第二十四話 郷愁
『シルクマスター』となったアキラであったが。
「ええと、蜜蝋に少し香料を混ぜて……」
「香料は柑橘系やバラ、ラベンダーなどもよさそうですわね」
『蔦屋敷』に帰る前に、技術移管をしてほしいと頼まれ、忙しい毎日を送っている。
この日は『香料入りハンドクリーム』と『蜂蜜入りリップクリーム』の製法を技術者に教えていた。
その技術者というのが、全員女性なので、アキラは少々やりづらかったりする。
みな若くて溌剌としており、試しに作って見せたサンプルを手だけでなく首筋から胸にかけて塗ってみせるものだから、アキラとしても目のやり場に困ってしまうわけだ。
今日来ているのは2人。
20代半ばに見える女性たちで、『合成物研究室』という部署に勤めている。
『合成物研究室』は、『錬金術研究室』と言っていたのだが、150年ほど前にいた『異邦人』が錬金術と言うより化学合成だろう、ということを言ったため、今の名称になったという。
(リーゼロッテは『魔法薬師』と言っていたな……まだ名称は統一されていないのか……)
ゲルマンス帝国と、ここガーリア王国とで呼び方が異なるのだな、とアキラは考えていた。
「アキラ様、どうかなさいましたか?」
『合成物研究室』から来ている1人、ミレーヌ・デュプレ。栗色の髪をポニーテールにまとめた小柄な女性だ。
「あ、ああ、済みません。ちょっと考えごとを……」
「ふふ、今は私たちとお仕事しているんですから、他のこと考えていらしたら嫌ですわ?」
「ご、ごめんなさい」
「……」
そして、ミチアの目がだんだんとジト目になってきていることに気が付いていないアキラ。
「配合比はこれで決まっていますので、大きく変えたりはしないでください」
「わかりましたわ。……こちらのリップクリームですけど、色は付けてはいけないのでしょうか?」
そう尋ねたのはもう1人の研究員、エレーヌ・ソワイエ。こちらは長い金髪をシニヨンにまとめている。
「口紅も兼ねる、ということでしょうか?」
「そうです」
「その確認はしたことがありませんね」
正直に答えるアキラ。
「ですが、おそらくは可能でしょう」
と、ここで、1つ気になることを思い付いた。
「あの、ええと、今現在使われている色素……といいますか、『色の素』では、毒性を確認しているんでしょうか?」
フォンテンブロー伯爵のところでも尋ねたが、白粉の白には何を使っているのか、気になったアキラであった。
「毒性ですか? ええ。全てではないですが、人体に影響のありそうなものはだいたい確認されています」
エレーヌ・ソワイエからの返答は、アキラをほっとさせた。
「それはよかった」
ここでアキラは、フォンテンブロー伯爵のところで話したことをもう一度説明した。
「鉛が毒になるということは、薄々気が付かれていました。それで、白粉とワインについての使用は厳禁となっております」
だが、一部の絵の具には使われている、ということだった。
「絵の具なら、まあ……」
ほっとしたアキラであるが、もう一つの危険性を確認する。
「それでは、水銀は? ……特に赤い色素としてですが」
「水銀? 猛毒の金属ね」
その言葉を聞いただけで、この世界でも水銀の毒性は知られていることがわかる。
無機水銀である『水銀朱』は、天然のものは『辰砂』とも呼ばれる。
化学的には硫化水銀、HgSである。
そのままでは毒性は低いか、まったく示さないが、加熱すると水銀蒸気を発生するので危険となる。
古来、朱漆の朱は、ほとんどがこれであり、朱漆を塗ったお椀で食事をしても水銀中毒が発生していないことからも、人体への影響がない、あるいはほとんどないことがわかる。
蛇足だが、古くなった水銀朱塗りのお椀を焼却すると、微量だが水銀蒸気が発生するので危険である、と、とある漆職人が警告している。
さらなる蛇足だが、大きなゴミ焼却施設では、発生した水銀蒸気(微量)を吸着する設備を持っているらしい。
「そういう認識でしたら、ここで言うことはありませんね」
さすがに、有機水銀と無機水銀について講義を始められるほど詳しくはないアキラであった。
水銀の毒性についての認識があることがわかればこの場はよしと判断したのである。
(あとで文書にしてまとめておこう)
ただし、より正確な情報は伝えておこうとアキラは心に決めた。
(おそらくミチアは覚えていてくれているはずだし)
そのミチアは現在進行形でアキラをジト目で見つめているのであるが……。
* * *
「ふう、今日の分は終わった」
ミレーヌとエレーヌが帰った後、アキラは疲れた顔でソファにもたれていた。
「……お疲れ様です、アキラさん」
そこへ、ミチアがお茶を差し出す。
「ありがとう。……ああ、桑の葉茶か」
「はい、疲れた時にはいいかと思いまして」
アキラはそれを一口飲んで、
「ああ、懐かしい味だな。……『蔦屋敷』を思い出す」
自然に囲まれた生活が懐かしくなったアキラである。
ここ王都に来てからというもの、豪華ではあるが石造りの壁に囲まれた毎日は、神経を磨り減らすものだったのだ。
「……すっかり、あそこの生活が身に付いていたんだなあ」
『神隠し』でこの世界に来てしまい、帰れそうもないとわかっている今、『蔦屋敷』のあるリオン地方が第2の故郷となりつつあるアキラであった。
「ふふ、私も、あそこに帰りたいです」
「だよなあ」
山々の緑、草原に咲く花、麦の匂い。
共に苦労した友人と配下たち。
「懐かしいな」
「もうすぐ、帰れますよ」
「そうだな」
ここ王都で技術移管をしてきたが、今回のリップクリームとハンドクリームで終了なのだ。
「帰るともう春だな」
「そうですね、いい季節になっているでしょう」
アキラは郷愁を覚えていた。
「そういえば、養蚕の方針が決まったそうですね」
「ああ、そうなんだ。王都から将来の指導者候補を数人、我々が帰る時一緒に『蔦屋敷』へ派遣して、1年ほど仕事を覚えさせるらしい」
要するに、アキラが『幹部候補生』を育てたのと同じやり方だ。
「学問に王道なし、って言うからな」
物事を学ぶのに近道はない、というような意味である。
で、その言葉を聞いたミチアが疑問を呈した。
「王様って、楽なんですか?」
「さあ?」
あまり楽とも思えないが、貧しい庶民よりは楽をしているようにも思える。
「王様はすぐそばにいるけど、聞いてみるわけにもいかないしな。……はは」
「ふふ、そうですね」
2人は声を揃えて笑った。
王都に吹く風は春を感じさせ始めていた。
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次回更新は2月9日(土)10:00の予定です。




