第七話 孵化
虫が嫌いな方はご注意下さい。
翌朝アキラは、ミチアとの朝食もそこそこに、『蚕室』となった倉庫へ駆けつけた。
「……生まれた……!」
種紙の上には、3ミリほどの黒い毛虫がうごめいていた。
「わあ、これが蚕ですか? 黒いんですね」
ミチアは、こんな幼虫を見ても嫌悪感は湧かないようだった。
「うん、生まれたばかりの幼虫……『1齢』幼虫は毛虫なんだ、だから『毛蚕』って言うのさ」
アキラはさっそく、昨日採ってきておいた桑の葉をハサミで刻んで与えてやる。
「これを『掃き立て』と言うらしい」
「面白い言い方ですね」
「俺もそう思う」
そして、2人がしばらく見ていると毛蚕たちはその桑の葉に齧り付いていた。
「食べてる食べてる」
「ふふ、夢中で食べてますね」
「これならひとまず安心かな」
まずは第一関門を突破することができたといえる。アキラは肩の力を抜いた。
「どのくらいで大きくなるんですか?」
毛蚕を見つめながらミチアが尋ねてきた。アキラは知識を総動員して答える。
「ええと、昆虫は、外側の皮膚はあまり大きくならないんだ。だから脱皮をするんだけど、この1齢幼虫は3日くらいで脱皮して2齢になるはずだ」
「3日……ですか」
「うん。そうなると、この毛虫状態から白い芋虫になるんだよ」
「不思議ですね」
ミチアは興味深そうに毛蚕を眺めていた。
* * *
とりあえず、孵化に成功したとフィルマンに知らせておこうとアキラは倉庫を出た。
そのまま母屋である屋敷へ行き、家宰のセヴランを呼んでもらう。
セヴランはすぐにやって来てくれた。
アキラは簡潔に説明する。
「そうですか、無事孵化しましたか。……わかりました、大旦那様にはわたくしからお伝えしておきます」
報告を聞いたセヴランも嬉しそうだった。
「他に何か必要なものはございますか?」
アキラは少し考えてから、
「そうですね、今すぐではないですが、卵を産ませる際に、蔟……ええと、繭を作らせる仕切りが必要になりますので、丈夫な紙か薄い板でこのくらいのマス目を沢山作りたいんですが」
と言う。
「……もう少し詳しくお教えいただけませんでしょうか?」
少し面食らった顔のセヴラン。
口頭での説明だけでは、セヴランもよくわからなかったようだ。
「そうですね、お急ぎでなければ、このあとお時間をいただいて、その蚕の飼育につきまして一通りお教えいただけませんか?」
「わかりました」
家宰であるセヴランが手伝ってくれるのは大助かりなので、一も二もなくアキラは承知した。
「では、大旦那様にご報告いたしましてから……1時間後に、アキラ様の離れで、はいかがでしょう?」
「それでお願いします」
こうして、アキラの養蚕はもう1歩を踏み出すことになる。
* * *
1時間後アキラは、今は自分の部屋になった離れで、セヴランに蚕の飼育について説明していた。
「……幼虫は5齢になると、繭の準備を始めます。それまでに蔟……枠を用意できれば」
蔟は、深さが40ミリメートル、縦横が30ミリメートルかける45ミリメートルほどの格子状のマスがたくさん連なったもので、障子の目のようにも見える。
丈夫なボール紙やダンボールでもいい。
蚕にもマス目の好みがあるようなので、幼虫の数より多く作っておく必要がある。
「わかりました。木工の得意な者がおりますので、薄い板で作らせてみましょう」
絵を書いて説明したので、今度はよく理解してくれた。
「他にはございますか?」
アキラは、この機会に必要そうなものは一通り頼んでしまおうと思った。
「ええ。……今回は蚕を増やしたいので、繭のほとんどは糸を取らずに成虫にして交配させ、卵を産ませようと思います。その卵を産ませる場所……産卵床も用意したいですね」
「ほう、それはどんなものでしょうか?」
アキラは、これもまた絵を書いて説明していく。
「産卵床は、直径40ミリメートル、高さ20ミリメートルくらいの筒を多数用意して、そこにメスの蛾を入れます」
「なるほど」
「下には和紙を敷いておくんですが、和紙はなさそうなので……麻布は手に入るでしょうか?」
「大丈夫です。……なるほど、そうやってあの……『種紙』でしたか……は作られたのですね」
「そうです」
これで、セヴランにおおまかな流れはわかってもらえたので、アキラも一安心である。
「将来的には桑の葉を安定して供給できるように桑畑を作りたいですね」
そう一言付け加えると、
「それを早く言ってください。桑畑……ですか? そういうものは一朝一夕にできるものではないので、今のうちから準備しなければなりません。大旦那様に申し上げて、さっそく作り始めましょう」
と言われてしまったアキラである。
「……でも、養蚕に失敗したら無駄な手間になりますが……」
ちょっと心配になったアキラであるが、セヴランは首を横に振った。
「新規事業に投資は必要です。それに桑の木……マルベリーですよね? その木は、実は食用になりますし、材は工芸用として使えますので、増やすことは無駄にはなりません」
そう、桑の木は、『指物』という、木工芸の分野では珍重される木材なのである。
漆を塗って仕上げたものは高級な家具・日用品として扱われている。
この世界でも有用な木材であった。
閑話休題。
「わかりました。是非お願いします」
そうまで言われては、アキラとしても任せないわけにはいかなかった。
「では最後に、その幼虫を見せていただけますか」
「ええ、どうぞ」
アキラはセヴランを蚕室である倉庫へと案内した。
「ほほう、これが蚕ですか。あの『飼育箱』はこうして使うのですね」
今、セヴランの目の前には、細かく刻んだ桑の葉をせっせと食べている毛蚕がいた。
「清潔に保つため、古くなった葉は糞と一緒に処分して新しい葉を与えていきます」
「なかなか手間が掛かりますね」
葉の方はミチアが採ってきてくれる、とアキラは言った。
「あと心配なのは病気ですが、ここの環境ならあまり心配はいらないでしょう」
とはいえ、数が増えてきたら1箇所での飼育を避けて分散させたいと思うアキラであった。
「だいたいのことはわかりました。実際の作業はアキラ様にお任せするとして、わたくしも精一杯お手伝いさせていただきます」
「よろしくお願いします」
「いえ、この地方に新たな産業が興せる可能性があるのですから、当然のことです」
こうして、アキラの養蚕は軌道に乗り始めたのであった。
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次回の更新は2月17日(土)の予定です。