第九話 まだ先は長く
虫注意、です
ついに蚕たちは繭を作り始めた。
『回転蔟』はその威力を発揮し、蚕たちは満遍なく繭を形成している。
「ここまで来たな」
995個の繭が出来上がったので、それらを全て回収し、熱風乾燥した。
これでおおよそ2000個の繭が出来上がったことになる。
「まだ先は長いな」
織物には大量の絹糸が必要になる。それには繭が多数必要だ。
例えばネクタイ。1本あたり140個の繭が必要になるという。また、着物だと1枚あたり3000個といわれている。
蛇足だが、着物(和服)を数える時は『枚』を使う。長襦袢、羽織などもそうだ。
帯は『本』、足袋は『足』である。
ちなみに蚕は他の虫とは異なり『頭』で数える。アキラはついつい『匹』で数えているが(間違いというほどではない)。
「今年中に繭を1万個ストックできたらいいんだが」
卵はそれ以上の数を確保してあるが、桑の葉が足りないだろう、とアキラは目算している。
「とりあえず、今度育てるお蚕さんは2000匹だ」
これまでは1000匹だったのでその倍である。
季節は既に盛夏を過ぎており、これからの蚕は『秋蚕』と呼ばれる。
(うーん……8月7日くらいが立秋だからこう呼ぶのかな? それとも旧暦でなのか……)
指示を出しながらアキラは、そんなことを考えていた。
実際、4月から育てた蚕を『春蚕』7月頃に育つ蚕は『夏蚕』と言っているところから、旧暦ではないことがわかる。旧暦なら4月、5月、6月が『夏』だからだ。
おそらく、繭になる季節で分類しているのでは? と考えたアキラであった。
(しかし、この地方の夏は過ごしやすかったな)
内陸にあるためか、湿度が少なく、最高気温も30度Cくらいだったため、猛暑の夏を何度も経験してきたアキラとしては非常に過ごしやすかったのだった。
だが、元からの住民にはそれでも結構こたえるらしく、元気がない者が多かった。
それでもアキラの希望で整備された浴場のおかげで、あせもや体臭を抑えることができ、比較的快適だったようである。
こうした公衆衛生についても、フィルマン前侯爵はアキラを評価していた。
* * *
再び『二夜包み』で蚕を孵化させたアキラは、世話が楽なうちにできるだけ桑の葉を集めるよう、作業者たちに指示を出した。
「来年以降は苗も育ってきて楽になるはずだ」
桑畑には既に50本の大苗が植えられていたし、苗床には実生(種から育てた)の小苗が500本以上育っている。
これに野生の桑の木を加えれば、年間二万匹以上の蚕を育てられる計算になる。
「取らぬ狸の皮算用にならないよう気をつけないとな」
とアキラは独りごちて、『離れ』に戻った。
『離れ』ではミチアが『携通』の情報を筆写し続けている。
そしてハルトヴィヒとリーゼロッテは、その中から有益な内容のものをピックアップし、内容をこちらの言葉に直していた。
彼ら3人は先の冬に、驚異的な理解力で日本語の『読み』をマスターしていたのである。
そこでミチアは忠実な筆写を、ハルトヴィヒとリーゼロッテは意訳を、という分担で作業をしているわけだ。
こうした地道な作業は、いずれこの国の教育水準を大きく底上げしていく原動力となるであろう。
「……はやく『薄葉』ができるといいな……」
そうなればガリ版を作り、100部くらいは刷ることができるのだ。
筆写もしくは版画式で本を作っている現状に比べれば、大きな進歩だとアキラは思っている。
「アキラ、ここの意味を教えてくれ」
「ん? どれどれ」
ハルトヴィヒから声が掛けられる。
「……『痛し痒し』か。これは『どちらをとってもあまりよくない結果になる』という意味なんだ」
「なるほど」
いくらハルトヴィヒやリーゼロッテが日本語を読めるようになったとは言っても限界がある。
技術系の文書といえど、まれに慣用的な言い回しがなされていることがあるので、アキラからの説明は不可欠なのだ。
こうした彼らの努力は、中学生レベルの数学、物理、化学についての本をまとめるまでになっていたのである。
これらが世に出るかは未定。
いやむしろ、いきなり世に出したなら学会が混乱すること必至だから、当面は秘匿しておくことになるだろう。
「他の『異邦人』がどんな知識や技術をもたらしたのか、興味があるけどな」
