て確認。
そこには香水がたっぷりと振りかけられたコートが、樹の幹にナイフで貼り付けられているだけ。
地面に散らばる、消毒液の匂いをさせた脱脂綿にミトラは気が付いただろうか?
兄が、顔に振りかけた香水を拭った脱脂綿に。
だがそれはおそらく無理だったろう。
何故なら、ミトラが左手を振り下ろした時と同時に、樹上から何かが落ちてくる音が聞こえたからだ。
──上から攻撃!? 忍者のモノマネかよ小細工を!!
ミトラは上を振り仰ぎながら、同時に右腕を上から落ちてくるモノにブチかまして殴りつけた。
寸分違わず上から落ちてきたモノのど真ん中にブチ当たる右拳の鉤爪。
ゴツッ!!
右腕に伝わる硬い感触。
見るとそれは太い木の枝。人間の胴体はあろうかというぐらいの。
その木の枝の陰から、今度こそ兄の姿。刀を逆手に持って、まっすぐミトラに落ちてくる。
──ヤベエ!?
半ば反射的に、必死に体の動きを硬直させるミトラ。
だが右手の鉤爪に刺さった大きな木の枝の重さに振り回されて身体が流れ……。
予想以上にミトラの体勢が崩れる。
二人の身体が交錯。
ミトラの右の背中に何かが当たって流れる感触。
崩れた体勢ながら咄嗟に兄へ蹴りを繰り出すミトラ。
地面に突き立つ刀を手放し、回避行動を取る兄。
しかしそれが間に合わずに蹴りは兄の右肩に当たり、身体を吹き飛ばす。
だが崩れた姿勢からでは、致命傷を与える程の威力は込められない。
──くそっ、どこかの漫画みたいな戦法取りやがって!
地面に突き立った刀もいつの間にか消えている。
一体どんな手品を使ったのか。
兄は空中で体勢を整えると地面に転がり、素早くどこかに姿を消していた。