第二話 化粧水を作ろう(二)
蚕たちは2齢、3齢と順調に成長していた。
桑の葉も、新たな木が見つかり、当面の心配はなさそうだという報告がアキラの元に上がってきていた。
「そろそろ、規模を広げる時かな」
繭の量産体制、その基礎は調ったと判断したアキラは、パトロンであるフィルマン前侯爵に面会を申し込んだ。
そしてそれはすぐにかなうことになる。
「アキラ殿、順調なようで何よりだ」
近況報告にフィルマン前侯爵は顔をほころばせた。
「おかげさまで。それでですね、そろそろ規模を広げる準備をすべきかと思いまして」
前侯爵は頷いた。
「うむ。セヴランからも状況は聞いておる。人員は20名、『蚕室』は5棟、でよいかな?」
「あ、はい」
前侯爵は、毎日の報告を通じて、そろそろアキラが要望を出す頃だと見当を付けていたようだ。
「そうだな……屋敷の東にある疎林を部分的に伐採して蚕室を作るというのはどうだ?」
「いいと思います」
蚕の飼育には適度な温度と湿度が必要であるが、過度な湿度はカビを発生させ、病気の温床となり得るので注意が必要である。
その点はハルトヴィヒが製作した『エアコン』の魔法道具でコントロールできるが、コストを下げるためにできるだけ環境のいい場所で飼育するのに越したことはない。
「一度、軽く《ザウバー》を周囲に施してもらえればなおよろしいかと」
「うむ」
《ザウバー》はリーゼロッテが独自に改良した生活系の魔法で、滅菌効果がある。
蚕の飼育で最も怖いのは病気であるから、予防はしすぎということはない。
その他、幾つかの細かい点についての打ち合わせを行い、アキラは前侯爵の執務室を後にした。
* * *
「どうでした、アキラさん?」
離れに戻ると、『携通』の情報を書き写していたミチアが顔を上げた。
「うん、うまくいったよ。……まだやっていたのか? あんまり無理するなよ?」
携通の画面は小さいので、根を詰めると目に悪いとアキラはミチアを窘めた。
「はい、気をつけます。目が悪くなったら困りますから」
「うん、気をつけてくれよ。遠くが見えないからって目を顰めて眉の間にしわが寄ったミチアなんて嫌だからな」
「き、気をつけます」
アキラからの言葉に、ミチアは眉間を抑えて赤面した。そしてくるりと背を向け、
(……クリームと化粧水で保湿……)
とか何とか呟くのが聞こえた気がしたが、アキラは聞かなかったことにした。
「それで、近いうちに人手を増やしてくれることになった。20人くらいだそうだ。蚕室も屋敷の東側の林を少し切り開いて建ててくれることになったよ」
「……これから忙しくなりそうですね」
「うん。ミチアにもいろいろ手伝ってもらわなければならないな」
「はい、精一杯お手伝いさせていただきます!」
聞くと、『携通』データの書き写しは、最優先とアキラが分類したものがあと少しで終わるとのこと。
あと少しだと思うと、つい根を詰めてしまったそうだ。
「いやほんと、無理しないでくれよ」
「はい、ありがとうございます」
ぽん、と肩にアキラが手を置くと、ミチアは俯いた。
「……ミチアはなくてはならない人だからな」
今度は顔を上げるミチア。
「あの、それって、どういう……」
少し頬が赤い。アキラもそんなミチアを見て、頬が熱くなるのを感じた。
その時。
「アキラー!」
リーゼロッテの声が響いた。
ぱっと離れる2人。
「あ、いたいた」
ドアを開け、アキラがいることを確認したリーゼロッテは、
「あれ? 熱でもあるの? 顔が赤……」
そこまで言って、2人の間に流れている微妙な空気に気が付いたらしく、
「……ご、ごめんなさい!」
と言って慌ててドアを閉めた。
アキラはその後を追いかけて、
「ま、待てよ、リーゼ! もう遅いよ! ……じゃなくて、何か用があったんだろう?」
と声を掛けた。
それでも止まらないので追いかけていくアキラ。その背中を見て、ミチアは小さく溜め息をついたのであった。
* * *
「……で、なんだって?」
無事リーゼロッテに追いついたアキラは、用件を尋ねた。
「……ごめんね? ええとね、ついにアロマ『化粧水』ができたのよ!」
「へえ……! やったじゃないか!!」
昨年、グリセリンを手に入れたのはよかったが、その後に鉛蓄電池作りや、結膜炎の流行とその対処といった大仕事があったため、化粧水を作ろうとしていたリーゼロッテの手が完全に止まってしまっていたのだ。
それを、養蚕が本格始動する前に何とかケリを付けようと、リーゼロッテは頑張っていたのである。
基本はグリセリン5パーセント、残り蒸留水、であるが、それだけでは飽きたらず、屋敷に出入りする商人トマ・ローランにグリセリンを発注して冬の間中試行錯誤していたのである。
レシピはアキラの『携通』の中に、簡単にではあるが保存されていた。
その情報を用いて、ローズ(バラ)の香りがほんのりする化粧水は簡単にできた。
ローズウォーターという、バラの花びらと少々の水を蒸留器に掛けて作った『芳香蒸留水』を精製水と共にグリセリンに混ぜたもの。最適な比率を見つけるのに少々苦労した。
その他に、市場に流通しているアロマオイルを配合したものを作ったのだ。
発注から入手まで1ヵ月ほどのタイムラグがあるので、試行錯誤しながらでは完成がこの時期になったというわけだ。
「ラベンダーとローズマリー、ローズ、ゼラニウムの4種類ができたわ」
難しかったのは、香水ではないのでほんの僅か添加する、その量だったという。
500ミリリットルに0.2ミリリットル前後、というのがリーゼの見つけ出したレシピである。もちろん詳細は門外不出となり、フィルマン前侯爵とその関係者のみに知らされる。
これは、この化粧水をこの地方の特産にしようという前侯爵の意向によるものだった。
「メイドのみんなには随分手伝ってもらったわ」
化粧水の試験台となってもらったわけだ。とはいえ、全員アレルギーなどの過敏症を引き起こすこともなく、それ以上に乾燥する冬の間、つやつやの肌を保つことができてほくほくだったらしい。
「みんな喜んでくれたわ」
「それはよかったなあ」
「ええ。これから、養蚕が忙しくなるでしょう? その前にケリを付けられたのは嬉しいわ」
リーゼロッテは肩の荷が下りてすっきりした顔をしていた。
「これから閣下に報告してくるわね」
資金を出してくれているパトロンなので、当然の義務なのだ。
「ああ、そうだな。閣下は午後から忙しくなると言っていたから、早く行ってきた方がいいぞ」
アキラは、先程の報告の際に聞いた情報をリーゼロッテに教えた。
「あ、そうなんだ。じゃあ急いで行ってくるわ!」
リーゼロッテはアキラと別れ、本館へと小走りに駆けていったのだった。
化粧水を作ろう(一)は第1章にあります。その完結編です。
お読みいただきありがとうございます。
次回更新は7月21日(土)10:00の予定です。




