第三十話 準備で大忙し
100匹の毛蚕は、第1眠を経て皮を脱ぎ、2齢幼虫となって桑の葉をもりもりと食べている。
アキラたちは真綿を作るノウハウをとりあえず完成させていた。
そこでアキラ、ハルトヴィヒ、リーゼロッテの3人はこれをパトロンであるフィルマン・アレオン・ド・ルミエ前侯爵に見せに行くことにした。
「ふむ、『真綿』か……」
染めていないものと、薄紅色に染めたものがフィルマン前侯爵の前に提出された。
「素晴らしい手触りと軽さだな。布団用の綿にできる、か。これで掛け布団を作ったら素晴らしいものになりそうだ」
まずは真綿の手触りと実用性に言及する前侯爵。
次いで、染めた真綿を手にすると、
「これは見事な赤だな。ツヤがあり、手触りもいい!」
と絶賛。
「ご苦労。この調子で頑張ってくれたまえ」
との言葉をもらい、アキラたちは退出したのであった。
「まずは上首尾だったな」
「そうね」
雇われている身であるから、ハルトヴィヒとリーゼロッテは結果を出さねばならず、その結果がよいものであると認められるのは嬉しいものなのだ。
「これで染めの目処は立った。次は糸だな」
アキラが言うと、ハルトヴィヒが胸を叩いて言った。
「それは任せてくれ!」
そしてハルトヴィヒは工房に籠もったのである。
「私も、もっといろいろな色に染められるよう研究しないと!」
リーゼロッテもまた、大いにやる気を見せて研究室へと走っていった。
* * *
「順調だな……この冬を越したら、いよいよ本格的始動だ」
楽しみなような、怖いような、そんな思いを抱えてアキラは空を見上げた。
その時、アキラは家宰セヴランに呼び止められた。
「アキラ様、明日、トマ・ローランが来るということです。硫酸も手に入ったとのことです」
これは朗報であった。
「本当ですか! これは嬉しい!」
小躍りするアキラ。
希硫酸があれば鉛蓄電池が完成する。そうなると『携通』への安定した充電が可能になるのだ。
「待ち遠しいな……そうだ!」
リーゼロッテに伝えようと、アキラは小走りに研究室へ向かった。
「ほんと!?」
「ああ。たった今、セヴランさんから聞いたばかりさ」
「じゃあ、いよいよ鉛蓄電池が完成するのね! ああ、楽しみだわ!!」
リーゼロッテもまた、この知らせに喜んだ。
「ところで、今日は何をしているんだ?」
いろいろな薬品が並べられている実験机の上を見ながらアキラは尋ねた。
「もちろん染めの研究よ。赤と来たら次は青よね!」
アキラには赤から青という流れはよくわからないが、青い色というのは染めにくいことは知っている。
もう少し詳しくいうと、『耐候性』が悪いのだ。光で色が褪せたり、洗うと色落ちしたりする。
夏に道ばたで見かける青い花の露草。色でいうと緑みの青、和風色名では『露草色』が染められる。
ただしこの色は褪色しやすいのである。
また、水にも弱い。水にさらすと綺麗に落ちてしまうという。
この性質を逆に利用して、友禅染の下書きに使われているほどだ。
現在、地球において使われている天然の青系染料は『藍』である。植物名は『タデアイ』。
色素は『インディゴ』と呼ばれ、現在では合成されている。
有名な荀子の言葉、『青は藍より出でて藍より青し』の『藍』はこの植物のことである。
植物なので基本緑色をしている。そこからとった染料で染めた布は鮮やかな『青』になるがゆえの言葉だろうとアキラは思っている。
それはさておき、青を染めるにはそうした壁が立ちはだかっていることを知識として知っているアキラは、
「青もいいけど、黄色もいいと思うな」
と水を向けてみる。
これは功を奏したようで、
「黄色か……あ、マリーゴールドならあるわ! それでやってみる」
と、当面の目標が変更になったようだ。
アキラはほっと胸をなで下ろす。『携通』が使えれば、おそらく『藍染め』の簡単な内容は調べられるはずなのだ。
だから、難しい『青』より先に、染めやすい別の色での染色を研究してもらった方がいろいろ捗るはずとアキラは考えたのであった。
リーゼロッテの研究室をあとにしたアキラは、ハルトヴィヒの工房を訪れた。
明日、硫酸が手に入り、鉛蓄電池が完成すると聞いたハルトヴィヒも大喜びしたのは言うまでもない。
* * *
「今日はミチア、忙しそうだな……」
朝、食事を持ってきてくれたあとは顔を見ていない。
それに、なんとなく館の中が慌ただしいような気がする、とアキラは訝しんだ。
そんなアキラの前を、大きな桶を抱えたミチアが通り過ぎていった。
「ミチア!」
するとミチアは立ち止まり、振り向く。
「あ、はい、アキラさん、なんでしょうか?」
「いや、大したことじゃないんだけど、忙しそうだな?」
「ええ、もうすぐ冬至祭ですからね」
アキラの知らない単語が出てきた。
「ええと、その『冬至祭』って?」
それを聞いたミチアは、手にした桶を地面に置いた。
「あ、済みません! アキラさんはご存じなかったですよね!」
そして深々と頭を下げたので、アキラは慌てた。
「い、いや、文句を言っているわけじゃないんだ。ただ、今日はミチアの顔をほとんど見ていないなと思って……」
そこまで言ってアキラは少し顔を赤らめた。そして言われたミチアも少し頬を染めている。
「あ、あの、え、ええと、『冬至祭』っていうのは、冬のお祭りなんです」
「う、うん」
「起源は、『冬が永遠に続くことなく、また春が来ますように』ということ……らしいです」
「なるほど」
地球でも、冬至前後にお祭りをする風習は世界各地にある。
力が衰えた太陽に復活してもらう、というような背景があるようだ。
クリスマスもその派生という説もある。
このガーリア王国では、各地で冬至祭が行われるが、そのほとんどが領主が住民にごちそうを振る舞うというものらしい。
「そうか、それが明後日なのか」
「そうなんです」
だから食器を用意したり、調理器具を引っ張り出してきたり、食材の下ごしらえをしたりと皆大忙しだったのである。
「俺も何か手伝えたらいいんだが」
とアキラが言うとミチアは微笑み、
「アキラさんはご自分のお仕事をなさってください。それが一番です」
と言って、再び桶を抱えて歩いて行ったのだった。
お読みいただきありがとうございます。
次回更新は6月16日(土)10:00の予定です。
20240726 修正
(誤)染めていないものと、茜色に染めたものがフィルマン前侯爵の前に提出された。
(正)染めていないものと、薄紅色に染めたものがフィルマン前侯爵の前に提出された。




