第六話 スプレー
アキラは、頭を悩ませていた。
それは、スプレー瓶の再現についてである。
というのも、ダニ除けだけではなく、屋敷の周りにいる蚊やアブ、ブユ(ブヨ)にも忌避効果があったので、屋敷で働いている者たちがこぞって欲しがったのだ。
そうなると、十分な量を1人1人に行き渡らせるためにも、無駄使いは避けなければならないだろう。
虫除け液をハンカチに付けて拭くというやり方だとロスが多い。つまりハンカチが虫除け液の大半を吸ってしまうからだ。
「うーん、どうしようかな」
簡単に作れそうな構造の霧吹きといえば、『ベンチュリ効果』を利用したものだ。
液体を入れた容器に、垂直にストローのような細い管を立てる。
そして、その管に対し垂直になる……つまり、今度は水平になるように細い管を配置する、
その細い管を口にくわえて強く吹く。
この時、垂直に立てた管の上を高速の気流が流れることで管内の圧力が下がり、管の中を液体が上ってくることになる。
そして強い気流に吹き散らされ、霧になるのだ。
「だけどなあ……」
アイロン掛け用の霧吹きに使うにはいいのだが、虫除け液を『自分に』向けて吹き付けるには向かない。
口にくわえて吹く代わりに、ゴム製の球を取り付け、それを『ふいご』にして使う方法もあるが、ゴム球をうまく作れるかどうか。ゴムという素材があるのかどうか、だ。
「あとは『ささら』か……」
『ささら』とは、竹で作った洗浄用の器具である。
一本一本は1ミリくらいの太さの竹ひごを束ねたものだ。
その先端で食器や洗濯物を擦って汚れを落とすのだが、水を含ませておいてからそれを振って水滴を飛ばす、という用途にも使われる。
アキラはこれを使って虫除け液を振りかけられないかと考えたのだ。
「でも、イマイチ、かな……うーん」
そこで頭に浮かんだのは、香水である。香水もまた、香りを身に纏うための液体であるのだから。
「香水って、どうやって付けているんだろう?」
こういう時のミチア頼みということで、洗濯物をしている彼女に聞いてみることにした。
「香水の付け方、ですか? 一滴二滴掌に垂らして、耳たぶやうなじに付けるんです」
ミチアはさらに、香水を付けたての香りをトップ・ノート、少し経った時の香りをミドル・ノート、大分時間が経って消えてしまうまでの香りをラスト・ノートという、と教えてくれた。
「なるほど」
トップ・ノートやミドル・ノートの方は、悪いがどうでもよかったが、付け方は少し参考になった。
「小瓶に入れて、振りかけるように出す手もあるな」
「あ、虫除けですか?」
「うん。無駄なく付けるにはどうしようかと思ってさ」
「そうですねえ……お互いに塗りあったらどうでしょうか?」
「え?」
アキラは目から鱗が落ちる思いであった。
「そうか、お互いに……」
つまり、自分で自分に付ける必要がある場合のみ、布なり掌なりに少量出して付けておけばいいわけだ。
「よし」
アキラは『ベンチュリ効果』についてと霧吹きのスケッチを紙に書き、急いでハルトヴィヒのところへ向かった。
「ふうん、これで霧吹きになるのか。よし、任せろ」
ハルトヴィヒはすぐ製作に取り掛かってくれた。
その日の夕方には試作品が2つできあがったのである。
「先端のノズル形状を変えてみた。水で試したけど、どちらも霧にはなる。広がり方が違うから、どちらがいいかな」
「おお、ありがとう」
片方は30度くらいに広がる霧、もう片方は90度くらいに広がる霧だった。
「うーん……虫除けはこっちの方がいいだろうな」
アキラは30度くらいに広がる霧吹きがいい、と言った。
「こっちの広がる方は、アイロン掛けに使えるんじゃないのかな?」
そばで見ていたミチアを振り向き、聞いてみると、
「あ、そうですね。アイロンで火のしを掛ける時にいいかもしれません」
との答えが返ってきた。
洗濯物のしわを伸ばすために火のし、つまりアイロン掛けをしているのだが、この時僅かに湿らせてやるとしわがよく伸びるのである。
蛇足だが、生乾きの洗濯物では、アイロンの熱が奪われすぎて効率が悪い。
「よし、これなら使える! ハルト、さすがだな!」
アキラは礼を述べた。
だが、それに留まらず、
「このノズルを可変できないものかな?」
とも追加要求を出した。
アキラの知る霧吹きは、皆そうした調整が利くからだ。
「そうだな……ネジを切って、回すことでノズルを前後させてみたらどうだろう?」
とも助言してみる。
「うーん、それだけじゃ無理だろうな……でも、考えてみよう。面白そうじゃないか」
とハルトヴィヒは請け合ってくれたのである。
そして、とりあえず30度で吹き出す霧吹きを、虫除けスプレー用としたアキラであった。
「これ、便利ですね!」
「手に匂いが付かないのがいいです!」
スプレー式はとりあえず好評だった。
そして90度で吹き出す霧吹きも、
「アキラさん、洗濯物の仕上げが楽になりました!」
とミチアから絶賛されたのである。
* * *
そして2日後。
アキラが新たな『染め』の材料としてマリーゴールドの花を試そうかと考えていた時、
「アキラ! できたぞ!」
と、ハルトヴィヒが新型霧吹きを持ってきた。
「ノズルの中に針を仕込み、先端の穴との隙間をネジで調節したんだ!」
「すごいぞ、ハルト!」
アキラも絶賛する仕事ぶりであった。
この霧吹きは、さっそく前侯爵に報告された。
「ほほう、これはいい」
フィルマン前侯爵はこの霧吹きを絶賛した。
「いろいろ応用が利くと思います」
「うむ、ご苦労だった」
前侯爵の前を辞したアキラは、ハルトヴィヒと共にリーゼロッテの研究室を訪れた。
「あら、お揃いでどうしたの?」
「うん、『ゴム』というものを知らないか聞きに来たんだ」
「『ゴム』ねえ……」
リーゼロッテは考え込んだ。
「聞いたことがある気はするけど、ずっと南の方の植物じゃなかったかしら?」
「樹液を利用するって聞いたことないか?」
「それはないわねえ」
「そうか……」
リーゼロッテが知らないというなら、当面どうにもならないと、肩を落としたアキラであった。
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次回更新は3月23日(土)10:00の予定です。




