第十三話 パスカル
「今年の繭はよくできたなあ」
アキラは領内における繭の取れ高についてのまとめを行っている。
「はい。天候もまずまずでしたので、飼料となる桑の葉もよくできましたから」
領主補佐のモンタンが答えた。
「そうだったな」
「このままで行きますと、来年の取れ高も30パーセント増が見込めます」
「それは嬉しいな」
アキラが領主になってから、繭の収穫量は右肩上がりに増えている。
今年はおよそ2トン。
これが多いのか少ないのかは微妙な線であるが、明治11年(1878年)の日本国内における生糸生産量が135万9776キロ、繭の収穫量は3万5000トンを超えていたようである。
別の数字と比較すると、平成26年における埼玉県の繭の収穫量がおよそ10トンである(日本の総生産量は148.7トン)。
参考までに、絹織物1反(和服を1着作るために必要な布の量、約680グラム)を作るためには蚕の繭なら約4.9キロ(約2600粒)。生糸なら約900グラムが必要となる(ロスを含む)。
そんな数字を知っているアキラとしてはまだまだだなと思っているわけだ。
とはいえ、王国内の各地でも養蚕は盛んになってきており、今年の繭の収穫量はガーリア王国全体を合計すると5トンくらいになるはずである。
和服なら1000着を作れる量だ。
洋服の場合はその3分の1くらいということで300着程度であろう。
「最初は10着すら作れなかったもんなあ。思えばよくもここまで来たものだ」
王都行で絹製品をお披露目した頃を懐かしく思い出したアキラであった。
* * *
「この配合比でなら、かなり軟らかいゴムができるわね」
魔法薬師リーゼロッテは風船用のゴムを開発していた。
天然ゴムの樹液は、希少ではあるが、南方から輸入することができている。
ゴムの樹液の分子は鎖状で、軟らかい粘土のような状態である。
引っ張れば伸びるが、弾性がないので力を除いても伸びたままになる。
そこに硫黄を混ぜて加熱することで分子構造が網目状となって弾性が生まれる。
加える硫黄の量でゴムの硬さは調節できる。
30パーセントから40パーセントの硫黄を加えると弾性体ではなく固体となり、エボナイトと呼ばれる。
ボウリングの玉や高級万年筆の軸はエボナイトである。
余談だが、天然ゴム(ゴムの木の樹液)を使っている樹脂なので、合成樹脂とは呼ばない。
そんな天然ゴムを使い、リーゼロッテが作っているのは『風船』であった。
風船の作り方は難しくはない。
ガラスや樹脂で作った『型』に硬化する前のゴムの原液を塗布し、ゴム化させるだけである。
型の形は電球型というかイチジク型というか、要は卵に細い柄を付けたようなもの。
弾力のあるゴムなので、『口』が型の最も太い部分より細くても外せるわけだ。
その『型』は、もちろんガラス職人のレティシア・コルデーが作ってくれている。
この『風船』を使い、上空の気流を観測したり、地上から上げて目印にしたりしたいわけだ。
* * *
「うーん、空気を漏らさないようにするのが面倒だな」
そしてハルトヴィヒは風船に詰めるための水素を貯めておくボンベ(タンク)と、それを送り出すポンプを作っている。
「アキラにも言われたが、あまり内部圧力は上げないようにする、と。……大きくなるのは仕方ないな」
水素ガスを高圧にして保管するのは危険が伴うため、せいぜいが3気圧程度で短期保管する予定。
高圧ガスの基準は摂氏35度で1Mパスカル以上となっており、3気圧はおよそ300キロパスカルなので3分の1。比較的危険は少ないだろうという考えからである。
低圧なので水素ボンベ(タンク)の大きさは直径1メートル、高さ2メートルの円柱状。
ちなみに自動車のタイヤの空気圧は200から300キロパスカルくらいのものが多いので、だいたい同じくらいの圧力と考えてよい。
そこへ水を電気分解して作った水素を充填していくわけだ。
まずはタンク内を真空に近い状態にしておき、水素を吸い込ませる。これは水蒸気で満たした後にタンクを冷却することで実現した。
これで1気圧分の水素を貯めることができる。
そこからはポンプを使っての充填となる。
このポンプは自転車の空気入れをもう少し大きくしたような形状だ。
そして、逆流防止の付いた弁を介してタンクから風船へ水素をポンプで送り込む……ようにしたいわけだ。
ハルトヴィヒは、この『ポンプ』の製作に悩まされているのだった。
ピストンとシリンダー間の気密が不十分なのである。
あまりきつくすると動作が重くなってしまうし、かといって軽くすると空気が漏れるのだ。
「革にロウを含浸させたパッキンが一番よさそうだな」
いろいろ試した結果である。
「あとは構成か……アキラに聞いてみよう」
考えあぐねたハルトヴィヒはアキラの意見を聞くことにした。
時刻はちょうど午後3時、休憩時間のはずであった。
* * *
「なるほどそうか、ポンプの空気漏れがな……」
休憩中のアキラに相談するハルトヴィヒ。
「休んでいるところ、悪いとは思ったんだけどな」
「うん、それは構わないさ。……こういう時は……何と言ったっけなあ……そうだ、『パスカルの原理』だ」
「パスカルの原理?」
「そうさ、……ええと、これだ、これ」
アキラは『携通』を操作して画面を見せた。
ちなみに、今ではハルトヴィヒも日本語を読むことができるようになっている。書くのはまだまだだが。
「ええと……『密閉容器の一部に圧力pが作用すると、その圧力pがそのままの値で容器の形状に関係なく、液体内のすべてに伝わる』……?」
よくわかっていない感じのハルトヴィヒに、アキラは追加で説明を行う。
「この原理を使って油圧器械が作られるんだよ」
わかり易い例を挙げると、大小2つの注射器のようなポンプを繋ぎ、中に水を満たす。
大きいポンプのシリンダー部直径は10センチ、小さい方のシリンダー部直径は1センチとする。
シリンダーの断面積比は100対1。はまっているピストンも同じ比率である。
この時、小さい方のピストンを1の力で押すと、大きい方のピストンは100の力で押されることになる。
つまり100倍の力を発揮する。これが油圧器械の原理である。
もっとも、大きい方のピストンを1動かすために小さい方のピストンを100動かさなければいけないのだが。
それでも、小さい力で動かせるということは大事である。
「なるほど、僕は大きいポンプを作ろうとして失敗していたわけだ。今の半分の直径にすれば動作が軽くなるから、気密性をもっと上げても動かせるな」
「その分何度もピストンを動かさないといけないけどな」
「それは承知の上だ。早速応用してみるよ」
* * *
こうして、ハルトヴィヒはポンプを完成させることができたのである。
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次回更新は5月13日(土)10:00の予定です。
20230506 修正
(誤)これが多いのか少ないにかは微妙な線であるが
(正)これが多いのか少ないのかは微妙な線であるが
20230509 修正
(誤)参考までに、絹織物1反(和服を1着作るたまに必要な布の量、約680グラム)
(正)参考までに、絹織物1反(和服を1着作るために必要な布の量、約680グラム)




