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フォルトゥーナハルモニア~とらわれの影編~

作者: 宵千 紅夜

 深く茂った下草を踏みながら、夜の闇が薄く残っているかのように暗い昼の森を一人の男が歩いてゆく。

 しばらく歩き、ようやく開けた場所にたどり着いたが、そこがかつて庭園だったのだと気が付くまでに少し時間を要した。広い庭だっただろう場所は、低木や草が乱雑に育ち、薄汚れた白い外壁の古城を取り囲んでいた。

「あれか」

 持っていた革の四角い鞄を地面に置き、顎に伝った汗を手の甲で拭いながらスクラはため息を吐いた。

 ――確かに、いやーな雰囲気だねぇ。

 仕事の依頼を受けてここまで来たのだが、やっと入り口にたどり着いたに過ぎず、目的は城の中にあった。

 鞄を手に、下草でボロボロになった石畳を踏みながら進む。

 依頼人の話や、この場の規模を見る限り、人がいた頃はさぞ立派な城だっただろうと窺える。だが庭や石畳は見る影もなくボロボロだ。一方で城はといえば、外壁が汚れてしまっていたりするが、蔦も絡まず綺麗なものである。

 ただ、それは奇妙でもあった。蔦が生えていないというわけでもなく、庭の石像などには容赦なく絡み付いているのだが、下草も城に近づくにつれどんどん低く、まばらになっている。まるで、蔦や草が城に近寄るのを避けているように思えた。

 その疑いは、城の正面扉に立ったとき確信になった。

 塗装のところどころ剥がれ落ちた、白塗りの木の扉に触れるだけで背筋に冷たい感覚が走る。

 ――うーん……ちょっと厄介、かも?

 スクラの口元には苦笑いが浮かぶが、表情とは裏腹に事態は深刻だった。

 気合を入れ扉を開き、城の中に踏み込む。水の中を歩いているように、足には冷たい感覚がまとわりつき、一歩ごとに頭を締め付けるような頭痛が強くなる。スクラは原因を探るように周囲を見渡すが、薄汚れた城はただ静寂で満ちているだけだ。

 曇り切った窓ガラス。火が焚かれなくなって久しい暖炉。ほこりの被ったソファー。錆の目立つ燭台。飾りがいくつも外れてしまったシャンデリア。家財道具はほとんどそのまま残されているように見えた。まるで、財産を捨ててでもこの場に長く居たくないというようだった。

 壁には色あせた家族の肖像画と思しき物がかかっており、その中には見覚えのある女性が描かれていた。スクラは壁紙が剥がれ、むき出しになった石の壁をじっくりと眺めて指でなぞる。

 ――城に封印したんじゃなくて、城そのものが封印ってことか。

 ほんの少しだけ痺れるような感覚を指先に感じ、スクラは壁から手を離した。

 急に、日が翳ったかのようにあたりが薄暗くなる。

 ――気づかれた、かな?

 スクラは注意深く周囲を見渡し、懐に入れた術符を取り出した。

 何かが近づく音は無い。空気が動いている様子も無い。しかし、身体の芯から冷えるような感覚は強くなるばかりで、本能は危険を告げている。

 息を殺して感覚を研ぎ澄ます。

 スクラが大きく横に飛び退くと、黒い影が上から滴り落ちるようにスクラのいた場所を包み込んだ。間一髪でかわしたが、影はすぐにスクラを追うように揺らめいた。

 驚いている暇すらなく、術符を影に向かってかざす。

「ハリアゼ――っ」

 呪文を唱え終わらないうちに強い光がはじけ、スクラも影の塊も吹き飛ばされた。

 スクラは背を強く壁に打ち付けたが、構っている余裕は無い。とにかく今は逃げることだけを考えるべきだ。

 ふらつきながらも足を踏み出し、入ってきた正面の扉まで全力で駆け抜けた。影が追いかけて来ているのか、いないのかは分からない。だが、確認する余裕はなかった。

 やっとのことで城の外に転がり出ると、スクラは距離を取ってから振り返った。

 勢い良く開けた扉が反動で閉まってゆくが、その隙間から見えた室内は暗闇としか形容できない状態だった。あと少し遅ければと思うと、背中を冷たい汗が伝う。

「これは……。参ったな」

 スクラは地面に置いた鞄に腰を下ろすと、ため息をついて天を仰いだ。


***


 照りつける太陽がファーヒルの街の白壁を一層まぶしくさせている。日陰になった馬車の停留場にいても、暑さがまとわりついた。停留所のベンチに腰を下ろしているスパイルは、自分の襟を掴んでパタパタと風を含ませながら、横に座るリコルに顔を向けた。

 遠くを見つめているリコルの横顔はどこかぼーっとしており、スパイルはそれにえも言えぬ居心地の悪さを感じた。

「暑くないか?」

「ん? ううん、大丈夫。村じゃこんなに暑いことは少なかったけれど、平気だよ」

「何かあったらすぐに言えよ?」

「うん、ありがとう」

 顔を向けて笑顔で返すリコルに、言葉を続けようと逡巡したが、特に話題もなく妙な間ができてしまったので目をそらした。

 赤いトカゲの一件から数日が経つが、リコルはぼんやりと考え込んでいるようなことが多かった。食事もしっかりと食べるし話をすれば笑顔で返すが、どこか活気がなく、以前のように目を離すと駆け出してしまいそうなところがなくなっている。

 大人しくしていてくれるのは、スパイルにとって願ったり叶ったりなのだが、いざそうなると、なぜだか拍子抜けのような感じがして落ち着かない。

「ゼゾティエラに着いたらきっと何か情報があるはずだ。元気を出せ」

 居心地の悪くなったスパイルは頭を掻きながらつぶやいた。

 リコルを助けた次の日に会った情報屋から聞いた話で、最近盗品市場で大きな動きがあったということがわかった。

 交易の街リヒテュの裏市場で、ずいぶんと高価な宝飾品が出たというのだ。それがどんな物かまではハッキリしなかったが、買ったのは西方の都市ゼゾティエラの貴族らしいところまで情報屋は押さえていた。

 曖昧なところの多い情報だが、リヒテュでの取引の時期はリコルがペンダントを奪われた時期と近く、追ってみるだけの価値はあった。

「うん……。ありがとう」

 不器用ながらも気遣うスパイルの言葉に、リコルは笑ってうなずくが、その笑顔がどこか痛々しく思え再び沈黙が訪れる。

「……スパイル、あのね――」

 意を決して何かを言おうとしたリコルが顔を上げると、スパイルの視界の端に淡く光るものが映った。

「スパイル。聞こえるかい?」

 光る小鳥の姿をしたそれは、近くに来ると聞きなれた声でしゃべり始め、スパイルはため息を吐いた。

「出来れば聞きたくないな。お前から連絡を取ってくるなんて、ロクな話であった試しがない」

「うわ、傷つくなー。ところで、今どこにいるんだい?」

 声の主、スクラはまったく傷ついてなどいない声色で自分の話を進める。スパイルとスクラの付き合いは短くない。ここで話をはぐらかしても、無駄な会話が繰り返されるだけだと分かっているスパイルはしぶしぶと質問に答えた。

「これからファーヒルを出るところだ」

「じゃあ、どうぜプエルタ辺りまでは出るんだろ? その足で大陸横断鉄道に乗って、リヒテュまで来てくれない?」

「確かにプエルタで鉄道に乗る予定だったが……。どういった用だ。面倒はごめんだ」

「そう言わずにさ、頼むよ。今度必要なときは色々融通するからさ」

 ばっさりと切り捨てても食い下がってくるスクラに、スパイルは肩を落としつつため息を吐いた。わざわざ連絡を取って頼み込んでくるのだから、スクラにもそれなりの事情はあるのだろう。スパイルは腕を組んでベンチの背もたれに身体を預けた。

 スクラが頼み込んでくる仕事は面倒なものが多いが、世話になっているのも事実だ。術のことがまったく解らないスパイルが、術のかかった道具を使うことが出来るのはスクラが簡単に使用できるように加工をしてくれているからである。持ちつ持たれつ。頼られれば、応えるのが義理といものだ。

「手が空いていれば貸してやってもいいんだが……」

 スパイルが腕を組んだまま横に目を向けると、眉を曇らせて固まっていたリコルがハッとして首を縦に振った。

「あっ、私は大丈夫! スクラの頼みなんでしょ? 行ってあげようよ、スパイル」

「あ、リコルちゃんも一緒だったんだね。さすがリコルちゃん、優しい! ほらスパイル、リコルちゃんもそう言っているんだし、決まり決まり!」

 そう言い切ると、有無を言わさず集合場所を告げ、光の鳥は消えてしまった。

 ――まったく、あの男は……。

 スパイルは眉間にシワを寄せ、ため息を吐く。ここから真っ直ぐゼゾティエラを目指しても一週間はかかるというのに、その途中でとんだ足止めを食うことになりそうだった。

「リコル、俺やあいつに気を遣う必要は無いんだぞ?」

「ううん、そんなんじゃないよ。スパイルにもスパイルの仕事があるんだから、ね?」

 リコルはにっこりと笑ってみせる。スパイルはしばらく渋い顔をして黙っていたが、仕方なげにため息をついて小さくうなずいた。

 リコルの探し物を優先してやりたい思いはあるが、その間ずっと仕事をしないで居られるほどの蓄えがあるわけでもない。道中で出来る仕事を請け負うのも止む終えないことだった。

 そんなことを考えているうちにゴトゴトという車輪の音を響かせて、プエルタ行きの乗合馬車は停留所に到着した。




 リヒテュの駅舎を出ると、内陸独特の乾燥した空気のにおいがした。スパイルは太陽の強い日差しが照らしている古い石造りの駅前広場を見渡すが、そこにスクラの姿はまだ無かった。

「あいつを待つ間、そこらに座って冷たいものでも飲むか」

 提案にうなずくリコルに、スパイルは近くの木陰のベンチで待つように言った。

 以前なら少しの間でさえ目を離すのが躊躇われただろうし、そもそも飲み物を買って休もうなんて提案もしなかっただろう。露店で冷えたリモネードを二つ買いながら、スパイルはほんの少しだけ笑みを溢してしまう。

 しかしそれも、リコルの待つ木陰に戻ると、いつものしかめっ面に戻ってしまった。

「スパイル、遅いよー。って俺の分は?」

 あたかも今までずっと居たかのようにリコルの横に馴染んでいる男に、スパイルは軽い殺意を覚えた。

 とりあえずスクラを完全に無視してリコルにリモネードのビンを一つ渡すと、手でスクラとの間を開けるように指示し、出来た間にスパイルはドカリと腰を下ろしてリモネードをあおった。

 陽気というより熱気に近い白昼の木陰のベンチに、みっちりと座る三人。居心地が良いわけが無かったが、苛立ちがそれに勝っていた。

「え、なになに? 俺とリコルちゃんの仲の良さに嫉妬したの? それとも、俺の隣に座りたかったの?」

 ヘラヘラと笑ってふざけた事を抜かすスクラをじろりと横目で睨む。

「冗談はいい。さっさと本題に入れ」

「もう、スパイルはせっかちなんだからなあ。リコルちゃんだって、長旅で疲れたろ? 少し休んでからでいいじゃん、ねぇ?」

 スクラは身を乗り出してスパイル越しのリコルにウインクした。

 徒歩での移動ではなくとも、広くも無い下級車両の客室に二日揺られれば多少の疲れも出るだろう。しかし、リコルはパッと顔を上げて首を振った。

「ううん、平気だよ。大丈夫!」

 笑顔を向けられたスクラはリコルの顔を見つめた後、目だけを動かしてスパイルを見た。もの言いたげな視線が刺さるが、目を合わせずに苦々しげな息を吐くとスクラはまたいつもの笑みに戻りベンチから立ち上がった。

「そっか。まあ、日が傾く前に向こうに着いてしまいたいし、リコルちゃんがそう言うなら、そろそろ行こうか。今回の目的地は、ここから少し北東のハリスヤード村だよ。スパイル、場所はよく知っているよね?」

 その名前を忘れるわけが無い。スパイルは数年前まで、ハリスヤード村にいる呪医によく世話になっていたのだ。

「当たり前だろ。あそこで何かあったのか?」

 ハリスヤードは式術に関係する品を作る職人の多い村で、栄えてはいるものの田舎といって差し支えないほど穏やかなところだ。スクラがわざわざスパイルを呼ばなければいけないような案件が起こるとは思えない。

「村はなんとも無いんだけど、その付近でいま幽霊が出るって噂があってさ。ま、詳しい話は村でするよ。リコルちゃん、荷物持つよ?」

「え? ううん、大丈夫。自分で持てるよ」

「幽霊? おい、どういうことだスクラ。胡散臭いにもほどがあるぞ」

 詳しい話を聞きだそうとするもスクラは取り合おうとせず、リコルと押し問答している。

 この男の話など、やっぱり最初から蹴っておくべきだったと、スパイルは頭を垂れて深いため息を吐いた。




 街道が森に入り、石畳で舗装された道がなくなってもスクラの口は、ほぼ休まず動いており、スパイルは感心と呆れの混ざったため息を吐く。ただ、彼のおしゃべりがいつもより割り増しになっていることには気が付いていた。そして、その理由にも心当たりはある。横目でリコルを眺めてすぐに目をそらした。

「あ、ごめんちょっとその辺で待ってて」

 スクラが向かいから来た旅商人らしき一行に気が付くと、二人を置いてそちらに行き、なにやら立ち話を始めてしまった。スクラのような個人の行商などは顔の広さが商売に直結するためか、それともそもそもの人柄なのか、どこに行っても知り合いに事欠くことはないようだった。

「そこの木陰で少し待つか」

 スパイルは道の脇の木陰に腰を下ろし、リコルもそれに倣った。さぁっと風が吹きぬけて青く茂る木々の枝を揺らし、一瞬だけ暑さを攫ってゆく。

「疲れたか?」

「ううん、大丈夫」

 リコルは首を横に振る。確か、故郷の村は山の中だと言っていた。そのため、同年代の者に比べて体力はあるのかもしれない。

「そうか。無理はするなよ」

 そう言ってスパイルは、流れていく風に誘われるように街道の先を眺めた。

 踏み固められた土が露出している道がずっと続いている。前にスパイルがこの道を通ってから数年経つが、少しも変わっていなかった。

「そういえば、ハリスヤードに行くのは久しぶりだな……」

 スパイルがぽつりとつぶやいだ言葉に、リコルは顔を上げた。

「前はよく来ていたの?」

 何の気なしに洩れたつぶやきに問いを返されて、スパイルは目をそらして頭を掻いた。

「あー……まあ、な」

「ごめん、しゃべりにくい事だった?」

 言いよどんでいるスパイルを見て、リコルは申し訳なさそうな顔をして目を伏せた。

「いや、いい。……あの村には呪医がいてな」

「じゅい?」

「呪いを解いたり、何かを封印したり、医者とも、術士や治癒術師とも違う存在だ。昔はこの眼の関係で、よく世話になっていたんだ」

 スパイルが軽く右目を押さえると、リコルは少し迷いながらも問いかけてきた。

「前に、その眼の事を『呪われている』って言っていたけれど……」

 今は普段通りの金色をしているが、時折赤く染まり常人離れした力を見せている。神の紅玉と言われるその眼は、式術とは一線を画す『魔法』に属する力だそうだが、発現している者はほとんど居らず、全貌の解っていない力だ。

