第三十六話 収束
翌日、朝食が済むとすぐ、フィルマン前侯爵はアキラを呼んだ。そして、
「アキラ殿、ここにいる使用人たちに治療の方法を教えてやってくれ」
と言った。
使用人は4人。彼らには村人たちの治療をさせるとのことだ。
「わかりました」
アキラはミューリたち、屋敷内の患者に治療をしてみせた。
元々難しい処置ではないので、4人はすぐに覚えた。
そして『洗眼水』を使い、互いに練習をしたあと、魔法道具を持って村へと向かったのだった。
* * *
『冬至祭』会場で診察を終え、治療は前侯爵の使用人たちに任せてアキラは帰宅した。
リーゼロッテは村中に『ザウバー』を掛け、滅菌して回っているし、ハルトヴィヒは魔法道具の動作確認のため、会場に残っている。
そしてミチアは、『蔦屋敷』で働く人たち全員の洗眼を終えたところだ。
「はあ、これでなんとかなるかな……」
『離れ』で、アキラはほっと溜め息をついた。
「この世界の移動手段は馬か馬車だから、パンデミックが起きにくいのが救いと言えば救いか……」
行商人のトマ・ローランが危ないと思い、診察してみたが感染はしていないようなので一安心だ。もちろん念のため『洗眼水』で目を洗ってもらうことになっている。
「『冬至祭』は今日までだっけなあ……」
「はい、そうですよ」
「うわっ!?」
独り言に返事をされて、アキラはびっくりした。
「ご、ごめんなさい」
ミチアだった。
「遅くなりましたけど、お昼を持ってきました」
「ああ、ありがとう」
朝食後、『結膜炎』への対処のため昼食抜きでかけずり回っていたのだ。
時刻はもう午後2時近くになる。
「賄いですけど」
パンの耳や端っこを焼き、砂糖とバターをちょっと塗ってもう一度焼いた、ラスクもどきだ。
砂糖もバターも高価なので本当に『ちょっと』だが、それでも味はする。
「ああ、助かるよ」
アキラはほっと小さく息を吐いたあと、ラスクに手を伸ばそうとして……。
「駄目です。手を洗ってください」
とミチアに叱られた。
「あ、悪い」
手洗い励行を勧めている当の本人がこんなことじゃいけないな、と頭を掻き、アキラは『洗眼水』の残り(もちろん未使用)で手を洗ったのだった。
* * *
遅い昼食を食べたアキラがソファに座って寛いでいると、片付けを終えたミチアがそばに来て、
「……もう、今年も終わりですね」
と、しみじみとした声音で呟いた。
「アキラさんがいらしてから半年以上過ぎたんですね」
「ああ、そうだな」
アキラが迷い込んだのは夏至の頃、つまり初夏。今はもう冬至、真冬だ。
ミチアによると、7日後はもう年が改まるのだという。
「新年には何かお祭りをするのかい?」
とアキラが問えば、ミチア答えて曰く、
「新年祭は各家で祝います」
とのこと。
「なるほどな。俺もそういう方が好みだな」
アキラは、どちらかというといわゆる『お祭り騒ぎ』よりも、静かな、しっとりした情緒の方が好きである。
花火大会で例えるなら、喧噪の中で見るより、少し離れた『遠花火』風が好みだったりする。
「飾り付けはしないのか?」
ふと思い出したアキラは聞いてみる。
「飾り付け、ですか? いえ、特にしませんね」
「そうなのか。……俺のいたところでは、今は簡単に済ませるようになったが、少し前までは門の両脇に松を飾ったり、玄関の扉に藁の輪を飾ったりしたらしいよ」
門松と注連縄であるが、アキラの時代には廃れかけた慣習であったため、言っている内容が少し不正確なのは致し方ないところか。
「ああ、リースくらいでしたら飾る国もあるようですね。……リーゼロッテさんたちの祖国、ゲルマンス帝国とか」
「へえ、そうなんだ」
あとで聞いてみよう、と思ったアキラであった。
そして夕方、ハルトヴィヒとリーゼロッテが帰ってきたので、さっそくリースについて聞いてみる。
「リースか……作ってみるか」
「そうね。もうすぐ新年だしね」
ハルトヴィヒとリーゼロッテは乗り気だった。
「俺のところでも似たような物を飾るんだ。ほら」
アキラは『携通』の画面を見せた。そこには正月飾りの画像が。
「ふうん、面白いリースね」
「だな。……よし、アキラの『離れ』にはそういうのを作って飾ろう」
リーゼロッテが面白がり、ハルトヴィヒが乗り気になって、リース作りが始まった。
魔法道具に比べたら簡単すぎる工作、夕方前には3つのリースが完成した。
もちろん1つはアキラの『離れ』に。そして残る2つはそれぞれハルトヴィヒの工房とリーゼロッテの研究室に飾るのだ。
「これ、面白い形ですね」
あとからやって来たミチアも、アキラのリースを見て感心していた。
稲わらがないので麦わらを使って注連縄を作り、松ぼっくりと松の葉を飾り、『謹賀新年』とアキラが書いた短冊と大学ノートを切って作った紙垂を下げた。
ハルトヴィヒとリーゼロッテのリースはヤマブドウのつるを丸く縛り、そこに松ぼっくりやヒイラギの葉、赤い実などを付けた、現代日本でも見られるクリスマスリースに似たものだった。
「もうすぐ年が改まるんですね」
ドアに提げたリースを見て、ミチアがしみじみと言った。
「今年はいろいろなことがありました。ありすぎました」
アキラが迷い込んだことに始まり、蚕の世話、その産業化への諸々。化粧水やハンドクリーム、リップクリーム。発電機に充電池、方位磁石。極めつけは結膜炎の流行だ。
「あ、そうそう。結膜炎の方は、どうやら蔓延は防げそうだとのことです。少し離れた村に確認しましたが、患者はいないようですので」
「そうした村にもちゃんと手洗いをはじめとした衛生観念の話は出ているのかな」
「ええ、周辺の領主宛に大旦那様が手紙を出されています」
そのあたりは前侯爵がきちんと手を打っているようだ、とアキラは安心した。
「新年か……」
今夜は『蔦屋敷』で夕食を食べるというので、アキラたちは庭へ出、母屋である『蔦屋敷』へと向かった。
その途中、ふと空を見上げたアキラは、満天の星を見つめる。
「来年はもっともっと忙しくなるだろうな」
養蚕を軌道に乗せるための仕事が待っている。おそらくトラブルも待っているだろう。
それでも、ミチア、ハルトヴィヒ、リーゼロッテといった仲間と、フィルマン前侯爵のバックアップにセヴランのサポートがあれば、やっていけそうだ、とアキラは思った。
「さて、食事前にちょっとお蚕さまの様子を見てくるかな」
「あ、私もまいります」
「うん、行こう」
アキラはミチアと連れ立って蚕室へと向かった。
降るような星空が2人を見つめていた。
お読みいただきありがとうございます。
これで 第1章 基盤強化篇 は終了です。
第2章は1週お休みをいただいて、7月14日(土)10:00再開の予定です。
これからもよろしくお願いいたします。
お知らせ:7月1日、2日と私用で外出してまいりますのでその間レスできなくなります。ご了承ください。
20190105 修正
(誤)手洗い励行を進めている当の本人がこんなことじゃいけないな、と頭を掻き
(正)手洗い励行を勧めている当の本人がこんなことじゃいけないな、と頭を掻き
20220830 修正
(誤)アキラたちは庭へ出、母屋である『蔦屋敷」へと向かった。
(正)アキラたちは庭へ出、母屋である『蔦屋敷』へと向かった。




