紳士の卵
「あーあ。シケてんなぁ。この『ヤマコーのショウ』に喧嘩売るんだったら、ゆきちゃんくらい入れとけよバァカ」
路地裏に立つ傷だらけの少年は財布を投げ捨てた。財布の持ち主は死んだカエルのように地面に倒れている「カワコーの金剛力士」だった。
ヤマコーのショウはそこから抜き取った千円札を一枚一枚数え始めた。
「もし、もし、そこの少年や」
数枚の千円札を無造作にポケットに入れたところで不意に後ろから話しかけられ、ショウは少し驚いた。
「あン? 何だてめえ。ぶち殺すぞ」
抜き身の刃物のように物騒なショウに話しかけたのは「キタコーの闘牛」や「タニコーの一匹狼」のような名の通った不良等ではなかった。
そこに居たのは小柄な老人。
グレーのソフト帽に光沢あるスーツ。そして、黒光りするステッキ。高校生のショウでも分かるほど身なりが良い。
「少年。君の行動、しみったれているとは思わんかね」
「う、うっせ! 関係ねーだろジジイ!」
自分に物怖じしない妙な迫力と図星を撞かれたことに動揺してしまった。
「ふむ。いや、構えんでいい。しみったれていると言ったのは、喧嘩に明け暮れて金銭を巻き上げている君の行動に対してではないのだ」
「ぐ……! じゃ、じゃあ何だってんだ!」
全て見抜かれている。ショウはそう思い、何も言い返せず、かと言って苦し紛れにこの老人を殴る気にならなかった。なんと言うか殴ったら負けのような気がしてしまったのだ。
「何。もっと単純な話だよ。私は昔、金に困っていてね。1000円、2000円を端金とは思わないが、それでも生活の足しにするにはすこーし足りないとは思わないかね」
完敗だった。やはり全て見抜かれている。
ショウの家は非常に貧しい。安いアパートにパートで働き詰めの母と二人暮らし。
朝早くから夜遅くまで母親は帰ってこない。
そんな母を心配してアルバイトをしようとしたら止められた。
「ショウちゃんにこれ以上負担はかけさせない」
16歳にしてショウちゃん呼びはかなり嫌だった。しかし、自分に気を遣っている気持ちは充分に分かった。
なので、自分に気を遣わせぬよう、そして生活の足しにするよう、吹っかけられた喧嘩を買い、金を巻き上げていたのである。
その紳士の言葉は彼のこう言った込み入った事情を汲んでのものかは定かではなかった。
しかし、彼の方から問いかけさせるには充分に心に刺さったのだ。
「そうだよ。ジジイ。全然足りねえよ」
「そうかそうか。だったらな、コレを持って行くと良い」
老人は懐から小さな白い楕円形の物体を取り出した。
「……これは?」
「信じられないかも知れないが、これは『紳士の卵』だ。大事に育てると紳士が産まれてきてな。少年を経済的に助けてくれる」
「バカにしてんのか! いるかこんなもん!」
「まあ、待ちなさい。ここは騙されたと思って取っときなさい」
「いるか! 大体なんだ。紳士が産まれるって。意味分かんねえよ」
「確かに話だけ聞くと怪しいかも知れんが本当に言葉の通りなのだ。きちんと大事に育てれば紳士が産まれる。危険な物ではない。取りあえず持って帰りなさい」
「お、おい。ちょ、待てって!」
老人はショウに無理矢理卵を渡す。
そして、その場から去ってしまった。
「何だったたんだあの変なジジイ」
ショウはアパートへ戻った。そして、いつもの様に制服を放り投げようとした。
「……」
ショウは学ランのポケットを探った。中には結局もらってしまった卵が入っていた。
――大事に育てると紳士が産まれる。
あの、ジジイ。妙に説得力を持っていたし、実際に言い返せなかった。もしかしたら、この怪しい卵もあるいはーー。
「ふん。試してやろうじゃねえか」
大事に育てるの意味が分からない。温めれば良いのだろうか。
ショウはそれから毎日卵を持って学校に行くこととなった。
「テメエ。『ヤマコーのショウ』だな。オレァな『マツコーの虎』ってんだ。テメエをぶん殴りに来たぜ」
