第十一話 にじみ止め
リーゼロッテから紙の漂白方法について、アキラは説明を聞いていた。
「なるほど、硫黄を燃やしたガスで、繊維を漂白しようというのか」
硫黄(元素記号S)を燃やすと二酸化硫黄SO2ができる。別名を亜硫酸ガスといい、強い還元性を持つ。
バラの花をこのガスにさらすと脱色されて白くなるのは、化学の実験でおなじみだ。
だが、亜硫酸ガスは火山性のガスでもあり、毒性がある。
また、石炭や石油などの化石燃料に微量に含まれる硫黄によって生じる、大気汚染物質でもある。
「うーん、実験規模ならいいんだけど」
アキラは『携通』の別ページに載っている事項を示し、
「産業規模で行った場合、大気汚染が心配だ」
と難色を示した。
「あらあ……そうなのね」
リーゼロッテとしても、自分の仕事の成果が公害の原因となってしまうのは悲しい。
「他の方法を模索するしかないわね……」
肩を落とし、意気消沈したリーゼロッテを見てアキラは、
「な、なあリーゼ、酸化や還元って、魔法で制御できないのかな?」
と、思いつきを口にする。
「うーん、もちろん研究はしてるけど」
「化学反応を制御するってむずかしいんだよな」
ハルトヴィヒも説明する。
「反応を加速するのは比較的楽なんだが、その逆は難しいんだ。特に今回の場合は色素だけに狙いを絞らないといけないしな」
魔法も万能ではない。例えば還元反応を進める場合、色素以外の繊維部分まで強引に還元してしまうと、繊維つまりセルロースまで分解されかねないのだ。
「そうなのか……難しいものだな」
「ああ。例えば、漂白剤を作る、といったような化学反応なら遠慮はいらないわけだが」
「それだ!」
アキラは、ハルトヴィヒの言葉にひらめきを得た。
「え? どうしたんだ?」
「漂白剤を作ればいいんだよ」
「でも、次亜塩素酸なんてどうやって作ればいいか……」
リーゼロッテが反論しかけるが、アキラはそれを遮って、
「もっと別の漂白剤だ。『過酸化水素水』っていうやつだよ」
「かさんかすいそ……」
過酸化水素水の利用でもっとも一般的なものは『オキシドール』であろう。少し前までは傷口の消毒用として一般家庭での常備薬的なものであった。
傷口を強く消毒すると断面の細胞も死んでしまい治りが遅くなるということで昨今は使われなくなってきている。
その他の用途として、二酸化マンガンなどの触媒を使って酸素を得る実験にも使われている。
高濃度の過酸化水素水には漂白作用があり、皮膚に付くと白化するので危険である。痛みも伴うので軽々な実験は慎みたい。
アキラとしては、魔法で『強引に』水に酸素を反応させたら過酸化水素水が作れるのではないかと思いついたわけだ。
「なるほど……試してみる価値はあるわね」
「やってみるとしよう」
ちなみに『携通』には『今日では、一般的にアントラセン誘導体の自動酸化を利用して生産が行われている』などと、アキラにも理解できない製法が書かれているのみであった。
* * *
漂白剤の研究はリーゼロッテとハルトヴィヒに任せ、アキラはミチアと共に『にじみ止め』を探してみることにした。
紙は繊維が絡み合った構造をしているがゆえに、インクがにじむのだ。
だがこれはインクが紙に染み込むという、記録に不可欠な特性と裏表でもある。
「そうですよね。インクがしみ込まない金属板には書けませんからね」
程度問題である。
「理想としては、深さ方向には染み込むけれど、横方向には染みない特性があるといいんだが」
そう都合よくはいかないな、と言ってアキラは苦笑した。
「それで、『にじみ止め』はどのようなものを使うんですか?」
「それなんだけど」
アキラは『携通』のデータからピックアップした幾つかの物質を書き留めた紙をポケットから取り出した。
いずれも自然界に存在する物質もしくは素材で、ものによっては山で採れるようなものもある。このあたりの山に詳しいミチアに相談する意味はここにあった。
「一番目は『膠』とミョウバンかな。それにカオリン(白土)、タルク(滑石)あたりを」
