第二十二話 塗料が届く
アキラがミチアと一緒に市場へ行った翌日の朝、家宰のセヴランを通じて、フィルマン前侯爵から来てくれるようにと声が掛かった。
「お呼びでしょうか」
すぐにアキラはフィルマン前侯爵の執務室へ向かった。
「おお、アキラ殿、朝から済まんな」
「いえ、大丈夫です。何かあったんですか?」
「うむ。……昨日から商人が村の方に来ているのは知っているな?」
「はい」
アキラは、ミチアの案内で市場へ行くとセヴランを通じて報告していたので、前侯爵は知っているわけだ。
「その商人、ローランが今日の10時にやってくることになっている。注文した幾つかの品を持ってくるからだが、その際いろいろと情報を交換することになっているのだ」
フィルマン前侯爵は情報の大切さをよく理解していた。
「首都やその周辺の情報をもらう代わりに、金もしくは相当の物品を渡しているのだが……」
フィルマン前侯爵は家宰のセヴランをちらっと見た。
「そこからは私が代わってご説明いたしましょう。要は、アキラ様がお作りになった何かを取引材料にしたいとお考えなので、どれを用いるか、それとも今回は見送るか、そのご相談をいたしたいのです」
「そういうことですか。……あ、今回はハルトヴィヒとリーゼロッテ抜きなのですか?」
と、アキラが一応聞いてみると、
「いえ、あのお2人はアキラ様と異なり、給金を出して働いてもらっていますので、その成果に対して断りを入れる必要はないのです」
との答えであった。商品化されたならそれなりの報奨金が出るらしい。
その点は日本でも、業務内での発明の権利は会社に帰属する、という企業は多いようだ。
「わかりました。……そうしますと、エアコン、温度計、毛髪湿度計、方位磁石、ハンドクリーム、リップクリーム……あたりから選ぶことになるのでしょうか」
「いかがでしょう、大旦那様」
セヴランがフィルマン前侯爵に尋ねた。
「うむ、そうなるな」
前侯爵は頷き、
「方位磁石はまだ駄目だ。……場合によっては私自ら国王に報告したい」
軍事目的にも使えるので、おいそれと広めたくないということだそうだ。
「自分としましては『温度計』『湿度計』あたりを勧めたいですが」
計測器というものは単位が共通でなければ意味がない。
そういう意味で、早い段階で広められれば、と思ったアキラなのである。
そのことも説明すると、フィルマン前侯爵は頷いた。
「なるほど、温度計はよさそうだな」
その他、ハンドクリームとリップクリームも候補に挙がったのだが、もう少し使用人たちに使わせてみて、効果のほどやアレルギーへの影響を確認してからの方がいいだろうということになり、次かその次に商人が来た際、つまり半月ないし一月後にもう一度検討することになった。
それからも15分ほど話し合い、今回は『温度計』を紹介することに決定したのである。
「それでだな、アキラ殿」
フィルマン前侯爵が少し済まなそうな顔で話し掛ける。
「まだ貴殿のことは伏せておきたい。この温度計は、私が雇った技術者が開発したものということにしたいのだが」
『異邦人』の存在は、前侯爵自らが国王に報告したいというのだ。
「春になったら、と考えておる」
「自分はかまいません」
アキラはいつもの調子であっさりとそれを受け入れた。
「うむ、助かる」
ということなので、今回アキラは商人ローランと顔を合わせないことに決まったのだった。
* * *
昼食を終えた頃、家宰のセヴランがやって来た。
「アキラ様、ハルトヴィヒ殿、塗料が届きましたぞ」
「待ってましたよ!」
密封された陶器製の小さな瓶が5つ。1つ1つはジャムの小瓶くらいの大きさだ。
「南方で採れるカッスというナッツの実から取った油を精製し、薬品を添加して作るのだそうです」
セヴランが、商人から聞いたという簡単な説明をしてくれた。
「その薬品ですが、なんでも『異邦人』の方が考案されたとか」
「そうなんですか!?」
こんなところにも『異邦人』が関わっていたので、アキラは少々びっくりした。
「アキラ、早速使ってみよう」
ハルトヴィヒは使ってみたくてうずうずしているようだ。
「わかった。1つ開けてみよう」
「アキラ様、ハルトヴィヒ殿。空気に触れると固まってしまうので、開封した後はすぐに使い切るか、油紙で密閉してくださいとのことです。それから、塗料が付着したらテレピン油で拭けば落ちるとのことでした。テレピン油はこちらです」
テレピン油は針葉樹、特にマツ科の『ヤニ』が多い木を細かいチップ状にし、蒸留することで得られる精油で、油絵の具の溶剤として使われている。
揮発性が高く、ロケット燃料として使われたこともあるという。
蒸留という方法は、ブランデーの製法として一般に知られている。
「わかりました」
テレピン油はアキラも名前を聞いたことがあったので、この世界にもあるんだなあ、くらいにしか思わなかった。
塗料の方はといえば、開けてみるとかなりどろっとした飴色の液体である。
「銅線にどうやって塗布するか、だな」
ハルトヴィヒは早速考えている。
「つけ込んだ後引き上げて乾かしてみるか……」
刷毛や筆で塗っていくというのは非現実的だ。
「濃度調整の必要があるかどうか、だな」
既にその思考は絶縁銅線を作ることに集中していたので、アキラはこの場はハルトヴィヒに任せようと、そっとその場を後にしたのである。
* * *
「この塗料って、植物から採れるのか……」
5つある瓶の1つを『離れ』に持ち帰ったアキラは、それを眺め、考えていた。
「植物から採れる塗料といえば漆と柿渋……だったよなあ」
どちらも、日本古来の塗料なので、アキラは講義で耳にしていたのである。
「柿……は今のところ見あたらないけど、漆……はこの世界にもあるかもしれない」
そこへミチアがお茶を持ってやってきた。
「アキラさん、お茶の時間です。……あら、ハルトヴィヒさんとリーゼロッテさんはいらしてないんですか?」
「ああ、もうそんな時間か。ハルトは今、銅線に塗料をどうやって塗るかいろいろ検討中なんだ。リーゼロッテは多分化粧水の配合に夢中なんだろう」
「そう、ですか……」
2人が、こうした研究にのめり込む質だと知っているミチアは、小さく溜め息をついた。
「あとで覗いてくるよ。それよりミチアに聞きたいことがあったんだ」
「はい、なんでしょう?」
ミチアは、お茶を置いたテーブルを挟んで、アキラの向かい側に腰を下ろした。
「ええとな、秋になると真っ赤に色づく木で、人によってはかぶれる木……って知らないかな?」
「かぶれる……真っ赤……ええと、『ラック』の木でしょうか?」
「ラック? それはどんな木なんだい?」
「ええと、割合大きくなる木です。秋には、アキラさんが言うように真っ赤に紅葉します。枝を折ったり幹に傷を付けたりすると茶色い樹液が出て、それに触るとかぶれます」
それを聞いて、アキラは『漆』の木ではないかと推測した。
だが、どうやって塗料として樹液を集めて漆にするのかわからない。
そうした資料は『携帯通信機(K2)』に保存してあるのだ。
「……ハルトヴィヒの成果を待つしかないか」
己の限界を知っているアキラは、焦らずじっくり進めていくしかないと再認識したのであった。
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次回更新は5月19日土曜午前10時を予定しております。