「本当に呪いがかけられているわけじゃない……が、俺にとっては呪いと大差ない」

 ほとんどの魔法の力が遺伝による先天的なものであるのと同じように、神の紅玉もまた遺伝によるものだった。

「赤いトカゲの首領も、神の紅玉を備えている。……この眼は、俺があの女の血を間違いなく受け継いでいるという烙印なんだ」

「そう、だったんだ……。辛いことを聞いちゃって、ごめん」

 ばつが悪そうにうつむいて膝を抱えるリコルの頭にスパイルは軽く手を置き、彼女が被ってる帽子ごと雑に頭を撫でた。

「気にするな。自分でしゃべったんだ。それに、昔こそ力が抑えられなくて呪医の世話になっていたが、今ではなんとかなっているし、射撃の助けにもなっている。そう悪い事ばかりでもない」

 そう言うと、リコルは顔をあげないままうなずいて見せた。

「ごめんごめん、結構話し込んじゃった」

 そう言っていつものヘラヘラ顔を下げてスクラが駆け寄ってくる。

 ここから村までの道のりと、涼しかった木陰の事を思うと少しの名残惜しさがあったが、スパイルは立ち上がって裾に付いた草を払った。

「人を呼び出してみたり、待たせたり、お前はもう少し気を遣ったらどうなんだ」

「ごめんって。リコルちゃんも、こんなところで待たせちゃってごめんね」

 立ち上がろうとしていたリコルに、自然な動作で手を差し伸べるスクラを横目で見てため息を吐く。それと同時に、スパイルは内心でどこかほっとしていた。

 リコルの気持ちを和らげようと話した最後の言葉は、嘘ではないが、完全な本心だとは言えなかった。

 確かに右目の力はスパイルの助けになっている。だが、その発動は不安定で痛みを伴うことが多い。呪医にその原因を訊ねたこともあったが、心因性だろうという回答以外得られる物は無かった。

 憎むべき相手から受け継いだ力を使って生きているということと、それを制御し切れていないということが歯がゆくて仕方ない。

「さあ、もう半分くらいまで来てるはずだから」

「知っている。さっさと行くぞ」

 にっこりとリコルに笑いかけるスクラに、スパイルは半ば八つ当たるように声を投げる。

「リコルちゃんに言ったのー!」

 口を尖らせるスクラを無視して日のもとに出ると、暑さがぶり返してきたが、彼を待っている時間が休息になったのか残りの道のりは少し軽く感じられた。




 森を通る街道を抜け視界が開けると、黒味を帯びた古い木造の建物が並ぶ村が広がっている。ハリスヤードは大きな交易路から少し外れているが、式術にまつわる品を多く生産しているため、それなりに活気がある村だ。ただ、訪れる人は商人か職人がほとんどで、宿泊施設は簡素で少ない。

「スパイル。宿を取ったらそこの酒場で適当に待ってて。俺はちょっとあれこれ用事足してから行くから」

 宿の前まで来ると、スクラはスパイルとリコルの方に向き直って言った。

「今日のところは打ち合わせだけなんだけれど、リコルちゃんは今回の仕事の間、宿で待っていてもらえるかな?」

「うん、そうする」

 スクラがしゃがんで目線を合わせると、リコルがすぐにうなずいたものだからスパイルは目を見張った。今まではどこに行くにしろ、口を開けば連れて行けと言っていた彼女の反応とは思えない。何か言おうかとも思ったが、考えてみれば安全かどうかもわからない仕事の話にリコルを同席させたところで良いことは無く、スパイルは口をつぐんだ。

 リコルの返事に優しく笑いかけると、スパイルを一瞥してからスクラはその場を離れていった。

 腑に落ちない想いを抱えつつ、スパイルは宿を取り、部屋に荷物を下ろした。

「リコル、さっき……」

「え?」

 同じように荷物を置いて、部屋の窓から外を眺めていたリコルが首をかしげて振り向いた。

「……いや、なんでもない」

 なぜ素直に留守番に同意したのか尋ねようかとも思ったが、目を伏せ言葉を飲み込んだ。

 よく考えれば、赤いトカゲに連れ去られた件から、そんなに日が経っていないのだ。スパイルやスクラの仕事が、あのような者と渡り合うこともある危ないものだと解り避けるようになるのも当然だと言える。今までは何も知らなかったから、ついていくと言っていたのだろう。

 しばしの沈黙の後、スパイルは思いついたように顔を上げた。

「久しぶりにこの村に来たから、来る途中に言っていた呪医の所に挨拶に行こうと思っているが、一緒に来るか?」

「ん……ううん。ちょっと疲れちゃったし、休んでるね」

 少しだけ悩むそぶりを見せたが、簡素なベッドに腰を下ろしてリコルは笑って手を振った。

「……そうか。じゃあ、行ってくる」

 すぐに同意すると思っていたが、思いがけない返事を受け、どこかぎこちなく目をそらしてスパイルは部屋を後にした。




 午後の村は急ぐ者も少なく、穏やかな日差しに照らされてどこかのんびりしていた。術産業で成り立っているハリスヤード村に、術とは縁遠いスパイルは仕事で立ち寄ることもなく、右目の状態も落ち着いていたため、気が付けば訪れることがなくなってから五年が過ぎていた。それでも、古い木造の建物が並ぶ田舎であるこの村の風景は、数年程では変わらないようだった。

 商店の並ぶ通りを抜け、森と村の境近くにある呪医の家もそれは同じようだ。

 ノックをしようとドアの前に立つ。

「やれやれ、どうにも最近は客が多いな。ゆっくり森に入ってもいられない」

 不意の声に振り返ると、たった今、森から帰ってきたというように草木を詰めた籠を背負った浅黒い肌の女性が立っていた。

「久しぶりだな、コシュカ」

「ん、息災そうで何より。三……四年ぶりか?」

「いや、五年経つ」

 コシュカは五年前と変わらない見た目で、スパイルは懐かしさを覚えた。彼女は新緑よりも鮮やかで深い緑色の瞳で、スパイルの頭からつま先までじっくりと眺める。

「ふーん、目の調子は悪くないみたいだな。仕事で来たのか。ちょっとした悩み……? 女……いや、まだ小さい。少女か。で、面倒くさい? ああ、これはアイツか」

 独り言のようにつぶやきながら近況を言い当てるコシュカに、スパイルは少しだけ顔をしかめた。

 本人曰く「少し目が良いだけ」らしいが、彼女の眼は人間には見ることができないものを映す。それは魔法や式術の力の残滓であったり、あるいは感情の名残のようなものであったりする。

「前にも言ったと思うが『見る』のは、やめてくれないか。なんだか落ち着かん」

「アタシだって、誰彼構わず見てるわけじゃない。お前は昔から言葉が足りないからね」

 カラカラと笑いながらコシュカはドアを開けて、スパイルを中に招き入れた。

 雑然とした家の中も、スパイルが知っている時から変わっておらず、乾燥した薬草の臭いを久しぶりに嗅いだ。

「ここは変わらないな」

 スパイルが家の中を見渡して言うと、コシュカは籠を床に置いて笑った。

「五年じゃそう変わらない。お前がぐずって閉じこもっていた屋根裏もそのままさ」

「……もう忘れたな、そんな話」

 スパイルは目をそらして苦笑いする。

「どうでもいいことは忘れたらどうだ。人間より長生きな癖に、そんなに色々覚えていたら不便なんじゃないか?」

 不平を溢すとコシュカは可笑しそうにクスクスと肩を震わせた。

「忘れる生き物ってのは人間の方だろうに」

「化け猫ババアが」

「それも久しぶりに聞いたな」

 五年の空白があることで、何か変わっているのではないかと思っていたが杞憂だったようだ。そもそもコシュカにとって、五年という時間はたいした間ではないのかもしれない。コシュカはすでに九十歳を超えているらしいが、正確な歳は知らなかった。

 彼女は人間ではなかった。見た目は三十代の女性のように見えるが、それは術による変身で、本当の姿はネコ科の動物のような頭をした種族であり、とても長寿な種族なのだ。

 化獣けじゅうと呼ばれる彼女らは、北部自治区という未開の土地で人間と係わることなく生活しているらしいのだが、その中でコシュカは変わり者だったのか、人のいる場所で人のフリをしながら生活をしている。

「まあ、座りなよ。茶ぐらいだすさ」

「あ、いや。あまり長居するつもりも無いんだ。この後スクラと仕事の話があってな」

 台所に引っ込んでいたコシュカの笑い声だけが届く。

「アイツともずいぶん仲良くやっているみたいだな」

「腐れ縁だろ」

 どうやら周りからみればスパイルとスクラは仲がいいと思われているらしい。コシュカに限らず、スパイルとスクラを知っている人間からは同じようなことをよく言われてしまう。もはやスクラに対しての「腐れ縁」は、スパイルの中では枕詞のようなものだった。

 実際にスクラのような軽薄な人間は得意ではない。ただ、術が得意で仕事には真面目という点を評価しているだけだ。

 台所から戻ったコシュカは、お茶の入った木のマグカップをテーブルに置いて肩を竦めた。

「六年も続く腐れ縁かい。素直じゃないのは相変わらず、か」

 言われてみれば、スクラとの付き合いも長くなったもので、彼と関わり始めた頃からハリスヤード村を離れることが多くなっていた気がする。

 それ以前は右目の状態が不安定で、村をあまり長く離れていられなかった。しかし、スクラと色々な仕事をするうちに、忙しさのためか、それともスパイルとは違う生き方の彼に呆れてか、目の力に振り回されることは減っていった。

 だが、それは自分が自分の力に慣れただけで、スクラのおかげというわけではないだろう。スパイルは心の中でかぶりを振った。

「腐れ縁だろう。あいつの術は確かに便利だが、あいつだって俺を面倒事専門の便利屋扱いだ。利害の一致を友情と言ったら、商売仲間はみんな友人ってことになる」

「そこにちょっと贔屓する情が湧けば、それは友と呼んでも差し支えないだろうに」

 呆れたように笑うコシュカに促されて、スパイルは椅子に腰掛けてお茶を啜った。香草を煮出した独特の香りが広がる。

 帰る場所を失い、頼れる者も少なく、力が抑えられず焼け付くような痛みを訴える右目に途方にくれたあの日を思い出す。

 ついには両目を開けていることも難しくなり、当時唯一頼れる大人であったゲンロクに連れられてコシュカのところを訪ねたのだ。彼女はスパイルを見るなり何も訊かずに、怪我を負った我が子を抱きしめるようにきつく抱きしめた。

 あの日も、同じような香草のお茶を飲んでいた。

 ゆっくりと懐かしい空気を呼吸するような静かな時間が流れる。きっと時間にすればほんの少しの間だろうが、色々な記憶が頭をよぎって行った。

「まだ……赤いトカゲを追っているのか?」

 独り言のようにつぶやかれた言葉にスパイルが顔を上げると、コシュカはどこか遠い目をして窓の外を眺めていた。スパイルは。お茶の揺らめくマグカップの底に目を落とした。

「当たり前だ。仇をとらない限り、俺はあの日から前に進めないんだ……」

 逃げ出したあの日から、という言葉を飲み込む。コシュカはゆっくりと瞬きをした。

「……人の十年は、そう短い時間じゃないだろうに」

 聞こえるかどうかという程度の彼女の声に、スパイルは目をそらした。

 コトッとコシュカのマグカップがテーブルに置かれる。

「そうだ、アタシは知人に呼ばれていて、近いうちに西に旅に出るんだ。しばらくここを空けることになる。行き違いにならなくて運が良かったな」

 ニッと笑うコシュカに、スパイルも少しだけ笑って見せた。

「そうそう、この際だから言うが、お前はもっと笑ったほうがいいぞ。ただでさえ猛禽のような金のこわい目なんだ。その上に仏頂面じゃ、例の女の子にも嫌われるぞ?」

「な、何をどう見たんだか知らないが、あいつはただの預かりものの荷物みたいなもんだ。誤解するな」

 目を逸らすスパイルを、コシュカはその緑色の眼で遠慮なく眺め回してニヤニヤと笑った。

「まったく、長居し過ぎた。邪魔したな」

 スパイルは逃げるように席を立つと、足早にコシュカの家を出る。

「スパイル!」

 見送りに出てきたコシュカの声に足を止めた。

「五年じゃそう変わらないと言ったが、お前は変わったよ。アタシのこの眼が保証する」

 スパイルは目を伏せて小さくこぶしを握る。笑いたいような泣きたいような、否定したいような肯定したいような思いが一瞬で駆け巡り、スパイルは結局振り返らずに手を上げるだけで返事とした。


***


 一人になった部屋で、リコルはベッドに身を投げ出した。体力には自信がある方だが、大人の歩きに一時間近くついていくのは、さすがに少し疲れた。

 とはいえ、途中でスクラが休憩をはさんでくれたのもわかっていたし、スパイルにも気を遣わせてしまっている。先ほどスパイルが旧知の呪医に会いに行く際、一緒に行かないかと誘ってくれたのも、暇を持て余すのではないかと心配してくれたからだろう。

 自分は今まで気が付かないうちに、どれほど周りの者の優しさに甘えてきたのか。これ以上迷惑をかけて、彼らの負担になりたくなかった。

 王都での事件以来、リコルはずっと考えていた。

 初めて村の外の世界を見て、目にするものすべてが新しく、自分の感じる事を処理するだけで手一杯になっていた。そして、広がった自分の世界で色々な人に出会って、自分もその人たちと同じようになんでも出来るような気がしていた。

 しかし、それは間違いだった。

 リコルが見た世界は、ほんの一部にすぎないし、スパイルやスクラの助けがなければ他人はおろか、自分すら助けることができないのだと気が付いた。

 自分がしたい事と、自分で出来ることは違うという言葉が、今更になって重くのしかかってくる。初めてスパイルに会った時に言われた言葉だ。その時は命を懸けてでも成し遂げるのだなどと言い返したが、現実を知った今となっては、自分の決意や覚悟なんかはあまりにも幼く、愚かに思えた。

 そして、冷静になってみて、自分は周りに迷惑しか掛けていないことに気が付いたのだ。

 自分の探し物に付き合わせ、足を引っ張って危険な状況を引き起こし、スパイルは親の仇を探すことも、本来の仕事を請け負うこともままならない。それでも、自分は彼に何もしてやることはできないのだ。