余談だが、和紙の場合、通常はにじみ止め(サイズ剤)を使わず、さらには紙の白色度を増す『填料』も使わないのが原則である。
だがアキラは和紙を作るというより、実用性のある紙を作ろうとしているので気にしていないのだ。
膠とミョウバンは和紙のにじみ止めとして日本画で用いられている。
膠は動物の皮や骨などを煮つめて作った接着剤として、古くから使われている。
ミョウバンは含まれる金属によって何種類かある。この世界でも、まれに料理に使われているようだが、それが使い物になるかどうかは試してみないとわからなかった。
カオリンはカオリナイトという鉱物の粉で、白色なので白土と呼ばれる。陶器を作る際の白い粘土の原料がこれである。
タルクは滑石あるいは滑石の粉のこと。滑石は最も軟らかい鉱物の一つとして知られ、モース硬度は1。爪で容易に傷が付く。この粉はベビーパウダーとして使われる。
カオリンとタルクは填料として、洋紙に使われているのである。
「ええと、膠はセヴランさんがご存じだと思います」
接着剤の一種なので、セヴランが詳しいのだろう。
「あとはミョウバンですか。少しなら厨房にあると思いますが……」
アクの強い野菜のアク抜きに使うことがある、とミチアは言った。
「頼んでおけば取り寄せてもらえると思いますし……」
「そうなのか。……この『携通』を見ると、『デオドラント剤』としても使えるって書いてあるから、夏には重宝するかも」
「でおどらんとざい、って何ですか?」
当然の疑問がミチアから出た。
「ああ、ごめん。『デオドラント剤』っていうのは、汗をかいたあとなんかの体臭防止に使うんだ」
いくら生活環境が改善された『蔦屋敷』でも、1日に何度も入浴できるほどではない。
夏の労働で、特に女性たちには必要とされるのではないかと、『携通』の説明を読んだアキラは考えていた。
「あ、確かにそうかもしれませんね。女性にとって体臭は気になりますから」
男だって気になるのだが、それを言うのは野暮な気がしてアキラは口をつぐんでいた。
とりあえず、セヴランからは膠を、厨房からはミョウバンをもらってきたアキラとミチアは、『ドーサ』を作ってみることにした。
まず小さく砕いた膠を水と共に陶器の鍋で煮るのだが、これが難物であった。臭いのである。獣臭いと言えばいいか。接着剤として使われたものは乾燥しているので臭わなかったのだ。
『お気を付けください』
とセヴランが言っていた意味がようやくわかったアキラである。
それで、コンロごと『離れ』の外に出した。
水1リットルに膠を15グラム入れ、沸騰させないのがコツだ。
膠が溶けたらミョウバンを8グラム。4〜8グラムと『携通』にはあり、厚手の紙は多めにするとあったので8グラムとしてみた。
ちなみに、計量は簡易的な天秤である。
ミョウバンはすぐに溶けるので、鍋を火から下ろして冷ませば完成だ。
さっそく、先日試作した厚手の和紙に刷毛で塗ってみる。念のため表と裏から1回ずつ塗って乾かした。
「さて、どうなるか」
『ドーサ引き』をした試作品に、アキラはペンで文字を書いてみた。
「お……?」
明らかに違う。
「効果あり、だな」
「よかったです」
これで比較的安価ににじみを止められる。難点があるとすれば膠を煮る時に臭いことだろう。
また一歩前進したアキラたちであった。
お読みいただきありがとうございます。
次回の更新は8月19日(日)10:00を予定しております。
20180818 修正
(誤)痛みも伴うので軽々(けいけい)な実験は慎みたい。
(正)痛みも伴うので軽々な実験は慎みたい。
(誤)さらには紙の白色度を増す『填料』も使わないのが減速である。
(正)さらには紙の白色度を増す『填料』も使わないのが原則である。
20180819 修正
(旧)まず膠を水と共に陶器の鍋で煮るのだが、これが難物であった。
(新)まず小さく砕いた膠を水と共に陶器の鍋で煮るのだが、これが難物であった。