下校途中、早速他校の不良に絡まれた。虎は、昨日の金剛力士よりも巨体だった。
「あん? 子猫がピィピイうるせえよ。俺んちはペット禁止だから、この場で可愛がってやるよ!」
ショウは学ランの襟に手をかけたところで止まった。
喧嘩をするときは学ランを脱ぎ捨てていたのだが、もしかしたら地面に落ちたときに卵が割れてしまうかもしれない。
その上、仮に丁寧に脱いだとしても、喧嘩で揉み合いになったときに同じく割れてしまうかもしれない。
「……と、思ったがここは退散する!」
「あ、てめ。待てこら! 逃げんのか雑魚が!」
「うっせ。三下と金のないヤツは相手にしないことにしたの!」
三回だ。今日だけで実に三回。虎から始まり、「タカコーのヤマネコ」「ミヤコーのウンピョウ」。スマトラ島かここは。
面は割れているし、恨みも数え切れない程買っている。
自分に喧嘩をふっかけてくる大抵の連中には勝てる。問題はただ一つ。卵が割れてしまうことのみ。
外に出れば不良に絡まれてしまう。しかし、身を粉にして働く母親のために学校に行かないわけにもいかなかった。
そこでショウは思いついた。
自分が物理的にいなければ絡まれようもない。
閉まるぎりぎりまで学校に残ることに決めたのである。
ショウは翌日、日が落ちるまで腕を組んで教室に座り込んだ。効果はてきめんだった。
夜遅くともなれば不良たちはゲームセンターに入り浸るかバイクを乗り回し始め、喧嘩を売られにくくなるのだ。
しかし、退屈極まりなかった。
その翌日、ショウは漫画を持ち込んだ。しかし、漫画を買う金がないショウはこれも数日で読み終わって飽きてしまった。
この辺りからショウの死亡説が不良の間で流れ始めたと言う。
――地元のやくざに殺された。
――ビルから転落した。
――喧嘩の末に死んだ。
街の勢力図が一気に変わり、変革の時期だと大騒ぎになっている不良界とは全くの対岸で、当の本人は時間を潰すことに腐心していた。
彼の意図を知ってか知らずか、担任の教諭がこう言った。
「ずっといるんなら勉強すれば?」
正直、これしか無かった。
勉強は元より嫌い。不良とはそう言うもので、自分もそうだと言い聞かせてきたが、何もしないよりかはまだマシかもしれない。
ショウは翌日から教科書を読み始めた。彼は負けず嫌い。分からないことがあれば分かるまでやる。そんな性分だった。
「なあ。センセ、なんで、ミツナリはノブナガを裏切ったん?」
未だに解明されていない史上の謎を問うようになるまで時間はあまりかからなかった。
ショウはそれから夜の校舎での勉強に励んだ。そうこうするうちに卵のことはあまり意識しなくなっていった。
そして彼は勉強の楽しさに徐々に気付き、終いには大学受験を決意。更なる猛勉強、一浪の末に、なんと、地元の国立大学に合格。ヤマコー史上初の快挙だった。
その後は地元の地銀に就職。悪い意味での顔の広さは意外にも役に立ち、かつての不良たちは自分が生きていたことに驚いたものの、皆、自分の顧客となった。
順当に同期入社の有名私大卒の女性と結婚、ニ子を設ける。そして破竹の勢いで出世を続けた結果、最終的には取締役にまで就任。
任期を終え、退職。
その日、思い立って、地元に買った広い家のクローゼットを整理していたところ、かつての学ランが出てきた。
「おお。これは……」
ポケットから出てきたものはかつて自分が荒んでいた頃、今の自分くらいの歳の老人にもらった紳士の卵だった。
卵が孵る気配はない。
クローゼット横に備え付けられた妻の化粧台の方に目を向ける。
そこには円熟した皺と知性ある白髪、威厳ある髭を携えた自分が写っていた。
その瞬間、老人の言葉全てに合点が行った。紛れもなく産まれた。産まれていたのである。
ショウは一張羅を着込み、街へ出掛けた。その姿はショウ自身が良く覚えていた。
「ケッ。『ヤマコーのタクヤ』に喧嘩売るんだったら金持ってろやタコ!」
いた。まさに理想の人物だ。ショウはかつての自分をそこに見たのだ。
「もし、もし、そこの少年や」