 ――本当にスパイルの為になること……。

 横向きに寝返りを打ち、蹲るように背を丸めた。一つだけ、リコルにも出来ることがあった。

 軽いノックの音が部屋に響く。

「はっ、はい!」

 完全に気を抜いていたリコルは、驚きのあまり飛び上がるように体を起こしてドアの方を見た。

「あれ? リコルちゃん一人? スパイルが待ち合わせ場所に居ないから来てみたんだけど」

 ドアを開けて入ってきたスクラは、部屋を見渡して首をかしげた。

「うん、スパイルはそこに行く前に、知り合いの呪医さんのところへ行くって言っていたけれど」

「ああ、そうなんだ。まあ、ちょうどいいや」

 何がちょうどいいのかはわからないが、スクラは納得したようにうなずくと、リコルの隣に腰を下ろした。

「リコルちゃん、あいつと一緒に居て、どう?」

 にっこりと笑って訪ねてくるスクラの真意がよく分からなかった。

「どうって言われても。いつも助けてくれて……でも逆に私はスパイルを助けてあげるどころか迷惑ばかり」

 うつむきかけて、リコルはごまかすように笑って顔を上げた。

「辛くはない?」

 尋ねるスクラに、リコルはブンブンと首を振った。

「そんなことない。スパイルに悪いなって思うだけ。大丈夫、元気だよ」

 スクラの優しい眼差しに、どことなく見透かされそうでリコルは目をそらした。自分よりも経験豊富な彼らには、自分の不安などきっと気づかれているのだろう。それでも心配を掛けたくはない。

「それならいいんだ。もしあいつと一緒に居るのが辛くなったら、いつでも俺に言ってね? スパイルはさ、悪いやつじゃないんだけど不器用なところがあるから、リコルちゃんに辛い思いさせてるんじゃないかなーって思ったの」

 スクラはリコルの頭を撫でて笑った。

「リコルちゃん」

 その声に顔を上げると、スクラはリコルの額に自分の額をそっとくっつけて手を握った。一瞬驚いたが、懐かしい感覚に、リコルは肩の力を抜いて静かに目を閉じる。スクラの大きな手は、父の温もりに似ていた。

「不安も悩みも、全部小さく握ってしまおう? 小さな種は埋めてしまえばいい。降る雨や吹く風が、その種を立派な木にして、リコルちゃんを支えてくれるよ。俺も、スパイルもその木がちゃんと育つように見守っているから、安心して」

 その温かさと優しさに涙が出そうになる。リコルがゆっくり目を開くと、同じように目を開いたスクラと目が合った。優しい空のような、青灰色のスクラの瞳が悪戯っぽく笑う。

「こんなおまじないじゃ、子供だましかな?」

 そういって額を離すスクラに、リコルは首を振る。

「ありがとう、スクラ。でも、私――」

「何してる、この女たらしロリコン野郎」

 降って湧いた冷たい声の主は、部屋の入口で壁にもたれながら腕を組んでスクラを睨んでいた。余裕たっぷりに振り返ったスクラは、握ったままのリコルの手を離さずにヘラヘラと笑う。

「ふふふーん、何それ、嫉妬? みっぐるしいなー」

「違う。どうでもいいから、リコルから離れろ」

 ニヤニヤと笑いながら肩をすくめて見せ、リコルの手を離して降参のポーズのように両手を頭の近くに上げた。

「変なことはしていないだろうな」

「俺が? リコルちゃんを傷つけるようなマネ、するわけないでしょ」

 何故だかわからないが、スパイルとスクラの交錯する視線の間に、冷たい火花が見えたような気がした。

 スパイルはスクラに外で待つように言うと、リコルの前に来てポケットから小銃を差し出した。

「あれから、返すのを忘れてた」

「あ……それ」

 リコルは言葉が出てこなかった。

 それは、護身用だとスパイルから渡された銃だが、赤いトカゲに連れ攫われるるとき、結局使うことができなかったものだ。それは、リコルの身を守れなかったばかりか、相手に奪われ、赤いトカゲに騙された少年を危険にさらす結果にもなった。

「お前に撃てと言っているんじゃない。……あの時も、撃っていないと聞いて安心した。撃たないで済むのが一番なことには変わりないんだ。……それでも、これがあるのと無いので結果が変わることもある。だから、な」

 探しながら言葉を紡ぐスパイルの手には、手入れされた小さい銃が鈍く光を反射している。リコルは顔を伏せて目をそらした。

「ご、ごめん。ありがとう。でも、やっぱり私が持っていても危ないだけだし、スパイルに返すよ」

 リコルは自分を奮い立たせるように顔を上げた。

「それにほら、今回は留守番で危ない事なんてないし、大丈夫だよ!」

 笑って見せようとするが、うまく笑顔を作れている気がしない。

 しばらくスパイルは黙ってリコルを見ていたが、銃を自分のポケットにしまうと軽くリコルの頭に手を置いてから部屋を出て行った。


***


 リコルを残して部屋を出ると、廊下の壁に背を預けたスクラが立っていた。

「何が言いたい」

「まあ、ここで言うのもあれだから、とりあえず行こうか」

 いつものように笑い顔のスクラだが、目の光は鋭かった。

 酒場に着くまでの間、お互い口を開かずピリピリとした空気が漂う。一体何の話をするために連れ出されたのか分からなくなりそうで、スパイルはため息を吐いた。

 原因は言わずもがなリコルの事だろう。元気が有り余って仕方ないというような彼女が、あそこまでおとなしくなれば誰だって気になるとは思うが、スクラの気に掛け方は少し度を越しているようにも思えた。

「で、リコルちゃんに何があったの」

 酒場で席に着き、開口一番で出てきた言葉がこれだった。予想通りではあるが、スパイルは苦い顔で目も合わせずに答える。

「王都で赤いトカゲに攫われた」

「殴っていいかな?」

「いいわけあるか」

 酒の入ったグラスが二つテーブルに置かれるが、二人とも手を付けずににらみ合った。

「オッドアイのスパイル様ともあろう者が、しかも赤いトカゲに? ずいぶんと楽しい話じゃないか」

「当然すぐに助けた。怪我もほぼ無い」

「助けて外傷がなけりゃそれで無事だと?」

「分かっている。無理して元気に見せていることだって気づいている。それでもあいつが大丈夫だと言うんだ。こっちはそれ以上踏み込んでやれないだろう」

「君は相変わらずだよね。それで、ただリコルちゃんが助けを求める手を伸ばすまで待つつもり?」

「そうは言っていない。ただ、最近のあいつは、自分の中にこもって考え事をしているように見える。短い間に色々ありすぎたんだ、少し落ち着くまで見守るしかないだろ」

 互いの言い分を一通りぶつけ終わると、いつものヘラヘラ顔のすっかり消えたスクラはため息を吐いた。

「君の言いたいこともわかる。確かに、リコルちゃんにとっては初めての外の世界だ。気持ちをゆっくり消化する時間も必要だよ。でも……」

 ようやっと酒に手を伸ばしたスクラは、ほんの少しだけグラスを傾ける。

「今のリコルちゃんの『大丈夫』や『平気』の言葉の前には、『辛いけれど』って言葉が透けて見える。あの子は一人で頑張ろうとしすぎだよ。もっと俺や君を頼ってくれてもいいのに」

「それはそうだが、あいつが頼ろうとしないなら、俺たちには何も出来ないだろ」

 目を伏せてスパイルもグラスを傾けると、スクラは呆れた顔でため息を吐いた。

「唐変木で嫌になるなぁ。掛けられる言葉がないならそっと抱きしめてあげればいいのに」

「そんなことができるか。お前と一緒にするな」

「そうだね、君には無理だろうけれど。とにかく寄り添ってあげなって事。次にこんなことがあったら、リコルちゃんの面倒は俺が見るからね」

 ふふんっと鼻を鳴らしたスクラは酒を傾けた。余裕のある彼の態度にスパイルは気持ちを逆撫でされるが、人付き合い、ましてや女性の扱いなどではスクラに敵うわけもなく、苦い気持ちを酒で流した。

「いい加減仕事の話をしないか?」

 スパイルがため息とともに言うと、スクラもうなずいた。

「今回は古城の幽霊退治さ」

「ふざけているなら帰るぞ?」

 さすがにこれにはスパイルも閉口した。幽霊などは精霊と違って、おとぎ話の中の存在である。

「俺は至って真面目だよ」

「スクラさん、宜しければ私から説明させてください」

「ミス・マーガレット。まさかずっと待って?」

「いえ、スクラさんが来ていないか気になって、先ほど来たところです」

 気づかぬ間にスパイル達のテーブルの近くに、深緑のローブを纏った女性が立っていた。足音がしただろうか。声を掛けられるまで気が付かなかったことに、スパイルは目を見張った。

 スクラが席を立つと、彼女の分の椅子を持ってきて席を勧める。椅子に座り、ローブのフードを脱いだマーガレットの肌は、薄暗い酒場でもわかるくらいに白く、その指は今にも折れてしまいそうなほど細く、はかなげだった。

 彼女が軽く頭を下げると、白に近いほど淡い金色の髪がさらりと垂れた。

「彼女は今回の依頼人、ミス・マーガレット・ハリアネス」

「ハリアネス?」

 聞き覚えのある名前にスパイルは首をひねった。

「ここから東の森に廃城があったのを覚えていないかい? 彼女はその城の最後の主だよ」

 スクラの説明を聞いてようやっと、森の中にハリアネス城という捨てられた城があると、ずいぶん昔にコシュカから聞いたことを思い出した。

 かなり前に栄えた術士の城らしいが、今は捨てられて近寄る者もいないということで、特に興味もなかったスパイルはすっかり忘れていたのだ。

「ハリアネス家は式術を生業とする一族でした。古くから積み重ねてきた知識と経験、それに才能もあったのでしょう。大きな財を成し栄えていましたが、一族の繁栄の理由は、式術だけではありませんでした」

 そういって彼女は静かに語り始めた。

「ハリアネスの者は、人が手を出してはいけない領域に踏み込んでいたのです」

 それは、精霊の使役だった。

 精霊はその力の強大さから、人が操り支配することは無理だとされてきており、現在でもそれはまともに成しえていない。ただ、ハリアネスの者は人工的に精霊を作り上げ、一族が研鑽してきた式術のすべてをもってしてその精霊を使役したのだ。それは偉業だった。しかし、ハリアネス家が表舞台に立つ事は無かった。

「なぜなら、彼らの使った方法が、人の道をあまりに外れすぎていたからです」

 精霊は大嵐や噴火のような巨大なエネルギーが集まって形を成す。大自然のような広大な土地や力がなくとも、人がその身で簡単に積み上げられるもの。それは『死』だった。

 ハリアネス家の精霊は、人を含むありとあらゆるものの死と怨みの念を糧として作り上げられたものだったのだ。

 精霊として形を成すほどに積み上げられた死。その悲惨さたるや、説明を受けずとも想像に難しくない。

「そして精霊を使った暗殺を裏の家業とし成功した一族は、やがて、自らの業に飲み込まれるように一族内で争い合い、殺し合い歴史の闇に消えていきました。もしかすると、他人を呪ううちに、自らをも呪ってしまっていたのかもしれません。そして、あの城だけが残された」

 震える息を吐いて、マーガレットはようやく顔を上げた。

「スクラさんが幽霊と例えられたそれは、私の一族が作り上げた精霊なのです……」

「ここからは俺が説明するよ。精霊は今、封印そのものである城に閉じ込められているんだけれど、それもだいぶ劣化している。だから封印が壊れて、そいつが外に出る前になんとかしなきゃって話さ」

 スパイルは腕を組んだ。二人の言っていることは理解できたが、いまいち腑に落ちない。

「その精霊とやらが、あんたの使役していたものだっていうのなら、あんたが止められないのか?」

「仰るとおりです。本来であれば、私があれを止めなくてはいけないのですが、今の私ではあの城に入る事すらままなりません」

 本当に口惜しそうにマーガレットは身を縮めてうつむいた。

「そうか。……スクラ、呪いや精霊だっていうなら、俺よりもコシュカの方が適任なんじゃないか?」

「……ダメなんだ。ハリアネスの術はどうやら特殊みたいでね。普通の術ではランタネルムの木やブランカイトの石といったものを触媒にするんだけれど、ハリアネスの術の触媒は……血族の女性なんだよ。だから、血族という要素は無いにしろ、女性があの城に入るのは危なすぎる」

 腕を組んだまま、スパイルはため息を吐く。スクラがリコルに留守番を言い渡した理由も納得できた。

「最後に。術関係が絡む仕事のようだが、何で人選が俺なんだ?」

「ハリアネス城そのものが封印って言ったけれど、そのせいか色々と錬気が歪んでいて、普通に組んだ術じゃまともに使えない。だから術に頼らずに腕が立つ人間が必要でね。すぐ呼べる人でそんなの、君くらいしかいないでしょ?」

「じゃあ、お前も役立たずなんじゃないのか?」

「手厳しいな。一応城内でも使えるように調整した術を組んではみたけれど、戦力は半減かな。だから、頼むよスパイル」

 そう言ってスクラは苦笑いしてみせるが、本当に厄介な件なのだろう。断ってしまうのは簡単だが、ここまで来て見捨てるのもいい気はしない。

 スパイルは眉間にシワを寄せたままながら首を縦に振った。

「有難うございます。……どうか、あれを楽にしてあげてください」

 スクラよりもマーガレットの方が先に深々と頭を下げるものだから、スパイルは居心地の悪さを感じて頭を掻いた。

「で、策はあるんだろうな。精霊を殺すなんて聞いたことが無いぞ」

「精霊とは、スーエルク層を考慮しなければ、フォンベルク核を中心とするエネルギーの塊です。その力を使い果たしたり逆属性で打ち消されれば、核を保てずに消滅します。……それが精霊にとっての死です」

「まあ、簡単に言うと、精霊の命とエネルギーはイコールってこと。使い果たせば死ぬ。理屈は簡単なんだけれど、そのエネルギー量が半端じゃないから、普通は人が太刀打ちできるようなもんじゃないんだ。けど、今回の相手は人工精霊。エネルギー量も天然ものに比べたら欠片みたいなものだし、術者が用意した保険があるはずなんだ」

「保険?」

 術の話が苦手なスパイルは、頭を抱えながらもなんとか理解に努めた。

「そう、呪いをかける時の常套手段なんだけれど、呪いを制御できなくなった時や呪い返しにあったとき、それを相殺する方法を用意しておくものなんだ。彼女の話によると、あの城に精霊を殺せるものが隠されているらしい」

