第五話 まだ道は遠く
ド・ラマーク領は春たけなわである。
木々は若葉を広げ、山々は若々しい緑に覆われた。
林床には色とりどりの花が咲いている。
草原は若草が生い茂り、緑の絨毯だ。
「わあい、ふかふかー」
「タクミ、あんまり遠くへ行っちゃだめですよ」
「はーい」
アキラ一家は近所の丘にピクニックに来ていた。
タクミは喜んで草原を駆けずり回っており、ミチアに抱かれているエミーは、初めて見る広い空と緑の草原にごきげんだ。
「いいお天気ですわね」
「うん、絶好のピクニック日和だな」
日々の執務を離れ、アキラも寛いでいる。
「ほらタクミ、飛行機」
「わあい!」
アキラ手製のハンドランチグライダーを手渡すと、タクミは喜んでそれを投げ上げた。
「とんだー」
「飛んだな」
タクミの手に合わせて小型に作ってあるので、飛びすぎてどこかへ行ってしまうということはなさそうだ。
草原は見通しがいいので、着陸したグライダーを見失うこともない。もちろんタクミからも目を離さないようにしているアキラである。
「わーい!」
そのタクミは草原を駆けずり回りながらグライダーで遊んでいる。
「元気だなあ……」
「あのくらいの子は、疲れてもちょっと休むとまた元気になりますからね」
「はは、そうだな」
春の日の1日、アキラ一家はのんびりと過ごしたようである。
* * *
「……やっぱりこの音を聞くと、落ち着くなあ」
ピクニックから戻ったアキラは『蚕室』に顔を出していた。
『蚕室』に響いているのは『蚕時雨』。
4齢にまで育った蚕たちは一心不乱に桑の葉を食べており、その音が雨の音のように聞こえるのだ。
仕事に疲れた時、アキラはこの音を聞くのが好きだった。
そして今は、充実した1日の終わりに、締めくくりとして『蚕時雨』を聞きに来ていたのである。
「この分なら『春蚕』は順調だな。いいことだ」
この年の気候は今のところ平年並み。
大きな変動のない『平年並み』が、第1次産業に携わる者にとっては一番ありがたいのである。
* * *
王都では雨が降っていた。
絹糸のように細く、音もなく降る、春の雨である。
遠くの山は霧に烟ってよく見えない。
当然飛行場工事はお休みである。人夫にとって貴重な休養日ともいえる。
が、技術者たちはそうではない。
雨でも晴れでも、学ぶことは多いのだ。
『航空力学』の講座はいつもどおり行なわれている。
「今日は飛行機の安定についてだ。ここでは外乱に影響されず『水平飛行』を行えることを『安定して飛行ができる』ということにしよう」
人が乗るものであるから、『安定』は大事である。
「このために尾翼がある。もちろん『無尾翼機』というものも存在するが、それはかなり特殊な部類で、安定させるために色々な工夫がなされているので、今日は割愛する」
次にハルトヴィヒは、先日完成した『黒板』に図を描いてみせた。
ちなみにこの『黒板』は、大きな黒い岩(玄武岩や粘板岩)を10センチ角のタイル状に削り出し、板に貼り付けたもの。
そこに滑石(モース硬度1)で文字や絵を描く、というものである。
「安定には3つの状態がある」
ハルトヴィヒは、上に凸な曲線と、真っ直ぐで水平な線、そして下に凸な曲線を描いた。
「ここに、丸い物を置くことを考えてくれ。水平な場所なら、そっと置けば転がり出さないだろう」
講義を聞いている者たちは皆、無言で頷いた。
これは『静安定・中立の状態』である。
ハルトヴィヒは別の図を指差し、説明を続ける。
「こちらの、下に凸な場所なら、少々適当に置いても、自然に落ち着くだろう」
これは『静安定・正の状態』という。
「上に凸な場所だと、仮に安定しているように見えても、ちょっとした刺激で転がりだしてしまうのは想像できると思う」
これは『静安定・負の状態』になる。
「飛行機は『静安定・正の状態』であることが望ましい」
「わかります」
「もう1つは『動安定』だ」
ハルトヴィヒは別の絵を描いてみせた。
次第に小さくなっていく波、同じ大きさで続く波、次第に大きくなっていく波、の3種類だ。
次第に小さくなっていく波は『正の状態』。ブランコに似ている。揺らしても、次第に振れ幅が小さくなり停止する。
同じ大きさで続く波は『中立の状態』。自然界にはあまり見られない。現代日本で言うならメトロノームのように、同じ振れ幅で揺れ続ける。
次第に大きくなっていく波は『負の状態』であり、最悪だ。揺れを修正しようとすればするほど酷くなる。振動でいう『発散』である。
「そのために、飛行機には主翼と尾翼があり、主翼には上反角が付いている」
ハルトヴィヒとしても、こうして他人に教えることで、己の理解度を深められるというメリットがあるのだ。『復習』と同じことである。
ちなみに、無尾翼機にデルタ翼が多いのは、翼の前後方向で翼の仕事を分担しているため。
前の方で揚力を出して、後ろの方でピッチングをバランスさせているから、だそうだ(携通調べ)。
こうした講義は好評で、参加している技術者たちには1人の脱落者も出なかったという。
* * *
そして今日も、ハルトヴィヒは『エンジン』のことを考えている。
「うーん……それほど急激な回転数の変化をさせられなくていいんだがなあ……」
検討した結果、『電動モーター』は今回は見送り。軸受とブラシの耐久性の問題を解決できなかったからである。
「となると魔法式エンジンだが……うーん……」
悩むハルトヴィヒ。
まだまだエンジン開発の道のりは長そうである……。
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次回更新は10月14日(土)10:00の予定です。




