第二話 山笑う
「やっぱり春はいいなあ」
アキラ一家は近所の小山へピクニックに来ている。
冬の間、屋敷にこもりっきりだったので、外の風が心地いい。
この小山は草山で、ツツジのような灌木が所々に生えているだけなので眺めがいい。
北には4000メートル級の雪山が白銀に輝いている。
東は低い丘陵が連なり、その南斜面には桑畑と果樹園が広がっている。
西は2000メートル級のやや高い山々。……とはいっても、アキラの領地であるド・ラマーク領そのものの標高が1000メートルを越えているので、標高差はそれほど感じない。
そして南には平野が広がっており、田んぼ、畑、そして村が点在しているのが見えた。
「山笑う、という表現がピッタリの風景だな」
「ちちうえ、それ、なに?」
アキラの独り言を聞き、長男タクミが尋ねた。
「ああ、お父さんがこの国じゃないところから来た、ということは話しただろう?」
「うん」
「それで、お父さんの国では春の山を『山笑う』って例えるんだ。それくらい、春になって風景が楽しげに見えるんだな」
「ふうん……。あ、なつとかあきとかふゆとかもあるの?」
「あるぞ。夏は『山滴る』。みずみずしさの表現だな。秋は『山粧う』。紅葉して色づいた山を言い表しているんだ。そして冬は『山眠る』。雪が積もって、その下で山も眠ったように静かになるということだな」
「あ、さいごの『ねむる』って、わかるかも」
「はは、そうか」
タクミはまだ5歳。
ついこの間だった冬はわかっても、秋や夏の山の様子はまだあまり印象に残っていないのだろうと思われた。
「いい言葉ですね。すごく詩的です」
長女エミーを抱いたミチアが言った。どうやら『笑う』『滴る』『粧う』『眠る』という対比がお気に召したらしい。
「確か、むかしの詩を元にしているんでしたっけ?」
「そうそう。俺のいた国の隣りにあった国の詩人が書いた詩からだったと思う」
『春山淡冶にして笑うが如く、夏山蒼翠にして滴るが如く、秋山明浄にして粧うが如く、冬山惨淡として眠るが如く』によるとされている。書いたのは詩人ではなく画家だが……。
また、それを踏まえて、俳句の春の季語でもある。
正岡子規は『故郷や どちらを見ても 山笑う』と詠んでいる。
冬の刺すような冷たさ、寒さが遠のいて、暖かくのどかな春がやってきた、そうした人の『想い』が『笑う』という表現を導き出している……のかもしれないなとアキラは思ったのであった。
* * *
アキラ一家がピクニックを楽しんでいる同じ頃、ハルトヴィヒ一家は娘の趣味に付き合っていた。
彼らの一人娘ヘンリエッタはインドア派のようで、本を読むのが好きであった。
そして昨今は母親の仕事に興味を持ち始めていた。
つまり、『魔法薬師』の仕事だ。
とはいえ、まだまだまだまだそんな仕事ができるはずもないので、リーゼロッテはちょっとした『理科実験』をやって見せている。
もちろん『理科実験』という用語と、その大半の内容はアキラの『携通』から得たものであることを付け加えておく。
「まず、これは紫色のお花を絞った色水よ」
「いろみずー」
紫色の液体が試験管の中に入っている。
「ええ。そこにこれを混ぜると……」
「あかくなった! まま、これ、まほう?」
驚いて尋ねるヘンリエッタに、リーゼロッテは優しく教える。
「いいえ、『科学』よ」
「かがく……」
「そう。魔法使いじゃなくても、誰でもできること」
「わたしにも?」
「ええ、そうよ。……こんどはアニーがやってごらんなさい」
アニーとはヘンリエッタの愛称である。
本来、ガーリア王国では固有名詞の最初のHは発音しないことが多いため、ヘンリエッタは『アンリエッタ』と発音される。
そのため愛称が『アンリ』『アニー』となるのだ。
で、『アンリ』は男性名でもあるので、ハルトヴィヒ・リーゼロッテ夫妻はヘンリエッタを『アニー』と呼んでいるのだった。
それはさておき、先程リーゼロッテが行ったのは、『アントシアニン色素』が酸性では赤くなるという理科の実験である。
アントシアニン色素はシソの葉や紫キャベツに含まれている色素で、中性では紫色。
そこへリーゼロッテはリンゴ酢を薄めたものを加えたので赤くなったというわけだ。
「それじゃあアニー、これをここに入れてごらんなさい」
「はーい」
リーゼロッテはリンゴ酢とは別の液体をヘンリエッタに手渡した。
ヘンリエッタはそれを慎重に扱い、そっと試験管に注いだ。
「あ、あおくなった! これも、かがく?」
「ええ、そうよ」
今回の液体は『灰汁』。
草木灰を水に入れて撹拌し、その上澄みが『灰汁』である。
炭酸カリウムが主成分、つまり『炭酸カリウム水溶液』であるため、アルカリ性を示す。
アントシアニン色素は、アルカリ性では青色を示すのだ。
余談だが、この『炭酸カリウム水溶液』を用いて食品の癖のある成分を処理したことから、そのような癖のある成分を『あく』と呼ぶようになったという。
植物の繊維質はアルカリ性の水で軟らかくなるので、現代ではワラビやゼンマイなどの山菜のアク抜きに草木灰や重曹を使っている。
「おもしろーい!」
「じゃあ、こっちのお花で作った色水はどうかしら?」
今度は黄色い花から取った色水で実験をするリーゼロッテ。
「かわらないねー」
「そうね。このお花の色は、酸性やアルカリ性でも変わらないわけね。これはこれで、役に立つのよ」
「ふうん……」
そんな、母と娘の勉強会は楽しげであった。
* * *
「おいしかったねー」
「ふふ、そうね」
「さて、そろそろ家へ帰ろうか」
「はーい」
アキラたちは小山の頂上で弁当を食べ、のんびりした後ゆっくりと下山した。
「あ、ほら、ふきのとう!」
「少し取っていこうか」
「どうするの?」
「天ぷらにして食べるんだよ」
「おいしい?」
「うーん、タクミにはどうだろう。ちょっとだけ苦いんだよ」
ふきのとうの天ぷらはほろ苦い春の味である。
漢方では春は苦いものを食べるのがよいと言われているが、これは苦味のもとであるポリフェノールやミネラルを摂って、冬の間に衰えた身体を健康にしよう、ということらしい。
また、クエン酸による酸味も疲れを取るのによいといわれている。
「もう少ししたら野イチゴやキイチゴが生るから、採りに行こうね」
「はーい」
そんな情報も『携通』由来である。
アキラの『絹の知識』と共に『携通』がもたらした情報は、確実にこの世界によい影響をもたらしていた。
お読みいただきありがとうございます。
次回更新は2月25日(土)10:00の予定です。