「陽晶石を削り出して作った杯で、精霊を消滅させられるだけの式術が組まれた物です。私が知っている時と変わっていなければ、城の北棟三階にある城主の間の隠し部屋に保管されているはずなのですが」

「その杯を使って術を発動させるのは俺が何とかする。スパイルには、杯の探索協力をしてほしい。城の中に入れば精霊が問答無用で襲ってくるけど、発動の保証ができない術と違って、銃は足止め程度にはなるかもしれない。それに、君の目も探索には役に立つはずだから。出発は明日の朝。質問はある?」

 説明を聞き終え、スパイルは残っていた酒をあおると、グラスをテーブルに置いて席を立った。

「ここの支払いはお前が持てよ」

「りょーかい」

 いつものヘラヘラ顔で手を振るスクラを置いて、スパイルは酒場を出た。




 宿に戻ると、残照でうっすらと明るい部屋でリコルが窓の外を眺めていた。ドアの閉まる音に振り向いた彼女の目は、どこか思い詰めたような色を浮かべている。

「……暇だったろ。悪かった」

 言葉を探しながらスパイルはベッドに腰を下すが、それ以上どんなことをしゃべっていいかわからず、どこかジリジリとした緊張感だけが漂った。

 今まで、この何気ない時間をどのように過ごしていたのか思い出そうとしても、ただいたずらに時間が過ぎるだけだった。

「スパイル、あのね」

 弱くなった残照を背に、何かを決心したリコルは顔を上げた。

「今回のスパイルの仕事が終わったら、私、村に帰る。今までたくさん迷惑かけてごめんなさい」

 予想していなかった言葉に、スパイルは眉を寄せリコルの方を見るが、残光も消えかかり、影の濃くなった姿では表情を窺うことができない。

 今まではスパイルがどれだけ説教をしようが、形見探しを諦めず、見つかるまでは村に帰らないと主張してきたリコルである。ちょっとやそっとで変わる考えではなかったはずで、スパイルも見つかるまで付き合うと、最近決心したばかりである。

 張りつめた空気の中、腕を組んで少し考えていたが、スパイルはため息を吐くと立ち上がってサイドテーブルのランプに火を灯してリコルを手招きした。

 彼女の気持ちをいくら考えてみたところで答えは出るわけもない。話を聞くことから始めるしかなかった。

「どうしてそういう考えになった?」

 サイドテーブルを挟み二つ並ぶベッドにそれぞれ腰を掛けて向き合い、なるべく落ち着いた声で訊ねる。ランプの灯りに照らされたリコルは、怒られた子供のように固い表情のまま、小さな拳を握っていた。

「……私、スパイルに迷惑をかけるだけだから。私がいたら、仕事も、仇を追うのもできないでしょ。……いまさら気づいてごめんなさい」

 弱々しく紡がれる言葉に、スパイルは眉間にしわを寄せた。リコルがここしばらく、何事か考え込んでいたのは知っていたが、その結論がこれなのだろう。

 スパイルはため息を吐いて彼女をじっと見た。

「形見はどうするんだ?」

 その言葉に、リコルは一瞬顔を上げて視線をさまよわせたが、うつむくと小さく首を横に振った。

「諦めるのか?」

 ランプの芯がジリッと音を立てて小さな火を揺らす。

「……スパイルの為には、その方が良いでしょ? もともと、私には自分で出来ることなんて無かったんだもの。スパイルの言ったとおりだったよ」

 スパイルは、ランプの灯りが揺らす、目をそらしたままのリコルの顔を見た。

 プエルタでのことだろう。確かにスパイルはリコルに彼女自身の無力を説き、故郷へ帰るように諭した。

 今もあの時も、彼女の無力は変わらない。しかし、スパイルは『故郷に帰る』という同じはずの彼女の選択に疑問を感じた。

 沈黙だけが重なる部屋で、スパイルはうつむくリコルを見つめる。

 ゆらゆらと震えるランプの火が、スッと動くのを止めた。

 ――ああ、そうか……。

 視界が静かになるのと同時に、核心のようなものにたどり着いた気がした。

「お前は、どうしたいんだ」

「え?」

 簡潔な問いに、リコルは戸惑ったような顔を上げた。

「迷惑をかけるだの、自分には出来ないだのは置いておけ。『俺の為に』じゃなくて『お前は』どうしたい」

「だ、だって……スパイルに迷惑かけてばかりで……」

 それは、リコルが彼女自身を納得させるための言い訳に過ぎないと、スパイルは気が付いていた。

 今まで幾度と無くリコルの主張と向き合ってきた。そのたびに向き合ってきた彼女の瞳は、いつだって真っ直ぐで、うつむいて目の色もわからないようなことは一度もなかった。

「迷惑をかけたくないというのはわかった。だが、形見探しを諦めたくもないんだろ?」

「でも私、何も出来ないし」

 リコルは悲痛な顔でスパイルを見つめて、首を振る。

 怒るでも、説得するでもなく、祈るように真摯で静かな声でスパイルは言った。

「前にも言っただろ。お前に出来なくても、俺になら出来ることがある。スクラだっているだろう。頼っていい。手を差し伸べてくれる人には頼っていいんだ」

 幼い身の無力さは、スパイル自身がよく知っていた、

 弱い者が自分の思うことを成せずに、諦めて逃げなければいけないことがあることも知っている。

「……昔、幼くて無力だった俺は、逃げることしか選べなかった。でもお前は違う。俺が力になってやれる。こうしたいと思うことがあるなら、一人で悩まずに言ってみろ。俺も一緒に考えてやる。それでも無理だと思ったら止めてやる。だから、最初から諦めなくていい。お前が本当にしたい事をすればいいんだ」

 そこまで言ってから、スパイルはようやっと顔を上げてリコルを見た。ランプの灯りを受けた彼女の瞳は、答えに迷うように揺れている。

 伝えるべきことは伝えた。掛けるべき言葉がもう無くなってしまい、酒場でのスクラの言葉が一瞬頭をよぎるが目を逸らして頭を掻いた。

「それでも帰るというのならもう止めはしない。でも、急いで結論を出さなくてもいいだろう。明日、仕事が片付いたらまた話を聞く」

 そう言うと、しばらくの沈黙の後リコルは小さくうなずいた。

 どの様な答えを彼女が選ぶかは解らない。ただ、うつむいたままのリコルの背後には、ランプの灯りが届かない夜の闇が広がっていた。




 日が昇り、スパイルとスクラはハリスヤード家の城に向かって黙々と歩いていた。村から少し離れただけだというのに森は深く、道らしい道もないため歩みは遅い。まるで意図的に閉ざされたような森で、目的地の城がかつて栄えていたとは想像し難かった。

「なあ、ハリスヤード家はいつ滅びたんだ? 城につながるような道が無くなるなんて、数年の話じゃないだろう」

「俺も正確には知らないけれど、かなり前の話みたいだよ」

 前を歩くスクラは振り返りもせずに、ボンヤリとした回答しか返してこない。

「少し気になったんだが、マーガレットといったあの女。本当にハリアネス家の人間なのか? もしそうなら、なぜ自分の家の始末を人に任せる」

「彼女がハリアネスの一族なのは本当だよ。下見に行ったときに肖像画を見つけたからね。彼女は今、あの城に入りたくても入れないって言っていたでしょ。それに、女の子が入るのは危険だって、昨日も説明したじゃん?」

 確かにそう説明された。それでも何が引っかかるのか判らなかったが、スパイルは釈然としない気持ちを抱えて押し黙った。

「さ、着いたよ」

 広く一円、木が避けるように土地が開けた中にその城は建っていた。増設を繰り返されたのか、大きな城はどこか統一感がなく、それでいて奇妙に大きかった。

 廃墟とはいっても外見から判るような倒壊はなく、そのじっと息をひそめているような佇まいが不気味だった。城正面の扉の前に立つと、気味の悪さは一層強まる。

「中に入ったら何が起こるかわからないけれど、『眼』は言うこと聞きそう?」

「ん……大丈夫だ」

 スクラに言われ、スパイルは軽く目を瞑って右目に集中する。じわりと眼が熱くなる感覚があり、再び目を開くと片目は赤く染まっていた。

「オーケー。入る前に一応、相手の目くらましの術を掛けるよ。城に組まれた封印の術の影響で、いつまでもつか判らないけれど、ないよりはマシだろうから。ちょっとじっとしててね」

 いつものような軽口で取り出された術符は、いままでスパイルが見たことのない大きさのものだった。通常の術符であれば大きくても紙幣ほどの大きさなのだが、スクラの出したそれは書簡ほどの大きさで、様々な図形や文字らしきものが書きこまれており、術の解らないスパイルでも、それは異様に複雑なものだと判った。

「クグニティオ アドーク アーミティオス アク スィレオ パールム アッキ(影をしばし失くせ、そして沈黙の外套を纏わん)」

 スクラが目を瞑り呪文をつぶやくと、術符はふわりと淡い光になって消えた。

「よし、発動したね。もう動いてもいいよ」

「お前が術に関して気を張るなんて、今回はずいぶんと厄介な相手らしいな」

「まあ、場所も相手も厄介だからね」

 扉にそっと手を掛けていたスクラが振り返ってヘラヘラと笑う。

「下見に来たときなんて、城の錬気と精霊のエネルギーで術はうまく発動しないし、具合も悪くなるし」

「大丈夫なのか?」

 冗談めかして言っているが、深刻な問題なのではないかとスパイルは尋ねた。

「見てのとおり、色々対策済み。術はちょっと複雑になっちゃっているけれどね。体調の影響の方だけど、スパイルは鈍感だから大丈夫だと思うよ」

「お前な、手伝わんぞ?」

 扉を開け、城に踏み込む後ろ姿をジトッと睨むとスクラは笑った。

「冗談だよ。錬気の影響を受ける受けないは、人種や種族、生まれ持っての質だから。それに、君の眼みたいに、魔法に係わる素質を持って生まれた人は、たいてい耐性がある」

 つまるところ、スパイルは城に入っても平気だろうということだったが、一歩踏み込むと異様な空気に思わず固唾を呑んだ。

 扉一枚を越えただけなのに、城の中の空気は冷たくよどみ、薄暗く感じる。古い建物のはずが虫はおろか、クモの巣一つ無い。

 背の冷える感覚を覚えつつ、静かな廊下を二人は進んだ。スクラは辺りに神経を張り巡らせた様子で、細く息を吐く。

「大丈夫か?」

「スパイルが心配してくれるなんてめずらしー。大丈夫だよ、なんとかね」

 この男は心配してやるだけ無駄かもしれない。声をひそめつつもからかうようにクスクスと笑うスクラに、スパイルは呆れてため息を吐いた。

 城主の部屋は三階の一番北にあるということだが、それでも異変や危険がないか部屋をいくつか確認しながら進む。応接室や書斎、使用人の部屋などのようで、特に変わった物は見当たらなかった。城に潜むという精霊の気配も、その存在の証拠のようなものも見当たらない。

「その精霊、本当にいるのか?」

「幸い、目くらましが効いているみたいだね。何もしていなければ、ものの数分で発見される。できれば杯を見つけるまで遇いたくないよ」

 スパイルの問いに苦笑いの返事が返ってくるが、スクラ言葉にはあまり余裕が感じられなかった。

「なあ、その精霊も、人に使われていたとはいえ精霊なんだろ? 珍しいだろうが、精霊は自然のものだ。野に放たれることの何が問題なんだ?」

「そうだね。……きっと、自然界の精霊を捕らえていたのなら、こういったことにはならなかっただろうね」

「人工だということが問題なのか?」

 スクラは少し考えるようにしながらうなずいた。

「それもある。人が作った精霊だったから、きっと精霊として生きていくためのエネルギーが常に足りないんだと思う。そして、問題はなによりも、その精霊の糧にある」

「死と怨みだったか」

「そう。狼がウサギを食べるように、あの精霊は生き物の死を取り込む。それに加えて腹ペコときている」

 スパイルは納得してうなずいた。そこまで説明されれば、危険性は明らかだった。

 その精霊がどれ程のエネルギーを求めているのか、それがどれ程の犠牲で満たされるのかはわからないが、十や二十で済むわけがないだろう。近くにいる生物を片端から取り殺し、膨れ上がっていくのだ。

 身勝手な人間に創られ、人間の安全のために殺される人工精霊を哀れだと思わずにはいられない。

「さっさと片付けるか」

 スパイルは今までよりも大きな扉に手をかけた。

 軋んだ音を立てながら開いた扉の先は、広いホールになっており、高い天井からは古ぼけた大きなシャンデリアがぶら下がっていた。

「ここは……?」

 城なのだからホールの一つや二つは当たり前だろうが、場所と造りが奇妙だった。部屋の右は、壁を一部切り抜き、聖堂をくっつけたような造りになっており、その突き当たりの壁にはステンドグラスがはめ込まれている。部屋のある場所も、一階の奥まった所にあり、人を招いて集めるホールとは思いにくい。

「儀式用の間で杯を発動するようにって聞いていたけれど、ここ……かな」

 聖堂のような方へ足を向けるスクラの後をついていくが、見れば見るほど奇妙なつくりだった。他の部屋と違い、むき出しの白い石の壁には細かい模様が刻まれており、よく見るとそれは式術の構成式だと気づく。見える範囲の壁には、石の一つ一つに構成式が刻まれている。それがすべて人の手によるものなのだとしたら、気が遠くなるようだ。

「止まって。ごめん、今はこれ以上近づかないほうがいいかも」

 先を進んでいたスクラが手でスパイルを制した。何があったか訊ねようと顔を向けたが、訊くまでもない、正面の祭壇と思しき場所には、黒いもやが漂っていた。霧とも煙ともつかないものが、ただ静かにたゆたっているだけなのだが、背筋が訳もなくゾクゾクとする。

「あの黒いもやが精霊か?」

「あー、君の目には黒いもやまで見えてる? 俺にはそこまでハッキリ見えないけれど、あれは精霊の一部だろうね。一部というか……警報装置かな? 触れたらすぐに飛んで来るだろうね」

 それだけ精霊が警戒するということは、触れて欲しくないものということだろう。ここが儀式の間で間違いないということだ。

「ヤツは、ここが自分にとって危険な場所だと知っているのか?」

「どうかな? ここで行われる儀式は、なにも精霊を殺すものだけじゃなかっただろうし。なんにせよ、杯がないのにここに近づくのは得策じゃないよ」

 引き返すスクラに、スパイルも同意する。まずは杯を探すことが先だ。ホールになっているところまで戻り、あたりを確認すると、入ってきた扉の向かいに、別の場所へ続く扉があった。

