第九話 桑の実の熟す頃/急がば回れ
初夏の爽やかな風が、日を追うごとに暑さを増していく頃となった。
ド・ラマーク領の山を覆っていた新緑も、いつの間にか夏の濃緑色に色を変えている。
春に花を咲かせた草や木も、気の早い種類はもう実を結んでいたりする。
桑の木もその1つだ。
「そろそろ実が熟してきたな」
桑の実を摘み取りながらアキラが言った。
葉を採っている桑の木はほとんど実を付けていないが、実を採取するためそのまま大きく育てている木には実がたくさん付いている。
ちなみに、普通の桑は雌雄異株で、雌木にしか実を付けない。
別名をマルベリー。
桑の実はアントシアニンをはじめ、鉄分・ビタミンC 、カルシウム、カリウムなどを含んでおり、健康にもよい。
老化防止や美肌効果やむくみや免疫力向上などにも効く……と言われている。
薬ではないので気休め程度だろう、とアキラは割り切っている。
「タクミ、つまみ食いしたな」
「……わかる?」
「唇が紫色だぞ。ほら」
「うわあ……」
「ははは、食べ過ぎるなよ?」
「うん」
アキラは気分転換に、一家揃って(エミーはミチアの背中)桑の実狩りをしていた。
低い場所に生っているものはタクミに任せていたので、つまみ食いもし放題だったようだ。
桑の実は赤いうちはまだ酸っぱくて食べられないが、紫色に熟したものは摘んで食べると殊の外美味しい。
ただし、唇が紫色になるので要注意だ。
ちなみに『どどめ色』の『どどめ』とは、熟した桑の実のことである。ただし、明確な色の定義はなく、紫色系等を呼ぶことが多い(例:青あざをどどめ色と呼ぶなど)。
熟した桑の実の糖度は8~15度ほど。紫色に熟したものは癖のない甘さをしており、ブルーベリーより酸味が少ないという人もいる。
生で食べられる時期は短いので、ドライフルーツにしたりジャムにしたりして保存する。
その他にも……。
「今年も、ジュースにする他、酒に漬けるか」
梅酒同様、蒸留酒に氷砂糖(グラニュー糖でもよく、要は混じりけのない砂糖ならなんでも)で漬ければよい。
この時、酸味を加えるため、熟し切っていない実も入れるのがコツ。
採取した際にはねた未熟な赤い実を3割くらい入れて漬けるのがアキラの家のレシピである。
その他、ブランデーに漬けておくと違った味わいが楽しめる。
こちらは桑の実600グラムに氷砂糖もしくはグラニュー糖80グラム、ブランデー400ミリリットルの割合だ。
ブランデーはVO程度のもの(VeryOld:11〜15年熟成させたもの)。
こちらは2週間ほどで飲めるし、実も食べられる。
ブランデーは炭酸で割ったりアイスに掛けたりホットケーキに掛けたり、用途はいろいろ。
実の方はそのまま食べたり、クッキーやケーキに載せたり。
「酒漬けは保存が効くから、ハルトヴィヒたちに送ってやろうかな」
「それがいいですわね」
「今頃、どうしているかな……」
* * *
ハルトヴィヒはまたしても悩んでいた。
『無水エタノール』を駆動用に媒質にして作ったエンジンは、ほぼ彼の要求を満たす性能が得られた。
だが1つ、大きな欠点があったのである。
『液漏れ』だ。
構造はタービンに近い。
羽根車と回転軸の双方が無水エタノールに浸かっている状態……要はエンジン内部が無水エタノールで満たされている状態なので、外部と繋がっている回転軸の軸受部分から液漏れが生じるのだ。
軸と軸受の隙間を小さくすると摩擦が大きくなって回転数を上げにくくなる。
「シーリングが必要になるか……」
シーリング、シールは気密、水密状態を得る目的の『封印』のことである。
だが、今現在の工作精度では、それもどこまで効果が得られるか怪しいところだ。
「うーむ……」
これが粘度の高い油であれば、潤滑も兼ねることができる上、漏れにくいのだが、今度は回転数が上がらないという問題に直面することになる。
風魔法を使い、『空気』で回すのなら漏れは気にならない。回転数も上がる。だがトルク(回転力)が足りない、という問題が残る。
悩むハルトヴィヒであった。
* * *
飛行場の方は順調である。
およそ半分の舗装が終了。あと1月もあれば、全面舗装が完了するであろう。
残るは格納庫や整備工房を併設するくらいだ。
「予定どおり年内には完了できそうだ」
土木技術者ヨシュア・トキカは満足そうに微笑んだのである。
* * *
「結局、『空気』『油』『無水エタノール』、どれも長所と短所があるわけだ」
ハルトヴィヒはまだ考えている。
「こうなると、どの欠点が一番克服しやすいか、に掛かってくるかもしれないな」
そう悟ったハルトヴィヒは、もう一度方式を検討してみようと考え直したのである。
「急がば回れ、だっけな? ……アキラもそんなことを言っていたし」
ハルトヴィヒは、これまでに作った2種類のエンジン模型を前に、再検討することにしたのである。
「取り扱い、軽さ、回転数などは空気式が勝る。トルクは液体式が勝る。……こうしてみると、液体式のメリットは少ないな……」
改めて検討するハルトヴィヒは、1つ1つ要素を冷静に分析していく。
「トルクを増やす工夫を考える方が現実的かな……?」
ハルトヴィヒの思考が形を取りつつあった。
2つの方式を試してみたおかげで、取るべき道が見えてきたようだ。
『無水エタノール』を使う道は、最初は平坦で道幅も広かったが、進むに連れ急傾斜となり、道幅も狭まっていった。
『風魔法』を使う道は、狭い坂道だが、進めないほど急傾斜ではなく、進むに連れ少しずつ道幅も広くなっていくかのよう。
「よし、『風魔法式』に注力しよう」
そのことを愛妻リーゼロッテに話すと、
「うーん、『無水エタノール』が役に立たなかったのは残念だけど、エタノールは消毒に使えるし、まるきり無駄というわけじゃないから」
と言ってハルトヴィヒに微笑んだ。
「それよりハルこそ、2種類もエンジンを作って回り道しちゃったじゃないの?」
だがハルトヴィヒも笑って返答する。
「いや、液体を使うエンジンは、いずれ『自動車』に使えるさ」
ハルトヴィヒは、『自動車』には回転数が少なくてもトルクのある『液体式』エンジンの方が向いているだろうと考えていたのである。
とはいえ、それはまだまだ先の話。
今は『飛行機』用エンジンの開発である。
「トルクを増やすための案は幾つか考えついているんだ」
そう言ってハルトヴィヒはにっこりと笑ったのだった。
お読みいただきありがとうございます。
次回更新は11月11日(土)10:00の予定です。




