第九話 繭
虫が嫌いな方はご注意下さい。本格的に出てきます。
アキラは毎日蚕の様子を観察していた。
今のところ成長は順調なようだ。
一番心配なのは病気だ。
まったく異なる世界なので何があるかわからない。
ウィルス、細菌、糸状菌、微粒子病など、蚕の病気の元は多い。
かかってしまったら最後、処分するしかないのだ。
特に微粒子病は十九世紀のヨーロッパで蔓延し、彼の地の養蚕業を壊滅させかけた恐ろしい病である。
だが、アキラの蚕たちは今のところまったく問題なく成長を続けてくれている。
現在は4齢。
4齢幼虫は『壮蚕』ともいい、体も白くなって呼吸器である気門や身体にある半月紋がよく分かるようになる。
半月紋は品種によって異なり、紋のない種類から、さまざまな形の紋を持つ品種まである。
小石丸という品種は、日本古来の蚕で、皇居の御養蚕所における皇后御親蚕に用いられる品種であり、非常に細く上質の糸を産する種類だ。
他にも『多星紋』という、背中に2列の三日月のような紋がある品種や、黒い身体に白い縞模様が入っている『黒縞』という品種もある。
『ピュアマイソール』という品種は東南アジア系で暑さ、病気に強いと言う特徴がある。
だが、アキラが育てている品種については、実はよくわかっていなかったりする。
品種改良を加えられたスタンダードな種類らしいということだけ。さらに病気に強く、丈夫らしい。
因みに、交雑種の場合は世代を重ねると親の性質が出てきてしまい、バラバラな品種となってしまうので、そういった蚕はあまり飼育はされていない。
今、4齢の幼虫たちは無心に桑の葉を食べていた。
「思ったより食べないんですね」
覗き込んだミチアが言った。彼女は蚕が『眠』以外の時は毎日新鮮な桑の葉を取ってきてくれている。
これまで、雨にあった葉は萎れやすいなどのトラブルもあったが、今では桑の葉採りはミチアの担当になっていた。
そもそも、ミチア以外のメイド3人はキャーキャー言って蚕に近付かないのだ。
「いやいや、これからが本番なんだ」
研究室で数回飼育を経験しているアキラが言った。
「そうなんですか?」
「ああ、そうなんだ。このあと4日くらいで終齢幼虫になるんだが、そうなると繭を作ってサナギになるために今までの倍以上食べるようになるんだ。もちろん大きく成長するということもあるけど、一生で食べる8割以上を食べるんだよ」
「ええーっ!」
さすがに驚くミチア。
「だから、もう少ししたらたくさん葉を取って来てもらわないとな」
「はい、それはお任せください!」
ミチアはのんびりと桑の葉をはむ蚕を見つめながら言った。
そして4日後、幼虫は最後の『眠』に入った。
* * *
2日後、脱皮が始まる。
脱皮した終齢(5齢)幼虫は、皮膚が固まるまでじっとしているが、その後旺盛な食欲を見せた。
その間、約1週間。
しょりしょりしょりしょりと、蚕が桑の葉を食べる音が小屋の中に響いている。
「ほ、ほんとによく食べますね」
ミチアが目を丸くした。
朝、山盛りに与えた桑の葉が、半日で食べ尽くされてしまうほどだ。
糞の量も多くなるので、アキラたちは毎日掃除を行う。病気予防のためである。
蚕は桑の葉しか食べないので、糞も不潔なものではない。
蚕の糞は蚕糞、あるいは蚕糞と呼ばれ、蛋白質や炭水化物が含まれ、そのまま家畜の飼料や肥料になるほどだ。
また、漢方では『蚕沙』といい、水でといて患部に塗ると切り傷に効くという。
クロロフィル(葉緑素)が含まれているので、その昔は化粧品の原料になったともいう。
ただ、ここ侯爵家別荘では家畜を飼育していないので、今は畑に撒いていた。
1週間食べ続けた幼虫は、4齢の3倍にもなっている。
「あ、なんだか身体が透けていますね」
桑の葉を取って来たミチアが言った。
「ああ……もう熟蚕になったんだな」
「熟蚕ですか?」
「うん。こうなるともう葉は食べなくなるよ。ミチア、毎日ご苦労さま」
「い、いいえ」
少し照れたミチアは、飼育箱の中の蚕を見た。
「いよいよ『蔟』の出番だな」
「あ、アキラさんが以前準備していたあれですね?」
「うん」
セヴランに頼んで作ってもらった蔟。
深さ40ミリメートル、縦横が30ミリメートル×45ミリメートルほどの格子状のマスがたくさん連なったものだ。障子の目のようにも見える。
「これを立てかけておくと、蚕は気に入ったマスに入って繭を作るんだ。だいたいは上の方に行くな」
「そうなんですか?」
「うん。だから、蚕が多い時は『回転蔟』といって、重さでひっくり返るようにしたものもあるんだよ」
アキラの説明に、ミチアはピンと来たようだ。
「ああ、上の方に集まると、重くなるからくるんとひっくり返るんですね?」
「そういうこと」
アキラは笑った。
そして、昼食を摂ってから小屋を覗いてみると、気の早い数匹が蔟に入っていた。
「あら、下が濡れていますね」
「ああ、それは繭を作る前に尿をして身体を軽くするんだ」
「え、これって蚕のおしっこですか?」
「うん、繭を汚さないために出していくらしい」
「賢いんですね」
2人が見ていると、蚕は蔟の枠の中で身体を動かし、支えるための足場を作っている。
蚕は、足場が固定できるところなら、大抵のところで繭を作るという。
今回作ったような枠でなくとも、紙筒でも作ることがあるようだ。
「桑の葉も明日くらいで終わりかな」
「繭、楽しみですね」
* * *
そして翌日、最後の桑くれを行った。
もう既に幾つか繭ができている。
「アキラさんが言うように、上の方に作ってますね」
だが、一番上というわけでもない。何か人間にはわからない選考基準があるのだろう。
夕方には、もう桑の葉を食べる個体もいなくなり、皆、蔟へと登っていった。
そして翌朝、ほとんどの蚕は繭を作り終えていたのである。
「ほほう、これが繭か。綺麗な色艶をしているのだな」
繭ができたと聞いて、フィルマン・アレオン・ド・ルミエ前侯爵も見学に来ていた。
「本来なら、この繭をほぐして糸にするのですが、今回は繁殖が目的なので何もしません」
「うむ。この繭1個で、どのくらいの糸が採れるのだ?」
「1300メートルから1500メートルと言われています」
「なに、そんなにか!」
3個分を繋げたら富士山の高さを遙かに超えてしまう。自然の神秘といえた。
いま、およそ100個の繭は、静かに羽化の時を待っている。
いつもお読みいただきありがとうございます。
次の更新は2月24日(土)予定です。
20190105 修正
(誤)他にも『多星紋』という、背中に2列の三日月のうような紋がある品種や
(正)他にも『多星紋』という、背中に2列の三日月のような紋がある品種や
20190531 修正
(誤)だが、アキラが育てているに品種については、実はよくわかっていなかったりする。
(正)だが、アキラが育てている品種については、実はよくわかっていなかったりする。
(旧)「うん。こうなるともう葉は食べなくなるよ。ミチア、毎日ご苦労さんだったね」
(新)「うん。こうなるともう葉は食べなくなるよ。ミチア、毎日ご苦労さま」