「それにしても、広いな。どれくらい経った」

「城に入ってから二時間は経ったかな。まあ、何事もなく目的の場所のひとつは見つけたんだから、杯の方もこの調子で、ね」

 スクラは笑って見せるが、不安を拭いきれないスパイルは小さくため息を吐いた。


***


 リコルは硬いベッドで寝返りを打つ。横になったまま、ぼんやりとした目で窓から見える空を眺める。青い朝の空がまぶしくてリコルは薄い毛布を頭から被った。

 スパイルはしばらく前に一人で出て行ったから、おそらくスクラと仕事に向かったのだろう。どんな仕事かは聞いていないが、スクラがリコルの同行を止めたのでそれ以上は訊ねなかった。

 それでいいのだ。何もできない自分が危険かもしれない仕事に同行することは、スパイルたちの迷惑になるだけなのだから。

 そう思ってから、ふと昨晩のスパイルの言葉が頭をよぎる。

『お前は、どうしたい』

 ――そんなの……決まっているよ。でも……。

 またグルグルと考えは巡り、結局自分の無力さに行き着いて途方にくれてしまう。

 スパイルは力を貸してくれると言う。手を差し伸べてくれる人には頼っていいのだと言う。けれども、その優しさに何も返すことができないことが歯がゆくて苦しくなるのだ。

 ――どうしたらいいんだろう。

 ぎゅっと目を瞑って考えても答えは一向に浮かばす、ただ体は空腹を訴えるように弱々しく腹を鳴らした。悩んでいてもお腹は減るもので、リコルは自身の緊張感の無さにがっかりするようにため息を吐いた。

 ベッドから出て身支度を整えると、部屋を出た。

 一階の食堂で何か食べようと思い階段を下りていくと、宿泊受付のところから何か話している声が聞こえた。どうやら、身分の高い女性とその侍女たちのようで、村にはこの簡素な宿しかないことで侍女が宿の主になにやら文句を言っているようだった。階段から真っ直ぐ正面が受付であるため、意図せずともその様子が目に入ってしまう。

 リコルと同じ位の歳の赤毛の侍女と、宿の主に色々と注文をつけている細身で背の高い侍女。その侍女たちと宿の主のやり取りを気に留めていない様子で、黒い服を纏った女性はゆったりと佇んでいる。

 リコルがなんとなくその光景を眺めながら、左手にある食堂に向かおうとしたとき、黒い服の女性が振り返った。

 整った顔立ちを砂色の纏め髪とエメラルドのような緑の瞳が彩っていて、見るものの目を引く。しかし、目が合った瞬間、リコルは背筋が震えた。

 すぐに目を逸らして食堂に続く廊下を早足で歩く。理由はわからない。それでも、本能がその場から離れることを望んでいるのは確かだ。

 ドアが開けられたままの食堂に入る。食堂はそれなりに広く、テラスにもいくつか席が設けられている。すでに数人の宿泊客が食事をしており、リコルはその何気ない光景に胸をなでおろした。しかし、背後から近づく靴音に気づき、再び心音は一気に速度を上げた。

 ――ううん、ただの思い過ごし。だって目が合っただけだし……。何も、ないよね?

「リコルさんっ!」

 冷や汗を感じながら動けないでいるリコルの前から、彼女を呼ぶ声が飛んでくる。

 顔を上げると、深い緑色のローブを被った女性がテラス席の出入り口からリコルを呼んでいた。

「えっ?」

「こっちに、早く」

 見知らぬ女性に名前を呼ばれ戸惑うが、考えるよりも先に足が前へ進んでいた。

 女性に先導され、テラスを通り抜けて宿を離れる。思ったよりも歩く速度が早く、リコルは少し駆け足になりながらついていった。

「あの、すみません。どなたですか。どうして私を知ってるの?」

 ローブの女性の後を追いながらリコルは訊ねた。

「マーガレットと申します。いきなりごめんなさい。私は、スクラさんに今回の仕事を依頼した者です。貴女のことも、スクラさんから」

「そうだったんだ。でも、なんで?」

 どこに向かっているのかも解らずに、ただマーガレットの後をついていく。

「……確かなことは、私にも解りません。しかし、あの女性は危険でしたので」

 その言葉に、リコルは背筋が冷たくなるのを感じた。マーガレットの言う女性とは、間違いなく宿にいた黒衣の女性のことだろう。根拠の無い不安は間違っていなかったのだ。

「どういうこと……」

「……説明は難しいです。私は、私の一族の事情で色々なものを見て、沢山の死も、死をもたらすものも見てきました。……あの女性は、死をもたらす側のものと同じ気配がします」

 マーガレットの事情はまったく知らないため、言葉の半分くらいしか理解できなかったが、それでもあの女性が危険なのだということだけは理解できた。

「あの、どこに向かっているの?」

 村を離れ森の中に踏み入り、不安げにリコルは訊ねた。

「スクラさんたちのところです。村の中であの女性から身を隠す場所があればよかったのですが、私には頼れる者がいないので」

 その言葉に、足が止まる。

「リコルさん、進んでください。今のところ姿は見えませんが、あの女性は追ってきていますよ」

 マーガレットが振り向いて先を促すが、リコルは首を振った。

 危険な存在から逃げなくてはいけないが、スクラからは付いて来ないように言われている。行けば迷惑になるのが目に見えていた。

「行けない。私……またスパイルたちに迷惑をかけちゃうから」

 迷惑をかけたくないと思い、スパイルにそれを伝えたばかりだ。それなのにまた厄介ごとを引き当てて持っていこうとしている。立ち止まってうつむくリコルに、マーガレットはしゃがんで覗き込み優しく微笑んだ。

「スパイルさんやスクラさんは、貴女の事を迷惑なんて思わないですよ。大丈夫。安心して手を伸ばしていいんです」

 それはスパイルからも言われた言葉だ。スパイルだけじゃない。スクラも、王都のバレンティーナも皆優しく手を差し伸べてくれた。誰も見返りを求める人たちではないと分かってはいても、彼らに何かがあったとき、誰も助けてあげることができない自分が悔しい。

 リコルは涙を滲ませて眉を寄せた顔を上げた。

「スパイルもスクラも、バレンティーナさんも、あなたも、みんなどうして助けてくれるの? たくさん助けてもらっても、私は何もしてあげられないっ」

「……リコルさん」

 包み込むように静かな声でマーガレットは続けた。

「助けてもらったという事は、一面的な結果でしかありません。貴女が本当にもらっているモノは、たくさんの心なんですよ。だから、何かを返したいと思うのなら、心を以って接すればそれでいいのです」

 マーガレットは立ち上がって天を仰いだ。

「ずいぶんと昔に、私はそれを見誤ってしまいました。そして、気づいたときには遅かった。相手を信じて、想う。簡単なことなのに、簡単に見失ってしまう」

 伸びた木の枝と葉で覆われて空は見えないが、それよりも高いところを見るように彼女は遠い目をしている。

「マーガレットさん?」

「そうだ、手を出して?」

 再び向き直ったマーガレットは、首をかしげて言われたままに手を差し出すリコルに自分の指から外した指輪を渡した。

「お守り代わりに、差し上げます。さあ、行きますよ。追手は追尾の術を使ったみたいです。早く進まないと追いつかれます」

 元気付けるように微笑むマーガレットを見てから、リコルは自分の手のひらに目を落とす。おそらく、マーガレットの大事な指輪に違いない。黒銀色の印章指輪で、両側に取っ手のついた杯の上に三日月が浮かんでいるシンボルが刻まれていた。

 リコルはそれを確認して受け取るのを躊躇ったが、歩き始めてしまったマーガレットに声を掛けるタイミングを失ってしまった。

 リコルは目を伏せて、託された指輪を握り締める。

 一度ギュッと目を瞑り、パッと顔を上げるとリコルは駆け足でマーガレットの後を追った。


***


 儀式用のホールを抜けると二階に続く階段があり、その廊下は差し込む光で明るかった。それでもどこか薄暗い気がするのは、窓ガラスが曇っているからだけではないのだろう。

 スパイルはふと後ろを振り返り、廊下の先の儀式用ホールの扉を見つめた。

「スクラ、ちょっと止まってくれ」

 階段の途中で足を止めたスクラも、すぐに異変に気が付いたようだ。

 足音がする。小走りで進む小さな足音は、その軽さと間隔から子供のものと推測できた。

「確認する。俺たちとその精霊以外は、ここにいないはずだな」

 スクラは明らかにこわばった顔をしてうなずく。

 色々な可能性を考える。悪い予感が頭を埋め尽くしつつも、スパイルは肩に担いでいる猟銃を構えて儀式用ホールの扉に向けた。

 やがて、足音が扉の前に止まり、ドアノブが捻られる。

「スパイル!」

「リコルちゃんっ!」

 悪い予感は当たった。開いた扉からリコルが駆け寄ってくるが、スパイルが何か言うよりも早く、顔を青くしたスクラが彼女に駆け寄った。

「なんで? 宿で待っていてって。いや、それより大丈夫? 頭痛や吐き気は? ここまで何にも遇わなかった?」

 膝をつき、肩を掴んで次々と訊ねるスクラに、リコルもスパイルも面食らってしまう。スクラがこんなに動揺することなんて珍しかった。

「ごめんなさい。でも、とにかく逃げなきゃいけなくて。マーガレットさんがここまで案内してくれたの」

 リコルはしゅんと肩を落として謝った。あれだけ迷惑をかけたくないと言っていた彼女がここまで逃げてきたのだ、よほどのことなのだろう。責める気は起きなかった。

「具合は……この城に入ってから、ちょっと頭が痛いかな。足もフラフラする」

 そうだろうと言うようにスクラはうなずいて、自分の首から提げていたものをリコルに掛けた。なにかのまじないが込められたものなのだろうか。小さな木の輪が組み合わさったものが革紐の先に結ばれている。

「頭痛はこれで少し良くなるはずだから。あとは、とにかくスパイルと俺から離れないように」

 真剣な顔でスクラは立ち上がると、先を急ぐようにスパイルと目を合わせた。

 リコルを加えた三人で広い階段を進んでいく。

「大丈夫なのか……?」

「分からないよ。でも目くらましは、きっともう意味がないだろうね」

 いつもの口調には戻りつつも緊張した面持ちであたりを警戒するスクラに、スパイルは事態の深刻さを悟る。

「急ぐしかないって事か」

 うなずくスクラに、リコルは申し訳無さそうにうつむいた。

「そういえば、リコル。逃げてきたって言っていたが、一体何が――」

「あら、野ウサギ狩りをしていたつもりが、狼狩りに予定変更ですわね」

 その声にスパイルとスクラが一斉に振り返り、それぞれ迎撃できる態勢を構えた。リコルは一拍遅れて恐る恐る振り返る。

 声の主である黒衣の女性は侍女を両脇に侍らせ、優雅に立っていた。リコルは泣きそうに弱々しい声で謝る。

「ごめんなさい、宿ですれ違って……それから追われて……」

「お前は何者だ」

 スパイルは猟銃を構えて女性を睨みつけるが、意に介した様子も無く、侍女の一人から長い革を編みこんだ鞭を受け取って床をパチリと軽く打った。

「貴方のように汚らわしい者に名乗る名前はなくてよ。スパイル・グラックス」

 名前を呼ばれ、スパイルはひくりと眉をゆがめる。

「本当に忌まわしいですわ。わたくし達からあの方を奪った男の血を引いておきながら、その眼にあの方の力を宿しているんですもの。許されなくってよ」

 右目が一気に熱を帯びる。

 スパイルの出自を知っている者は限られている。顔を知らない相手が自分の事を知っているとすれば、その繋がりは一つしかない。腹の底から煮えるような怒りが湧き上がりスパイルは引き金を引いた。はじける火薬の音が響く。

 銃弾は黒衣の女性の足を狙っていたが、侍女の少女が開いた鉄の扇子で防がれていた。

「お怪我はありませんか。ファルファレッタ様」

「ありがとう、コーネリア」

 常識では考えられないような反応をした赤毛の侍女、コーネリアはもう片方の手にも鉄扇を握り、一歩前に踏み出す。

 スパイルは次の弾を込めて引き金に指を掛けた。

「赤いトカゲだな。ヴェルメリアの居場所を吐け」

「スパイル、今はそれどころじゃないよ!」

 ファルファレッタ達と対峙したまま、スクラがスパイルを制するが、目の前の好機を逃すことは出来なかった。

 今までスパイルと、赤いトカゲの首領であるヴェルメリアの繋がりを知っている者はいなかった。それどころか、ヴェルメリアに子がいることを知っている者すらいなかった。しかし、目の前の女は当然のことのように述べ、怨みを吐いたのだ。つまり彼女は、赤いトカゲの、それもヴェルメリアに近い者に違いない。

 なんとしてでもヴェルメリアの居場所を聞き出す必要があった。

「そのようなことよりも、貴方はこれから自身の身を案じた方がよろしくてよ」

 楽しそうにクスクスと笑いながらファルファレッタは鞭をピンと張った。

「貴方はこれから捕らえられ、吊るされ、捻じられ、切られ、焼かれ、抉られ、ありとあらゆる苦痛を味わうのですわ。わたくしからヴェルメリア様を奪っていた十八年。苦しみと絶望の中で贖罪なさい」

 ファルファレッタが鋭い眼光でピシャリと鞭を放つ。

「コーネリア、ソフィア。赤毛の男は好きに始末なさい。スパイル・グラックスは殺さずに捕らえて。あと、その子は飼いたいわ。出来るだけ無傷で連れていらっしゃい」

「かしこまりました」

 鉄扇を両手に握ったコーネリアと、持っている傘の軸に仕込まれた細身の剣を引き抜くソフィアは同時に答え、次の瞬間にはスパイル達に向かって走り出していた。

「フォル エク トートゥリア レンヌ(風よその力を集めて吹け)」

 侍女たちが駆け出すと同時に、同時にスクラは術符を広げて呪文を唱えた。瞬間、侍女たちの足を強い風が阻んだ。

 その風の中に身を投じるようにスパイルは階段を駆け下り、侍女を無視してファルファレッタとの距離を詰める。

「なっ、スパイル!」

 逃げるものだと思っていたスクラは舌打ちをして、懐から別の術の媒体を取り出そうとするが、コーネリアが投げた鉄扇が彼の手に当たり、握っていた媒体の結晶を取り落としてしまう。

 スパイルは銃からナイフに持ち替え、ファルファレッタの放つ鞭を避けて距離を詰めた。ファルファレッタはスパイルの赤く輝く右目を見て一瞬身を硬くする。しかし、彼女は眉をひそめるとすぐに後ろに飛び退き、スパイルのナイフは空を切った。

「貴方まさか……」

 距離を置いたままファルファレッタはスパイルの右目をじっと睨んだ。

「退こう、スパイルっ! このままじゃアレが来る」

 スクラが叫ぶが、スパイルの意識は完全に目の前に集中している。

「赤毛のお兄さん? 余所見なんてしないで、私たちと遊びましょ」

 背後で金属が硬質の物にぶつかる音が響く。スクラが侍女たちと交戦しているのだろう。互いの得物を構えたままファルファレッタと睨み合う時間は刹那であるのに、とても長く感じられる。ジリッとスパイルの靴底が砂を噛む。

