第八話 飼育
虫が嫌いな方はご注意下さい。本格的に動き出します。
蚕が孵化してから3日が経った。
「アキラさん、大変です!」
顔を洗っていたアキラのところへ、血相を変えたミチアが駆け寄ってきた。
「ど、どうしたんだ?」
「毛蚕が、毛蚕が……!」
「な、何かあったのか!?」
顔を拭くのも忘れ、水を滴らせながらアキラはミチアに手を引かれるまま走りだした。
「ぜんぜん動かなくなっちゃったんです! 桑の葉も食べないし……」
病気じゃないですか、と急き込んで言うミチアと共に、アキラは『蚕室』である倉庫へと向かった。
「……ああ、これは」
「ね? 動かないでしょう? 毛も抜けちゃってるし……私、何かいけないことをしたんでしょうか? 違う葉っぱ持ってきちゃったとか……」
黒っぽい毛虫だった幼虫は、その毛もほとんど抜け落ちていた。
「大丈夫」
泣きそうな顔をしたミチアを安心させるように、アキラは微笑みかけた。
「これは『眠』っていって、脱皮の準備をしているんだよ」
「み……みん、ですか?」
「そう。前にも言ったような気がするけど、昆虫は皮膚が鎧の役目をしているんだ。だから、中身が大きくなろうとする時には『着替え』をしないといけないんだよ」
ミチアにもわかりやすいように、言葉を選びながらアキラは説明をしていく。
「着替え、ですか」
「そう。と言っても、人間みたいに着替えを外から持ってくるんじゃない、『中』で用意しているんだ。だから動かなくなっているのさ」
それを聞いたミチアの顔に、安堵の色が広がった。
「じゃあ、大丈夫なんですね?」
アキラは大きく頷いて見せた。
「うん、大丈夫。1眠だと多分丸1日こうやってじっとしていて、それから皮を脱ぎ始めるはずだ」
「よかったぁ……」
心底ほっとした、といったミチアの肩を、アキラはぽんと叩いた。
「心配してくれて、ありがとう」
「い、いいえ! わ、私、アキラさんと一緒にこの『蚕』を飼育しているんですから!」
そう言ってからミチアはアキラに向かい、
「これからもいろいろ教えてくださいね!」
と言ってぺこりと頭を下げた。そして、
「あ、朝食の仕度ですね! ちょっと待っててください!」
と言って、ばたばたと足早に駆けていくのであった。
そんな彼女の後ろ姿を、微笑ましく見つめるアキラであった。
* * *
朝食後、アキラは屋敷の主人であるフィルマン・アレオン・ド・ルミエ前侯爵に呼び出された。セヴランとミチアも一緒だ。
「アキラ殿、どうだね、ここの暮らしは?」
「はい、おかげさまで大分慣れました」
「それはよかった。……セヴランから聞いたが、順調なようだな?」
「はい。今朝、蚕は『1眠』に入りました」
「いちみん?」
アキラはここでも、『養蚕』と蚕の一生について簡単な説明をしていく。
「ふむなるほど、それではもうすぐ皮を脱いで一回り大きく成長する、というわけだな?」
「はい」
「それは楽しみだ。今度見に行ってもいいかね?」
「もちろんです。どうぞいらしてください」
その他にもアキラは幾つかの質問を受けた。主に生活環境についてである。
「アキラ殿がいた世界は進んでいるという話だが、この屋敷を見てどう思うかね?」
「そうですね……」
一番アキラが気になったのは衛生面だ。
「トイレの屎尿処理が気になっています。今は地下浸透式だと思うのですが、これですと長い間には井戸水が汚染されてしまうのではないかと」
「ふむ。……それは地の精霊の力で浄化されるのではないかな?」
『地の精霊』。アキラはその単語を聞いて、ああ、と思った。
ここは魔法があるという世界。そのため、地の精霊、などという存在もいるかもしれないのだ。
ゆえに、一概に迷信と決めつけるのはよくない、と思ったアキラである。
「ええと……」
ここ数日、暇な時にいろいろと自分なりに考察していたことを、アキラは口にする。
「地の精霊の力も、汚れが多すぎますと浄化が間に合わなくなると思います。それに、地の精霊に頼り切ってしまうのもよくないことかと」
「ふうむ。……ならば、『地の精霊石』を使うことにするか」
「『地の精霊石』、ですか?」
初めて耳にする単語に、オウム返しに聞き直してしまうアキラ。
「うむ。腐敗した地を浄化してくれる働きがある。それなりに高価だが、手に入らないようなものではない。出入りの商人に申しつけておこう」
「恐れ入ります。そうした配慮により、引いてはお屋敷の皆さんの健康管理にも繋がるかと思います」
「うむ、それよ。アキラ殿、蚕の飼育を任せているが、その合間でよい、こうした助言を頼めぬか?」
「はい、それはもちろん」
世話になっている身であるし、何より生活環境の向上は望むところである。アキラは快諾した。
「あ、でしたら、井戸の整備もなさった方がよろしいかと」
もう1つ気が付いたことをアキラは口にした。
「井戸だと?」
「はい。……少なくとも、庭にある井戸は開放されていますよね。あのままですと非衛生的です」
「なるほど、今の屋根では駄目か?」
「はい。雨は防げるでしょうけれど、虫やゴミが入るのは防げません」
「ならばどうする?」
「……ポンプをつければいいのでしょうけれど……」
アキラはポンプの構造を知らなかった。
「蓋をしておき、水を汲む時に外して使う、とすればかなり違うかと思われます」
「なるほどのう。それなら簡単だから、さっそく実行させよう。……セヴラン、よいな?」
「は、大旦那様」
「それから、領民にも伝えておけ」
「承りましてございます」
フィルマンは時計にちらと目をやると、上機嫌でアキラに告げた。
「アキラ殿、もっと話を聞いていたいが、そうもいかんようだ。なかなか有意義な時間であった。また時々話を聞かせてくれ。……ああ、それに、改善すべきことに気が付いたなら、セヴランに申しつけてくれて構わん」
「ありがとうございます」
そしてフィルマンはまたセヴランに、
「裁量の範囲であれば、どんどんやってくれ」
と声をかけたのであった。
* * *
「フィルマン様は向上心がおありですね」
退室してから、アキラはミチアと話しながら歩いていた。
「はい。大旦那様は、人々の暮らしをお気にかけてらっしゃいますから」
「なるほど」
産業を興し、領地を豊かにしようというのもその一環なのだろう、とアキラは思った。
元の世界に帰れる見込みはない。それなら、先人に倣ってこの世界をよりよくするのは自分のためにもなる、と思うアキラであった。
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2月18日(日)も更新します