第三話 離れ
まだ虫は出てきません
アキラが与えられた離れというのは、『蔦屋敷』の裏庭に建つ平屋建ての小さな家だった。
寝具や家具などもひととおり揃っていて、すぐに住むことができる。
母屋である『蔦屋敷』とは屋根付きの渡り廊下で繋がっており、雨の日でも濡れずに行き来することができるようになっていた。
「アキラ様、こちらをお使い下さい」
ミチアは『離れ』の鍵を差し出した。
「ええと、ミチアさん、様付けはやめてもらえないかな?」
「え、でも……」
「頼む」
「わかりました。それじゃあアキラさん、とお呼びしますね。アキラさんも私のことはミチア、と呼び捨てにしてくださいませ」
「え……」
「そうしてくださらなければアキラ様、とお呼びしますよ」
このミチアの要求にアキラは折れざるを得なかった。
「わかったよ……ミチア」
案内された『離れ』は掃除も行き届いており、こざっぱりした印象だ。
「お食事はこちらへ運んできますね」
「……悪いな」
「いいえ、それが役目ですので」
帰れないらしいことがわかったアキラは元気が出ない。それを知ってか知らずか、ミチアは明るい声でいろいろと世話を焼いていた。
「ええと、お屋敷の案内をしますね。本館は大旦那様が暮らしてらっしゃいます。大旦那様付きのメイドは4名。執事も4名。取り纏めをされてるのが家宰のセヴランさんです」
「……なるほど、な」
ミチアはアキラを導いて館の周りを巡った。
「こっちが裏庭で、ハーブを育てているんです。お食事の時に役立つんですよ」
「ふうん……」
気落ちしたアキラは返事も脱力している。
そんな様子を察したミチアは微笑みながら少々慌て気味に告げた。
「あ、そ、そうですね、今日はお疲れでしょうから、明日また改めてご案内しますね」
「……うん」
ということで、2人は『離れ』へと戻った。
「え、ええと、この後、身体を拭くお湯をお持ちしますから」
「うん……」
ミチアはアキラを『離れ』の中に残し、足早に駆けていく。その後ろ姿を見つめながら、アキラは自己嫌悪に陥っていた。
(畜生……情けないな……ミチアが元気付けようとしてくれているのはわかっているのに……俺は……)
とはいうものの、二度と生まれ故郷に帰れないであろうことは、アキラの心に重石となってのし掛かっていた。
『来たんだから帰れるだろう』という楽観視をしていたさっきまでの自分が嘘のように、アキラの気持ちは重く沈んでいた。
その沈む心を叱咤して、アキラは『離れ』を見回してみる。生きなければならない、そんな本能にも似た思いだけがアキラを動かしていた。
『離れ』は建坪18坪くらいの長方形。
南側中央に設けられた玄関を入ると10畳ほどの居間となっている。小綺麗なテーブルとソファが置かれて、略式の応接間としても使えそうだ。
北側には暖炉風の薪ストーブが置かれていた。
その居間が離れの中心となる部屋で、西側に台所がある。
流しと調理台、それに竈があって、自炊できるようになっている。広さは8畳くらい。4人掛けのテーブルもあるので、言わばダイニングキッチン。
水道はなく、大きな水瓶に水を汲み置きするようだ。
居間の東側南が書斎。南側と東側に窓があり、明るい。壁には大きな本棚があって、半分くらい本で埋まっている。
書斎の北が寝室で、東側だけに窓があり、北側の壁はクローゼットになっている。
トイレは離れを出て3メートルくらい離れた場所にある。地下浸透式のようだ。
アキラは、飲み水の汚染が少し気になった。
そこにミチアが、右手にお湯の入った手桶、左手には包みを持って戻ってきた。
「お待たせしました。本当ならこちらでお湯を沸かせばいいんですが、まだお水も汲んでいませんし、薪も運ばれていませんしね」
そう言いながらお湯の入った手桶と包みを台所まで運んだ。
「ええと、こちらが着替えです。大きさは大体合うと思います。それで……こちらの布でお身体を拭きますので、服を脱いでください」
「え?」
「脱いでいただかないと拭けないじゃないですか。お湯が冷めないうちに、さあ、ご遠慮なさらず」