「ああ、そうですの。やはりそうですのね。宝の持ち腐れとはまさにこの事ですわ」

 ギリギリの間合いであるというのに、ファルファレッタはクスクスと笑い始めた。

「なんの事だ」

「その眼は、神の紅玉。支配者の眼。ただの遠眼鏡ではなくってよ」

 ファルファレッタは哀れむような蔑むような眼でスパイルを見た。

「何を言って――」

「スパイル、上っ!」

 リコルの叫ぶ声に、スパイルは顔を上げた。

 闇が、真上に迫っている。

 体勢を崩しながらも横に避け、そのままの勢いで床に倒れた。

 スパイルのいた場所に平たく広がった闇は、もそもそと塊状になり、四足の獣のような形状に落ち着いた。

 精霊というものを見たことがないので比べようが無かったが、これがこの城の精霊なのだろう。まるで空間を切り取ったように暗い闇が固まりになってうごめいている。

 スパイルはすぐに起き上がり、銃で闇の塊を撃ち抜くが、弾は霧を抜けるように通り過ぎ、壁に傷を作った。

 標的を変えた精霊はファルファレッタに飛びかかろうと滑り出し、ファルファレッタは鞭を横に振るう。先ほどの弾丸と同じように鞭は空を切り、廊下脇にあった花瓶を砕いた。

 飛び散った破片に精霊が一瞬怯む。

「アイテーラ ハリアゼスっ!(天に光よあれ!)」

 スクラの詠唱で辺りに強い光が弾け、散弾のように降り注いだ。

 光で目が眩み、顔を伏せて手をかざすと、その手を誰かが掴んで引いた。

「逃げようって、スクラが」

 閃光の間、目を塞いでいたのか、しっかりとした足取りのリコルに引かれてスパイルはその場を離れる。

 スクラと三人で階段を駆け上がり、とにかく遠くに離れるために二階の廊下を走った。リコルの後姿を見て、スパイルは眉を寄せて舌打ちをする。

 冷静さを欠いていた。長い間追った仇の重要な手がかりが現れ、気が付けば怒りや恨みが身体を突き動かしていのだ。今は危険な仕事の最中で、リコルまでいたというのに、我を忘れてしまっていた。

 ――くそっ……。

 鋭い痛みを訴える右目を苦々しく思いながら走る。

『宝の持ち腐れ』

 ファルファレッタの言葉が引っかかった。どういう意味だったのか、分からないままだ。

 ――いや……。

 スパイルは頭の中で考えを振り払った。今はとにかく逃げ切るのが先だ。

 後ろをちらりと確認するが、精霊の影もファルファレッタ達の姿も見えない。振り切ったのだろう。

「撒けたみたいだ。とりあえず近くの部屋に隠れるか」

 スパイルの言葉にリコルとスクラも足を止め、同意した。

 すばやく手近な部屋の扉を開け、中に身を潜める。薄暗い部屋には本棚がいくつも並び、埃を被った本がぎっしりと詰め込まれている。書庫らしいその部屋は、通路は狭いが隠れるのにはちょうど良い場所だった。

 全力で走ったため全員に疲れが見られ、リコルは肩で息をしたまま、壁に背を預けてズルズルと座り込んだ。

「大丈夫、リコルちゃん?」

 スクラがリコルの顔を覗き込んで訊ねるが、訊ねた本人の顔色も良くない。思い出せば、スクラは自分が首から提げていた魔除けのようなものをリコルに譲っている。あれが、城の気の影響を受けなくするためのものだったとしたら、譲ってしまった今は、体調に影響が出ているのではないだろうか。

「お前の方が大丈夫なのか? たしか――」

 言いかけたスパイルに、スクラはリコルから見えないように振り返って、立てた人差し指を自分の唇に添えて笑ってみせた。

 リコルに心配をかけないために黙っていろということらしい。虚勢とはいえ、笑っていられるのなら大丈夫な範囲なのだろうと、スパイルは呆れた息を吐く。

「さあ、これからどうしようか」

 オールバックの赤い髪を撫で付けるようにかき上げて、スクラは首を傾けた。スパイルは腕を組んで本棚に背を預ける。

「敵は精霊に加え、あの女か」

「幸いなことに、精霊は俺たちも彼女も分け隔てなく攻撃対象とみなしてくれているみたいだけれど、俺たちの方が分が悪いね」

「戦力の差は明らかだな」

 ファルファレッタ本人の腕が立つことももちろんだが、二人の侍女もなかなかの手練のようだ。スクラの黒い上着にはいくつか切り傷があり、血が滲んでいた。リコルを守りながらだったとはいえ、正面からぶつかり合って、スクラの術をかいくぐり攻撃を当たのだ。

「あー……まあ、この怪我は、城のせいで完全な術が使えなかったこともあるけれど、俺が言っているのは戦力差の話じゃないよ」

 スクラは苦笑いしながら肩を竦めた。

「精霊は城に入った『生きているもの』を無差別に襲っている。エサを求めてね。で、こっちは標的が三匹。あっちの標的は一匹。どちらを優先的に追うかは分かるよね?」

「ちょっと待て、あっちだって三人だろう」

 スパイルが首を捻ると、スクラは少し眉を寄せて首を振った。

「あの侍女たち。たぶんあれは人間じゃない。というか、生物ですらないよ」

 スクラは少し本棚の本を眺めるように目線を逸らして考え込む。埃っぽいカビの匂いが鼻をつく。

「マーキナーって……聞いた事ないよなぁ、普通。正式にはマーキナー・ピューパっていう、術で創られた人形だよ。ただ、制作にはとてつもない費用がかかるし、自立して動くための材料が……普通は手に入らないからね」

「あれが人形だっていうのか?」

「とても精巧に出来ているけれどね、闘っている間、呼吸が無かったんだ。それで、出来る範囲で瞳孔を観察してみたけれど、ずっと変化がなかった。宝石で作ったような瞳だったよ。戦い方や動きも洗練されていたから、たぶん通常の制作よりも、とても時間と費用をかけて創られている。ファルファレッタという女性が赤いトカゲの人間だっていうのなら納得だよ」

 スクラがため息混じりに笑ってみせる。

「まあ、つまるところ、精霊の目はこっちに向きやすいうえ、美人三人からも追われるって状況なわけだ」

「笑えない話だ」

 それに加え、リコルを守りながらという条件がつく。杯を探し、精霊を殺すという課題は困難を極める。右目の痛みも治まらず、スパイルは眉間にしわを寄せてため息を吐いた。

 床に座り込んでいたリコルが、二人の顔を見上げてから目を伏せる。

「私のせいだよね……。ごめんなさい」

 帽子のつばに隠れて顔はよく見えないが、責任を感じているのだろう。うつむくリコルの前にスパイルが屈むと、彼女は歯を食いしばって身を硬くした。

「無事でよかった」

 スパイルがそっとその小さな頭に手を置くと、リコルは青灰色の瞳に涙を滲ませながら驚いたように顔を上げた。スクラも笑ってうなずく。

 赤いトカゲに狙われたのだ。無事に逃げて来られただけで感謝しなければならない。マーガレットがリコルをここまで連れてきてくれたと言っていたが、彼女の判断には礼を言わなければと思った。

「マーガレットは、お前をここに連れてきた後どうしたんだ?」

 訊ねられて、リコルは顔を曇らせた。

「わからない。マーガレットさんは城の中に入れないって言って、私一人でスパイルたちを探しに入ったから。そうだよね、後ろからあの女の人たちが来ていたんだもん……大丈夫かな」

 思い出して身を乗り出すリコルの肩に手を置いて、スクラが笑いかけた。

「大丈夫、彼女はこのお城の主だったくらいすごい術士だから」

 確かに、末裔とはいえ式術を極めた一族の者なのだ、一人で逃げ隠れするくらいならどうにかなるだろう。それを聞いたりコルはうなずきながら、どこか斜め下を見て考え込んだ。

「どうかしたか?」

 スパイルの問いに、リコルは考えがまとまらないというように小さく頭を振りながらもつぶやいた。

「あの影って、この城に昔からいたものなの?」

「ああ、この城の一族が使役した精霊の成れの果てらしい。今回はそれを殺すために来ていたんだ」

「……ここにくる途中、マーガレットさんと少し話したんだけど、なんだかとても哀しそうな顔をしていたんだ。……あの影のせい、なのかな?」

 沢山の人を死に追いやってきた一族の生き残りなのだから、苦悩があってもおかしくはない。そしてリコルの言うとおり、呪いの固まりのようなあの精霊は彼女を苦しめるものに他ならないだろう。

「おそらくそうだろうな」

 スパイルはうなずくが、それでもまだなにか引っかかるものがあるのか、リコルは首を少し横に傾けてうなずいた。

「さて、そろそろここから動こうか。同じ場所に留まるのは良くない」

 スクラが立ち上がり、仕切りなおすように手を軽く叩いた。

「どうしようか?」

「どうって……退却が一番良い選択肢だろうな。無事に出られるとも限らないし」

 スパイルはため息混じりに立ち上がった。

 リコルはなにか言いたげだったが、うなずくと立ち上がり首をかしげた。

「そういえば、スパイル、目は大丈夫? 逃げる前までは赤かったけれど」

 不意の問いかけに、スパイルは右目を押さえる。鈍い痛みが続いていたため、ずっと力が発動したままだと思っていた。

 ベルトの鞘に収まっているナイフを引き抜き、刃に自分の目を映す。金の双眸が自分を見返し、スパイルは愕然とした。

「くそっ、こんなときに……」

 目を閉じ、気持ちを鎮めて右目に意識を集中する。それでも、再び開いた両目は金のままだった。

「大丈夫。退却するだけなら、君の眼がなくてもヘイキだよ」

 そう笑ってスクラがスパイルの肩を軽く叩いたが、気持ちが楽になりはしなかった。

 廊下が静かであるのを確認し、三人で部屋を後にしつつスパイルは舌打ちをする。自分に備わる力だというのに、発動すら満足に操れない。ファルファレッタの嘲るような笑い声が聞こえる気がした。




 真昼の強い日差しが差し込んでいるというのに、曇ったガラスのせいか、廊下はどこか薄暗い。来た道はファルファレッタ達に出くわす可能性が高いということから、反対の方向へ進み、一階への階段を探していた。

 静かな廊下をしばらく進み、角を曲がる。

「お、階段だね」

 一階に下りる道と、三階に上がる道の続く階段をみて、スクラがほっとするようにつぶやいた。運がよかったのか、あとは開く窓か扉を見つけて外に出るだけだ。

 階段を下り、スパイルとスクラが手分けして近くの窓を確認するが、どれもはめ殺しになっていて開きそうにない。

「割ってしまったらどうだ?」

「そうしたいところだけど、術が組まれていて物理的には割れそうに無い。かといって、今の手持ちの術じゃ破れそうに無い。地道にドアを探すしかないね」

 スクラが残念そうに肩を竦める。

「そうだな。リコル、行くぞ」

 少しはなれて二人と同じように別の窓を眺めていたリコルに、声を掛けようとスパイルは顔を上げた。

「うん」

 スパイル達の方を向いたリコルの背後は、真っ暗だった。

「リコルっ!」

 首をかしげたリコルが、上から黒い影に覆われてゆく。スパイルがすかさず銃を撃つが、やはり影を通り抜けて銃弾は廊下の奥へ飛び去って行く。スパイルは舌打ちをしてほとんど飲み込まれたリコルに向かって走り、手を伸ばす。

「クッレ ハリアネイト! (光よ走れ)」

 スクラのかざした術符から光が矢のように走り、影を貫くが、ゆらりと揺らめいただけでリコルを完全に飲み込んだ。


***


 暗闇にぼんやりと白っぽい灯りが見えた。式術で創られた手持ちのカンテラの灯りだ。

 薄い膜越しに見るかのようなぼやけた視界に、カンテラを持った薄い金色の髪の少女が映る。

「あなたはだあれ? いたいの? くるしいの?」

 少女が触れようと手を伸ばすが、後からやってきた大人に手を引かれて離れていってしまった。

「母さま、あれはなんというの?」

 少女が振り返る。

「あれに名はありません。与えてもいけません」

「そう……。じゃあね、またね」

 少女は淋しそうに手を振った。


 ――だれ?


 また暗闇。


 次に見た光の中にいたのは、先ほどよりもずいぶんと成長した女性だった。それでも、彼女が先ほどの少女と同じだと分かった。

 白い手の握るナイフが、祭壇に横たえられた人間の胸を割く。式術の刻まれた石の壁に獣のような叫び声が響いたが、彼女はナイフを何度も刺しなおし、声が止んでしばらくした頃、赤黒い塊をとりだし、差し出してきた。

 どろりとした温かい感触を受け、自身の力が増えていくのを感じる。

 塊を受け取ったときに触れた、血にまみれた彼女の手は震えていた。


 ――こわいの?


 その震えを止めたいと思った。



 また暗闇。


 長い時間が経ったのだろう。美しい女性になった彼女は、冷めた目をして告げた。

「あれが今回のお前の餌よ。行きなさい」

 黒銀の指輪を嵌めた、その白い細い指はもう震えていない。

「殺しなさい」

 ただ、彼女の命に従い、誰かを殺すたびに彼女の心を削るようで苦しかった。

 彼女の言うように、自分の命の糧は他のものの生命である。それを食らわねば自分は段々霧散していってしまうのだが、そうだとしても、もう何も殺したくなかった。

 ただ、彼女に寄り添って、その震えを止めてあげたかっただけなのだ。


 ――ぜんぶ終われば、あなたは楽になれるの?


