第十二話 鉛毒
ワインは、地球では最も古くから作られている酒だと言われている。
ブドウを樽で貯蔵していたら発酵してワインができていた……などという伝説はさておき、原料が自然にあるものなので作りやすい。
2番目に古い酒と言われるビール(エール)は、原料が大麦なので、これは農耕が行われるようになってからの酒であろう。
それはさておき、『甘い』ワインということで、アキラは『鉛毒』を心配したのであった。
元々、ワインは管理が悪いと発酵が進み、酸っぱくなってくる。酢酸発酵のためである。
ざっくりいうと、これを積極的に利用したのがワインビネガーやバルサミコ酢である。
一般に、酸っぱいワインはあまり好まれないので、保存方法の工夫や酸っぱくなったワインに甘味を加えてやる飲み方もいろいろ研究された。
古代ローマでは、『ワインの防腐のために濃縮グレープシロップを加える』ということをしたらしい。
このシロップを作る際、鉛でコーティングされた鍋で煮たため、鉛が溶け出していたとも言われる。
また、『鉛のジョッキでワインを飲む』ということも行われていた。
鉛は加工しやすく、また腐食しにくいので使いやすかったのであろう。
そのため、鉛を大量に摂取してしまい、健康を害した者が多かったと言われている。
さらに、あろうことか『酢酸鉛』を添加することもやっていたようだ。
人類最初の人工甘味料は『酢酸鉛』であるとも言われているほど甘いが、毒物である。
このため、ローマ帝国の帝王『ネロ』は、即位後鉛中毒になって脳をやられ『暴君』になった、という説もあるほどだ。
前置きが長くなったが、アキラが心配しているのはそんな『鉛中毒』なのである。
「『鉛毒』? アキラ殿、それは何だね?」
上座に着いていたフィルマン前侯爵はワインを飲む手を止めて尋ねた。
アキラは意を決して告げる。
「一言で言いますと、鉛には毒性がありますので、口にしてはいけないと言うことです」
これに驚いたのはフォンテンブロー伯爵だった。
「なんだと!? ……アキラ殿、いったいどういうことだね?」
「はい。これからご説明させていただきますが、よろしいでしょうか?」
ワインを注いで、さあ乾杯、というところでアキラが『鉛毒』と言いだしたため、そこで止まっているのだ。
普通なら巫山戯るな、と言われるところであるが、フィルマン前侯爵はアキラのただならぬ様子を感じ取り、
「アキラ殿、手短に済ませてもらえるなら、今すぐ説明を頼む」
と許可をくれたのである。
「ありがとうございます。ええと、鉛は使いやすい金属ですのでいろいろなところに使っているかと思いますが、毒性がありますので、口に入るものに使うのは即刻止めた方がいいです」
まず結論を述べ、次にアキラはどうなるかを説明しようと思ったのだが、『鉛中毒』がどんな症状を引き起こすか、までは覚えていなかった。
そしてこういう時のための『携通』も手元にはない。
どうしようかと考え込んだアキラに代わって、後ろに控えていたミチアが口を開いた。
「アキラ『様』、私からご説明させていただいてよろしいでしょうか?」
侍女としての態度でミチアはアキラに確認を取った。
「あ、ああ、頼む、ミチア」
「はい。……鉛による中毒症状には、慢性ですと注意力が散漫になったり、知能の低下がみられたり、慢性腎炎や痛風として現れることが多いようです」
ミチアは『携通』からの情報を筆写する際に、その内容をあらかた記憶していたのである。
「急性中毒になりますと、激しい腹痛 、末梢神経炎、急性脳症、貧血などの症状が現れます」
ここでアキラも思い出した内容を補足する。
「酸味の強いワインには、酢酸が含まれていることが多いのですが、これが酸化鉛……空気にさらされていた鉛と反応すると、『酢酸鉛』となって、甘い、けれども毒性のある物質となるんです」
鉛蓄電池の電極を作る際にいろいろ調べていたことが役に立った。
ちなみに、フィルマン前侯爵領では、鉛は使われていないことを確認済みである。同様に、飲まれているワインも検査済み。
アキラは当時、ハルトヴィヒやリーゼロッテらと調べて回り、鉛が見つからなかった時はほっとしたものだった。
「ううむ……由々しきことだ」
フォンテンブロー伯爵は難しい顔になった。
「心当たりがあるのか?」
というフィルマン前侯爵の問いに、難しい顔で頷くフォンテンブロー伯爵。
「我が領内で作られているワインは鉛とは無関係だと思うが、早速調査させよう。だが……」
「もしや、王都で何かあるのか?」
言い淀んだフォンテンブロー伯爵に、フィルマン前侯爵が尋ねた。
「……うむ、そうなんだ。ワインの保存に鉛の容器を使っていると聞いている」
そうするとワインが酸っぱくならず、むしろ甘くなる、ということなのだそうだ。
「いつからなのだ?」
「2年ほど前だったと思う。ゲルマンス帝国からもたらされた技術だと聞いた」
「何!?」
それを聞いたフィルマン前侯爵は顔を顰めた。
「まさかとは思うが、帝国の陰謀ではあるまいな……」
ガーリア王国の現国王が甘いワインが好きなことを利用して、鉛中毒にしてしまおうという思惑があるのでは? ということだ。
「さすがにそれはないと思いたいがな」
だが、裏がないとすればゲルマンス帝国でも同じようにワインを鉛の容器で保存しているということになり、それはすなわち彼の国のワインには鉛が含まれているということになる。
「……ミチア、過去の事例は何か覚えているか?」
アキラは、鉛毒、鉛中毒を調べた際に、古代ローマ帝国で起きた悲劇も幾つか載っていたことを思い出した。ただ、内容は覚えていないのでミチアを頼ったのである。
「はい、アキラ様。……ローマ帝国の『ネロ』は、即位後に鉛中毒になって脳をやられ『暴君』になった、という説が載っておりました」
「……お聞きのとおりです。為政者が鉛中毒になったため、名君と言われていた王が暴君となって残虐の限りを尽くしたということです」
ネロが暴君になった理由についてはいろいろ説があるのだが、アキラは鉛毒の恐ろしさを理解してもらうため、断定的な物言いをしたのである。
「ううむ……恐ろしいな」
「これは早急に王都へ行って陛下に確認せねばならぬな」
フォンテンブロー伯爵とフィルマン前侯爵は顔を見合わせ、頷きあった。
「そのとおりだ。……おい、ワインは下げろ。残念だが今夜はワイン抜きで晩餐会としよう」
そういえば夕食前だった、とアキラは今更ながら気が付く。
そして少し遅れた晩餐会が始まったのである。
ワインがなくとも、十分以上に美味しい料理であった。
「ミチア、助かったよ」
アキラは小声でミチアに礼を言った。
「いえ、お役に立ててよかったです」
「だけど、よく覚えていてくれたな」
「偶然です」
そう言ってミチアは笑った。
そんな彼女を、フォンテンブロー伯爵はじっと見つめており、隣に座るフィルマン前侯爵にそっと尋ねる。
「おい、アキラ殿に付いている侍女だが、あれはもしかしてフォーレの娘ではないのか?」
「そのとおりだ。ミチアという。儂が引き取って面倒を見ているのさ」
「なるほど。……母親によく似ているなあ」
そう呟いたフォンテンブロー伯爵の声は、慈しみに溢れたものだった。
「貴様も『彼女』のことを忘れられないのなら、ミチアに目を掛けてやってくれ」
「うむ、承知した」
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