第十九話 化粧水を作ろう(一)
「しかしアキラ殿は欲がないな」
ハンドクリームについて報告したアキラは、フィルマン前侯爵と共にお茶を飲んでいた。家宰のセヴランは前侯爵の斜め横に立って給仕をしている。
普段ならメイドが行うのであるが、この時は少し入り組んだ仕事の話をしたあとなのでメイドではなくセヴランが付いていたのだ。
「養蚕、方位磁石、電気、それにこのハンドクリームとリップクリーム。私としてはありがたいが、何も対価を与えないというのも気が咎める」
この言葉に、フィルマン・アレオン・ド・ルミエ前侯爵の誠実さが現れているといえる。
欲深い貴族には、アキラの持つ『異邦人』の知識を利用するだけ利用して、役に立たなくなったら切り捨てる、ということを平気でする者もいるのだから。
まあ、アキラとしては頼るものとてない異世界に放り出された身を保護し、活用してくれている前侯爵の役に立とうと考えているのは、恩返しだけではなく、役に立つことを示して見捨てられないようにしようという多少の利己的な理由もあったりする。
とはいえその程度の保身を考えるのは人間として当然であろう。
「報奨金、という名目で小遣いを渡そうではないか。どう思う、セヴラン?」
「はい、大旦那様。よろしいかと存じます」
「よし」
この日、アキラは5000フロンを受け取ったのであった。
* * *
「よかったですね、アキラさん」
『離れ』に戻ってきたアキラは、ミチアに報奨金の話をすると、彼女は自分のことのように喜んでくれた。
「ええと……この前聞いた話からすると、1フロンは100円くらいだと思えばよかったんだっけな」
「そうなんですか?」
物の価値がアキラのいた世界とは違うのだ、あくまでも目安である。
「だとすると50万円くらいか……」
日々の暮らしの面倒を見てもらった上、小遣いをもらえる。アキラは感謝していた。
「でも、使い途がないんだよな……」
この『蔦屋敷』にいる限り、お金を使う機会は皆無であった。
だが。
「でも、何か欲しいものがありましたらセヴランさんに頼めばいいんですよ」
とミチアが言う。
「基本的に半月に一度、出入りの商人が来ます。日用品はそこで頼んでいますから」
急ぎの品は『手紙鳩』を飛ばして注文するという。
「ああ、そういうのがあるんだ」
「アキラさんの世界にも手紙鳩っているんですか?」
最近はアキラも吹っ切れており、特にミチアとは元いた世界のことも話題に出すことができるようになっていた。
「うん。俺のところでは『伝書鳩』と言っていたな」
『伝書鳩』は、鳩の帰巣本能を利用した連絡手段で、脚に取り付けた『通信筒』に手紙を入れて放すことで、巣箱を管理する相手に連絡を取るためのものである。
地球ではローマ帝国時代から使われていたらしい。
「……話が逸れましたね。緊急でない品物は、半月に1度来る商人に注文しておけば、また半月後に持ってきてくれるわけです」
「なるほど」
もちろん、注文された品だけでなく、おすすめ品など商人が売りたい品物も持ってくるのだという。
「楽しみにしている子も多いですよ」
女性用のアクセサリーや化粧品も持ってくるので、メイドの子たちは楽しみにしているという。
「化粧品か……そういえば、ミチアはあまり化粧ってしないのかい?」
「えっ? 私ですか? は、はい」
化粧などしていると仕事に差し障りがあるので、とミチアは言った。
「お屋敷でお客様をお迎えする時にはする場合もありますけど」
とはいえ、唇に紅をさすくらいですが、とミチアは付け加えた。
「なるほどな。まあ、ミチアは色白だし肌もきれいだし、化粧が必要とも思えないからいいけどな」
「ええっ!?」
何気ないアキラの一言に、ミチアは頬を染めた。
そんなミチアの様子にアキラは気付かず、独り言を呟いた。
「化粧水くらいは作れるといいのになあ……グリセリンがあったらよかったのに」
と、そこにリーゼロッテがやって来て、アキラの言葉を聞きとがめた。
「グリセリン? あるわよ?」
「えっ!?」
アキラは耳を疑った。
「本当かい?」
リーゼロッテは頷いた。
「ええ。確かこれも『異邦人』が伝えたはずよ。何でも『まいなだいと』とかいうものを作りたくていろいろ試みた副産物らしいわ」
「まいなだいと? ……もしかしてダイナマイトじゃないか?」
「あ、そうそう。だいなまいとだったわ」
その単語にアキラは驚愕した。
「ダイナマイトだって!?」
ダイナマイトは、簡単に言えばニトログリセリンを珪藻土に染み込ませて安定化させたものだ。
そしてニトログリセリンは硝酸と硫酸の混酸にグリセリンを混ぜることで得られる。
強力な爆薬であり、その威力は黒色火薬の比ではない。そもそもこの世界に火薬があるのかどうかすらアキラは知らないが。
その『異邦人』はそうした兵器を作りたかったのだろうか……と、アキラは少し背筋を寒くさせたのだった。
「で、そのダイナマイトは?」
「結局できなかったようね。なんとか酸が作れなかったらしいわ」
「そうか……」
アキラはほっとした。ダイナマイトを限られた勢力が所有したら、おそらくこの世界の勢力バランスが崩れるだろうと思ったのだ。
「あ、でもグリセリンはあるんだ?」
「ええ。発酵させて作るとか何とか」
「ふうん……」
考え込んだアキラに、リーゼロッテは声を掛ける。
「また何か役に立つ薬を作ろうっていうの? だったら協力するわよ?」
「あ、ああ。それは助かる。実は『化粧水』を作れたら、と思ってね」
「けしょうすい? お化粧の水?」
アキラは頷き、顔に塗って保湿効果を与えるものであることを説明をした。
ハンドクリームは手に塗るもの、リップクリームは唇に塗るもの。もちろん顔に塗っても害はないが、てかってしまうため人前に出る時は注意が必要だからだ。
「作り方は簡単。蒸留水……綺麗な水にグリセリンを少し混ぜるだけだ」
それを塗るだけで顔のカサカサは随分改善される……はず、とアキラは説明した。
「へえ……いいわね。ハンドクリーム、リップクリームと来たんだから、その化粧水も作っちゃいましょうよ!」
やはり女性だからか、リーゼロッテの食いつきはよかった。
「……あ、でしたら明日、商人が来ますからグリセリンを頼めばいいと思います」
「うん、そうだな」
こうしてアキラたちは『化粧水』の開発準備をすることにしたのである。
* * *
「ところで、グリセリンって何に使われているんだ?」
アキラとしてはかなり偏った知識であるが、ニトログリセリンと化粧水以外の用途を知らなかったのである。
「ええとね、甘いからお砂糖の代わりにしてるわね」
確かにグリセリンは甘い。アルコールの一種であるから毒性もない。だが、高カロリーである。
「甘さ控えめで高カロリーな甘味料か……」
アキラは苦笑せざるを得なかった。
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次回更新は5月6日(日)10:00の予定です。