「え、ええと」
アキラは、別に遠慮しているわけではなかった。
そもそも、誰かに身体を拭いてもらう、などというのも、子供の頃以来のことであるし、ましてメイドに拭いてもらうなどというのは人生初である。遠慮するなという方が無理であった。
「あのな、俺のいた世界では……というか俺の家では自分でできることは自分でやるという家風だったので……」
アキラは、とりあえずそれらしいことを言って誤魔化すことにした。
「でも、『郷に入れば郷に従え』と言いますし」
「えっ」
聞き慣れた……というか、自国の慣用句を聞くとは思わなかったアキラは、一瞬ぽかんとした。
「ふふ、この言葉、大昔に異世界から来た人が広めたらしいですよ?」
「へ、へえ……そうなんだ」
そういえば日本語が通じているのもおかしな気がしているアキラ。異世界だから、で納得してはいるが、突き詰めていくとわけがわからなくなりそうである。
「その方は、この国、この世界にいろいろなものをもたらしてくれた、と言い伝えられています」
「ふうん……」
「あ、お湯が冷めちゃいます。……では、今日の所は、私は外に出ていますから、身体を拭いてください!」
ミチアは小走りに台所から出て行った。アキラはせっかくなので布をお湯に浸し、身体を拭いた。
「やっぱり、身体を拭くとさっぱりするな」
長時間歩いて汗をかいていたようだ。
「ええと、着替えは……これか」
アキラが手に取った下着は、シャツとトランクスに見えた。
「ゴワゴワしているな……」
生地は綿のようだが、メリヤスでないため伸び縮みせず、しかも硬かった。
「慣れなきゃな」
上下の下着を着替え、それまで着ていたズボンとワイシャツをもう一度身に着けたアキラは、ミチアを呼んだ。
「ありがとう。さっぱりしたよ」
「それはようございました。ええと、こちらがお脱ぎになった下着ですね? これは洗っておきます」
「え、え!?」
年頃の女性に下着を洗わせるという行為に、アキラは慌てた。
「い、いいよ。自分で洗うから」
とは言ったものの、洗濯機のないこの世界では、おそらくアキラはうまく洗うことなどできない。
「いえ、これは私の仕事ですので」
そう言ってミチアはアキラが脱いだ下着を手に取った。その時。
「……え……?」
ミチアの目が驚きに見開かれる。
「ど、どうかしたかい?」
その様子があまりにもあからさまだったので、アキラは何かまずかったかと焦った。
だがミチアは慌てて首を振る。
「い、いいえ、そうじゃないんです。あのですね、その……下着の生地が、あまりにも柔らかだったのでびっくりしちゃって」
「……ああ、そうか」
アキラは納得した。
先程持ってきてくれた下着がこの世界の標準であれば、自分が着ていた下着の生地は別物に感じられるだろうということを。
そして同時に気になってくる。そこでミチアに質問をした。
「ええと、この世界での洗濯って、どうやっているんだい?」
「洗濯ですか? そうですね、一晩水に浸けておいてから洗います。汚れのひどいものは灰汁を使うこともあります」
「灰汁?」
アキラは尋ね返した。
灰汁というと、煮物の時に出るアクしか知らなかったのだ。
「灰汁というのは、薪などの灰をお湯に溶かして、その上澄みを使うんですよ」
「ふうん……」
アキラにも、少しは簡単な化学の知識もある。
草木灰には炭酸カリウムが含まれており、これは強アルカリ性を示すのだ。そしてアルカリは油脂を溶かす性質がある。
というよりも、油脂の成分である脂肪酸と反応して一種の石鹸を作るのだ。そしてできあがった石鹸はさらに他の汚れを落としてくれるわけである。
そんなことを頭の片隅で考えつつも、『郷に入っては郷に従え』なんて言葉を普及させる前に石鹸くらい作っておけばいいのに、と見知らぬ過去の同朋に対して思うアキラであった。
お読みいただきありがとうございます。
20190105 修正
(誤)このミチアに要求にアキラは折れざるを得なかった。
(正)このミチアの要求にアキラは折れざるを得なかった。