 まだ生きているものがいる限り彼女は殺せというのだろう。彼女のために、すべてを殺そうと思った。


 終わらない。生きている物がいる限り、それは終わらない。


 暗闇に、黒銀の指輪が落ちる。

 それは彼女のものだった。しかし、それを持っていたのは彼女ではない。彼女ではない生き物は殺さなくてはならない。

 彼女はどこ。

 彼女はまだ苦しんでいるのだろうか。

 もう終わりにしたい。終わらせてあげたい。

 どこに行けば、彼女に会えるだろうか。


***


 スパイルはなりふり構わず黒い影に飛び込み、リコルがいた場所を手探りで探す。

 足元で何か小さいものが落ちる音がした。闇を掻く手が何かに触れる。

 霧が晴れるように視界がひらけ、触れていたものがリコルの肩だと分かると無我夢中で強く抱くように引き寄せた。

「無事か、リコル!」

 一瞬呆然としていたが、焦点が合いハッとしたリコルはしっかりとうなずいた。

「二人とも、大丈夫?」

 スパイルは駆け寄ってきたスクラにうなずいてあたりを見渡すが、廊下のかどを去ってゆく影がちらりと見えただけで、それきり、もう精霊は姿を見せなかった。

「一体何が起きた?」

「俺もよく分からない。ただ、スパイルが影に飛び込んだあと、フッと霧散したんだ」

 状況がつかめずに首を捻る二人の足元で、リコルはしゃがんで何かを拾った。

 立ち上がった彼女の手あるものは、古い指輪のようだ。先ほど足元に落ちた小さな物はそれだったのだろう。スクラは指輪に刻まれた印に目を見張った。

「リコルちゃん、それは」

「マーガレットさんがくれたの」

 リコルはその指輪をじっと見つめていたが、顔を上げると真っ直ぐにスパイルの目を見つめた。

「スパイル、あの精霊を止めてあげたい!」

 指輪を握りしめる彼女の手は、小さく震えていたが、その目にはハッキリとした決意が宿っている。

「何があった」

「……真っ暗になったとき、少しだけあの精霊の気持ちが分かったの。あの精霊は人を殺したいんじゃない。ずっとマーガレットさんのことが好きで、マーガレットさんを助けたい一心で周りの人を殺してきたんだよ」

 リコルの言葉に耳を疑った。人工的に創られた精霊に、それも死や恨みの固まりに、誰かを想う感情があるなんて考えてもいなかったことだ。

「マーガレットさんが言っていたの。ずっと気づかなくて、手遅れになったって。それってこの事だったんだよ、きっと。精霊が人を殺すのをやめさせたい。もういいんだよって言ってあげたいんだよ」

「……そうは言ってもな、俺たちに出来るのは、あの精霊を殺すことだけだぞ」

 スパイルは頭を掻いた。精霊に感情があると分かったところで、話し合いに応じるようなモノとは思えない。それに、精霊の糧が他の生命だというのだから、生かしておくわけにもいかない。殺す以外に止める方法は思いつかなかった。

「それは、ミス・マーガレットも解っているよ。殺すしかないって解っていて依頼してきたんだ」

 スクラがリコルの前にしゃがんで彼女と目の高さを合わせる。

「あの精霊は命を食べる。あれが生きている限り、生き物を殺すことをやめさせることは出来ない。それでも止めるってことは、あれを殺すっていうことなんだけれど、いいね」

 スクラの言葉に、リコルは握っていた指輪を見てから顔を上げてうなずいた。

「……マーガレットさんだけじゃない。あの精霊も、こんな哀しいことに終わりが来るのを待っている」

 迷いのない光を帯びた彼女の強い瞳に、スパイルは少しだけ口元を緩めて呆れたため息を吐いた。

 理由はどうであれ、彼女は立ち上がって手を伸ばしてきた。その期待に応えてやりたい。

「敵の手札は揃って凶悪。こっちはボロボロ。スクラ、お前ならこの賭けにのるか?」

「分かってるくせに」

 立ち上がったスクラが横目で見返してきてニヤリと笑った。

「俺や君の手札がボロボロだって、幸運の女神の為なら命だって賭けちゃうよ」

「お前なぁ、そのうちその安っぽいチップ回収されるぞ」

「女神に持っていかれるなら本望だね」

 スクラが余裕ありげにウインクなどして見せる。

 二人のやり取りにリコルは涙の滲んだ顔を一度下げ、袖でぬぐってから再び上げた。

「ありがとう。スパイル、スクラ」

「気にするな。もともとの計画を続行するだけなんだ」

 スパイルはリコルの頭に手を置く。

 スパイルの右目が使えるようになったわけではない。スクラも笑っているが顔色が悪い。状況は好転していないはずだが、三人の纏う空気は変わっていた。

「それじゃあ、赤いトカゲのおねーさんに見つからないうちに、急いで城主の間を目指そう。ミス・マーガレットの話だと三階だったはず」

「杯を探し出して儀式の間に無事たどり着ければいいが、その間にまた精霊が現れたらどうする? 銃弾は足止めにもならないぞ」

 三階までの階段を駆け上がりながら、先を進むスクラに疑問を投げた。

「そうなんだよね。術も、おねーさんから逃げる時に撃った光弾みたく強力なものであれば目くらまし程度にはなるけれど、それ以外じゃ気にしてももらえない」

「あのねっ」

 階段を上り切った頃、リコルが息切れをさせつつも、なんとか話に割って入った。

「ごめん、もっとゆっくり進めばよかったね。大丈夫?」

 心配して覗き込むスクラにリコルは首を振って応え、息を整えつつ顔を上げる。

「あの、赤いトカゲの人と、スパイルのところに精霊が来たときなんだけど。あの時、壺が割れたでしょ? その破片を精霊が避けていたように見えたの。それに、精霊は伸び縮みしたり、天井に張り付いていたりはしたけれど、壁をすり抜けたりはしてなかったと思う。だから、このお城の物なら精霊に触れられるんじゃないかな」

「トランドゥース現象か。確かに、こんなに錬気が充満していれば有りうるね」

「術の事はよく分からんが、城のものなら物理的に殴れるってことでいいのか?」

 スパイルは、リコルの話に一人でうなずくスクラに訊ねる。

「えーと……できるかも、くらいかな。トランドゥース現象って言うのは、高濃度錬気中における性質浸透で、物質の形質如何によって浸透度や蓄積は変わるけど……」

 次々と出てくる術の用語にスパイルが眉をひそめると、スクラは苦笑いしながら噛み砕いた説明に切り替えた。

「結論だけ言うと、物によって効くか効かないか別れるけど、現状一番効果的かもってところかな」

「わかった。状況に応じて、利用できそうな周りの物を使えばいいな」

「そうだね。でも近接はなるべく避けた方が良い。物によっては力が浸透していなくて、精霊に触れられない可能性もある。そうなればもう、相手の腹の中だ」

 笑って肩をすくめたスクラが再び歩き始め、スパイルとリコルもそのあとに続いた。

 ふと目をやると、リコルは首から下げた魔除けを握り、スクラの後姿を見て不安そうな顔をしている。それもそうだろう。いつも通り振る舞って見せているが、時折苦しそうに眉を歪めていたり、脂汗がにじんでいる。

 ――急がないと、な。

 城に入ってから、どれくらいが経っただろう。窓から窺える外の景色はまだ陽が高いように見えるが、どこか薄暗い城の中では感覚が狂うようで、ただでさえ疲労感は募っていた。

 静かな廊下に三人分のかすかな足音が進む。整然とした廊下であるのに密林を歩くように神経を張りつめている。

「ここだね」

 三階の奥まったところにある部屋。伝え聞いていた城主の間で、スクラが足を止めた。彼に続きスパイル達も部屋に入るが、広い室内はうっすらと埃を纏っている以外は綺麗なものだった。

 天蓋のついた豪奢なベッドと彫刻の美しい黒檀の机、クローゼットや棚、書棚に暖炉。壁には肖像画が掛けられている。

「あの絵、マーガレットさんだね」

 リコルの言葉に、スパイルは首をかしげた。確かにマーガレットによく似ているが、冷めた目をしており雰囲気が違う。それに、その絵はずいぶんと古いもののようで、近寄らずとも所々絵の具がはがれているのが見て取れる。

「あれがマーガレットの絵だとしたら、古すぎないか? きっと彼女の一族の誰かだろ」

 そんなことを言っている間に、スクラは書棚横の壁に向かって手をかざし呪文を唱えていた。少してこずっているようで、パチリと小さな火花にスクラは手をはじかれる。

「大丈夫か?」

「うん、ちょっと慣れない古い構成だから、収束が難しくて。でも大丈夫だから、ちょっと待ってて」

 真剣な顔のスクラは、目の前の壁に集中するように目を閉じてもう一度手をかざした。

 スクラが小さな声で呪文を紡ぐと、今度は音もなく壁の一部が下がり、隠し部屋が現れた。窓もない小部屋で全容は伺えないが、部屋の奥にぼんやりと白く光るものがあった。

「ルス イリア(小さな灯りよ)」

 スクラが懐から取り出した、小さな白木の丸い板に光球が浮かび、弱い光ながらも辺りが照らされる。

 石の壁がむき出しの部屋には書棚がいくつかあるほかは、式術を組むためと思われる作業机と、色々なものが収められている飾り棚という簡潔なものだった。

 その一番奥の飾り棚に、うっすらと光を放つ杯がある。両側に持ち手のついた脚付きの杯で、話によると媒体の結晶から削り出されているらしく、ガラスのように透き通っている。

「これがその杯だな」

 スパイルは両手でそっと持ち上げて眺めた。なめらかな表面に継ぎ目は見えず、一つの塊から削り出しているようだった。

「すごいね。こんな大きな陽晶石の塊なんて今じゃ見つからないだろうし、それを欠けさせないように加工するなんて。ただの芸術品として見ても相当なものだよ」

「術的にも価値のあるものなのか?」

「パッと見でも、かなりね。どうやったらこんな高濃度で錬気を詰められるのか、それを何百年も保ったままでいられるのか見当もつかない」

 スパイルから杯を丁重に受け取り、スクラは眺めながらため息を吐いた。スパイルはどちらの価値についてもあまり興味が湧かず、ただ、乱暴に扱えば割れてしまいそうで不安だという感想だけを持った。

「とにかく、これであの精霊を倒せるんだな」

「うん。急ごう」

 スクラにそのまま杯を預けて隠し部屋から出ると、リコルが古びたクローゼットの後ろを覗き込んでいた。

「何かあったのか?」

 スパイルが近づくと、リコルはうなずいてクローゼットの下を指差した。

「ここ、埃が風で飛ばされた跡があるの。たぶんこのクローゼットの後ろに隙間があって、風が吹き込むことがあるんだと思う」

 言うとおり、足元を見るとわずかながら埃の積もり方が不均等な場所がある。ためしにクローゼットを押してみると、見た目よりもかなり軽い材質で出来ているらしく難なく動かすことが出来た。クローゼットがあった場所の壁にはうっすらと継ぎ目が見て取れ、扉になっているようだった。

「隠し通路だな」

「へぇ、本当だ。確かに、この部屋は袋小路の一本道。守りの意味では警備しやすいだろうけれど、攻め込まれたら逃げ場がないもんね」

 扉を開け、中を覗くスクラに続き、リコルも下に続く暗い階段を覗き込んだ。

「どこに続いているんだろう」

「風が吹き込むってことは、外につながっている可能性は高いな」

「でも、目的地はあの儀式の間だし、この道はどこに繋がっているかわからないし……」

「避けるのが無難、か」

 隠し通路であるのだから、少なくともファルファレッタたちの襲撃からは逃れられそうだが、精霊の追撃を避けられるとは限らない。それに、ただでさえ不案内な城の中、道に迷うことも考えられた。

 スパイルはスクラと顔を見合わせるが、お互い同じ意見のようだった。

「来た道を引き返して儀式の間を目指した方が、確実だろうね」

 スクラの言葉にうなずき、部屋を後にした。

 あとは元来た道をたどり、儀式の間にたどり着けば問題の一つは解決する。油断はできないが、希望は見えてきた。

 もう少しで先ほど上ってきた階段が見えてくるというあたりで、スパイルは足を止めた。

「みーつけた」

 無邪気な少女の声に、スパイルは素早く銃を構えて引き金を引く。少女はひらりと身をかわし、怖気づきもせずに真っ直ぐ距離を詰めてくる。ボルトを引き、次の弾薬を込めてもう一度引き金を引くが、身を低くした少女に弾丸は当たらず、鉄扇で銃の先をはじかれる。スパイルは銃をはじかれるまま手放すと、ベルトに備えたナイフに持ち替えた。

 コーネリアに続いて階段からソフィアとファルファレッタが姿をあらわす。逃げられる道は一つしかなかった。

「スクラ! リコルとあの通路に急げ」

 コーネリアの鉄扇をナイフで受けつつ、スパイルは叫んだ。その横をソフィアが走り抜け、真っ直ぐにスクラに向かう。舌打ちをしてスパイルはソフィアを足止めしようとするが、コーネリアがその道を邪魔するようにひらひらと立ちまわった。

「……ァルファレッタ……が決まっ……すぐにもど……」

 雑音の混ざった声がかすかに聞こえ、コーネリアの攻撃の合間にスパイルがファルファレッタに目を向けると、彼女は消えそうに明滅する通信鳥と何やら口論している。

「指図なさらないで。今は大事なところですの」

「ヴェルメ……様を待たせ……か」

 その言葉にファルファレッタは眉を寄せて黙った。

 その時、金属が固いものをはじく音が辺りに響き、その場の者すべての視線を集めた。

 ソフィアの細い剣にはじかれ、スクラの手から杯が落ちる。リコルは身を投げ出して杯を受け取ろうと両手を伸ばした。

「あっ」

 ギンッと硬い音を立てて杯が床に落ち、持ち手や脚が折れて転がった。

 一瞬で背筋が凍るような動揺がスパイル達広がるが、声を出す間もなくソフィアの剣が再びスクラに振りかぶられる。

「おやめ」

 簡潔な一言は場のすべての動きを止めた。

「今日のところは引き上げますわ」

 苦々しげに言うが、ファルファレッタはあっさりと背を向け、コーネリアとソフィアもスパイル達に対する攻撃をやめると、さっと身を返してファルファレッタの後を追った。

「どういうつもりだ」

 スパイルは銃を構えてファルファレッタに向けるが、足を止めた彼女はつまらないものを見るように目線だけ向けた。

「貴方ごとき、わたくしにとっては些事だということですわ」

 ギリッと歯を食いしばり、引き金に掛けたスパイルの指に力がこもるが、コーネリアとソフィアがファルファレッタを守るように身を挺する。

 引き金を引いてもいいが、おそらくこの状況ではファルファレッタに当たることはないだろう。それに今優先すべきことはファルファレッタを倒したり、彼女から赤いトカゲの情報を聞きだすことではない。

「でも、またいずれ会いましょう。その時には、この世のすべての痛みと苦しみを施して差し上げますわ」

 クスクスと笑いながら階段を降り、視界からファルファレッタが消えてもその声だけはかすかに響いている気がした。

 赤いトカゲの事を知るであろう重要な人物を逃がしたことは悔しいが、今は幸運にも脅威が去ったことを喜ぶべきなのだろう。ようやく銃を下ろすと、額から冷たい汗が一筋流れた。

「リコル、スクラ、大丈夫か?」

 振り返ると、床には明らかに割れた杯がある。一つの脅威は去ったとはいえ、状況は最悪だ。

「生きてはいるけど……」

 歯切れの悪い言葉に、スパイルも掛ける言葉が無い。ふと視界の横を何かがよぎった。

 舌打ちをしてスクラたちの方へ走り出すと、後ろで何かがかすめる音がする。どこに潜んでいたのか、精霊のもやが鋭くスパイルの居た場所をかすめ、すぐに後を追いかけてくる。