「少しなら知っているよ」
アキラの呟きをハルトヴィヒが聞きつけたようだ。
「帝国にも過去何人か『異邦人』がいたそうだしな。……帝国では『アウスレンダー』って言うんだが」
「そうなのか。で、どんな人だったんだ?」
「僕が知っているのは2人。1人は『ユゾー・タンカ』っていったかな。帝国の農業を50年分くらい進歩させてくれたって言うよ」
アキラはその名前を聞いて、日本名は『田中裕三』さんかな? などと思っていた。
「もう1人は女性で『ダイアナ・ミラー』。音楽家……というより歌姫だったみたいで、いろいろな歌を帝国に広めてくれたそうだ」
アキラは、そちらの名前はまったく知らなかった。それほど有名ではない歌手だったのだろうか、と考えた。
「……ただなあ、他にも何人かいるらしいんだが、それらの人たちは国益に直接影響のある技術をもたらしたらしく、一般には知られていないんだ」
少し残念そうにハルトヴィヒは締めくくった。
そしてリーゼロッテも知るところを語ってくれた。
「あ、それなら私も少し聞いているわ。兵器とか戦略とかに詳しい人と、毒薬か何かの作り方を教えた人もいるみたい」
リーゼロッテは、帝国はそうしたことに関して秘密主義だ、という。
全般に、ゲルマンス帝国は軍国主義に近いようだ、とアキラは思った。
「硫酸も多分そのアウスレンダーの1人が製法を伝えたのかもしれないわ」
リーゼロッテは、曲がりなりにも貴族の家の出なので、そのあたりの事情はハルトヴィヒよりも少しだけ詳しかった。
(硝酸が作れなくてよかった……のかな?)
好戦的な国がニトログリセリンを手にしたらと思うと、少し背筋が寒くなったアキラである。
代わりに、別の質問を行った。
「紙の製法を伝えたのもその『異邦人』……じゃなくて『アウスレンダー』だったのかな?」
「ええ、そうだと思うわ。でも、紙の製法は秘匿されているし、出来上がった紙は全て帝国が買い上げているのよ」
記録や本を順次置き換えているのかもしれない、とリーゼロッテは言った。
「羊皮紙は厚みがあるから嵩張るものね」
「そうだな」
その話をしていたアキラは、いずれ和紙が完成したら『にじみ止め』をはじめとする追加処理も伝えた方がよさそうだ、と考えていた。
にじみ止めは『サイズ剤』ともいい、古くは小麦粉デンプンが使われたらしい。
「あとは漂白か。……リーゼ、漂白剤ってあるのかな?」
「あるわよ」
「あるのか!」
「高価だけどね。……『じあえんそさん』って言ったかしら。製法は完全に秘密扱いになっていて、帝国の上級魔法薬師しか知らないはずよ」
じあえんそさん。次亜塩素酸だろうとアキラはあたりを付けた。
次亜塩素酸ナトリウムなのかカルシウムなのかはリーゼロッテも知らなかった。
ちなみに水道水の殺菌に使われているのは『次亜塩素酸カルシウム』で、ドイツ語で『クロールカルキ』という。つまり『カルキ』だ。
「それでも可能なら、白い紙を作るために手に入れたいなあ」
楮などの繊維を漂白することで、出来上がる紙も白くなる。当然の希望であった。
「『携通』に製法が出ていないかな……お、あったあった」
『携通』のデータベースにあった『次亜塩素酸カルシウム』の作り方は、『消石灰に塩素を吸収させて製造する』とある。
リーゼロッテによれば、どちらも入手可能な化学物質らしい。
漂白剤も自分で開発しなきゃならないのかな……。
まだまだ、アキラたちの前途は不透明であった。
お読みいただきありがとうございます。
次回更新は8月12日(日)10:00を予定しております。
20180811 修正
(誤)それほど有名ではない歌手だっのだろうか、と考えた。
(正)それほど有名ではない歌手だったのだろうか、と考えた。
(誤)次亜塩素酸だろうと仁はあたりを付けた。
(正)次亜塩素酸だろうとアキラはあたりを付けた。
orz
20190612 修正
(誤)回転蔟
(正)回転蔟
20200916 修正
(旧)
帯は『本』、足袋は『足』である。
(新)
帯は『本』、足袋は『足』である。
ちなみに蚕は他の虫とは異なり『頭』で数える。アキラはついつい『匹』で数えているが(間違いというほどではない)。




