第十八話 ハンドクリームとリップクリーム
ハンドクリームを作る。
養蚕とは関係ない仕事になるので、アキラはあらかじめフィルマン前侯爵に断りを入れた。
「あかぎれというのは辛いものです。血が出ることもあります。洗濯物に血がつくのは好ましくないでしょうし、作業効率も下がります。さらに……」
ミチアたちメイドの手荒れ防止は仕事の効率を上げることにも繋がると、アキラは熱弁をふるった。
「ふむ、はんどくりーむとな? いいだろう。アキラ殿がそうまで言うならかまわんぞ」
前侯爵はアキラの意を汲んで、直接養蚕とは関係ないハンドクリーム作りを快く許可してくれた。
「ありがとうございます。つきましては、材料として蜜蝋を使わせていただきたいのですが」
これにも、前侯爵は使用許可をくれた。
「……なるほど、蜜蝋にそんな使い方が……よろしい、作ってみてくれ」
うまく行けば、これも領内の新たな産業になるとフィルマン前侯爵は笑って言った。
* * *
「それじゃあ、蜜蝋とヒマワリ油を使おうか」
「……アキラ君は養蚕と関係ないのにどうしてこんなこと知っているの?」
リーゼロッテが聞いてきたのは当然の疑問だ。
「ああ、それは、大学……教育機関の授業の一環で教わったんだよ」
養蚕のみならず、アキラの通っていた甲陽大学園では、『天然素材の再発見』というテーマの講義があり、その中で彼はこうした知識を得たのである。
ただし、配合比などはうろ覚えなので、その点はリーゼロッテに頼ることになるだろう。
「あとは……何か香料を混ぜられたらいいんじゃないか?」
それまで蚊帳の外だったハルトヴィヒが突然口を挟んだ。
「女性の手に付けるものだろう? なら、きつくなく、ほのかに香る程度のアロマ(芳香)があった方が受けるんじゃないか?」
「それ、いいわね。……ハル、見直したわ」
「……褒めてるのか?」
「もちろんよ」
そうかなあ、というセリフを飲み込んだハルトヴィヒだった。
* * *
リーゼロッテの研究室に顔を出しているのはアキラとハルトヴィヒ。ミチアは『幹部候補生』5人の教育中だ。
仲間はずれにして済まないという思いと、完成品を渡してびっくりさせたいという思いとがアキラの中でせめぎ合っていた。
そんな思いはリーゼロッテの声で破れる。
「アキラ、まず何をすればいいかしら?」
材料を作業台の上に並べたリーゼロッテが聞いてきた。
「ええと、湯煎、といって、鍋にお湯を沸かして、その中に小さい鍋を入れて蜜蝋を溶かすんだ。そこにヒマワリ油と香油を入れればいいよ」
アキラの知識は多分に定性的である。分量が不明なのだ。
だがそこは優秀な魔法薬師であるリーゼロッテ。
「まず蜜蝋を溶かし、そこに少しずつヒマワリ油を入れて試してみましょう」
と、手順をすぐに決めてくれたのであった。
* * *
何度かの試行錯誤を経て、だいたい重量比で蜜蝋1にヒマワリ油を5で入れるとちょうどよいことが判明した。
そこへラベンダーの香油を2、3滴垂らすと、品のいい香りのするハンドクリームができあがった。
「うわあ、これいいわね」
さっそく手に塗ってみるリーゼロッテ。
「私も手が荒れやすいから助かるわ」
そんな彼女にアキラはもう一言。
「リップクリームも作ろう!」
「ええと、唇に塗るクリーム、で合ってる?」
頷くアキラ。
「冬になって唇が乾燥する人にはいいと思うよ」
と言うと、
「ああ、いいわね! 蜂蜜を塗ったりすることはあるけど、すぐ取れちゃうのよね」
「舐めるからだろう?」
「うるさいわね、ハル。横から口出ししないでよ」
文句を言いながらもリーゼロッテの顔は笑っていた。仲のよい2人なのだ。
リップクリームはハンドクリームよりももう少し堅めの方がよさそうだと言うことで再度配合比を検討した結果、重量比で蜜蝋1にヒマワリ油4となった。
「唇に塗るものだから香油はなくてもいいわね」
「そうだな」
それからアキラたちはメイドたち全員分と、前侯爵に渡すサンプルを作っていった。
ちなみにハルトヴィヒはクリームを入れる容器を製作してくれた。
前侯爵に渡す分は、全体がガラス製のこじゃれた容器にする。やはり入れ物がいいと、中身もよく見えるものだ。
メイドたちのものは青銅製の缶である。
出来上がったものを容器に詰めて終了。
「はい、これはアキラの分。ミチアに渡してあげなさいね」
「ありがとう」
アキラは真っ先にミチアへ贈りたかったので、容器を受け取ると駆け出していった。
そんなアキラの後ろ姿を、ハルトヴィヒとリーゼロッテは温かい微笑みを浮かべて見つめていたのである。
* * *
ちょうど離れへとやって来ようとしていたミチアに出会ったので、アキラは早速ハンドクリームとリップクリームを手渡した。
「わあ、ありがとうございます!」
ミチアは2つの容器を胸元に抱きしめ、嬉しそうに笑ったのである。
「さっそく塗ってみますね」
離れでお茶を淹れたあと、ミチアはハンドクリームの容器の蓋を開けた。
「あ、大丈夫だろうとは思うけど、最初は手の甲にちょっとだけ付けて様子を見てくれ」
ギリギリでアキラはアレルギーの存在を思い出したのだ。
「ごくまれに体質的に合わない人がいる……らしいから」
「そうなんですか? じゃあ、ちょっとだけ」
ミチアは左手の甲に少しだけハンドクリームを塗った。
「夜まで待って赤くなったりかゆくなったりしなければ大丈夫だろうから、水仕事のあとに塗るようにするといいよ」
「わかりました」
「あ、リップクリームも同じだから」
「はい、ありがとうございます」
* * *
そのすぐ後にアキラはフィルマン前侯爵にサンプルと共に報告をした。
リーゼロッテは染めの研究に戻っている。
「ほう、思ったより早く出来上がったのだな。……しかし、手荒れと唇の荒れに効く、か。我が屋敷で一冬使ってみて、効果があるようなら産業化も視野に入れてもよいな」
養蜂の盛んな村で作らせようと、前侯爵は考えたのだ。
「注意事項は……」
アキラは、まれに肌に合わない体質の者がいる、という説明をしておく。
「うむ、わかった。……で、こちらはメイドたちに渡して欲しいというのだな? よろしい、セヴランに命じておこう」
この『ハンドクリーム』と『リップクリーム』をもらったメイドたちの喜びようは筆舌に尽くしがたかったことを付け加えておく。
一般使用人の手荒れにまで気を遣ってくれる職場は滅多にないのだから。
お読みいただきありがとうございます。
次回更新は5月5日(土)10:00の予定です。