 ――くそっ次から次へと……。

 杯の欠片を拾ったスクラは、リコルをかばいながら城主の間に入り、スパイルもそのあとを追った。

 ドアを閉め、手近な棚を押して扉をふさぐと、それと同時くらいに扉に何かがぶつかる衝撃が響いた。

「なんだかお怒りみたいだね」

「冗談言っていないで急ぐぞ」

 扉の隙間からは黒いもやがしみだしている。しばらくもしないうちに、形のない精霊ならば隙間を通って入ってくるだろう。

 どこに続くとも知れない隠し通路を一瞥し、一呼吸おいて三人はその階段を下った。

 石で作られた階段がずっと下に続いている。明り取りの窓は小さく、薄暗い闇の中をただひたすら下るしかなかった。

「スクラ、割れた杯でも術は発動するのか?」

 否という答えは聞きたくも無かったが、確認せずにはいられない。スパイルはスクラの手にある割れた杯を見た。

「……わからない。まだ、組まれた術そのものは残っているようだけれど……」

 正しく発動することを祈って賭けるしかないということだろう。スクラは最後までは言葉にしなかったが、スパイルもそれ以上訊ねなかった。

「階段は、ここで終わりみたい」

 リコルのつぶやいたとおり階段は終わり、道は二手に分かれていた。

「左の方の道は、少し空気が流れている。たぶん外に繋がっているんじゃないかな。外に出れば精霊は追ってこない。スパイルはリコルちゃんを連れて先に避難してて」

 そういうと、スクラはふらつきながら右の道へ行こうとする。

「スクラ、そんな状態で一人で行っちゃだめだよ!」

 薄暗い道に消えようとしていたスクラにリコルが駆け寄った。

「足手まといなのはわかるけど、見捨てるようなことは出来ないよ」

「大丈夫、大丈夫。後は俺だけで平気だから」

 泣きそうな顔ですがりつくリコルを説得しようとしゃがむスクラの背を、スパイルは軽くたたく。

「諦めろ。リコルは一回言い出したら聞かないからな。それに、これは俺の仕事でもある。最後までフォローするのは当たり前だ」

 その言葉で諦めたようにスクラは肩を落とすと、呆れたような笑みを浮かべて立ち上がった。

「もう、頑固な友人を持つと頭が痛いよ」

「腐れ縁だ。諦めろ」

 立ち上がったスクラの背を、急かすように後押しする。降参したように歩き出すスクラの後を、ちょっとだけ笑みを交わしたリコルとスパイルがついて行った。

 カビの匂いが仄かにする通路を進むと壁に突き当たったが、壁をよく見ると、腰よりも低い位置に錆びた取っ手がついている。長い間使われていなかったためか、なかなか動かなかったが、強く引くとにじり口のようなせまい出口になっていた。

 身を屈めて通路の外に出たスクラが辺りを見回す。

「運がいい。ここ、儀式の間を出てすぐのところみたいだね」

 順に外に出たリコルとスパイルもあたりをぐるりと見た。スクラの言葉通り、そこは儀式の間を出てすぐの広い廊下であり、リコルが合流し、ファルファレッタたちと衝突した場所だった。

「スパイル、来てる!」

 リコルの声に、隠し通路の出口に目をやると、黒いもやの影が見えた。

「急げ!」

 三人はほぼ同時に走り儀式の間に入ると、近くに立っていた燭台でかんぬきを掛けるように両開きの扉の取っ手を固定した。

 スパイルがソファーを引きずってなけなしのバリケードを作っている間、スクラはリコルを扉からも祭壇からも離れたところに連れて行った。そこの床に白い石の欠片で円を描き、式術の構成式を書き込んだ。

「気休めかもしれないけれど、防御の術を組んでおくから、リコルちゃんはスパイルと一緒にこの中にいて」

 スパイルが駆けつけると、円の中に二人をしゃがませたスクラは緊張した面持ちで呪文を紡いだ。石で描いた円がうっすらと光ると、スクラは顎に伝った汗をぬぐって祭壇の方へ走った。

 後はスクラが無事に精霊を消滅させる術をを発動させるだけだったが、二人は固唾を呑んで見つめた。杯は割れ、精霊は扉一枚隔てたところ。失敗すれば後は無い。ただ成功を祈るしかなかった。

 スクラが祭壇に割れた杯を置き、深呼吸して手をかざすと小さな声で呪文を紡ぎ始める。

 扉の隙間からは、ゆっくりとだが確実に精霊が侵入してきている。

 スクラの呪文に呼応するように杯は光を強め、広間の壁に刻まれた式も光り始めると、辺りに強い光が充ちる。

「……発動したか?」

 まぶしさに耐えながら目をこらしながらスクラを見るが、彼の表情は硬いままだ。扉の隙間からほぼ侵入を終えた精霊は、もやの形のまま苦しそうに漂っていたが、ゆっくりと獣の形を取り始めていた。

 失敗という言葉が頭をよぎる。

「スパイル……」

 リコルの声に目を向けると、彼女はマーガレットの指輪を握りしめて立ち上がった。

「スクラのところまで行きたいの。援護してくれる?」

「行ったからって、何ができる」

「分からない。でも何もしなかったらきっと失敗する」

 判断に残された猶予は無かった。リコルの真っ直ぐな目に、スパイルはうなずく。

「まっすぐ走れ。お前が通り過ぎたらあのシャンデリアを撃ち落とす。精霊の足止めになればいいが……」

 勝算は無かった。それでもリコルはうなずくとすぐに走り出した。

 防御の円陣から出たリコルに気が付いた精霊は、リコルに向かって走り出す。それに見向きもせずにリコルは祭壇に向かって走った。

「リコルちゃん、駄目だっ!」

 スクラが叫ぶが、彼女は立ち止まらない。

 スパイルは照準をシャンデリアを吊る鎖に合わせ、引き金を引いた。

 激しい音を立てて落ちるシャンデリアは、予想通り精霊の上に落ちた。が、精霊の足は止まらず、リコルの方へ駆けてゆく。

 ――効かないっ!

 心臓が凍りつく。あと数歩でリコルに影が触れる。

「くそっ、止まれぇっ!」

 スパイルが精霊を睨みつけ円陣から踏み出した瞬間、精霊の目線がスパイルに向く。

 右眼が熱を帯びた気がした。すると縫いつけられたように、精霊はスパイルと目を合わせたまま固まった。

 リコルがスクラの元にたどり着く。

「もう一度!」

 リコルがスクラと共に杯に手をかざすと、スクラは苦渋の表情のまま呪文を紡いだ。

 辺りの光は強さを増すと祭壇に収束し、ついには一条の光が精霊に向かって放たれた。咆哮のような絶叫のような音を響かせ、爆風が押し寄せる。

 それから数秒もしなかっただろう。辺りは不気味なほどに静寂をとりもどし、スパイルは伏せていた顔を上げた。

 光を失った杯。辺りに精霊の影は無い。

 終わったのだと胸をなでおろそうとした瞬間、祭壇に立つリコルがぐらりと傾いた。

「リコル!」

「リコルちゃん!」

 倒れそうになるリコルをスクラが支えるが、ぐったりとして立つことができない彼女をそっと床に寝かせた。スクラが手持ちの術符を取り出すが、どれも彼女のために使えそうに無いらしく、試そうと呪文を唱えるがジリッと鈍い音を立ててはじかれるばかりだった。

 駆け寄ったスパイルは、ただどうすることもできず傍らに膝をついた。苦しそうに眉を歪め、浅く息をするリコルの手を握る。冷たい小さな手に、スパイルの心臓も凍るように痛んだ。

「なんで……」

 先ほどの状況ではあれ以外の選択は無かっただろうし、リコルを引き止めたところで、式術は発動せず全員死んでいたかもしれない。しかし、こうなると分かっていたら、どうしていただろう。スパイルはそれ以上なにも考えられなかった。

「くそっ、また……守れないのか」

 スクラは触媒の結晶をかざして術を試みるが、これもはじかれ、怒りに任せて床を殴った。スクラの様子からすれば、もう打つ手がないらしい。

 ――うそ、だろ。

 胸が絞まり呼吸が震える。

「ごめんなさいっ……」

 足音も無く、割って入ったはマーガレットだった。彼女はリコルのそばに座り込むといつくしむようにその頬を撫でた。

「何故ここに……」

 スクラが目を見張ると、マーガレットは祭壇の上の割れた杯を見た。

「城に張り巡らされていた結界が解けたので、ようやっと入ることができたのです」

 マーガレットはハラハラと涙をこぼすが、その涙は床に落ちることなく頬から滴るとフッと霧散する。

「あれを止めていただき、本当にありがとうございました。大丈夫です。リコルさんは、私が助けます」

「助けるって……本当か!」

 藁にすがるように身を乗り出したスパイルに、マーガレットは真摯にうなずいた。

「リコルさんは、杯の代わりに触媒になってしまったのです。そのため、相殺しあった精霊の錬気にあてられてしまったのです」

「リコルちゃんが傍に来た瞬間、それまで収束していなかった錬気がまとまるのを感じた。術を続ければどうなるか想像はできたけど、退けなかったんだ……。息があるだけ奇跡だとしか」

 スクラは苦しそうに顔を歪め、こぶしを震わせてうつむいている。あの時、誰にも判断する時間は無かった。スパイルにも彼を責めることはできなかった。

「大丈夫。私が、すべて持って行きます」

 そういってリコルの身体に手をかざすと、マーガレットの手が淡い光に包まれ始めた。それと同時に、段々とリコルの顔から苦痛が無くなり、呼吸も静かに落ち着きを取り戻す。リコルが眠ったようになる頃には、マーガレットの全身が色を失い、うっすらと向こう側が透けて見えた。

 想像もしていなかった出来事に、スパイルは呆然とする。

「あんた……一体?」

 マーガレットはスパイルの問いに答えず、穏やかに微笑んで見せた。

「私、誰かを殺すことなんてしたくありませんでした。ずっと、人の幸せのために力を振るいたいと思っていました」

 彼女が立ち上がる、と言うよりフッと浮かぶと、もうほとんど姿は消えかかっていた。

「リコルさん。苦しめてしまってごめんなさい。それと、私とあの子を救ってくれてありがとう」

 わずかな余韻を残して、マーガレットの姿は宙に消えていた。

 残された二人は、安らかに眠る少女のかたわらで、しばし呆然と宙を見ていた。

「終わった、って……ことか?」

 呆気にとられたスパイルがポツリとつぶやく。

「そうだね……」

 スクラがようやく安堵の息を吐いて、リコルの顔を見た。それにつられ、スパイルも彼女を見る。

 穏やかなリコルの顔に、心の底から良かったという気持ちが溢れた。リコルをそっと抱き上げる。

「お前には色々と聞きたいことはあるが、まずは村まで帰るぞ」

 スパイルが立ち上がると、スクラも立とうとするが、ガクッと膝をついた。

「だ、大丈夫、大丈夫。ちょーっと疲れちゃっただけだから」

「……お前を担ぐ余裕は無いからな」

 スパイルはいつものように冷たく言い放つが、スクラも満身創痍である事が分かっていたため、歩みだけはゆっくりと彼の歩調に合わせた。




 村に着いたのは、日が暮れた頃だった。

 宿の部屋にリコルを寝かせると、ランプを灯した備え付けのテーブルにスパイルとスクラは腰を落ち着けた。

 宿で用意してもらったワルトア酒と固焼きパンのマイツをテーブルに置く。

「で、結局マーガレットは何者だったんだ」

 スパイルはスクラを睨みながら訊ねる。

 マーガレットが消えるとき、スクラはそれほど驚いていなかった。と言うよりは、これで良かったのかと納得した風ですらあった。人間だと思っていた者がいきなり消えたのに、その反応はどうにもおかしい。

 スクラは注がれたワルトアを飲みながら目を逸らした。

「まあ、言っても信じてもらえないだろうから、言わなかったというか……。今回の仕事には直接影響無いし?」

「そんなことを訊いてはいないだろ。何者だって言う話をしているんだが?」

 スパイルも酒を煽りながらジッとスクラを睨む。スクラは降参したように肩を竦めると、「俺自身も半分信じていなかったけど」と前置きして語り始めた。

「ミス・マーガレット・ハリアネスは、二百年前に滅んだハリアネス家最後の当主本人だよ」

「二百年って……人間なんだろ?」

「正真正銘のね。ただ、なんていうか、幽霊ってやつだったんだろうね」

 その言葉に、スパイルは頭の中で色々と繋がるのを感じた。深い森に閉ざされた古い城。ボロボロの肖像画。本当に長い時間が流れていたのだ。

「おそらく精霊に近いモノだったんじゃないかな。そう考えれば、封印の施された城に入れなかったのも理解できる」

 確かに、彼女は城に入ることができないと言っていた。精霊を外に出さないための仕組みなら、外から精霊が入れないというのも分かる気がする。

「ちょっとハリアネス家のことも調べたんだけど、最後は当主が城の外で暗殺され、それからすぐに衰退したらしい。その時、ハリアネス家には女性がいなかった。きっと、ミス・マーガレットを失って、精霊が抑えられなくなったんだろう」

「マーガレットは、殺されてずっと城の周りを……。二百年も、か」

 到底想像できない時間だった。スクラの他にも誰か精霊をとめてくれるよう頼んだに違いない。その度に帰る者は無く、彼女もどれだけ苦しんだことだろう。

「そういえば、俺も聞きたいんだけどさ。リコルちゃんが俺のところに走ってきているとき、シャンデリアでの精霊の足止め、失敗していたよね?」

 それはスパイル自身も疑問だった。間に合わないと思って、無我夢中で叫んだのだ。

「分からない。ただ、右目が熱くなっていたから……目の、力だったのか」

 目が合った瞬間、精霊が石化したように動くのをやめたのだ。何かしらの力が働いたのか、それとも精霊の気まぐれだったのか、今となっては知る方法がない。

 スパイルは右目をそっと押さえる。痛みは無い。

 ふと、ベッドで眠るリコルに目をやる。どんな理由であれ、彼女が無事でよかったと心から思った。

「リコルちゃん、早く起きるといいね」

 スパイルの目線を追ったスクラが、小さく笑いながら声を掛けてくる。

「そうだな……」

 そう応えながら、仕事が終わったらリコルが旅を続けるか返事を聞くことになっていた事を思い出した。

 リコルが目を覚ました後の事を想像する。彼女はどんな結論を出すだろうか。きっとまた、晴れた空のような青灰色の目を輝かせて、スパイルの事を振り回すのだ。

「あいつが『何もできない』なんて、嘘だな」

 スパイルはフッと笑みを浮かべてワルトアのグラスを傾ける。

「そうだね」

 スクラも笑いながらうなずく。

 穏やかなランプの灯りに包まれ、夜は静かに更けていった。


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