第九話 処置
フィルマン前侯爵が倒れた、と伯爵家の執事が言った。
「えええっ!?」
アキラとミチアは仰天する。
「そ、それで? 昼間はお元気そうでしたが」
「おそらくお酒をお召しになってご入浴なさったのが障ったのでしょう」
「前侯爵……」
「大旦那様……」
酒をしこたま飲んで長風呂すれば、そりゃあ倒れもするだろう、とアキラは少し呆れたが、それでも倒れたということは問題である。
「い、意識は?」
「意識ははっきりしてらっしゃいます」
それを聞いて、少しだけ安心するアキラとミチア。が、まだ予断は許されない。
「今はどうされてます?」
「はい、お部屋で静かに寝かせて差し上げてますが」
「それだけ?」
「はい」
「それじゃあ駄目だ」
アキラはそう言って、執事に前侯爵の所まで案内するよう頼んだ。
「行ってくるよ」
ミチアに声を掛けるアキラ。
「は、はい。大旦那様をよろしくお願い致します……」
一方、寝間着なので付いていくのを諦めたミチアは、アキラのベッドにぽすんと倒れ込み、小さくため息を漏らしたのであった。
* * *
アキラは前侯爵の寝室に案内された。
「閣下、大丈夫ですか?」
「おお……アキラ殿……」
そこには、寝台に身を横たえる前侯爵の姿が。
「情けないことに……風呂場で倒れてしまった……」
「あまり喋らないでください」
アキラは駆け寄り、額に手を当てた。
顔が火照ってはいるが、熱はないようだ。
だが、脈拍はかなり速い。
「のぼせたのですね」
アキラはそう判断すると、伯爵家の執事にはタオルと冷たい水を手桶に汲んできてほしい、と告げた。
そして共に来た執事のマシューには、飲み物として果汁を加えた水を頼んだのである。
タオルと冷水はすぐに用意された。
「これで頭を冷やしてください」
そして冷水に浸し、緩く絞ったタオルを頭に載せると、
「おお、これは気持ちがいい……」
と、前侯爵は少し楽になったようだ。
そこへ、
「アキラ様、これでよろしいでしょうか」
マシューが水差しとコップを持ってやって来た。
「水には少し果汁を入れてもらえましたか?」
「はい、レモンの汁を垂らしました」
「でしたら結構です」
アキラはその水差しからコップに水を汲み、
「閣下、お飲みください」
といって差し出した。
「うむ」
前侯爵はアキラがいうことだから、と質問もせずにその水を飲み干す。
「美味いな」
「もう一杯飲めますか?」
「うむ、もらおう」
そこでアキラはもう一杯水を汲んで差し出した。
「ふう、美味い」
それも、前侯爵は飲み干した。やはり、かなり喉が渇いていたようだ。
「では、もう少し横になっていてください」
「うむ」
そしてアキラは、執事のマシューに手を貸してもらい、前侯爵の足下に丸めた毛布を入れ、足を高くする姿勢としたのである。
「これでいいでしょう」
そこでアキラは、注意事項を説明した。
風呂に入って体が温まることで、血管が拡張し血圧が下がること。
血圧が下がっている状態で急に立つと血圧は急には上がらないため脳に血流がいかず立ちくらみを起こしやすいこと。
酒を飲んで入浴するとさらにこの傾向が強まること。
そういうときは、足を高くし、脳への血流を少しでも増やした方がいいこと。
さらに、アルコールによる脱水と、入浴による発汗から来る脱水のため、血液が濃くなって血流が悪くなっているので、水分補給は欠かせないこと。
その際、若干の砂糖や果汁を入れておくといいこと。
皆、風呂でのぼせたときの処置である。
アキラのいた研究室で温泉宿に泊まって合宿をしたときにのぼせた助教授がいて、その時に覚えたのであった。
「なるほど……これが『異邦人』の知恵というものか。アキラ殿、感謝する」
大分気分がよくなってきたらしい前侯爵は、上体を起こし、アキラに礼を言った。
「いえ。大したことがなくてよかったですよ」
立ちくらみを起こして倒れた際、頭を打たなくてよかった、とアキラは思った。
もっとも、前侯爵の入浴時には、湯着という浴室用の服を羽織った侍女が3名付いており、彼女らがとっさに倒れる前侯爵を支えたのだそうだ。
「おお、そうだ。あの3人に、悪いのは儂だから気にすることはないと伝えておいてもらえるかな?」
彼女らは何も悪くないのに、自分が倒れたことで罰されたら可哀想だ、と前侯爵は言った。
「は、かしこまりました」
これは伯爵家の執事である。前侯爵の指示を即座に実行しに行ったようだ。
余談だが、当の侍女3名は、いつ処断されるか震えていたらしく、執事が前侯爵の言葉を伝えると、涙を流してほっとしていたそうである。
* * *
「はあ、よかった……」
前侯爵が倒れたと聞いたときは、どうなることかと思ったが、結果的にはなんとかなったので、アキラもほっとしていた。
ここまでお伴をして来たミチアやミューリ、下男、護衛らは部屋の外で心配そうな顔をしていたので、アキラから簡単に様子を説明すると、胸をなで下ろしてそれぞれの部屋へ戻っていった。
「……疲れた」
さすがに疲労を感じたアキラは自分の部屋に戻ると、ベッドに身を投げ出した。
「……ミチアの匂いがする」
さっきまで一緒にいたミチアの髪の匂いがベッドに残っていた。
「……」
少し悶々とする内心を抑えながら、アキラは眠りに就いたのであった。
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次回更新は10月28日(日)10:00の予定です。
20181027 修正
(旧)一緒に来たミチアやミューリ、下男、護衛らは部屋の外で心配そうな顔をしていたので
(新)ここまでお伴をして来たミチアやミューリ、下男、護衛らは部屋の外で心配そうな顔をしていたので、
20220703 修正
(誤)こまでお伴をして来たミチアやミューリ、下男、護衛らは部屋の外で心配そうな顔をしていたので
(正)ここまでお伴をして来たミチアやミューリ、下男、護衛らは部屋の外で心配そうな顔をしていたので




